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2019
10.07

自力の信心

Category: 未分類
 
 
 信心は自分に起こるすべての苦難に対し、自分自身が変革することで勝利していくことを教えています。世間では苦難を避けたり、まわりのせいにする考えも多いと思いますが、信心の世界はどこまでも自分自身に原因を求め、自分を変えることで環境世界を変えていくという、信仰者に自己変革の主体性を持たせる哲学だと言えます。

 その意味でどこまでも信心で自分を強くしていく・・・周りに甘えず自力で人生を切り開いていく・・・そんな人間を目指すものです。信心したての頃は「御本尊様に何とかしてほしい」という、どこか他力本願的な祈りであったりもしますが、信心に確信を持つことができれば、自分で一人立ち、自分の力で戦うのだというその一念で御本尊に向かっていくのではないでしょうか。「どんなことも自分で解決するのだ」・・・その心こそ人を頼らない丈夫の心だと思います。

 本来、御本尊というのは自分の生命のことなのですから当然と言えば当然です。しかし、自分の信心を振り返っても、どこかそういう他力本願的な甘ったれた考えがあったように思います。そんな時は「信心していれば何とかなるだろう」という、一種、逃避に似た無責任な考えに陥りやすいものです。ところが今は、「自分の信心でつかみ取るのだ、必ずこうして解決して見せるのだ」という、強い決意と確信で戦えるようになりました。


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 少し話は変わりますが、聖教新聞には病気のお子さんを持つ人の体験が良く出てきます。そこでは多くの方が「この子に信心を教えられました」ということを語られています。そうなるまでには愚癡も出たり、また暗い心で悩まれたりもされたことでしょう。誰しも「どうして自分だけがこんな目にあうのだ」といった、まるで自分のせいではないような心が出るものです。それを自分が作った宿命だと真正面から捉え、御本尊に懺悔し、この信心で絶対に乗り越えていこうと決意した時、きっと何か変化が起こっていくのではないでしょうか?

 自分の周りの環境というのは、自身の生命が鏡に映しだされたものだと説かれます。自分の生命が歓喜と感謝の生命へと変革していけば、自分を取り巻く環境も歓喜と感謝の世界へと転じていきます。同じ環境であっても、穢土なのか、寂光土なのか、それは自分の生命の境涯で決まります。

 子供が病で苦しい・・・そのことでこの世は穢土だと思っていたのが、信心によって子供に感謝し歓喜の世界へと転じていった。それによって穢土が寂光土へと変わる。自分が変わることで宿命転換を果たしていくなら、「人間革命」」とはつくづく素晴らしい言葉だと思います。そして宿命転換のキーワード・・・それは「感謝」ということではないでしょうか。自分に与えられた苦難に感謝するとき、人間革命の光はいや増して輝いていくことでしょう。

 池田先生は「幸せだから感謝する」以上に「感謝するから幸せになる」と教えてくださっています。無慈悲で恩知らずな自分がどうすれば感謝の世界に入れるか・・・「南無妙法蓮華経」を唱え、学会活動に励み、生命を仏界に染めあげていくしかない、そうやって仏となれば歓喜と感謝に満ちた世界へと移り住める。それを信じていきたいものです。

 臨終の時まで信心を貫き通し、「一生成仏」を果たすなら、三世永遠に仏として生きていくと言われます。三世の幸福を思えば、今世の数十年の苦労など一睡の夢のようなものです。ゆめゆめ退転なきように、人を頼らない自力の信心で一人立ち、これからも精進していきたいものだと思います。




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2019
07.09

土佐は高知の善き婦人

Category: 未分類

 今回、兵庫の法戦は厳しい戦いとなっていますが、そのこともあり全国から多くの方が支援に入ってきてくださっています。地元出身の方であったり、かつてこちらで働いていた方など、私の田舎にも遠く、九州や関東から縁故を訪ねてきてくださいました。

