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2020
05.19

光は闇に用なり

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 世の中全体がまだまだ暗い状況にありますが、必ずいい方向に向かうことを確信しつつ、一歩一歩着実に前進していきたいものです。

 私自身は楽観主義ですので、今の状況にあっても未来に対しても明るい世界を描いて生きています。なぜなら私には妙法があります。これさえあれば万事大丈夫だと信じているからです。

 本当の正しい宗教、哲学というものは、どんな時代状況にあったとしても、また絶望的な局面を迎えても、悩める人に希望を与え続けるものでなければならないと思います。

 環境と個人とは、「依正不二」の原理にある通り、密接不可分なわけですが、だからと言って時代が暗いと自分まで暗くなるのではやり切れません。その暗い状況を打破するために自分自身が明るく輝いていく、また生命力と智慧を発揮して困難な状況に負けないで環境をも変えていく・・・そうありたいものです。



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 その意味で日蓮仏法の灯り(あかり)は闇の中でこそ輝くものです。昼間の晴天の下でライトをつけても何の役にも立ちませんが、人が迷う暗闇の中では灯りほどありがたいものはありません。闇のような逆境の時こそ輝いて世界を照らす・・・その灯りを持っているのが学会員です。信心が強ければ煌々と輝き、弱ければ江戸時代の行燈(あんどん)のようなものかもしれません。中にはパットついてすぐ消える線香花火のような人だったり(笑)・・・それではいけません。

 唐突ですが、皆さんは悩みはお好きでしょうか?たいていの人は嫌いなことと思います。できるだけ悩まないで楽しいことがたくさんある暮らしをしたい、好き好(この)んで悩みや労苦の中に飛び込む人はいないかもしれません。

 ところがこの信心は悩みがないと幸福になれないとなっています。「煩悩即菩提」ですので悩みが悟りに転じ、大悪が大善に変わり、毒が変じて薬となります。まさに「変革」「転換」の宗教です。そして救いようのないひどい人間がまっとうで立派な幸福者になるのが「人間革命」です。その意味で私など誰よりも変革の条件を備えていると自負しています。最初はひどくていいのです。

 「願兼於業」といって、そのままで幸福なのに、あえて重い悪業を背負ってまで生まれるというのですから、これは本物ではありませんか。念仏などは、鼻から逃げることばかりを考えているのですから、所詮法力が違うというものです。

 だから信心するなら大いに悩めばいい。悩みには自分でもわからない深い意味があります。私も「どうして自分はこんなにうまくいかないのだ?いつまで苦しめばいいのだ?」と、長い間、悩み続ける日々を暮らしてきました。その業を恨めしく思ったものですが、ある時からは「これは案外、すごいことになるかもしれないぞ」「最高に幸福になるために大いに悩むようにできているのだ」と思えるようになりました。そこから悩みを楽しむ楽観主義の世界が開けたのです。

 信心があって悩みが深い人は、その意味で幸福になる条件を備えている人だと私は思います。だから悩み多き人に言いたい。「あなたこそ仏様から選ばれて成仏を約束された人です。うつむかないで胸を張ってください!」と。

 「あえて悩みの姿で生まれて「人間革命」して見せるのです。劇です。ドラマみたいなものです。」(青春対話第2巻)と池田先生は言われています。

 20年30年不幸を演じ、最後は大逆転で誰よりも幸福になるどんでん返しのドラマです。ですからすべてを御本尊様にお任せして、悩みに振り回されず、水の流れる如くに信心に励んでいけばいい。「最後は信心しきった者が勝つ!」と言われているのですから、その言葉を信じて「矢でも鉄砲でもかかってこい」との心境でやり切ってみようではありませんか!





