2017
09.04

紙に書いた一本の線

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 学会員が熱心に池田先生との師弟に生きている姿を見て、「あなた方は御本尊信仰ではなく池田教だ」と揶揄する人がいる。私も池田先生との師弟を根本に信心を学び、実践しており、そのことを記事にすることも多いので、そう思われることもあるかと思う。

 しかし、実際の自分の生活を見てみれば、決してそうでないことは明らかである。朝夕、一番に端座して拝するのは御本尊である。池田先生を慕う熱心な学会員の方ほど、題目第一を心掛けているのであり、さらに折伏、家庭訪問、会合など仏の使いである活動が、信仰の主軸になっている。

 その合間に御書の学習や「人間革命」の研さんなど、教学にも時間が割かれる。昔、私の先輩が池田先生にお会いした時、「教学が苦手でよくわからないのですが?」と質問したところ、「小説「人間革命」の中に、全部入れておいたよ。」とお答えになられたそうだ。聖教新聞にしても、「人間革命」の学習であっても、それらは仏法の研さんに通じており、体験談も仏法の偉大さを知る、生きた教学だと思う。

 これら学会員の生活を見ても、決して、「御本尊」や「御書」を軽んじているとは言えないのであり、「池田教」などという言葉は的外れである。大半の学会員は生活を抱えて仕事に励み、子育て、主婦業に励まねばならない。みんな忙しい中を空いた時間を工夫して、少しでもの思いで「行学」に励んでおられる。本当に尊い姿だと思う。一遍の題目に、けなげな心に功徳があると言われる。決して時間や量だけで、また教学の浅深で、信心を測ってはいけないと思う。

 私自身、池田先生を「信行学」においてこの世で一番の人であり、誰よりも尊敬申し上げている。そして先生との共戦の一念をもって、御本尊様に向かえば向かうほど、信心は良くなり、功徳が出ることを知っている。

 ネットなどでの信仰上の意見の対立を見ても、結局は池田先生との「師弟」を根本にできるかできないか、その違いだと思うことが多い。それは一念のわずかの違いのようであるが、いつか天地雲泥の差となって現れるだろうと、私は見ている。

 自分だけの修行や智慧ではタガが知れている。頭のいい人と悪い人とどれだけの差があるかと聞かれ、戸田先生は「紙に書いた一本の線の上と下」と言われたそうである。それならば頭の悪い私であるが、卑下することはない。(笑)

 「広宣流布」という仏の一大歯車に、また池田先生という人格の偉大な歯車に、自分の小さなギアをかみ合わせれば、宇宙大の大きな軌道に乗ることができる。駿馬にとりつく青バエは、千里、万里を悠々駆ける。何の立派さもないコバエのような私が幸せになるには、これしか方法がないと、その点は素直に認めよう。(笑)

 池田先生も、入会時、日蓮仏法のことはよくわからなかったが、戸田先生という人を信じてこの世界に入ったと言われた。戸田先生の一番弟子である池田先生が、戸田先生直伝で信心を学び、仏法を悟られたことは当然の結果であり、それゆえに「仏力」「法力」を得て、未曽有の広宣流布を果たされた。その現証により「仏意仏勅」の団体といえるのだと思う。

 戦中の牢獄で死身弘法の振る舞いを貫かれたのも、創価の師弟である。そこに御本仏の信頼と血脈が流れていることは、火を見るより明らかではないだろうか。軍部の圧力に屈し、神札を受け、御書を削除したのは宗門である。大御本尊という宝を持っていても、振る舞いが謗法では血脈も途絶えるに違いない。

 いよいよ世界宗教、民衆仏法にふさわしい体制となるために本部も前進している。我らも学会員であることを無上の誉とし、常に青年の息吹をもって、日々の戦いに、精進していきたいと思う。




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2017
08.14

一人の「不軽」となって

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 信心は、私のように智慧も福運も乏しい凡夫のため、まさに庶民の味方と言っていいものである。仏法に無知であっても、我が生命を仏と信じて「南無妙法蓮華経」と唱えゆくならば、何処(いづこ)の地のどなたであれ、宇宙のリズムに乗り、歓喜と感謝の生活になっていくのであり、その喜びが万里の外から幸福を招き寄せる。