 そんな中、先日も高知から電車やバスを乗り継ぎ、外部の友人の方の案内で、私の地元にこられた3人の婦人がおられます。案内された友人の方とともに、昔、この田舎で一緒に働いた仕事仲間だそうです。その案内役の方と私が知り合いだったもので、「ここも学会さんやで」と私の家へと案内され連れてこられました。



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 突然の来訪で、私も草刈り作業で外にいたもので、その場で立ち話するのが精一杯でした。地元の学会員に出会ってうれしかったのか、皆さん饒舌で大いに話が弾みました。3人ともご高齢ですが大変お元気で、ある婦人からは、「私は信心60年です。高知に来て私の名前を言ってくださればすぐにわかります。○○国会議員ともお茶を飲む間柄です。高知に来たらぜひ訪ねてください。」と熱く言われました。

 見知らぬ学会員同士であっても、生命の奥底で結ばれているものです。出会った瞬間に妙法の縁が薫発し、そこに忽然と道が現れるがごとく、心と心が通い合います。私もその時は、長靴に野良着、麦わら帽子といういで立ちでしたが、(笑) 何の衒(てら)いもなくすぐさま意気投合しました。時間があれば、信心60年の山あり谷ありの歩みを聞かせていただきたいと思ったほどです。これはいつか高知へと車を走らせなければなりませんね。(笑)

 妙法では「異体同心」と説かれます。同心であればすぐに心は溶け合います。距離も時間も地位も年齢も関係ない・・・家族のように相手のことを思いあえます。同じ学会で広宣流布を目指し、師弟の道で「妙法」を唱えている連帯というのは、世間の付き合いよりも深く純粋であり、仏界という不思議な世界で往来できるのです。

 仏法のそうした世界を知らない世間の人たちは、やれ学会は衰退しているだの、内部で分裂しているだのと評論家のように好き勝手をいうものです。しかし、私はそうは思いません。数は少なかろうと、一人二人とこの異体同心の紐帯をつなぎ合う限り、学会は消滅することなく続いていくことを信じます。その清らかな世界に住すれば、世間の見立てなど、肝心のところを何もわかっていない浅はかなものだということがよくわかるのです。

 「師弟」の世界も同じです。師弟に生きるということを知らない人はそんな世界などないと思うものです。しかし、その世界を知り、そこに住する人にとっては、厳然とその世界があることがわかるはずです。同様に妙法に説かれる仏界もまた同じでしょう。目に見えないそうした不思議な世界に住し、汲めども尽きない功徳を味わいながら生きていける・・・それこそが信心する者の特権です。

 妙法は生命の法則であり、人々が最後にどうしても希求せざるを得ない生命哲学です。それはこの宇宙や人間の生命の本質までを正しく説き明かした哲学だからです。人を不幸へと貶める魔を打ち破っていく力、生きとし生けるものが幸福と平和を創造しながら生きていく力・・・妙法がその力の本源であるならば、それはどなたも欲してやまないもののはずです。

 その意味で、私は学会が途絶えるなどということはない、求道の人がいる限り仏はこの世に現れるのであり、仏法と言ってもどこか虚空の彼方にあるのではない、信心する人の生命にその姿を現すに違いありません。

 日曜日の先生の詩には、「戦い続ける人が青年」とありました。「もうこれで良い」などというゴールはありません。人間である限り、戦って戦って生きぬいていく。永遠に地涌の菩薩として戦い抜く生命であることを覚悟する。高齢であっても戦うことをやめない土佐の高知の婦人達のように・・・そうした強き心の人となって、私も地域に一人立ち、創価の大道を邁進していきたいと思います。


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2019
06.20

頭は妙・・・足は経。

Category: 未分類

 御義口伝には「妙法蓮華経」の五字を
 人間の身体に即して説かれている。
 「経」とは「足」にあたる。
 いわば広布のために行動してこそ、真の妙法の実践となるのだ。
 学会活動は、動けば動くほど、身も軽くなる。心も晴れやかになる。
 功徳もある。仏になれる。
(6月9日付聖教新聞・四季の励まし)