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2020
03.30

蛟龍(こうりゅう)の淵に潜むは・・・

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 コロナウイルスの影響で国内だけでなく世界的にも大変厳しい事態となっています。今日(30日)も志村けんさんの訃報に接し大変驚いたところです。目に見えない怖ろしいウイルスが生活空間のあちこちに潜んでいるわけですから、当然のことながら誰もが感染のリスクがあります。それに対してしっかりした意識をもって行動しなければなりません。

 ニュージーランドだったと思いますが、「あなた自身が感染者だという意識で行動してください」と国民にメッセージを出したそうです。私もそれを聞いてそれがあながち大げさでない良いメッセージだと思いました。各人が今こそ冷静にまた賢明な行動、振る舞いで自他共の身を守っていきたいものです。

 学会においても会合はもちろん家庭訪問なども控えるようにとの打出が早くから出ています。折伏や家庭訪問など行動が信仰の大事な柱ではありますが、時を考えれば今は自粛することが賢明な振る舞いとなります。私もメールや電話などを活用し、また同志の皆さんとの同盟唱題などでコロナウイルスの収束、内外の方々の無事を祈っています。



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 先日の「わが友に贈る」でも「教学研鑽や読書に励み思索の時間を作ろう。今は力を蓄える時だ」とありました。今だからこそできることに挑戦する絶好の機会でもあります。この時間を無駄にしないよう、私も教学を中心に力をつけたいと思います。

 それにしても今の状況を見ていますと、「立正安国論」に説かれた三災七難の様相とあまりにも重なって映ります。大地震はもちろんですが、疫病が流行り多くの人が死んでいく状況もその通りです。その上、他国からの脅威、台風などの自然災害、慢性的な経済不況、高齢化社会、温暖化等々、鎌倉時代よりもより一層複雑で多難な時代に我々は生きています。

 「立正安国論」は鎌倉時代だけの話だと思っていたのが、どの時代にあっても座右に置くべき最重要の一書だということにまざまざと気づかされました。科学や医学が発展し、寿命も延び便利にはなりましたが、それが人の幸福感に必ずしも結びつかない・・・そこに境涯革命という人間成長の信仰が絶対に必要だということも痛感します。

 広宣流布が大いに進展した今日にあっても、いまだ謗法の衆生が充満する世界という構図に変わりはありません。諸天善神は法味をなめずして処を去り、娑婆世界は第六天の魔王が支配する世界です。それゆえ人の生命にも悪鬼・鬼神が乱れ入り人身は荒廃し、いじめや暴力、理不尽な殺人、麻薬などの事件が後を絶ちません。

 政治を見てもとても民衆本位とはいいがたく、相変わらず権力者や一部の上流者中心の政治が透けて見えます、私利私欲のために平気で嘘をつくような政治家・官僚がうごめく世界です。政治の乱れは必ず国土の乱れにも通じていくものと思います。そういうドロドロとした政治の世界を見れば若者がますます政治離れになることでしょう。公明党も権力を持つ自民党と連立を組む以上、不正に対し言うべきことはしっかり言わないと、与同罪の誹りは免れえないと思います。

 日蓮大聖人は、一国が正に背き不信謗法であるがゆえに国難ともいうべき大悪が起こると喝破なされました。「日本国に此れを知れる者、但日蓮一人なり」(御書200p)と仰せです。多くの人は謗法や邪(よこしま)な宗教が災いの原因だとはよもや思わない。しかし仏法は人が見ることができない根本からの因果を明らかにしています。そうであるなら、妙法をたもった我々学会員の国土の安穏と平和を祈る力がどれほど今大事か・・・全国津々浦々、学会員の唱題の師子吼ほど、頼もしいものはないと私は感じます。

 仏法の眼はさらに一歩進んで大悪は大善が起こる瑞相とも捉えていきます。長期間、コロナウイルスとの戦いが続くかもしれませんが、必ずこの大悪の後には大善が起こるよう、我々も「変毒為薬」の唱題で祈っていきたいと思います。


 日曜日に関西池田墓園に行きましたが、あちらこちらで桜の花も少しづつ開花の時を迎えていました。その行き帰りの車中で考え事をしてましたら、ふいに私は仏様の声を感じました。それは「いよいよ南無妙法蓮華経だけでいくのだ。妙法一つで前進していきなさい!」・・・と私にはそう聞こえました。私は「そうだ、その通りにやってまいります!」と答えていました。

 どんな悩みであれ、また今回のような厳しい状況であっても、円満な答えは妙法にしかないと確信します。強盛な祈りで諸天を動かしていく、御仏智をいただいて打開していく・・・法華経の兵法こそが最上の答えだと信じて前進するのみです。