 私が学会で信心するのは、現証として自分が様々なことで、人間革命していることに手ごたえを感じているからにほかならない。そうでなければ、自分も信心に迷いを持つだろうけど、生活上に苦楽はあっても、信心に迷いはない。何があろうと大丈夫と、頼もしくやっていけるのである。

 「大御本尊を受持しないものには幸福はやらんぞ」などというのでは、実に心の狭い意地悪な仏ではないだろうか?逆縁であれ、謗法であれ、一切衆生を救いたいのが仏であり、まして題目を唱え、心で求道する人であれば、喜んで功徳を差し上げましょう・・・それでこそ広大無辺の仏様の慈悲だと思う。

 「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れ偏に末代の今の世を表するなり(御書1472㌻)」

 愚鈍で人からも馬鹿にされたであろう須梨槃特(すりはんどく)は、師弟の道を一心に貫いて成仏し、膨大な経を知っていた提婆達多(だいばだった)が仏に背き、無間地獄に堕ちたことは、信心を考える上で大事なことだ。普通は教学に詳しい人に会うと、「へえ、すごい人だなあ」とつい尊敬もしたくなるが、それは信心の深さとは同じではないのだから面白い。またそこに教学の知識がある人が、増上慢となって退転する落とし穴もあるのだと思う。

 教学の話で対応できないからといって、人を馬鹿にするようでは、「どの人も仏である」という仏法の基本も知らず、かえって人から尊敬をされない増上慢の人だと言っていい。そんな人に自身の宿命と戦いながら、けなげに信心に励む人の気持ちなどわからないだろう。

 信心は「信と不信」の問題が根本であり、それに「焼きもち、憎悪、怨嫉」といった心の問題がある。人を見てそこを見抜けば、たぶらかされることはない。学会の婦人部の方々などはそういうところは、実に鋭い。(笑)

 池田先生は随筆「我らの勝利の大道」の中で次のように言われている。

「教学ができることと、信心があることとは、そのままイコールではない。これまでも教学を得意にふりかざしながら、退転したり、反逆した愚かな増上慢が出たではないか。        
(中略)偉大な信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはき違えては、絶対にならない。」
と・・・

 名もなき庶民であっても、地道に唱題・折伏に汗を流す人が実践の教学を知る人であり、御書を身で読む人だと思う。現場での実践をおろそかにして、信心を理屈だけでわかったと思う増上慢の人になるなと、私も自分を戒めたい。

 人を批判し、腐すことばかりやれば、やがて自身の仏も冥伏し、生命は枯れてゆくだろう。逆に人間の生命を仏と信じ、賛嘆しゆけば、おのずと自身が輝いてくる。魔は人ではなく、その働きであるといわれる。ならば、その働きを責め、その人の悪を取り除くことは、その人を救わんがためでなければならない。

 幸福を目指すなら、まずは自他共の仏の生命を尊敬し、讃嘆できる自分へと境涯革命することがその一歩だと思う。それがこの仏法の平和と幸福への方程式であり、智慧である。私も一人の不軽菩薩となって、使命の道を歩いていかねばと思う。




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2017
06.17

格言に学ぶひと時(SGIグラフより)

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今朝は聖教新聞と共にSGIグラフ7月号が届きました。今月は池田先生の素晴らしい写真に、世界の偉人の言葉が添えられています。それらの言葉を一つ一つ味わいながら、私もしばし思索の時間を過ごしました。

 格言をいくつか拾ってみますと・・・

「汝の心に教えよ、心に学ぶな」   レフ・トルストイ

「私たちが一日一日やっていることが、歴史である」 ホセ・マルティ

「友がいれば、世界は日々生まれ変わります」 ヘレン・ケラー

「嵐のあとにも青空が、もどってくることを、信じつづけなくてはね」 マリー・キューリー

「小さな障害は、笑いの種だと思い、大きな障害は、勝利の前兆だと考えられるようになったの」 L.M.モンゴメリー

「ほんとうの祈りは、あなたがなさっているように、行動しながらする祈りなのです」 ロマン・ロラン

「どの人が特別、偉いなどということはない。自分を一生懸命生きている人は、皆偉いのです」  (感化を受け、私も一つ書いてみました。(笑)



