2017
09.20

私の「変毒為薬」

Category: 信心
 先日は我が地区でも座談会があり、台風一過の夜であったが、いつものように多くの方が参加してくださった。「広布のために人が集い合う」・・・これほど素晴らしい人の集いもないと思う。

 一人ひとりが宿命を抱えて生きている。私はそんな地区のみなさんの悩みも、少なからず知っている。それぞれ何かしら答えを求めて、またひとりでもがく日々に、力と希望を得ようとして集まって来られるに違いない。

 そんな人たちとともに、勇気と希望と歓びを分かち合って行くのが、この座談会の大きな目的だ。みんなで集えば、その場所は暖かく、光り輝く。私も地区の責任者の一人として、みなさんが喜んで帰っていかれるか、その表情をいつも見守っている。会合に来た人に元気が出なければ、その会合は失敗だったとさえ私は思う。

 そんな私も、もともと人付き合いがいい方ではなかったし、人と群れるより、一人でいるほうが好きであった。人が怖かったという時期もあったと思う。ところが今は、人の輪の中にいる自分が好きになった。これも私の大きな人間革命だ。

 地域でも自治会の役員を長くやったが、最初は「あいつは創価学会で、神社や寺も嫌っとる変わり者や」と、冷ややかに思われていた。しかし、一緒に地域の活動をやっていくうちに、私への見方も変わり、お互い、遠慮なく話せるほど仲良くなっていった。

 以前の私なら、そんな地域との関係も避けていたと思うけど、それができるようになった一番の原因は、やはり学会活動のおかげと言っていい。私の命の奥深く棲みついていた、「人嫌い」が、いつの間にか「人好き」に変わってきたのであり、そこに私は自分が「変毒為薬」をなし得たことを知っている。怨嫉の生命を転換し、人をより多く愛せるようになることは、幸せを得るための大事な要素である。

 学会が素晴らしいと常々言うのも、こうした自分の変革に、確信があるからである。どんなに反学会の意見が飛び交おうとも、私は実証を持って、「学会の信心には厳然たる功徳がある」と主張したい。

 ともあれ学会活動で「人間革命」を果たせることを、私は実践行動で知った。私とて理論や論理性は大事であると思うし、時には、本も読み、考え事もする。しかし、自分の汚れた脳みそに、仏法や池田先生を引き込んで、いいとか悪いとかいうのは好きではない。それよりはその大きな力を信じて実践したいと思うし、いつも疑わず「信」をもってぶつかっている。

 「こんな素晴らしいところから、どうして去って行くのか?」と、組織に批判的な人を見るたびに、私は残念に思う。それは長く組織を適当に考え、批判的だった私が、両方をやってみた実験証明の結果である。「良薬は口に苦し」と言うけど、自分が嫌だった学会組織の中に、私は自分が人間革命するための宝があることを発見した。つまらなく見える組織が、自分の取り組む姿勢で、宝土と転換する・・・まさにそれは恒河を火と見るか、甘露と見るかの違いと言っていい。

 学会に対し、いろんな意見があると思う。しかし、地涌の菩薩の皆さんが集う、仏の集団を嫌う命は、私は魔性の生命だと思う。「魔は分断を好む」と言われるが、ならば仏の生命は「異体同心」を持って、仲よく和合していくことではないか。私が学会で信心するのも、組織のためではなく、そこに愛する同志の皆さんがいるからであり、「世界平和」「広宣流布」と言っても、隣人や同志を愛せぬようでは、絵に書いた餅に等しい。

 その意味で、学会や同志の皆さんを裏切るようなことは、人として一番、やってはいけないことだと言うのが、私の信条だ。

 正しい仏法の実践と、人としての正しい生き方の中に、歓喜も感謝も滲み出てくる。そんな生き方を教えてくれた学会とともに、私も報恩の人生を生きたいと念じている。信心して30余年・・・私はようやく自分が学会員となったと思っている。あとは仏と不二なる生命の勝利をめざし、この道をただまっすぐに歩いていこう。






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2017
09.13

閻魔の笑った顔

Category: 信心
 信心だけでなく、どんなことでも、自分の命で体当たりし、もがきながらつかみ取ったものでなければ、本物とは言えないと思う。妙法という仏の良薬を服し、折伏を実践し、どのように自分が変わっていったか、その体験がその人にとっての仏法であり、その姿、確信が、周囲の人をも変えていくに違いない。

 自分に確たる信仰体験のない人が、理だけを学び人を指導しても、やはり説得力にかけるだろうし、仏法の素晴らしさを生き生きと伝えることはできないと思う。

 仏法を実践すれば歓喜が湧き、生命が躍動する。どんな御馳走も食べなければ、いつまでたっても「おいしそうだ」で終わる。実際に食べてみたら「おいしい!まいう~!」と身口意で叫べるのであり、その感動で、人も食べたい!と思うのである。

 そういう意味では、人に対しても想像や妄想の域で考えても、何もわからないし、何も変えられない。それよりは直接会いに行き、眼を見て話をしてみることが大事だと思う。一度でダメなら、二度三度とぶつかっていく。そこからきっと何かがわかり、何かが変わる。

 私は27歳で入会したけれど、入会したら周りに学会員がたくさんいることがわかった。それで私はその人たちに、「どうして君たちは、もっと早く僕を折伏をしてくれなかったんだ」と言ったら、「おまえだけは絶対、信心しないだろうと思っていた。」という返事が返ってきた。