 
 このご指導通りです。座して思索をするよりは行動です。この体を大地に投げ打って活動に歩く実践ほど、楽しく生命力が湧くことはない。もし信心が停滞したり行き詰っているというなら、自分が活動し、行動しているかを問えばいい。逆に言うなら、行動によって必ず行き詰まりは打開できます。歓喜と生命力が湧いて解決しない悩みなどはありません。

 法戦の最中ということもあり、私も連日、対話に励んでいます。折伏なら相手をしっかり決めての対話になりますが、公明支援ならそれほどハードルは高くありません。日ごろ、顔みしりの方であれば、どんどん語っていけます。また顔見知りでなくても、気軽に話かけることも私はよくします。語った分だけ生命力が湧いてくるのですから、足で歩き、口で語ることが仏法だということがわかってきます。

 時には自分の対話力、外交力の未熟さも感じます。素直にこちらの候補に賛同してくだされば対話は楽ですが、そうでない場合の対応力、振る舞いも求められます。中には辛らつに公明批判を返してくる人もいるでしょう。

 それでも相手の意見を聞き、学ぶことも大事です。「公明党のどこが悪いですか?意見を聞かせてください。」「地元の議員に伝えますので、お困りのことがあれば教えてください。」等々・・・相手にしゃべってもらい意見を主張してもらうことで、話が一方通行から相互通行になり、心が通い合います。そこにお互いを理解しあう道が生まれます。

 主義主張は違えど、「あの人は信念があるな」「さわやかだな」という印象を相手に残すことも大事だと思います。公明党支援者=創価学会員と世間は承知しているのですから、最後はこちらの人間性で、相手が学会を理解することもあるわけです。その意味では、支援と言っても折伏です。学会の看板を背負って活動に歩くわけですから、非常識だったり、何かと口論するような振る舞いでは、相手は学会とはそういうものだと思うことでしょう。


 人の見ていないところで、表面に出ないところで
 100%頑張れる人が、偉大な人である。
 だれが見ていなくとも戦った足跡は、我が生命に厳然と残る。
 御本尊が全てお見通しなのである。

 世界広布は決して遠くにあるのではない。
 自分の足元にあるのだ。
 ゆえに今、ここで勝つ事が勝利だ。
(同)


 妙法蓮華経は人の身体に即しています。頭は妙、喉は法、胸は蓮、腹は華、そして足は経・・・ならばこの体を仏法のために捧げるなら、凡夫の身が妙法蓮華経となることでしょう。汚泥にまみれたこの身が妙法蓮華経となるのですから、そうなればほかに何がいるでしょうか?妙法を信じ、足で行動し、口で仏法を語る。それで仏になるのですから、勇気さえあればできることです。
 
 さあ、重い腰をあげて(笑) 心を入れ替えて軽い足取りに変えましょう。そして自分らしく、自分の足で広宣流布の戦いに打って出ようではありませんか!今までにやったことのない戦いをやろうと私も決意しています。愚癡を吹き飛ばし、福運あふれる人生をともに切り開いていこうではありませんか!



 

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2019
06.13

王家の人と長者窮子

Category: 未分類


 先日、高校時代、同じクラスだったT君に実に40数年ぶりに会いました。T君は学会2世で、創価大学を出た後、日本でも有数の大企業に就職、最後は社員1万人を超える部門のトップにまでなった人です。テレビや雑誌などでも紹介されたこともあり、社会での実証も申し分なく、社会人としては超一流の人といっていいかと思います。

 一方、私はと言えば、真言宗の家に生まれ、高校時代、創価学会の「そ」の字も知らず、高校を出てからも「真言亡家」のままに他国を放浪し、何の目的観もない青春を送り、精根尽き果てて創価学会に拾われました。入会後もこれまた思うにまかせない難行苦行の道の連続で、近年になってようやく信心に目覚め、わずかばかり確信を持つにいたった、いわば「長者窮子」のような人間なのです。



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 そんな二人が、同じクラスだったということで、ある人の計らいで会うことになったのですが、T君は同じクラスだったにも関わらず、私のことをまったく覚えていなかったのです。そのこともあり話があまり弾みませんでした。