 生きるうえにおいて、確固たる哲学と信念がないことほど、むなしいことはない・・・私も今、そのことを深く思うようになりました。これら偉大な哲人の言葉は私たちの人生を深め高めてくれます。ベートーベンの言葉に「私は格言によって養われた」とあります。こうした精神世界へと自分が入っていけるのも、「妙法」を信受した功徳であり、幸福や人生を考える上で、一つの道しるべになると思います。

 今夜は座談会ですので、地区の皆さんにもSGIグラフを紹介し、みんなで写真と格言の一つも味わいたいと思います。

 選挙前ですので、活動体験や都議選の話もあります。しかし幹部さんが選挙の話だけで座談会をやるような発想ではいけないと思います。心を豊かに高めあい、みんなが「来てよかった」と思える歓喜と感動を分かち合える場にしたい、仏法の会座である以上、ありのままざっくばらんな中にも「蘭室の友」の交わりでありたいと思います。

 仏法は宇宙と人間生命の営みすべてを包含しています。政治も経済もその一つにすぎません。選挙の支援に走る時にも、音楽を聞いたり絵を見たり、読書をしたり、そういうゆとりも大事です。それらは生命の肥やしとなり、人を潤し、向上心や活力となっていくものです。

 集まってくる地域の同志のみなさんが最近は笑顔に包まれることが多くなりました。「なんか地区が変わってきたね」・・・ある婦人部員さんが言っておられました。「あなたが変わったからではないですか?」と私が言うと、「そんなことはないわよー」とうれしそうに照れておられました。
 

 田舎の小さな地区ですが、ここが私の使命の天地です。御本尊様に、また池田先生に見守られながら、日本一元気に、皆さんをお迎えして開催したいと思います。






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2017
04.15

反転攻勢の心意気

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今年の桜は雨にたたられることが多かったですが、それでも花の女王らしく、鮮やかに咲いていました。私もゆっくり眺める時間はありませんでしたが、栄光の5.3へと向かい、躍動の季節がやってきたことを実感します。

 信心しているのに、なぜにこんなにも苦しまねばならないのか?そういう思いをもって宿命と戦っておられる人も多いのではと思います。本当に生命の奥深く、謗法の罪、邪宗の害毒というものがしみ込んでいるものと、私も身に染みて感じます。

 その意味で順風満帆な信心などないと言えますが、長い一生、最後まで退転せじと願い、妙法流布に生き抜いていく・・・そして必ず不退転の境涯となって、悩める人々の力になりたいと、そう思います。魔も必死に信者を弱め、信心を捨てさせようとするわけですから、負けるものかと反転攻勢の心意気を絶えず燃やし続けていかねばならないと思います。

 戦う以外に退転を防ぐ手立てはありません。御書を励みに、また池田先生に呼吸を合わせ、谷底から這い上がる思いで信心に励んでいく・・・それが本当の法華経の信者の姿であり、多くの学会の方々の姿ではないかと思います。

 むしろ戦うべき宿業も難も出ずに、安閑とやってるようでは、かえっておかしい。吹き付ける北風に歯を食いしばりながら、宿命と抗い戦う人こそ、真の信者であり、やがて師子王となる人に違いありません。

 「佐渡御書」には、その地域に住んでいて、仮に地頭なりに支払いがたまっていても、そう強く取り立てられることはないけど、そこを出ていくとなると、容赦なく、強く返済を迫られる・・・私たちの法華誹謗の罪障消滅もそういうものだと、わかりやすい譬えで教えておられます。

 私など、今世で真言の家を出て、日蓮大聖人様の仏法に帰依しましたので、さぞかしきつく取り立てられているのだと思います。失業に貧乏、ノイローゼ、激しい神経痛に腎臓癌等々・・・罰も含め次から次へとよく出ました。信心に向かうほど、強い業が出てきます。またそのことを大聖人様は「護法の功徳力」であるとも仰せです。私も今、壮健で意気盛んな信者でいられることにその「功徳力」を感じるものです。

 難が起こった時にありがたいと感じるか、どうして自分だけこんな目に合うのかと思うか・・・一念は微妙ですが、そこが仏になるかならないか、「不信」と「信」の別れ道であり、魔は絶えずそこを狙っているのです。