 活動自粛の逼塞した状況の中ですが、今は内なるファイトを燃やし、「蛟龍(こうりゅう)の淵に潜むは昇らんがため」との劉備玄徳の言葉を心に刻み、やがてこの難問を乗り越えた躍動の時を創りゆきたいと思います。



「蛟龍の淵に潜むは昇らんがため」・・・(池田先生のご指導より)
人生の逆境や不遇のとき、身の処し方はいかにあるべきか。将来ある皆さまのために、この点にふれておきたい。
 それはまだ蜀の国を起こす以前の玄徳のことである。周囲は玄徳の不遇をしきりに憤慨しているが、彼自身は淡々としている。このとき、玄徳の胸のうちは次のようなものであった。すなわち「身を屈して、分を守り、天の時をまつ。 蛟龍の淵にひそむは昇らんがためである」と。蛟龍とは水中にひそみ、雲雨を待って、時至らば天に昇り、龍となるという動物である。
 皆さまも、自分を認めてくれない環境を嘆くようなことがあるかもしれない。しかし、青年時代は修業の時代である。今後、四十代、五十代になってからの社会と広宣流布の本舞台を胸に秘め、淡々として時を待つ、ふところの深い境涯も必要であると思う。屈するは伸びんがためであり、現在の本分に全力を尽くしつつ、天の時を待つという生き方もあることを知って欲しい。







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2019
10.07

自力の信心

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 信心は自分に起こるすべての苦難に対し、自分自身が変革することで勝利していくことを教えています。世間では苦難を避けたり、まわりのせいにする考えも多いと思いますが、信心の世界はどこまでも自分自身に原因を求め、自分を変えることで環境世界を変えていくという、信仰者に自己変革の主体性を持たせる哲学だと言えます。

 その意味でどこまでも信心で自分を強くしていく・・・周りに甘えず自力で人生を切り開いていく・・・そんな人間を目指すものです。信心したての頃は「御本尊様に何とかしてほしい」という、どこか他力本願的な祈りであったりもしますが、信心に確信を持つことができれば、自分で一人立ち、自分の力で戦うのだというその一念で御本尊に向かっていくのではないでしょうか。「どんなことも自分で解決するのだ」・・・その心こそ人を頼らない丈夫の心だと思います。

 本来、御本尊というのは自分の生命のことなのですから当然と言えば当然です。しかし、自分の信心を振り返っても、どこかそういう他力本願的な甘ったれた考えがあったように思います。そんな時は「信心していれば何とかなるだろう」という、一種、逃避に似た無責任な考えに陥りやすいものです。ところが今は、「自分の信心でつかみ取るのだ、必ずこうして解決して見せるのだ」という、強い決意と確信で戦えるようになりました。


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 少し話は変わりますが、聖教新聞には病気のお子さんを持つ人の体験が良く出てきます。そこでは多くの方が「この子に信心を教えられました」ということを語られています。そうなるまでには愚癡も出たり、また暗い心で悩まれたりもされたことでしょう。誰しも「どうして自分だけがこんな目にあうのだ」といった、まるで自分のせいではないような心が出るものです。それを自分が作った宿命だと真正面から捉え、御本尊に懺悔し、この信心で絶対に乗り越えていこうと決意した時、きっと何か変化が起こっていくのではないでしょうか?

 自分の周りの環境というのは、自身の生命が鏡に映しだされたものだと説かれます。自分の生命が歓喜と感謝の生命へと変革していけば、自分を取り巻く環境も歓喜と感謝の世界へと転じていきます。同じ環境であっても、穢土なのか、寂光土なのか、それは自分の生命の境涯で決まります。

 子供が病で苦しい・・・そのことでこの世は穢土だと思っていたのが、信心によって子供に感謝し歓喜の世界へと転じていった。それによって穢土が寂光土へと変わる。自分が変わることで宿命転換を果たしていくなら、「人間革命」」とはつくづく素晴らしい言葉だと思います。そして宿命転換のキーワード・・・それは「感謝」ということではないでしょうか。自分に与えられた苦難に感謝するとき、人間革命の光はいや増して輝いていくことでしょう。

