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2022
11.09

悩み多き人が仏となる

Category: 信心


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 朝晩の寒さも少しづつ厳しくなり、夜が明けるのも遅くなってきました。5時起きの聖教配達もだんだんとつらい時期です。地区部長職とともに配達ももうかれこれ17年は越えたと思いますが、私にとってはありがたいありがたい修行であります。三日坊主の私が不思議にもよく続いているものです。

 その意味でも信心は本当に自分との闘いですね。病と闘う人、仕事と戦う人、学会活動に戦う人・・・どの戦いも負けるわけにはいかない真剣勝負だと言えます。暗いトンネンルの中で出口を探してもがき続ける日々であっても、朝夕の勤行から出発して諦めることなく目的に向かっていけば必ず道は開く。太陽の光のように御本尊様の功徳はどの人であっても厳然です。

 悩みが深ければ深いほど、自分の生命の泉を深く掘り下げることができるものです。ある女性はガンの告知を受け、「これから私の本当の人生が始まる」と宣言されたそうです。この言葉こそ、私達信心する者の本質を突いた言葉と言えないでしょうか?

 今深い悩みと格闘しながら信心する人は本当の人生を生きている人です。暮らしに悩みもなく漫然と生きるより、人生の苦悩を背負い格闘しながら生きる方がずっと価値創造の日々であります。

 「苦に徹すれば珠となる」との言葉があります。苦に徹し勝ち抜いてこそ私たちはこの世に生まれた深い意味を知ることができる。まして信心する人の苦悩はすべて悟りを得るための燃料のようなものです。燃料が多いほど大きな炎、大きな悟りとなります。煩悩即菩提ですので大煩悩は大菩提と変わるのだと大きな心でいきたいものです。

 ちょうど任用試験が先日あり、私も1ヶ月半にわたり二人の壮年男子をお世話しました。その中には「願兼於業」や「転重軽受」という言葉が出てきます。私たちは仏になるために人を救うために願って悩みをもって生まれてきたとあります。また「法華経を信じる人は冬のごとし 冬は必ず春となる」との御文は、悩みある人が成仏することを約束された御文です。今は冬でもこの御文を信じる人はすでに春を迎えに歩き出した人です。「無冠の友」の皆さんの早朝の足音も春を迎えに行く足音そのものと言えないでしょうか。

 私も今回、教える立場ではありましたが、「ほんまにこの通りや。大きな悩みがなかったら成仏できんからこんな大きな悩みをもって生まれてきたんやな。悩みに感謝せな。これはありがたい話やないか」とあらためて思いました。

 例えればインスタントラーメンのように即席で解決できる悩みはやはりそれだけの値打ちしかありません。手間を惜しまず、じっくりコトコト煮込んだスープのように、時間をかけてコクを出していってこそ値打ちがある味となる。境涯革命ですので10年20年と細い苗木が太い大樹になるように、じわりじわりと強く成長していくのが本当の功徳というものだと思います。そのためにはどうしても大きな悩みが必要なのです。

 そこがわかれば悩みに感謝できます。「ありがたい、悩み君ありがとう、君のお陰で成仏するよ。本当に君はいい子だね」と思えるではありませんか。すると昨日まで親の仇のように睨み付けていた悩みが、にっこり笑って微笑み返してくるのです。悩みはあたかも雪山童子の前に現れた鬼神であり、こちらが感謝できるようになれば「善き哉、善き哉・・・」と帝釈天へと変じるのです。

 「悩み多き人、あなたこそ、その悩みを持って仏になるために生まれてきた人ですよ」

 そう励ましてともに元気と勇気を出して、今日もにっこり笑って境涯革命に挑戦していこうではありませんか。





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2022
09.29

三世の生命は大海の波の如し

Category: 信心


菊_R



 私事で恐縮ですが、先日、私の母が霊山へと旅立ちました。私も母と暮らすことが長かったこともあり、身近な人の死というものは「死」そのものについて、また三世の生命ということについて、様々なことを感じさせてくれるものです。

 母の体は火葬にふされ、今手元には遺骨があるのみですが、死後の生命そのものは大宇宙に融け込んでいると言われます。一体、宇宙のどこにいるのか?それは仏様でないとわからないかもしれませんが、しかし私が唱える題目はこの宇宙に届かないところはないと言われ、瞬時に母に届くことになっています。それを信じてお題目を送り続けています。

 生前、もっと親孝行したかったというのは誰しも後から思うものかもしれません。今となっては仏法をたもち、自身が仏になることが親にしてやれる最高の孝養であり追善です。それが信心次第でできるのですから、悲しむ暇があれば信心を頑張らねばと思います。

 仏法では「我即宇宙」ということを説きます。そうであるなら私の生命と宇宙は一体でありその中に父も母もいることになります。「冥途」や「あの世」と言ってもそれらも自分の内なる世界です。宇宙とも生命とも言える広大な空間の中に私と母の命も無数の人々とともに生死生死を繰り返し無始無終に常住している。そのことを深く悟ることができれば、生死の問題にもやがて解決がついていくものと思います。

 つまるところ生死といっても、表に姿を現しているか、裏に隠れて冥伏(みょうふく)し、姿が見えないかの違いがあるだけで、死んだ母の生命も次なる生を受けるまで、しばらく冥途で休んでいると言えそうです。

 母は生前、信心を熱心にはしませんでしたが、親不孝者の息子から届くお題目に安らかにまた歓喜の内に休息に入っているものと思います。きっとまたひょっこりこの宇宙のどこかに新しい生を受け出てくるでしょうし、私もやがてその母を追ってその元に生まれてくるように思います。