 私が入会後、調べるうち、同じ学年で学会員だとわかったのはわずか三名で(他にいるかもしれませんが)、T君と会ったならば、その稀有(けう)なことを讃えあって、さぞかし感動するだろうと、私は思っていたのです。

 もちろん私が二人の再会に期待をしすぎたのかもしれません。しかし、なんとなくその後、その出会いを思い出しても私は楽しい気持ちになれないのです。立場は違っても学会員同志であるならば、もっと響き合い喜び合うものがあってもよかったのではないか?それが二人の間に生まれなかったのは、なぜだろうと思うのです。

 T君と私の住む世界があまりに違ったせいか?あるいは40数年ぶりという空白の時間がその原因なのか?いずれにしろ、T君の生命は私との出会いにさほど感動はしなかったように思います。

 池田先生が言われるように、信心の世界は地位や名声は関係ないはずです。それらは身を飾る鎧(よろい)のようなものです。T君の鎧が立派で、私は鎧も兜も持ち合わせていない・・・そうした立場の差があっても、生命の次元では平等です。またお互いのその時々の外面の姿は仏法の眼で見るなら、すべては「願兼於業」と言えるものです。

 富や名声、貧乏や病気、そうした衣装をすべて取り去った裸の生命・・・それがその人の本性であり、煎じ詰めれば「仏の生命」です。その仏の生命で感じ合えれば、お互いの差異を越えて、信心の熱と熱で、生命は瞬時に感応できるものだと思います。


 あとで少し感じたことは、T君がより世法面を重んじた信心をしてきたのではないかということです。一方、私はブログに書いているように、人の生命が仏の生命であるということに、常に焦点を当てて信心しています。外に開く信心と内に掘り下げていく信心といえるかもしれません。どちらも間違いではないのですが、そうした違いが、二人の信心にあるのかもしれないと思いました。

 もちろんこれからも交流が続けば、私も望むところです。その時には、お互いの鎧兜(よろいかぶと)を取り去って、地涌の友として忌憚のないお付き合いをしたいと願っています。

 T君は創価の王家の人間であることを忘れずにいた・・・私はすっかり謗法の酔いが回り、そのことを忘れきって、貧民となって諸国を放浪してきた・・・とそんな風なとらえ方もできると思います。しかし、どちらも元は王家の人(仏の生命)であることに変わりはありません。創価家族という言葉がありますが、私はT君と会って、ただその一点を確かめ共有したかったのだと思います。

 その夜、地元に帰り、いつもの地区の皆さんと勤行をしながら、私は安心していました。また明日から私はこの人たちと一緒に生きていくのだ。貧しく名もなき人たちの輪の中で、私自身も「長者窮子」の一人として、一生成仏を目指していこう・・・と。私は私を生きるしかない・・・そのことを喜ばねばと思います。



参考:長者窮子の譬え
    長者とクージ


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2019
06.06

法戦について思うこと

Category: 未分類


 6月に入りました。今年もすでに夏日のような暑い日もあり、猛暑の夏の気配がします。近年は地震や豪雨・台風などの大きな災害も起こっており、朝夕のご祈念で災害のないことを強く祈っていきたいと思います。

 今、参院選に向かい、自身の宿命転換を賭けて戦っておられる多くの同志がおられます。私もその一人ですが、戦える場所があるということは本当にありがたいことです。中には選挙戦が憂鬱だという方もおられると思いますが、やらされるよりはやる方がずっと楽しいものです。自分で「さあ、やろう!」と決めて私も挑戦しています。

 私は昔は法戦は好きではなかったのですが、積極的にやってみますと功徳が大きいことを知りました。これはある意味、新鮮な驚きでした。ですから言葉は悪いですが、今では法戦を利用して大いに功徳をいただこうという気持ちでやっています。また何故、法戦を戦うのか?その意味も自分なりに学び、少しは理解できるようになってきました。

 とはいえ、信心するために学会へ入ったのにどうして公明党の支援をするのかというのは、多くの方が一度は持たれる疑問ではないでしょうか?

