広布の大河に君ありて tori

反転攻勢の心意気




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今年の桜は雨にたたられることが多かったですが、それでも花の女王らしく、鮮やかに咲いていました。私もゆっくり眺める時間はありませんでしたが、栄光の5.3へと向かい、躍動の季節がやってきたことを実感します。

 信心しているのに、なぜにこんなにも苦しまねばならないのか?そういう思いをもって宿命と戦っておられる人も多いのではと思います。本当に生命の奥深く、謗法の罪、邪宗の害毒というものがしみ込んでいるものと、私も身に染みて感じます。

 その意味で順風満帆な信心などないと言えますが、長い一生、最後まで退転せじと願い、妙法流布に生き抜いていく・・・そして必ず不退転の境涯となって、悩める人々の力になりたいと、そう思います。魔も必死に信者を弱め、信心を捨てさせようとするわけですから、負けるものかと反転攻勢の心意気を絶えず燃やし続けていかねばならないと思います。

 戦う以外に退転を防ぐ手立てはありません。御書を励みに、また池田先生に呼吸を合わせ、谷底から這い上がる思いで信心に励んでいく・・・それが本当の法華経の信者の姿であり、多くの学会の方々の姿ではないかと思います。

 むしろ戦うべき宿業も難も出ずに、安閑とやってるようでは、かえっておかしい。吹き付ける北風に歯を食いしばりながら、宿命と抗い戦う人こそ、真の信者であり、やがて師子王となる人に違いありません。

 「佐渡御書」には、その地域に住んでいて、仮に地頭なりに支払いがたまっていても、そう強く取り立てられることはないけど、そこを出ていくとなると、容赦なく、強く返済を迫られる・・・私たちの法華誹謗の罪障消滅もそういうものだと、わかりやすい譬えで教えておられます。

 私など、今世で真言の家を出て、日蓮大聖人様の仏法に帰依しましたので、さぞかしきつく取り立てられているのだと思います。失業に貧乏、ノイローゼ、激しい神経痛に腎臓癌等々・・・罰も含め次から次へとよく出ました。信心に向かうほど、強い業が出てきます。またそのことを大聖人様は「護法の功徳力」であるとも仰せです。私も今、壮健で意気盛んな信者でいられることにその「功徳力」を感じるものです。

 難が起こった時にありがたいと感じるか、どうして自分だけこんな目に合うのかと思うか・・・一念は微妙ですが、そこが仏になるかならないか、「不信」と「信」の別れ道であり、魔は絶えずそこを狙っているのです。

 宿命と戦い、苦しんでいる人には励ましが必要であり、木が倒れないように支えるがごとく、ともに生きる同志の存在が必要です。私の周りにも、生活、人生のどん底で苦しんでいる人が何人かおられます。ある婦人ですが、乳がんと心臓の病、また神経病を抱えながら、年老いた母親と生活保護を受けながら、細々と生きておられます。かろうじて生きておられる・・・電話越しの声にそんな感じを受けるときもあります。

 私はいつもこの人こそ幸せになってほしい、功徳を人一倍受けさせてあげたいと願い、励ましています。

 またそういう宿命の嵐の中を生きる人を決して、軽んじたり、さげすんだりしてはならないと思うものです。現にこの方も幹部さんの命令的な振る舞いに苦しんだこともあるようです。幹部さんといっても、本当に自分の宿命と泣き泣き戦って乗り越えてきた体験がなければ、私はこうした婦人の本当の苦しい心は理解できないのではないかと思います。

 学会は庶民の集まりであり、決してセレブや社会的な地位の高い人が上位に座する団体ではないはずです。難と戦う健気な信心の人が、中央でなければならない・・・仏様の目的は不幸の人を救い出すことですから、一番苦しんだ人が一番幸福になってこその創価学会です。

 苦難の日々の中にあっても、信心の珠が輝くなら、そこから世界も輝いていくはずです。どんな嵐の中でも黒い雲の奥には太陽が燦々と輝いている。「俺もひどいけどあんたもひどいのか・・・ひどいもの同士一緒に拝もう!」そう声をかけ、我が身だけでなく、友の不幸をも吹き飛ばす勢いで、戦っていきたいと思います。



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「信は強く、信は楽し」

  季節は廻り、ようやく春めいてきましたね。「冬は必ず春となる」・・・これが宇宙のリズムです。桜やレンギョウなどの花々も「いよいよ咲く時だ」と開花の時を待っている、そんな鼓動をこちらも感じて嬉しくなります。

 
 「信心はわかることより変わることだ」とよく言われます。仏法のことを頭で理解できたとしても、自分が変わらなければ何のための信心かわからない・・法華経の学者になるために信心しているのではなく、幸せになるために信心している。学者を目指すなら、疑ってかかっていいかもしれませんが、幸福を目指すなら、信じていくことが何よりです。その原点にいつも立ち返って、自分がどう変わったか、功徳を味わい、噛みしめていける日々でありたいですね。