 宿命と戦い、苦しんでいる人には励ましが必要であり、木が倒れないように支えるがごとく、ともに生きる同志の存在が必要です。私の周りにも、生活、人生のどん底で苦しんでいる人が何人かおられます。ある婦人ですが、乳がんと心臓の病、また神経病を抱えながら、年老いた母親と生活保護を受けながら、細々と生きておられます。かろうじて生きておられる・・・電話越しの声にそんな感じを受けるときもあります。

 私はいつもこの人こそ幸せになってほしい、功徳を人一倍受けさせてあげたいと願い、励ましています。

 またそういう宿命の嵐の中を生きる人を決して、軽んじたり、さげすんだりしてはならないと思うものです。現にこの方も幹部さんの命令的な振る舞いに苦しんだこともあるようです。幹部さんといっても、本当に自分の宿命と泣き泣き戦って乗り越えてきた体験がなければ、私はこうした婦人の本当の苦しい心は理解できないのではないかと思います。

 学会は庶民の集まりであり、決してセレブや社会的な地位の高い人が上位に座する団体ではないはずです。難と戦う健気な信心の人が、中央でなければならない・・・仏様の目的は不幸の人を救い出すことですから、一番苦しんだ人が一番幸福になってこその創価学会です。

 苦難の日々の中にあっても、信心の珠が輝くなら、そこから世界も輝いていくはずです。どんな嵐の中でも黒い雲の奥には太陽が燦々と輝いている。「俺もひどいけどあんたもひどいのか・・・ひどいもの同士一緒に拝もう!」そう声をかけ、我が身だけでなく、友の不幸をも吹き飛ばす勢いで、戦っていきたいと思います。



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2016
11.22

題目だけが私の兵法

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 20日には任用試験が全国の会場で行われました。今回、私も内外3名の壮年、一人の婦人部の方のお世話をし、大白蓮華を元に日蓮仏法を研鑽いたしました。夜に2時間の勉強会を2度持ちましたが、皆さん、忙しい中、仕事でお疲れの中を我が家まできてくださいました。

 3名の壮年のうち、お二人の壮年は会友の方です。二人とも同じ村の出身の同級生、中学までは同じだったのですが、その後は別々の人生となり、数十年ぶりに任用試験の学習の場で顔を合わすという不思議なめぐり合わせとなりました。

 どんな地であれ、人に仏法を語れることほど喜びはありません。受験者とは日頃のお付き合いでその境遇を知っていますので、その機根に合わせて、宿命転換の大切さ、妙法の功力なりをお話いたしました。御本尊をたもって生きていかれるよう、これからも粘り強く対話していく決意です。

 当日、会場までの送迎も担当しました。一時間の試験の間、他所の婦人部の方と別室で題目をあげて待ったのですが、みんなの息も揃って、大変、気持ちの良い唱題会となりました。私は黒1点でしたが、婦人部の皆さんと心ゆくまで題目をあげさせてもらいました。

 ここにきて、題目だけが私の兵法となりました。題目一つですべてを切り開いていこうと決意しています。自身の幸福はもちろんの事、後継の人材を呼び出だすのも、地区の人々の幸せを祈るのも、すべては題目しかないとの思いです。
その心境で難事に挑みゆく人こそが、不可能を可能にし、一滴の露の姿のままで、法華の大海へと入ることを許されるのだと思います。

 昔は頭が重くて、題目をあげること自体が、とても苦しかった私ですが、それを思えば「六根清浄」の功徳を感じます。題目が30分、1時間と軽快に上がること自体、私にとっては素晴らしい「変毒為薬」であり、「人間革命」なのです。

 世の中で創価を批判する人はガンジスの砂の数ほどいるやもしれません。それに比べ、大功徳を得る人は爪上の土なのでしょう。学会員として功徳もつかめず退転していった人は功徳を知らないがゆえに、不信と批判とに終始するほかないのです。「知らないこと」と「無いこと」は決して同義ではありません。真面目に励む陰徳に功徳は厳然と出ます。

 学会で信心に励み、その功徳に浴す人はなんと幸福者でしょうか。苦難に耐えて、やがて妙法の軌道とがっちりギアが合えばどなたでも大功徳が待っています。多くの方をその幸福の軌道に導くために、私自身、題目を唱え、生命を磨き、その偉大さを体現したいものだと思います。

 題目一つでどんな未来が開けるか、いよいよ勝負と心得、暗き生命にも御前8時の太陽を昇らせながら、大歓喜で前進していきたいと思います。






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