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2024
04.10

創価学会は民衆王者

Category: 未分類


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 戸田先生は述べられている。「大聖人は(中略)南無妙法蓮華経ということだけをごらんになり、お説きになったのであります。
「大聖人様、いちばん肝心要の説法を聞かせてください。」
「よしよし、そこへすわれ。南無妙法蓮華経、終わり」
大聖人の三十年間の説法は、たった一言なのであります。
ゆえにわれわれが御本尊を信じて題目を唱え、折伏をやれば、必ず救われるのであります。」

 戸田先生らしい愉快で明快なご指導ですね。

 南無妙法蓮華経の七文字に日蓮大聖人様の仏法のすべてが入っている。まさに南無妙法蓮華経は功徳聚であり、それを持った人は如意宝珠を手にしたことになります。

 さらに戸田先生は「私が受けた大功徳をこの講堂いっぱいとすれば、諸君の言っている功徳は小指の先くらいのものだ」と言われています。それからするとお金が欲しいとか体が元気になりたいとか、それは小指の先ぐらいの功徳なのでしょう。

 戸田講堂の中に私の小指を置いてみますと講堂の大きさはとてつもなく大きいのですから、いかに戸田先生の受けられた功徳が大きいか・・・そのあとを継いで世界広布をここまで成し遂げられた池田先生の功徳もまた凡夫では想像できないのは当然です。仏法のことを小指の先ほどしか知らない私と講堂いっぱい御存知の戸田先生、池田先生では文字通り天地雲泥の差というものではありませんか。

 そこを心を「師弟不二」に定めて信心していけば、せめて親指や手のひらくらいの功徳はいただけるのではないかと希望をもってやっているのです。

 私も先日、地元の法華講の人と話しをしたのですが、私がいつも相手に言うのは「坊さんでは広宣流布できない」ということです。事実として広宣流布をなしとげ、今も発展させているのは創価学会だけです。それをもって創価学会に仏の血脈が流れ通うことを私は確信しています。宗門の力で世界広布がやれるなら宗門の言うことも認めるべきですが、それは無理でしょう。

 貧乏人を救うのは貧乏人であり、病人を救うのは同じ病で苦しんだ人であります。民衆を救うのは民衆であり、民衆の中に見栄や気取りを捨てて飛び込んでいかないと民衆は救えないのです。それゆえ坊さんには広宣流布はできない。広宣流布を成し遂げていくのは在家の民衆団体である創価学会以外にはないのであります。

 宗門と言えど広宣流布を成し行かんとするその創価学会を破門したり見下したりしては謗法です。学会を讃嘆尊敬し、庶民である民衆を敬い、広宣流布をサポートしていくならば宗門が浮かばれる日もいつの世にか来るやも知れません。

 私も今、朝晩の勤行で、世界平和と一切衆生の幸福、また全学会員さんに功徳が大きからんことをご祈念しています。家族の事、健康の事、生活の事、同志の事、等々・・・私も悩みはたくさんありますが、「まずは四表(世界)の静謐(せいひつ)を祈れ」とありますので、人の幸せや世界の安穏を祈ればまた私にも功徳が鼓の如く返ってくるものと思います。

 先日、本部長と家庭訪問回りましたら本部長がいいことを言ってました。「人に怨嫉したり、悪口を言えば必ず自分に悪いものが返ってくる。それと同様に口に南無妙法蓮華経を唱えたら、最高にいいものが自分に返ってくる。そこに題目を唱えることの大事さがあるんです。」と・・・
「本部長、たまにはええこと言うやん!」と思いながら私もニコニコ聞いておりました。

 創価学会こそが民衆王者であり、日蓮大聖人様の血脈を受けた地涌の菩薩の正しき陣列です。その創価学会の信心を胸に掲げ「先生、私は必ず大勝利します。」とお誓い申し上げながら、九界の荒波の中を今日もまた前進していこうではありませんか!






