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2018
11.16

身に説法、心に説法

Category: 信心


 御本尊様はきっと我々を幸福にするために、口ではお話されませんが、毎日、「身に説法、心に説法」をくださっているのでしょう。法華経の寿量品には、「毎自作是念」(毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)す)とあります。休むことなく衆生の幸福を思っていてくださるのですから、こちらも休むことなく御本尊様を求めていかねばなりませんね。

 説法と言っても、こちらも耳を澄ましたり、思索したりしませんと、ぼんやりと過ぎてしまうことだってあります。毎日の出来事の中に、自分自身を知る機会は実に多いものです。「奥さんとの些細な口喧嘩」(笑)にしても、「会員さんとのやり取り」にしても、一日の諸法にこちらの人間性や境涯が、ことごとく映しだされると言っても過言ではありません。それをどう捉えていくか・・・そこに「信心」はあるはずです。

 ある時のことですが、私も自分の生活上において苦しんだことがありました。その苦しみを打開するために、学会活動にも熱心に取り組んでやっていたのですが、ところがいつまでたっても打開できません。そんなわけでつい御本尊様にも文句を言いたい気分にもなっていました。「こんなに頑張っているのにどうして?」と・・・

 そんなある日のこと、ふと気がついたのです。「あれれ?俺はこの苦しみから逃れようとして、そのことばかり御本尊様にお願いしているじゃないか?」「一日も早く、この苦しみが消えてなくなりますように!と、本当はそう祈っているだろう?」

 「その一念は「宿命転換」ではなくて、現実逃避だよ。御本尊様拝みながら他力本願な念仏やってどうする?」と・・・そこで初めて目が覚めた思いがしました。「御本尊様、私が間違っていました。今日よりは心を入れ替えて、自力で壁を破る法華経の信心をします。」その場でそうお誓い申し上げました。

 私たちはつい苦しみから逃げ出したり、甘い姑息な解決を願ったり・・・浅ましい爾前の心にとらわれがちです。宝くじが当たるような幸せをつい妄想しますが、信心に「棚からぼた餅」もなければ、「信心しているから何とかなる」もありません。鑿(のみ)を手に固い岩盤を掘り下げていくように、自分の苦悩と正面から向き合って戦ってこそ、信心の力も威力を発揮するのです。

 活動を熱心にやっても、一念が念仏臭くては、これでは打開できない・・・自分の苦悩から逃げ出さずに、信心でその壁にぶつかり、自力で壁をうち破っていこう・・・その一念が私には弱かったのです。そのことを御本尊様は辛抱強く、私に教えようとされたのだ・・・そう気づかされました。

 「煩悩よ!今日から俺は一歩も引かずにお前の相手になろう。さあ、かかってこい!」・・・そういう心境に立ちますと、生命には逆境を跳ね返す気力が充満します。悩みはあれど心は清々しく、「一切は自分を強くしてその力で打開するのだ」と、そう思えます。環境は同じでも、前と違って心が強く負けないのです。

 もしあのまま悩みから逃げ出していれば、一時的に楽になったかもしれませんが、私という人間は何ら「人間革命」することなく終わったことでしょう。しかし、その宿業と正面から向き合って戦った分、私は負けない自分となって、「宿命転換」することができたのです。

 そういうところに、自分が変わりゆく、「人間革命」の醍醐味があると言えないでしょうか?これからは何が起ころうと、すべてを自身の生命で受けきって、正々堂々、自身の力を信心で磨いて乗り越えていく・・・そのことを学んだのですから、まさに闘争者の心境です。この信心は何があろうと逃げ出してはいけない信心なのです。

 これが私がいただいた仏様からの説法であり、数年、苦しんだとはいえ、今となっては本当に素晴らしいことを教えてくださったと、感謝している次第です。





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2018
11.02

浄土と云ひ穢(え)土と云うも・・・

Category: 信心

 人が生きていく上で必要なものはたくさんあるでしょうけど、楽しく生きていくために一番必要なものは、私は歓喜と感謝の心ではないかと思います。私自身、歓喜や感謝には縁遠く、むしろ苦しく不満の多い生命で長年、生きてきたわけですが、ここにきてようやくいろんなところで歓喜や感謝を感じるようになりました。