 一言で説明することは難しいかもしれませんが、よくそのことを説明するのに「王仏冥合」という言葉が出てきます。池田先生は「人間革命」の中で次のように述べられています。

「王仏冥合とは、政治の根本理念として、大仏法の思想を置くことである。豊かな土壌には、沢山の作物が実り、草木が繁茂する。痩せた土地には、発育不全の貧弱な作物しか取れない。政治でも、経済でも、芸術でも、大切なのは、その基調となる思想である。思想には、高低・浅深が必ずある。」

 「冥合」とありますので、根底・源を同じくすると言う意味なのかと思います。政治や文化、芸術・・・あらゆる人間の営みの根底に仏法の精神、すなわち一切衆生を幸福にするという慈悲をもっている。それが創価学会のあらゆる運動だと思います。文化と仏法も冥合し、経済と仏法も冥合します。それにより世の中が有意義な価値であふれ、人々が大いに幸福を感じる。公明党も政治の分野において、仏法と冥合して存在し、大衆の幸福のために活躍してもらわねばなりません。

 思想哲学と言っても高低浅深があり、どんな思想をもつかによって政治のありかたも違ってきます。日蓮大聖人の生命哲学を根本に持つならば、それは大衆の福祉を目的とするでしょうし、制度や法案によって光の当たらない弱者を救うことを目的とした政党となるでしょう。現に、そうした声に耳を傾けて、公明党は活動してきたと言っていいと思います。

 そうであるなら政治家の活動は本来、菩薩行です。公明党の議員が信仰をたもち、菩薩の心、慈悲の心で政治の世界で働き、仏法を世の中に還元しゆくならば、その存在は「立正安国」と「広宣流布」に直接、貢献していくものになるに違いありません。

 優れた宗教を実践しているからこそ、正しい人生観、人間観を体得でき、その人たちが世の中を良い方向へと導くことができる。その意味で仏法を実践する信仰者が政治に関わっていくことは、国益になっていくものと確信します。逆に何の正しい思想、目的観を持たない人達が政治を行えば、世の中が混乱し、大衆が不利益を蒙ることは、これまでの歴史が証明しているところです。

 よく世間では学会をすぐに「政教一致」という風に決めつけますが、決して学会は政治と宗教を混同したり、国家=宗教(創価学会)などにするというものではありません。あくまでも仏法をたもった人々が政治に参画していくということであり、それは信仰を持った人たちの人権という意味でも保障されなければならないと思います。当然、学会以外の人たちの信仰の自由も保障されるべきです。

 池田先生は「創価学会イコール公明党といったような、そんな狭量な考えであってはならない。政治だけが学会の活動分野ではない。社会のすべての面を革新しきっていく決意がなかったならば、最高の正法を根底にした文化国家は建設できない。」と言われています。

 池田先生の目的は「正法を根底にした文化国家の建設」にあると言われています。法戦だけが戦いでもありませんし、政治も世の中の一分野です。もちろん選挙屋なんかになる必要もない。社会のあらゆる分野で、また自分の今いる場所で、一人一人が地道に人間革命に挑戦する姿こそ学会員の本来あるべき姿です。

 そして、あの地でもこの地でも、桜梅桃李の個性豊かな花を咲かせゆく・・・それが総体革命となり、幸福社会が出現する。それなくしては文化国家の建設も絵空事です。そこにどこまでも個人と社会の平和・幸福を願い創造しゆく、仏法の目的があると思います。

 この度の法戦も、私たちの同志から立派な議員を輩出して、民衆に貢献してもらうのだ・・・そのことを祈りながらの支援でありたいと思います。また議員も常に「民衆」という原点を忘れず、戦い続ける人であってほしいと思います。

 個人の戦いも、公明党の選挙の戦いも、その目的は「立正安国」と「広宣流布」です。そこを忘れれば、何のための支援か、何のための信心か見えなくなってしまいます。日蓮大聖人の民衆救済の御心をわが心に感じて、広宣流布のためにこの身を燃焼させていきたいと思います。




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