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2024
03.28

我ら不軽菩薩の後を追い

Category: 信心


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 春はそこまでというところで後戻りしたのか、当地では3月によく雪が降りました。被災地には一日も早く暖かな春が訪れてほしいものです。

 戸田先生曰く、「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」

 今、私は一人の若き壮年の悩みに寄り添ってサポートをしています。その壮年は離婚後に養育費などお金を相手から無心され多額のローンが返済不能となり、母親の元で半ば身を隠すようにして暮らしていました。その母親が病気で入院・・・切羽詰まった彼から電話が入り面会が出来悩みを聞くことができました。今、彼の蘇生に向けて自己破産の手続きや仕事の斡旋等、公明議員、弁護士などと連携して動き始めています。

 先日は勤行を教えるのにうちに来てもらったのですが、長い髪と髭を落として見違えるようにさっぱりとした男前になってきてくれました。彼が立ち直っていくことが私も自分のこと以上にうれしく思い喜んでお世話をしています。

「菩薩」ということを考えますと、それは「利他主義」と呼ぶことができるかと思います。個人の喧嘩から国の戦争まで争いの原因はすべて自己中心主義であり利己主義です。他者や他国の利益を優先するような「利他主義」の世の中になれば喧嘩や戦争など起こるはずはありません。

 その意味で広宣流布とはこの世界を仏・菩薩の世界にまた「利他主義」の世界に変える戦いです。その先陣を切って創価の皆様方が仏・菩薩の生命を現わし貢献されていることは素晴らしいことです。目の前の一人を救っていくこともその大事につながる菩薩行だと確信します。

 ある時、女性部の方から「あなたは絶対、宗門の方に行く人だと思っていた。」と言われたことがあります。きっと線香臭いような顔でもしていたのでしょう。そのころ根性もいささか曲がっており(笑)同志や組織を煙たがっていた独りよがりの自分だったのですから無理もなかったかもしれません。

 そんな私であっても信心すれば、それらが全部人間革命の種となり、薪(たきぎ)となって変毒為薬していきます。だから毒はあった方がいいですしいくらあっても大丈夫です。「毒変じて薬となる」ことが人間革命であり、信心の証明です。

 この信心は凡夫のままで欲や煩悩を捨てることなく仏になる信心と説かれます。蛙だってオタマジャクシから現れ、蝶々だって蛹(さなぎ)から出てきます。御書にある「木中の花」「石中の火」も不思議なことであり、世界は「妙」に満ちています。人の生命から仏が出てきたって少しもおかしな話ではありません。

 それがひどい宿業や罰ばかり出ていたのではあまりにかわいそうだ、「体に縫い付けてあげた仏の珠を思い出し早く出しなさい」と、御本尊とお題目(南無妙法蓮華経)を我ら衆生に与えてくださったのが日蓮大聖人様です。その御本尊を 信じて喜んでお題目をあげ、珠を磨いて輝かせたいものです。

 地涌の菩薩にとって宿業や悩みは冬を象徴する衣のようなものですね。「私はずいぶん厚い衣を身に着けちゃって。」(笑)とお嘆きの人もいるかもしれませんが、それは使命が大きいという証明であり信者として上等です。春になればその温かさで冬の衣などいっぺんに脱いでしまいましょう。

 唱題行に折伏行、家庭訪問に学会活動・・・仏道修行が楽しくて仕方ないとなればしめたもの。我らも不軽菩薩の後を追い、他者救済の菩薩行に燃え地涌の本領発揮の人生を逞しく生きていこうではありませんか。






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2024
02.20

仏と知るための秘妙方便

Category: 信心


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 今、政治においては自民党の裏金問題が発覚しどの議員も正直に非を認めることなく、自己の正当化に終始し、そのうち問題がうやむやに終わるのを待っています。国民の怒りも大きいものと私は思いますし、怒って当然ですね。これで選挙でもあって自公が選挙協力をしたとして、果たしてどれだけの人が応援するだろうかと思います。国民の苦しさに思いをはせるどころか、自己の保身と財を蓄えることに地道をあげる政治家達・・・これが実態です。

