2017
10.12

信念の持つ力

Category: 信心
 
 今回の選挙は、「自公」対「希望の党」、そして「共産」「立憲民主」などのリベラルの3極の戦いだと言われている。その流れに集約される中で、私が一番、驚いたのは、民進前原さんの希望の党への参加であった。

 数年前(2009年)には政権まで取った野党第一党がいとも簡単に、自ら党を捨てたとも取られかねない行動である。党首自らが、名を捨て小池さんのもとに下るというのは、一見、情けない姿に思える。これでは代表自ら、「我が党では国民の信は得られない、政権交代は無理だ」と、白旗を挙げ、党に見切りをつけたと思われても仕方がない。

 憲法改正をはじめ、内部で意見が統一できないのが、民進党の大きな弱点であると言われる。そこにメスを入れ、篩いにかけ、安倍政権打倒を大義として動いたというなら、まさに捨て身の戦術だ。しかし、慌てて人(希望の党)の母屋に引っ越して戦うというのだから、足元がしっかりしているとは思えない。選挙後も含め、果たしてどうなっていくものか・・・前原さんの信念が、最後は問われる。

  生きていれば誰しも苦しいときもある。窮地に立ってあとがないという、状況に追いやられることもあるだろう。その時にどう生きるか、どの道を選択するのか・・・そこにその人の器も見え、真価も見える。要領や保身で道を選ぶのが、世間一般の多くの人の姿かもしれない。

しかし、「さすがに気骨があるな」と言われるだけの、己の信念を貫く人でなければ、政治の世界に限らず、人からの信用は得られないだろう。また大事を成し得ることもできない。その意味で厳たる信念を胸中に抱くことが、人生勝利の必要条件と言えるのではないだろうか。

  私も若い頃は、信念も確信もないままに、ただ流れに流されて漂よう枯れ葉のようであった。何か確たる信念がほしいと思ったものの、それをどうやってつかむのか、何が信念なのかさえわからぬまま、すべてに刹那的に生き、心に空しさを感じる日も多くあった。

 それが27歳でこの信仰にめぐりあい、以来、30数年、組織に出ないときもあったが、学会から離れずにやってきた。諦めやすい私が、粘り強く陰徳の日々を送ることができた。それは信心を教えてくれた偉大な先輩と、学会のみなさんのお陰である。そしてようやく生命に一つの信念を持てたと感じている。その信念とは「我が生命は仏である」ということに尽きる。どんなに辛い時も、この「信念の珠」を抱くならば、それで大丈夫だと思えるようになった。

  仏法を持つ人の信念とは、何ものにも絶対に崩されない強き生命の一念であり、その一念は人を救いゆく広宣流布への行動となる。どんな人の言葉にも惑わされず、またどんな力の前にも屈服することのない、鋼のような信念・・・それこそが、創価の三代会長が、自ら、大難を受けきって教えてくださった、仏法の真髄なのだと思う。
 
 私の生命に灯ったこの信念の珠は、まだまだ小さなものだ。これからこの珠にもっともっと磨きをかけねばならない。苦しみの中を学会正義の信念を貫いた人だけが、栄光の勝利を手にすることができる。どの人も一旦は谷底に落とされ、魔の試練を受け、そこから這い上がっていかねばならない。大事を成す人には大難大魔が競うというのも、ある意味、道理ではないだろうか。そうであるなら、大きな苦しみと戦う人こそ信念の強き、使命深き仏の人だと思いたい。

 私もこの先、何があろうと、この信念で難を乗り越えていく決意だ。そして信念の持つ力の偉大さを、私の立場で、現実に証明していかねばならない。

 信念のある人は、苦労が多くても美しい人生を生きる人だ。そして最後はその苦労さえも黄金色に輝く時が来るに違いない。逆に信念なき人は、世間的に華やかであっても、最後は虚しさの中で一生を終えるのではないだろうか。その人が何を求めて、何に命を捧げて生きていくのか・・・どの人もその一念で、人生も最後の臨終さえも決定していくに違いない。

