広布の大河に君ありて tori

人はみなダイヤモンド

 

 
 私の地域では昨日(21日)、未来部の「創価ファミリー大会」が開催されました。私も男子部とともに未来部担当者の一人なのですが、若い男子部の面々と活動することは楽しみでもあります。彼等といるとその清々しさにこちらの命の濁りを感じ、また浄化されゆくように思います。命を洗濯するようなその感覚が私は好きです。

 当日、会合では私は記録係ということで、演目のスナップや参加者の集合写真などを撮影いたしました。

 学会の体験談には生活上の功徳の話が多いのですが、私の場合は生命内奥の変革に功徳を感じることが多いです。「功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(御義口伝P762)と説かれます。自分の生命が月々日々に清らかになっていく。もちろん煩悩も三毒も激しい私ですが、一昔前に比べたら、それらに負けない強く清々しい自分が出てきました。自然と笑顔も多くなり、朗らかに生きる日々になりました。




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 歓喜や感謝など内面から現われる心にも「功徳」を感じますが、、自分の境涯として、どう「モノ」が見えるかということに、より功徳を感じます。日常の人や環境という縁に、それを鏡として自分を見ていく・・・時にはひどい自分が見えたりもするわけですが、そんな時こそ「よし、これを変えていこう・・・」と逆にそれらに励まされもします。

 「たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり」(法連抄P1050 )境涯をわかりやすく説かれた御聖訓です。私達も今まで何気なく見ていた光景が、新鮮に輝いて見えることがあるものです。人間の眼について仏法では五眼があることが説かれますが、日々の信心によって「法眼」や「仏眼」が開いて行けば、当然新しい眼を手に入れたように、世界が違って見えてくるに違いありません。その時にはじめて自分の生命にこびりついていた垢や汚れが落ちたことがわかるものです。

 昨日の会合に集ったメンバーを見ていて、私には一人一人が今まで以上に輝いて見えました。元気な人、そうでない人など様々ですが、どの人も私には尊く感じられました。裏方に徹する男子部、一家の宿業との戦いを体験で語った母子、導師を勤めてくれた高校生、ダンスや歌を披露してくれた未来部の子供たち・・・みんなひとつになって、会場全体が私には「仏界」のごとくに思われました。

 実は会合に来る前に奥さんと意見がぶつかって、私には修羅界が出ていたのです。(笑)ところが会場に着いた途端、その会合の空気に私の生命は清められ、にこやかな心持に一瞬で変わってしまいました。(単純やなあ・・・)気が付くと修羅界はどこへやら・・・

 
 司会をしてくれたのは少し地味な感じの中学女子で、緊張のせいかあまり表情がなくて、最後までいい写真がとれなくて困りました。そこで会合終了後に声をかけて、「ちょっと一枚撮らせて」とお願いしました。

 最初は固い表情だったので、「もっと笑って」というと、はにかみながらも弾けた笑顔が返ってきました。池田先生の信州の花畑の大きな写真の前に立ってもらいましたので、その中にもう一つまぶしい花が咲いたようでした。

 彼女にも「仏」を感じながらシャッターを切りました。「この人の生命もまた仏だ。彼女にも無限の輝く未来が待っている。」そう思うと思わず彼女にお題目を送らずにはいられませんでした。

 「今日みたいにどの人も仏に見えてきたら、俺も不軽菩薩やんか、すごいなあ」・・・と思いながら、「いや、そうなるんや。妙法を唱えて仏界を湧現しているんやから、みんなそうなって当たり前やん」と心で納得しました。

 「人はみなダイヤモンド」・・・そんな風に見えたら、その時はきっと我が身にも仏眼が開いているに違いありません。「仏とは究極の人間賛歌の世界や」そんな思いが私の心に広がりました。

 お盆ごろから暑さに少しバテ気味の私でしたが、「創価ファミリー大会」で新鮮な元気をもらいました。座談会、同中とアクセルをふかして、本年の後半戦の開始です。







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善きことはカタツムリの速度で




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 日中の暑さは大変なものですが、私の住む田舎では朝晩、少しずつですが涼しさを感じるようにもなりました。一日の変化は大きくなくても、季節は夏の盛りからゆっくりと秋に向かっています。

 「善きことはカタツムリの速度で動く」とはガンジーの言葉だそうですが、信心もやはりその通りかもしれません。私も30年ほど、あまりいいことがない中を辛抱してやってきたのですが、ここ1、2年で大きな変化が現われ、生命に信念とも言うべき何ものかが成就したことを実感しています。

 無冠の友としての聖教配達、拠点会場、王城会、そして日々の勤行唱題、学会活動と、10年20年の陰徳はやはり生命に刻まれ、陽報となってあらわれるものです。地道な精進行に冥益はある・・・これが本当だと思います。

 「祈ってすぐに叶うのは手品の信仰だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで百点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。しかし、もっと深く、長い目で見た場合に祈った分だけ、全部、幸福の方向に行っているのです。(池田先生・「青春対話」より)