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  御聖訓には「信は道の源、功徳の母と云へり」(P97)とあります。その信じるというところで道に迷う人も多いものです。それを疑わせ迷わせるために、さも正しげに理屈を述べたり、悪しき情報を流す人もいます。よくよく心しておかないと、「信弱き人」は引き込まれる・・・魔というのはそういう人を幸福の軌道から引きずり降ろそうと、隙(すき)あらば心に取り入ってきます。

 信じて実践していくことで自分が変わっていく・・・それが本当の「信解」だと思います。また自分がいい方向に変わっていくなら、「信は楽し」ですね。御本尊様を強く信じることが「常楽我浄」の人生を勝ち取る根本と確信します。

 学会に入った時も、30数年たった今も、私はただ「信」をもって御本尊様に向かっています。大宇宙と冥合したいと願い妙法を唱えます。私の「信」に「仏」が感応し、幸せを願うその一念にきっと「仏」も時を感じて、春のごとく目覚めていくのでしょう。そして昔のどこか苦しげで悩み深い顔の私が、柔和で笑みがこぼれる人となる・・・それが「変わる」ことであり、「変わった」自分の生命が、今までにない幸福を呼びよせるのだと思います。

 先日、外の同級生の友人と、短い時間でしたが話をしました。彼は大学時代に御本尊を受けながら、田舎に帰ってから世間体と親の反対で、信心を引っ込めました。世間的には教師で生活も地位も安定しています。片や私は親や周囲の反対を押し切って「親不孝者」と呼ばれて、地位も金もない中を喘ぎながら信心してきました。

 「○○君、、前に比べてええ顔になったな」と彼が私に言うので、「外に地位や名誉を求める生き方もあるけど、この信心は生命に幸福を築くんや。生きることがうれしくなってくる、そんな心の幸福が得られるんや。30年信心を貫いて、ようやくそういうところへ来た気がするよ。」といいました。彼はどこかで信心を捨てて生きた人生を後悔しているに違いない・・・私は対話しながら彼の表情にその思いを感じとりました。

 「信は強く、信は楽し」です。人がどう言おうと、学会員として信念を持って生きていくことで私は変わり、功徳をいただくことができました。これが私の真実です。学会員として日蓮大聖人の仏法を信じることができて本当に幸運だったと思います。

 今日よりはさらに後悔のない人生のために、強き信を持って使命の道を生き抜いていきます。




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幸福のデパート




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 先日、「信心していても苦しいです」という婦人部員さんと話をしました。その方はまじめな方で100万遍の題目にも挑戦されています。でも思うように晴れない・・・そんな悩みでした。

 それで私はその方に「御本尊様の中にはあなたのほしいものが全部ありますよ。お金も健康も一家和楽も、なんでもあるんですよ。まさに幸福のデパートです。どんな不幸をもっていっても、幸福へと転じてくださる「幸福製造機」とも言われます。だから御本尊様の前に座ったら、「ああ、ありがたい。これでもう私は大丈夫、助かった。」そういって喜んで安心して題目をあげるといいですよ。そして「これこれこんな悩みで苦しんでいます。どうかこの悩みを解決する智慧と力を出してください。よろしくお願いします。」そう拝めばいいのではありませんか?」と言いました。

 その方は「絶対の御本尊」を拝みながら、どこか疑いながら不安な心で拝んでおられたのです。それではせっかくの100万遍のお題目も苦行です。それで功徳が感じられなくて、また疑うということでは「不信の悪循環」というものではないでしょうか?

 どうせやるなら「祈りは叶うに決まっている。私の元気な題目が御本尊様に通じないわけがない。今日もよろしくお願いします。」とはつらつと勇んでやるほうが、仏様もきっと喜んでくださると思います。「白馬がパッパッと駆けていくように」お題目は確信をもって迷いなくあげたいものです。

 そういえば昔、先輩から「仏様の気持ちになって信心はやるもんだよ。」と言われたことがあります。「半信半疑の題目」をご供養するか、「信強き歓喜の題目」をご供養するか、聞かされる仏様の側に立てば、どちらが喜ばれるか簡単なことです。

 諸天善神は苦しんだり恨んだり、怒ったり・・そういう命には寄り付かないし、守護はしないものです。諸天善神は楽しくってうれしくって、歓喜と感謝の命に集まってくるのです。私はそう思います。

 「広宣流布のお手伝いをさせていただける、うれしいなあ!」「宿命転換させていただける、ありがたいなあ!」「その上、一生成仏もや約束してくださる、もうめっちゃ感激です。」と、どんなことも歓喜と感謝に変えて、御本尊を拝していく・・・その心に諸天も感応して信者のために一生懸命働くに違いありません。そうなるとまたうれしくって、歓喜の信心に一層、拍車がかかります。今度は「信の好循環」です。


 とはいえ・・・・たったそれだけのことに気が付くのに、私も10年20年かかりました。(笑)だから人のことは笑えない・・・病多き、疑い深い末法の衆生です。知恵も福運も枯れ尽きた愚かで寒い衆生です。それをすべて直してくださるのですから、「こりゃありがたい。ぜひ、あの人にもこの人にも教えてさしあげたい」となるではありませんか?

 そんなわけで、会う人ごとに自然と仏法対話になります。信心している歓喜をもっともっと爆発させて、仏法の素晴らしさを語っていこうと決意しています。




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