 そうなってみますとその心で生きていくことが、とてもいいことだということがわかります。心に歓喜と感謝があふれていれば、その人の心は清々しく、人からも愛されるに違いありません。それがまた諸天を喜ばせ、幸せを招き寄せることでしょう。仏法では四恩ということを説いていますが、親や家族を始め、まわりの人に感謝できるようになれたら、それだけで自分を幸福だと感じられるものです。逆に愚痴や批判、不平が心に多い人は、自ら苦を招く因を作っているのだと思います。




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 信心をして功徳を受けますと、生命が清らかになっていくことを感じます。功徳とは悪が滅し、善が生じることだと言われます。また「六根」が清浄になっていくとも説かれています。汚泥に染まったこの命が浄化され、清らかになっていくのですから、おのずとさわやかになります。悶々とした心が風呂上がりのようにさっぱりとしたりもします。そうなると見るもの聞くものが清らかで楽しく感じられる・・・地獄界か畜生界のように感じる私の国土世間も、「ここが宝土なんだ」と少しずつ思えてくるのです。


 自分の生命を仏と悟れば、自分の住む世界が仏国土となることでしょう。仏のいるところ、どこであれ仏国土ですから、仏様が地獄界に行かれたなら、そこはたちまちのうちに仏国土と変じます。餓鬼の生命の人にとっては、どこにいようとそこは餓鬼世界です。境涯が変わらないのに、よそへ移っても、根本的な解決にはならないというのはそういうことだと思います。

 「浄土と云ひ穢(え)土と云うも土に二の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(「一生成仏抄」384p)と、大聖人様が仰せの通り、人の幸不幸はまさに境涯、心の善悪によって決まるのですね。

 私は今では、学会活動が楽しくできるように変わってきました。以前は渋々嫌々やっていた時もあったのです。信心は体、生活は影ですので、信心の活動に不満があるならやはり生活にも不満が出ます。それが今では小さく地味な活動であっても、喜んでやれるようになりました。そうなると活動がそのまま御本尊様への報恩感謝の行動となり、ありがたさの方が勝ってきます。

 学会活動に不満をいう人に対しては「それってもったいない話や。学会は喜んでやればいくらでも功徳がもらえる「宝の山」なんや。おもしろくないというのはやらされてるからと違うか?」と、私は言うでしょう。学会が宝処・仏界に見える私の眼は、学会不信の人から見たらさぞかし「おかしなやつだ」と思えるのでしょうね。(笑)

 信心の功徳はお金には変えられませんが、変革した生命はいつでもどこへでも持っていけます。ですから金の亡者になるよりは信心に熱心な方がずっと得です。信心こそ無上の宝です。私も日々の唱題と学会活動で、歓喜と感謝の生命をさらに磨いて、我が生活、我が人生を一新したいと、そう決意して日々の戦いに挑戦しています。




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2018
10.20

幸福は信強き人に・・・

Category: 徒然の記
こんにちは

皆様お元気でお過ごしでしょうか?

 私のほうは元気にやっています。プライベートは詳しく書けませんが、最近、家庭においてまた一つ「変毒為薬」することができ、「一家和楽の家庭」、「幸福な家庭」へと変わりゆく基盤ができたと思います。

 ブログをいったんやめました頃から、長年の陰徳の果報が目に見えて感じられる・・・そんなことが多くなってきました。「学会を批判する人」、「学会でまじめに活動する人」・・・その時には違いはわかりませんが、長年立つと後者は冥益となって人生に花開き薫っていくものです。

 功徳というのも、まずは日々の心、生命に現れるものであり、生きることの喜びとなって現れます。「如是相、如是性、如是体・・・」生命が変われば、姿、振る舞いは必ず生活の中に反映されていきます。その歓喜の生命に諸天も感応して、万里の外から幸を運ばずにはいられないのです。