 むしろ簡単に祈りが叶う方が自分を堕落させるとも言えます。思うように行かない中を「これでもか」との思いで、粘り強く信心に励んで行く・・・その試練がいつしか自分の心を金剛の魂へと磨きあげてくれるのだと思います。

 先日、娘と二人、STBモバイルでベートーベン「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」を鑑賞しました。音楽家にとって耳が聞こえないという致命的なハンデの中、また病や経済苦の中で自殺まで考えた境遇から、自分の使命、人生の闘争に目覚め、交響曲第九番「歓喜の歌」などの傑作を生み出しました。自殺して自分をあきらめるか、「死んだ気で戦って見せる」と立ち上がるか・・・その一念の差が人生を大きく分けたのです。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」・・・これこそ仏法の真髄に通じる人間勝利の言葉です。

 ベートーベンがもし貴族階級にもてはやされ、金銭的にも恵まれた境遇のままであったなら、これほど人の心を打つ作品は作れなかったかもしれません。その意味で、自分が潰されるかもしれない、すべてを奪われるかもしれない・・・そういう逆境、試練こそ、秘められた本当の自分、人としての底力、真価を現わす最高の時であり、条件であることを教えられます。

 「阿頼耶識」と言われる生命の蔵に我らはどのような悪業、宿業を持って生まれたかはわかりません。しかしその絶望的とも言える宿命の奥に「仏」と言う「九識心王真如の都」があることを日蓮大聖人様は教えてくださいました。

 その生命が湧現するところ、どんな悪業も宿命転換が可能となる・・・智慧のない凡夫にも「信」の一字でこの「仏界」を湧現できるのです。この法理を知れば、智慧のない私など喜び勇んで仏を信じ、高らかに題目を唱えたくなります。

「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事、1244P)

 この御文を深く心にとどめながら、今日もたゆむことなく精進していきたいと思います。







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さなくしては後悔あるべし




 私は学会2世でも3世でもなく、27歳の時に友人の折伏を受けて創価学会に入会したわけですが、入会当時は創価学会の「そ」の字も知らず、池田先生のことも週刊誌の記事程度の知識しかなかったわけです。入会を決めたのは「南無妙法蓮華経」の題目に「何か」を感じたからにほかなりません。

 それでその日の夜から一人拝み始めました。どうしてすぐに拝みだしたのか、今思えば不思議なのですが、やはり自分が欲していたものに出会えたという、そういう感激はあったに違いありません。その日、都会のアパートの一室で、私の生命に歓喜と希望の灯がともったことも事実であります。

 誰しも、「南無妙法蓮華経」をわかって、また創価学会をわかって入会した人はいないはずです。わからなくても信を立てることができる・・・これを妄信(盲信?)と揶揄(やゆ)する人がおられますが、私は自分の体験に照らし、そういうものではないと思っています。




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                            (夏の朝のラジオ体操)




 それは乾いた喉が水を欲しがるように、理屈抜きで欲するものであり、自分の知らない生命の内奥で本能的にそこに向かいたいという力が起こっているのだと思います。30数年たってもいまだにその心境のままに、また何かにつけ題目を唱えたい、池田先生を求めて生きていきたい・・・と、「人にやめろ」と言われても、「いまだ懲りず候」・・・生命が朝な夕な自然とそこに向かっていくものです。

 御聖訓には「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」とあります。(上野殿御返事1558P)いい時も悪い時も、御本尊様と池田先生だけは信じて求めていこう・・これが私の「一生成仏」への道であり、「さなくしては後悔あるべし」と戒めています。

 信心が深まるとは、生命の奥深くにそうした信念が珠となって成就していくことではないでしょうか?。それがまた冥益だと思います。この珠は大樹のように命にどっしりと根を張り、自分で動かすこともできなければ、人の言によっても、動くことはありません。日々の題目と学会活動がますますこれを堅固なものとなし、やがて自然と仏界に至り、所願は満足するだろうと思います。

 入会以来、私なりに御書を始め、学会書籍や指導を拝読してきたのですが、それらを正しいとか正しくないとか考えたことはありません。御書はもちろんの事、戸田先生、池田先生の指導にしても、私にとっては正しいと信じて拝していくものです。それは「思考停止」でも「洗脳」でもなく、それ以上に「信じる」ということに重きを置いた生き方であり、自分の理屈や我見で、学会や池田先生に不信を持つ生き方とは真逆です。

 凡夫の智慧では推し量ることもできない、どんな理屈でも説き明かせない不思議の一法が妙法です。御本仏から妙法流布を託され、広宣流布を指揮される三代の会長を永遠の師匠と仰ぎ、どこまでも信の一字を持って呼応していく・・・それこそ我ら学会員がこの身を払って、仏身となりゆく確かな道であり、私の30余年の信心もまた、その迷妄を打ち破るためにあったと言えます。


 



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