 妙法をたもち、池田先生との師弟を求めて生きる、その不動の信念に生き抜く人こそ、「仏」であり、最高の「価値創造」を成しゆく人なのだと私は確信している。






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2017
10.03

ブラボーわが人生

Category: 徒然の記

 聖教新聞には、「ブラボーわが人生」と題して、信心のベテランの方の体験談の連載がある。いつも私はこの連載を楽しみにしている。それは人生の年輪、信心の年輪を重ねた人の言葉には、重みと温もりがあるからだ。そして山あり谷あり、波乱の体験に裏打ちされた、信心に対する確信が溢れている。そこにはいささかの迷いもない。

 今朝もまた九十二歳のおばあちゃんが出ておられたが、「おばあちゃん」と呼ばれることをよしとしない、青年の心の人である。

「食べ物はろくにねえ、借金がある。辛くって先輩に泣く泣く相談したんだ。「山田さん、1日や2日寝なくったって死なないんだよ。題目あげなさい」。線香を何本燃やしたかわからない。

「だけども、たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ。」

「結局、苦労がなけりゃあ、信心もわかんねえさ。池田先生とめぐりあえばこそ、今の幸せがあんだもん。」・・・


 次々と確信の言葉がほとばしりでる。まさに市井の庶民の幸福博士、哲学博士だと思う。

 この方は苦労が大事だと教えてくださっている。仏法は頭の先の方で、少し考えたぐらいのことでは到底わからない。現場でまた生活で、辛酸を舐めながら、苦労しなければならないということだろう。仏法は智解ではなく信解だと説かれる。自分の知恵で観念観法したところでしれたものだ。かえって仏法を小さく考えるぐらいがオチなのだろう。

 そのことを思えば学会はありがたい。次々と戦いのステージがやって来る。昨日まで寝ていた人も、新しい戦いに参戦して陣列に加われば、そこからすぐに境涯は開いていく。現当二世なのだから、過去は問わない。

 法戦であっても、やりきらないと、本当の功徳はわからないと思う。なんでも中途半端では掴みきれない。戦いきった人だけが、厳たる功徳に浴せる。やらない人の批判には現証が伴わない。私は、外野から批判をする人より、先頭に立って、背中を見せて戦う人を見ていたい。第一、気持ちがいい。私もそういう人であろうと、自分に言い聞かせている。

 先日は、地方選の候補夫妻と、三十件ばかり、内外のお宅を訪ねて歩いた。残念なことに、昔に比べて、塩をまかれるようなこともない。どなたも友好的である。夜になって帰宅したが、戦いきった一日は、気持ちも清々しい。ご飯も美味しい。(笑)「御本尊様、池田先生、今日も戦って参りました。」そう仏前に端座して報告申し上げる。

 祈祷抄には、「行者は必ず不実なりとも・知恵はおろかなりとも・身は不浄なりとも・戎徳は備えずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ」と仰せである。

 ありのままの汚れた自分でいいと仰せである。御本尊を強く信じて妙法を唱えていけば、それで幸福になれる信心だ。難しいことなど何もない。そうしない人があれこれと迷うのだろう。仏法を根本に真面目に生活と取り組み、学会同志と連帯し、師弟不二で実践すれば、それが幸福への最高の道である。

 題目を高らかに唱えれば、体内の熱い血が燃える。そして前進する勇気と希望が湧く。逆境にあって、やる気と負けじ魂が出る。そしてそこから痛快な逆転劇が始まる。

 焦らなくとも、不安に思わなくても、必ず最後は信心しきった人が、学会員が勝つのだから、心配は無用だ。「僕が仏?最高だなあ」「君も仏、未来は明るいねえ」そう互いを励まし朗らかに生きれば、体の細胞も自然と若返り、健康になっていく。明るい心になれば、不幸も寄り付かない。そこから勝利の道が開いていくに違いない。

 この方の言われるとおり・・・「たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ」

 今日はこの素晴らしい言葉を味わいながら、終わりにしよう。






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2017
09.29

帝釈変じて鬼神となる

Category: 信心

 一般的に、人間関係の苦しみというのは、「相手が悪い、自分は悪くはない」という考えから起こることが多いのかもしれない。特に双方が互いにそう思う間は、溝は埋まらないばかりか、ますます仲が険悪になる場合もあるだろう。自分にも非があると思える時は、まだいいのかもしれないが、人はなかなかそうは思わないものである。