 池田先生はそんな生命の営みを海上の波に譬えられ、おおよそ次のように語られています。(法華経の智慧第一巻)

 波は現われたかと思うと、また消えて海に融け込んでいく。そしてまた波となって現れる、その出たり消えたり繰り返す様子は「生死生死」とめぐりゆく人間生命に譬えられる。現れた時は有ると言えるし、消えた時は無いと言える。しかし生命はその有無にとらわれることなく連続してあるのであり、それを中道と言う。(趣意)

 私もこの話を読んだとき、本当にわかりやすい譬えだとびっくりしてしまいました。

 短命の人生は現れてすぐに消える波のようです。しかしまた縁に触れて現れる。それがわかれば死んでも必ず生まれてくるし、最愛の人との別れもつかの間のことだと言えます。大海に融け込んでしばらくしたらまた現れる波の如き生命・・・人生は長い短いと言っても三世の生命からすればそれは一睡の夢の如しと言えそうです。

 我が家も生来、真言宗であったところを、私が学会に入会し御本尊を携え都会から帰郷、七年ののちに母が私についていくと言ってくれ、わが家は晴れて創価学会の家となりました。母もそのことで周囲から冷たくされたり仲間外れにされたりもしたようですが、今、拠点として我が家を開放し、ひなびた田舎の広宣流布の一翼を担い使命を果たせるのも、この母ありてというほかありません。いつの世であってもこの母の大恩を命に刻んで生きていきたいと思います。

 一睡の夢とはいえ、一日でも寿命を延ばせばそれはまた財であるとも言われます。
母のように長生きできるかわかりませんが、私も日々を大切に広宣流布のため、自身の人間革命のためにこの道を母の分まで精進していきたいと思います。





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2022
08.25

始めより終わりまで「題目の人」

Category: 信心


 法戦も終わり一息ついたこともあり、この夏は教学をしっかりやっていこうと思い立ちました。池田先生の講義を手元に置いて難しいながらも学んでいるところです。

 教学を理解してもお題目をあげなければ「人間革命」も「宿命転換」もないわけですが、難解な仏法の「理」を求め学ぶ喜びというのは、信心していなければ味わえないものです。その喜びでまた御本尊の前に座り題目を唱える・・・そういう「信行学」のリズムが自然とできていけば、それは信心が進んでいる証拠と言えるかもしれません。

 我々は外見はごく普通の凡夫ですし、病気もすれば貧乏もします。そんなあまり立派でない自分を見て世間の人はさげすんだり侮(あなど)ったりすることでしょう。しかしそれは自分の一時的な仮の姿ですので、自分までそう思って卑下してはならない。なぜならそれは「本迹」で言えば単に「迹」の姿に過ぎないからです。

 仏法ではそんな立派でない私にも内証があり、あなたの本当の正体は「南無妙法蓮華経」という仏の生命だと教えます。自分の生命が仏とわかれば悟りですし、わからないうちは迷いです。そう考えますと、世の中のほとんどの人は迷いの衆生として生きているわけですね。

 たとえどんなにお金持ちだったり、豪邸に住んだとしても迷いは迷いです。そんな迷いの人を羨(うらや)ましく思うなんて残念な話です。それに比べ、今は貧しくとも仏法をたもち、広宣流布に勤しむ我々は悟りに向かって前進しているわけです。「一生成仏」という都に向かって歩いているのであり、歩みを止めない限り遅かれ早かれ「都の月」を眺めることができます。

 ですから途中休憩はまだしも道をそれて退転だけはしてはいけない。三世の幸福を目指し航海に出たのに、途中で船を下りたのでは、待ちうけるのは苦海に沈む流転の生死です。

 たとえ教学が不十分でも、一生懸命題目を唱えていけば「都の月」を眺めることができます。教学をよく知っていてもそれで慢心を起こせば本人も気づかないうちに退転に向かいます。いついかなる時も御本尊の前に座り、誰見ることもなくお題目を欠かさない人こそ最後に仏様に招かれ「都の月」を眺めることができる人と言えないでしょうか。

 私たちが毎日拝する御本尊様は、「久遠元初自受用報身如来」の日蓮大聖人様のご生命と説かれます。それを拝する私たちもまたその内証は久遠元初の仏の生命であるに違いありません。濁悪の末法の世に生まれ出て日蓮大聖人様より下種を賜り、今世の内に速やかに悟りへと向かえるのですから、釈尊在世の人達や天台伝教といった方々もどれほど末法の信者をうらやましく思われることでしょう。

 信心は結局、初心の人も入会数十年のベテランもお題目を唱えることに尽きるんですね。「始(はじめ)より終りまで弥(いよいよ)信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん。」(新池御書、1440P)と仰せの通りです。善(よ)からん時も悪(あし)からん時も水の流れる如くに題目を唱えゆく・・・信心が進む足音とは白馬の駆け抜けるような題目の音声そのものだと言えます。

 「題目をもっと唱えたい。題目を唱えるのが一番楽しい」・・・そうなればしめたものですね。信心が進んでいけば必ずそうなるものと思います。誰も励ましてくれない時は自分を自分で励ましながら(笑)「さあ、今日も題目だ!題目だけあればそれでいい」とそんな法華三昧の日々に、自己の生命を燃焼させたいと思います。

 都の月を眺めるまで「共に励まし 共々に征かなむ」・・・戸田先生の御歌を心でかみしめながら、今日も「題目の人」となって前進です。








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