 また先日はロシアでナワリヌイ氏が暗殺されたらしいとのニュースがありました。これが事実なら本当に非人道的なひどいことがまかり通っています。氏が遺言のように語られた言葉が私の心に響きます。「悪が勝つのはひとえに善人が何もしないから、行動をやめるな!」との言葉です。仮に信心で祈ることしかできなくても、決して人ごとのように傍観するだけの自分であってはいけないと思います。


 最近は時間を見て教学をやりたいと思い、御書の拝読、池田先生の講義などをよく読んでいます。教学を学びたいというのは信心が進んでいる証拠でもあると思います。戸田先生も「信は理を求む」と言われています。以前に読んだものでも何年振りかに読むとまた一段深く読み取れたり、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちたりするものです。

 先日も池田先生の「方便品寿量品講義」(普及版)を学んでいましたら、方便についてのお話がありました。皆様ご存じのように仏法の方便には「法用方便」「能通方便」「秘妙方便」の3つがあります。そのうち「法用方便」「能通方便」は爾前の方便であり、衆生の機根に合わせ(随他意)人々を法華経へと導いていく方便です。衆生の方から仏に近づいていく方便であり、法華経に至れば「正直捨方便」と言われるように無用となります。それに対し「秘妙方便」というのは仏が知っている秘を衆生に教える、方向としては仏から衆生に向かうものであり、「あなたは仏の生命なのだ」ということを教えるための方便となります。それゆえ随自意です。

 私たちは歴劫修行をすることなく難なく御本尊(法華経)を受持したのですから、あとは自身を仏と悟ることが信心の目的となります。末法において御本尊を受持して信心に励む人はみんな「秘妙方便」によって自身が仏の生命であることを教えられる、または悟るということになります。

「なるほどそうですか。よくわかりました。私は仏です。」と言えればいいのですが、それがなかなかわからないことが問題です。私たちは実にわかりの悪いそして疑い深い衆生として生まれてきたものだと思いますが、それは私だけでしょうか?

 皆様は立派かもしれませんが、私などは経済苦や家族の病気など様々な宿業との戦いであり、この自分が仏だなんてそう簡単に信じることができない。そこを信じ抜いていくのですから強い信力行力が必要になります。おまけに種々に魔が出来して信心を妨げてくるのですから、その道は決して平たんではありません。

 戸田先生は「我々がただの凡夫でいるということが秘妙方便であり、真実は仏なのであります」と言われました。また池田先生も「末法の法華経である御本尊を信じ,九界の現実の中で戦う皆様の姿こそ秘妙方便なのです。」「あえて凡夫の姿で苦労してみせるのです。」と言われています。

 つまり悪戦苦闘、七転八倒しながらの人生であっても、題目を唱え、信心を貫いていく我々こそが仏だと断言されているのです。自分は仏だ・・・これがわかれば鬼に金棒です。苦難に襲われても波乗りするように楽しく超えていくことができます。

 この信心は仏の随自意です。貴賤上下、頭の良し悪しも問わず、皆さん同じ御本尊に同じ題目ですね。そうして仏さまはこちらのことは何もかもすべて御存知で、「あなたに病や貧乏の宿業が出るのは実にかわいそうだ。その代わり信心に励めばその宿業を用いて仏という永遠の幸福を差し上げましょう」ということなのです。そうであれば実にありがたい御本尊ではありませんか?

 池田先生は講義の中で「自分が仏だと気づけば「秘」ではなくなる、そうなると「妙」の力が出てくる。」(趣意)と言われています。仏だとわからないうちは仏だけが知っているので秘ですが、自分が仏だとわかればそれはもう秘ではなくなり、仏となって仏の力が湧いて出てくる・・・その通りだと確信します。

 
 そろそろ寒い冬も終わり暖かな春がやってきますね。「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」 〈妙一尼御前御消息 御書1253ページ〉 何度も拝読したこの御聖訓を春が来るたびにまた一つ深く身で味わいたいものです。「人生で最も大事なことは確信である」・・・この戸田先生の言葉を心にもって、今日も歓喜の題目で走りぬいていこうではありませんか!




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