 私の地区の会員に非常に傲慢な方がおられ、その方がいなければ、どんなにかいいだろうと思った事がある。周囲の人もその人の振る舞いや態度に、私同様の思いをしていたこともあり、私も一方的に「相手が悪いのだから」と、思って見ていた。

 その人を訪ねたり、電話連絡をするたびに、嫌悪感が先に出て、相手とすぐに諍(いさか)いになりそうになる。相手も私への怨嫉が出るのか、水と油のように話がかみ合わない・・・世間でいうところの犬猿の仲であり、大げさに言えば「不倶戴天」の人である。

 命というのは、鈍感なようであって敏感なもので、こちらが相手を嫌えば、どんなに取り繕っても、相手にはこちらの本心が伝わってしまう。相手の仏性を信じ、尊敬しなければいけないというのは、頭でわかっていても、理性は往々にして本心に勝てないものだ。

 その怨嫉や憎しみを相手のせいにすることは簡単だが、それでその苦から逃れられるかというとそうはいかない。怨嫉は自分の生命の中にあり、相手というのは、縁にすぎない。その縁に触れるたび、私の命の中から怨嫉が噴出するのであって、ひとえにこれは自分の中の悪と言える。

 いつまでも変わらない状況に困りつつ、どう打開するか・・・自分の宿業としてとらえる他ないと、重い腰をあげたのは、かなりの年月が経ってからであった。

  以前、どなたかが、「相手が悪くても怨嫉した方に罰が出る」と記事に書かれていた。そうであるなら、私にも罪は十分ある。地域でその方は副支部長職ももっておられ、「同志誹謗」と言われてもやむをえない。

 私も前の記事で、人を嫌う「怨嫉」が「変毒為薬」して、人を愛せるようになったと書いた。そう書いたのには、実はこの人のことも含まれている。結果として、私はその人への怨嫉を宿命転換して、相手の幸せを深く祈れるようになったのである。

 御書には「雪山童子」(松野殿御返事)の物語がある。その人への怨嫉があらかた消えてみると、まさにその人は鬼神となって、私の信心を試したのだと思える。私の中の「怨憎会苦」(うらみ憎む者に会わなければならない苦しみ)や「怨嫉」の宿業をあぶり出し取り除くために、また私を真の「不軽菩薩」へと育てんがために、その人は私の前に現われたのだと、理解できるのである。

 もちろん私は雪山童子ほど素直ではなかったし、命を投げ出したわけでもない。しかし、喘ぎながらもそこから逃げずに、双方の怨嫉を我が宿業ととらえ、信心で乗り越えようとした。そして今、私は自分の怨嫉という悪に、勝ったのだと感じている。

 どなたにも人間関係において、「この人さえいなければ」「この人だけは憎い」と思う人がいるかもしれない。そんな時、相手を責めてみても何も変わらない。しかし、自分の業としてとらえ、信心に励めば、必ずその宿命を転換することができる。そして「この人がいてくれて、本当に良かった」と思える時がくるのである。

 病にしろ、経済苦にしろ、自分に襲い掛かってきた宿命は、信心の眼があれば、帝釈が鬼神となって信心を試し、その人を幸福になさしめんとする働きに見えるものだ。そこに気がついた時から、自身の生命の変革は大きく進むに違いない。

 そうであるなら、すべての出来事に感謝し、前を向いて生きるべきであり、決して何があっても悲観してはいけない。信心が楽観主義との意味もそこにあると思う。

 結局、我々凡夫は、悪しき宿命や煩悩などといった、持てる不幸を使い、「一生成仏」へと向かうのだ。断じて我が身の不幸を嘆くことはない。不幸の大きい人こそ、永遠の幸福を獲得できる条件を備えた、有り難き人と思いたい。

 怖い形相をして現れた鬼神に、「君は本当は帝釈だね。僕の宿命転換のために、わざわざ鬼神となって出てきてくれてありがとう。」そう元気に、声の一つもかけていこう。きっと帝釈も「善き哉、善き哉、あなたは真の菩薩。負けずにこの試練を勝ち越えて見なさい・・・」 そう微笑み返すだろう。

 そんなことを思いながら、私は今日も、自身の厚い宿業に挑戦している。






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