 池田先生は「幸せだから感謝する」以上に「感謝するから幸せになる」と教えてくださっています。無慈悲で恩知らずな自分がどうすれば感謝の世界に入れるか・・・「南無妙法蓮華経」を唱え、学会活動に励み、生命を仏界に染めあげていくしかない、そうやって仏となれば歓喜と感謝に満ちた世界へと移り住める。それを信じていきたいものです。

 臨終の時まで信心を貫き通し、「一生成仏」を果たすなら、三世永遠に仏として生きていくと言われます。三世の幸福を思えば、今世の数十年の苦労など一睡の夢のようなものです。ゆめゆめ退転なきように、人を頼らない自力の信心で一人立ち、これからも精進していきたいものだと思います。




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2019
07.09

土佐は高知の善き婦人

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 今回、兵庫の法戦は厳しい戦いとなっていますが、そのこともあり全国から多くの方が支援に入ってきてくださっています。地元出身の方であったり、かつてこちらで働いていた方など、私の田舎にも遠く、九州や関東から縁故を訪ねてきてくださいました。

 そんな中、先日も高知から電車やバスを乗り継ぎ、外部の友人の方の案内で、私の地元にこられた3人の婦人がおられます。案内された友人の方とともに、昔、この田舎で一緒に働いた仕事仲間だそうです。その案内役の方と私が知り合いだったもので、「ここも学会さんやで」と私の家へと案内され連れてこられました。



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 突然の来訪で、私も草刈り作業で外にいたもので、その場で立ち話するのが精一杯でした。地元の学会員に出会ってうれしかったのか、皆さん饒舌で大いに話が弾みました。3人ともご高齢ですが大変お元気で、ある婦人からは、「私は信心60年です。高知に来て私の名前を言ってくださればすぐにわかります。○○国会議員ともお茶を飲む間柄です。高知に来たらぜひ訪ねてください。」と熱く言われました。

 見知らぬ学会員同士であっても、生命の奥底で結ばれているものです。出会った瞬間に妙法の縁が薫発し、そこに忽然と道が現れるがごとく、心と心が通い合います。私もその時は、長靴に野良着、麦わら帽子といういで立ちでしたが、(笑) 何の衒(てら)いもなくすぐさま意気投合しました。時間があれば、信心60年の山あり谷ありの歩みを聞かせていただきたいと思ったほどです。これはいつか高知へと車を走らせなければなりませんね。(笑)

 妙法では「異体同心」と説かれます。同心であればすぐに心は溶け合います。距離も時間も地位も年齢も関係ない・・・家族のように相手のことを思いあえます。同じ学会で広宣流布を目指し、師弟の道で「妙法」を唱えている連帯というのは、世間の付き合いよりも深く純粋であり、仏界という不思議な世界で往来できるのです。

 仏法のそうした世界を知らない世間の人たちは、やれ学会は衰退しているだの、内部で分裂しているだのと評論家のように好き勝手をいうものです。しかし、私はそうは思いません。数は少なかろうと、一人二人とこの異体同心の紐帯をつなぎ合う限り、学会は消滅することなく続いていくことを信じます。その清らかな世界に住すれば、世間の見立てなど、肝心のところを何もわかっていない浅はかなものだということがよくわかるのです。

 「師弟」の世界も同じです。師弟に生きるということを知らない人はそんな世界などないと思うものです。しかし、その世界を知り、そこに住する人にとっては、厳然とその世界があることがわかるはずです。同様に妙法に説かれる仏界もまた同じでしょう。目に見えないそうした不思議な世界に住し、汲めども尽きない功徳を味わいながら生きていける・・・それこそが信心する者の特権です。

 妙法は生命の法則であり、人々が最後にどうしても希求せざるを得ない生命哲学です。それはこの宇宙や人間の生命の本質までを正しく説き明かした哲学だからです。人を不幸へと貶める魔を打ち破っていく力、生きとし生けるものが幸福と平和を創造しながら生きていく力・・・妙法がその力の本源であるならば、それはどなたも欲してやまないもののはずです。