 命のどこかで信心を求めていた私だったのに、誰も「そうではない」と決めつけていたのである。その経験からすれば、表面的な姿で人を決めつけてはいけない。決めつけるなら、どの人も仏法を求めていると見るべきだ。へたな鉄砲も数打ちゃ当たるというけど、名人であっても打たなければ、永久に当たらない。

 大聖人様御在世当時、熱原の三烈士をはじめ、名だたる信者の方にしても、御書全集があったわけでもなければ、教学の本の一冊もあったわけではない。もちろん「博文堂」でお土産を買うという楽しみもない。(笑) 農民の人などは、文字も読めなかったと思う。それでも命を捨てるまでの信仰を実践し、山賊の出そうな山海の道を、大聖人様を求めて旅をしたのだ。たとえ難しい法門は知らなくとも、人はここまでの信心が十分できるのである。それこそが「信」の持つ力だと言えないだろうか。

 そうやってみると、雪のような純白な求道心こそが、一生成仏にとって、絶対に必要だということであり、その清らかな信こそが一切の要であるといえる。

 自分がそういう心で信心しているか、その一念が問われるのであり、人の観察ばかりしていないで、自分自身を見つめることがとても大事なことだと、私も反省している。(笑)

 ともあれ仏法の実践は楽しいものだ。今月の座談会御書は「持妙法華問答抄」である。「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき(御書全集467p)と仰せである。折伏の好きな人なら大好きな御書である。この世の出来事は一睡の夢に終わるとも、実践した唱題と折伏だけは生命に刻まれ、命から消えることなく、冥途の衣装となるのである。

 閻魔大王もこの衣装を見れば、三途の川で笑って道を開け、「あちらで大聖人様、日興聖人様がお待ちですよ。」と案内してくれるやも知れない。皆さん、めったに見れない閻魔の笑った顔を見るためにも、「自行化他」の実践に悔いなく、励んでまいろうではありませんか。




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2017
09.04

紙に書いた一本の線

Category: 未分類
 
 学会員が熱心に池田先生との師弟に生きている姿を見て、「あなた方は御本尊信仰ではなく池田教だ」と揶揄する人がいる。私も池田先生との師弟を根本に信心を学び、実践しており、そのことを記事にすることも多いので、そう思われることもあるかと思う。

 しかし、実際の自分の生活を見てみれば、決してそうでないことは明らかである。朝夕、一番に端座して拝するのは御本尊である。池田先生を慕う熱心な学会員の方ほど、題目第一を心掛けているのであり、さらに折伏、家庭訪問、会合など仏の使いである活動が、信仰の主軸になっている。

 その合間に御書の学習や「人間革命」の研さんなど、教学にも時間が割かれる。昔、私の先輩が池田先生にお会いした時、「教学が苦手でよくわからないのですが?」と質問したところ、「小説「人間革命」の中に、全部入れておいたよ。」とお答えになられたそうだ。聖教新聞にしても、「人間革命」の学習であっても、それらは仏法の研さんに通じており、体験談も仏法の偉大さを知る、生きた教学だと思う。

 これら学会員の生活を見ても、決して、「御本尊」や「御書」を軽んじているとは言えないのであり、「池田教」などという言葉は的外れである。大半の学会員は生活を抱えて仕事に励み、子育て、主婦業に励まねばならない。みんな忙しい中を空いた時間を工夫して、少しでもの思いで「行学」に励んでおられる。本当に尊い姿だと思う。一遍の題目に、けなげな心に功徳があると言われる。決して時間や量だけで、また教学の浅深で、信心を測ってはいけないと思う。

 私自身、池田先生を「信行学」においてこの世で一番の人であり、誰よりも尊敬申し上げている。そして先生との共戦の一念をもって、御本尊様に向かえば向かうほど、信心は良くなり、功徳が出ることを知っている。

 ネットなどでの信仰上の意見の対立を見ても、結局は池田先生との「師弟」を根本にできるかできないか、その違いだと思うことが多い。それは一念のわずかの違いのようであるが、いつか天地雲泥の差となって現れるだろうと、私は見ている。

 自分だけの修行や智慧ではタガが知れている。頭のいい人と悪い人とどれだけの差があるかと聞かれ、戸田先生は「紙に書いた一本の線の上と下」と言われたそうである。それならば頭の悪い私であるが、卑下することはない。(笑)

 「広宣流布」という仏の一大歯車に、また池田先生という人格の偉大な歯車に、自分の小さなギアをかみ合わせれば、宇宙大の大きな軌道に乗ることができる。駿馬にとりつく青バエは、千里、万里を悠々駆ける。何の立派さもないコバエのような私が幸せになるには、これしか方法がないと、その点は素直に認めよう。(笑)

 池田先生も、入会時、日蓮仏法のことはよくわからなかったが、戸田先生という人を信じてこの世界に入ったと言われた。戸田先生の一番弟子である池田先生が、戸田先生直伝で信心を学び、仏法を悟られたことは当然の結果であり、それゆえに「仏力」「法力」を得て、未曽有の広宣流布を果たされた。その現証により「仏意仏勅」の団体といえるのだと思う。

 戦中の牢獄で死身弘法の振る舞いを貫かれたのも、創価の師弟である。そこに御本仏の信頼と血脈が流れていることは、火を見るより明らかではないだろうか。軍部の圧力に屈し、神札を受け、御書を削除したのは宗門である。大御本尊という宝を持っていても、振る舞いが謗法では血脈も途絶えるに違いない。

 いよいよ世界宗教、民衆仏法にふさわしい体制となるために本部も前進している。我らも学会員であることを無上の誉とし、常に青年の息吹をもって、日々の戦いに、精進していきたいと思う。




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