 そんな心映えになった私ですが、入会して30年ほどは、自分の生命が「海のものとも山のものとも」わからないような状況でした。朝、起きてもどんよりとした気分で、その心に鞭打って聖教配達に挑戦しながら、「自分は一体どうなるのだろう?」と、いぶかしく思ったことも何度もあります。

 どの人もそうでしょうけど「法華経を信じる人は冬のごとし 冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息1253P)・・・この御文を身で読まなければならないことでしょう。その冬の時代こそ、その人を幸福にするために根っこを鍛えている時代であり、魔王の試練の時です。なんとしてもそこを耐え忍び勝ち越えていかねばならない・・・すべてはその人にとって意味のあることであり、無駄はないものです。

 様々に襲い来る「不信の攻撃」を「信力」を奮い起こして強い気持ちで打ち破ったことが、結局、今の自分につながっています。信心は自分の中の「不信」の生命との間断なき闘争ですね。今、私の周りにも信心に行き詰っている人が多くおられます。その人々の幸福を祈りつつ、私は「強く信じよう」「命からの信力を出そう!」と励ましています。それしか無明を打ち破る手立てはないのですから。

 ネットなどで見る学会系のものも、多くは「池田先生と学会を信じる人」、もう一方は「それらに不信をなす人」の二極に大別されるようです。信心が強い人には「不信」というのはよく見えるものです。信心が弱いとやはり「不信」に引き込まれやすいものです。その意味でどこまでも「信」を強くする・・・それ以外に「魔」に打ち勝つ秘策などないはずです。

 学会の組織に不満の一つ二つあっても、根本に池田先生を信じている人は崩れないものです。学会を去っていく人はやはり池田先生に不信を抱く人だと言えないでしょうか?人の信心を見る時もそこが急所だと思います。「この人は師弟に生きておられるな」と、そう思える人はまずは信用できる・・・それが私なりの生命で感じる善き人の基準です。

 その意味で私は池田先生だけは疑わないでやってきました。日々年々、池田先生と自分の関係が濃密になっていく・・・そこに私の「人間革命」があることも知りました。かつての先輩が「池田先生についていくんだよ」と教えてくださった意味が多少なりとも理解できたと思います。

 「仏意仏勅」の学会とともにある「善男子、善女人」の皆様こそ「国宝」であり、「地涌の菩薩」であり、「仏の軍勢」の人たちです。何があろうと負けるわけがありません。強く強く御本尊様と池田先生を信じてやっていくことが一番です。必ずやそこに「自体顕正」、「桜梅桃李」の幸福が開いていくことは、百発百中と言っていいと思います。

 その軌道に乗れば、今はたとえ不幸の身であっても、必ず先々幸福になるのですから、今の不幸を嘆くことはありません。大船に乗った心で、舞を舞うように楽しく生きていけばよいのです。信強き学会員こそ、「絶対的幸福」を大聖人様から約束された大福運大長者の人なのです。

 今年もあと残り2か月余ですね。種々に用心しながらも、ギアをもう一段トップに入れて、日々、お題目の音声も高らかに、最終コーナーに向かい疾駆していきたいと思います。そして師走には直線一気に魔軍を射しきって、生命勝利の凱歌を皆様と共に轟かせたいですね。(笑)

 日々、寒くなってきましたので、皆さま体調を崩されませんように!時折、訪問してくださる方々にも感謝しています。私も地域の先頭に立って、元気に使命を果たしてまいりますので、ともに前進してまいりましょう!


(今日は時間もあり、久しぶりに記事を書きたい気持ちになりました。何人かの方からブログを続けてほしいとの要望もいただいており、どなたかの励みになるなら、そのためだけにこのブログの意義はあるように思います。そういうことも一旦やめてみてわかったことです。ただ無理はしませんのであまり期待はしないでください。また時間を取られますので、コメントの対応は今後もしませんが、ご理解をお願いします。)



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