 その意味で、私は学会が途絶えるなどということはない、求道の人がいる限り仏はこの世に現れるのであり、仏法と言ってもどこか虚空の彼方にあるのではない、信心する人の生命にその姿を現すに違いありません。

 日曜日の先生の詩には、「戦い続ける人が青年」とありました。「もうこれで良い」などというゴールはありません。人間である限り、戦って戦って生きぬいていく。永遠に地涌の菩薩として戦い抜く生命であることを覚悟する。高齢であっても戦うことをやめない土佐の高知の婦人達のように・・・そうした強き心の人となって、私も地域に一人立ち、創価の大道を邁進していきたいと思います。


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2019
06.20

頭は妙・・・足は経。

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 御義口伝には「妙法蓮華経」の五字を
 人間の身体に即して説かれている。
 「経」とは「足」にあたる。
 いわば広布のために行動してこそ、真の妙法の実践となるのだ。
 学会活動は、動けば動くほど、身も軽くなる。心も晴れやかになる。
 功徳もある。仏になれる。
(6月9日付聖教新聞・四季の励まし)

 
 このご指導通りです。座して思索をするよりは行動です。この体を大地に投げ打って活動に歩く実践ほど、楽しく生命力が湧くことはない。もし信心が停滞したり行き詰っているというなら、自分が活動し、行動しているかを問えばいい。逆に言うなら、行動によって必ず行き詰まりは打開できます。歓喜と生命力が湧いて解決しない悩みなどはありません。

 法戦の最中ということもあり、私も連日、対話に励んでいます。折伏なら相手をしっかり決めての対話になりますが、公明支援ならそれほどハードルは高くありません。日ごろ、顔みしりの方であれば、どんどん語っていけます。また顔見知りでなくても、気軽に話かけることも私はよくします。語った分だけ生命力が湧いてくるのですから、足で歩き、口で語ることが仏法だということがわかってきます。

 時には自分の対話力、外交力の未熟さも感じます。素直にこちらの候補に賛同してくだされば対話は楽ですが、そうでない場合の対応力、振る舞いも求められます。中には辛らつに公明批判を返してくる人もいるでしょう。

 それでも相手の意見を聞き、学ぶことも大事です。「公明党のどこが悪いですか?意見を聞かせてください。」「地元の議員に伝えますので、お困りのことがあれば教えてください。」等々・・・相手にしゃべってもらい意見を主張してもらうことで、話が一方通行から相互通行になり、心が通い合います。そこにお互いを理解しあう道が生まれます。

 主義主張は違えど、「あの人は信念があるな」「さわやかだな」という印象を相手に残すことも大事だと思います。公明党支援者=創価学会員と世間は承知しているのですから、最後はこちらの人間性で、相手が学会を理解することもあるわけです。その意味では、支援と言っても折伏です。学会の看板を背負って活動に歩くわけですから、非常識だったり、何かと口論するような振る舞いでは、相手は学会とはそういうものだと思うことでしょう。


 人の見ていないところで、表面に出ないところで
 100%頑張れる人が、偉大な人である。
 だれが見ていなくとも戦った足跡は、我が生命に厳然と残る。
 御本尊が全てお見通しなのである。

 世界広布は決して遠くにあるのではない。
 自分の足元にあるのだ。
 ゆえに今、ここで勝つ事が勝利だ。
(同)


 妙法蓮華経は人の身体に即しています。頭は妙、喉は法、胸は蓮、腹は華、そして足は経・・・ならばこの体を仏法のために捧げるなら、凡夫の身が妙法蓮華経となることでしょう。汚泥にまみれたこの身が妙法蓮華経となるのですから、そうなればほかに何がいるでしょうか?妙法を信じ、足で行動し、口で仏法を語る。それで仏になるのですから、勇気さえあればできることです。
 
 さあ、重い腰をあげて(笑) 心を入れ替えて軽い足取りに変えましょう。そして自分らしく、自分の足で広宣流布の戦いに打って出ようではありませんか!今までにやったことのない戦いをやろうと私も決意しています。愚癡を吹き飛ばし、福運あふれる人生をともに切り開いていこうではありませんか!



 

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