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2019
08.19

悩みに負けない生命力

Category: 信心
 

 台風も日本列島を通過していきましたが、皆さんのところは大丈夫だったでしょうか?こちらは台風の暴風域でしたが田んぼの稲が少し倒伏したぐらいで、大きな被害はありませんでした。それにしても暑さが尋常でありません。私も日中はなるべく外に出ないで、自宅で題目をあげたり本を読んだり、高校野球も見たりしながら、お盆はゆっくりと過ごしておりました。



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 我が家ではここ数年、家内が病との戦いを強いられたもので試練が続いていましたが、ようやく一山超えたように思います。この夏も検査で引っかかっていたこともあり、娘も一緒に無事を祈り勤行唱題を真剣にいたしました。個々の信心を励まし家族の絆を強めるという意味で、病こそ「人間革命」の機縁となります。御聖訓に「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(妙心尼御前御返事1480p)とあります。家内もまた病によって信心に目覚めていった一人です。

 精密検査の結果が出るまでは、家内はとても不安な心境だったのですが、検査結果では何ら異常もなく、みんなで手を取り合って喜びあいました。「お父さんに比べたら、私はまだまだ自分を信じられてないわ」と家内が言いますので、「それがわかっただけでもすごいやん」と私は言いました。

 今の私は、「いつでも仏の力を出せるのだ」「題目があれば鬼に金棒なのだ」・・・そういう心境で生きています。何もないことが幸福なのではなく、何があっても負けない強い心こそが幸福です。それが本当の安穏であり自信です。そう確信できれば「煩悩即菩提」へといつでも開くことができます。結局はわが生命を御本尊と信じきって唱題行に励むほかありません。

 いまだその確信が家内にはないのかもしれませんが、その間は私が杖柱となって支えていくしかありません。「今日も励まし明日も励まし」・・・そうやってお互いの信頼も強まれば、おのずと和楽の家庭も築けるのではないかと思います。一緒になったころは喧嘩もよくありましたので、病を通じて夫婦の人間関係も深まっていったように思います。

 何かあるごとに、信心が強くなっていく・・・その姿があればその人は、「一生成仏」への軌道を正しく進んでいるといえるのではないでしょうか?

 8月4日付の聖教新聞一面、<四季の励まし>で池田先生は次のように綴られています。

 信心したからといって、悩みの「汚泥」が
 なくなるわけではない。
 「悩みに負けない生命力」が出るということだ。

 むしろ、悩みをいっぱいもっていくことだ。
 それらの悩みに どれだけ挑戦できるかを
 楽しみにできるような 境涯になることである。

 大いなる境涯の人は幸福である。
 広々とした心で、毎日を生きぬいていける。
 強き境涯の人は幸せである。
 苦しみにも負けることなく、
 悠々と一生を楽しんでいける。

 

 そして希望をもって自己の課題に挑戦していくことの大切さ、またその源こそが信仰であると指導されています。私もその通りに生きていきたいと思います。「むしろ、悩みをいっぱいもっていくことだ。」・・・この一行に信心の醍醐味が感じられ、何とも頼もしい心を感じます。

 かくいう私の眼前にも不可能と思えるような壁が横たわっています。しかし、必ず超えて見せるとの強い信念と不屈の闘志を燃え上がらせていきたいと思います。不幸の壁にマシンガンを撃ち続けるが如く、力強き唱題行に専念するのみです。「私には題目がある、今こそ題目ですべての壁を打ち砕くのだ」との思いで挑戦です。

 組織にあってはいよいよ今週から唱題会を中心に後半戦の活動が始まります。誰よりも題目に挑戦する「唱題行の王者」、「地域の黄金柱」となって、先陣を切って戦っていきたいと思います。



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2019
08.03

仏はあなたを見捨てない

Category: 信心

 8月に入り猛暑の日が続いています。しかし心は灼熱地獄に負けることなく、8月の太陽のごとく輝いて生きていける・・・それが妙法の生命力です。よく睡眠をとり、栄養のあるもの、水分摂取を心掛け、夏バテしないようにやっていきたいと思います。
 
 我が家で購読している未来ジャーナルを読んでいましたら、こんな指導がありました。

 戸田先生に、入会まもない女子部員が「『南無妙法蓮華経』の意味について教えてください」と質問したことがあります。
先生は、「いい質問だね」とほめられながら、満面の笑みで答えてくださいました。「南無妙法蓮華経とは、つきつめれば、日蓮大聖人の御命と断じて差しつかえない。大聖人の御生命が南無妙法蓮華経ですから、弟子たるあなたの生命も同じく南無妙法蓮華経なのだよ。自信をもち、胸を張って、朗らかに生きなさい」
(未来ジャーナル2019.5.1号より)

 信心の姿勢、信仰者の生き方について明快に教えてくださっています。この心で信仰に励むなら、どんな苦難も乗り越え、道は開いていきます。これで不幸になって人生が終わるなら、仏様は嘘つきになってしまいますが、そのようなことは絶対にありません。


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 医者が見放した病であっても、返しきれない借金を背負った人であっても、使命のある人であるなら仏様は絶対に見放したりはされません。凡夫が仏を捨てることがあっても、仏が凡夫を捨てることなどあるでしょうか?「絶体絶命」という時のための御本尊であり、必ず解決の道が開いていきます。そのことを知るために、また御本尊様の功力を証明するために、信心の強い人には大きな難が出るとも言えます。それはその人が必ず信心で乗り越えられるだけの人だからです。

 病で言えば医者は外から薬なり手術なりの治療ですが、仏様は体内から病を打ち破る力を出してくださいます。医者の治療は受けるとして、御本尊に題目を唱える時、その無限の力を体内に引き出せる・・・南無妙法蓮華経は宇宙に存在するあらゆるものを生み出す根源ですから、ガンであれ借金であれ、それらを治癒し、変毒為薬する力があるのは当然です。


 さらに次のような指導があります。

「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」
(御書1244p)
 「信心」とは「信じる心」「信じ抜く心」です。御本尊と自分が一体であると信じ、題目を唱え続け、前進していくところに、必ず必ず、希望と幸福の勝利の道が限りなく開いていくのです。」(同未来ジャーナル)

 御本尊は我々と不二であり、一つです。我々の生命が南無妙法蓮華経であり、信心する人はいつでもどこでもその力を出すことができます。あたかも打ち出の小槌を持っているようなものです。

 だから「困った、南無妙法蓮華経」といけばいい。それが天台のような難しい法華経と違って、大聖人様の信心の素晴らしいところです。智慧の有る無しを問わず、信心さえあればどなたでもウエルカムです。(笑)一切衆生、万人に開かれた御本尊であり、幸福製造機械と言われる所以です。

 その素晴らしい御本尊を顕してくださった大聖人様に今日も感謝を申し上げながら、「我が生命は南無妙法蓮華経なり!これだけでいくのだ」と、決意すればそれで全てです。その心に立つとき、どこにいようと希望が満ち、歓喜の生命となります。そしてその人は未来永遠に妙法と生き抜く軌道に載っていけることでしょう。私もその一人となって、さらに信心を強めていきたいと思います。



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2019
05.10

「自分なんて・・・」という心

Category: 信心




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 長期の連休も終わりましたが、皆様は有意義にお過ごしになったでしょうか。私はさほどの休みもなく、また田植えの準備や野菜の植え付けなどもあり、我が家中心で過ごしました。これから学会の方もいよいよ7月の選挙を中心に慌ただしくなることと思いますが、気を引き締めて戦っていきたいと思います。


 大白蓮華5月号(99p)には戸田先生の次の言葉が紹介されています。

「この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさい。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい。」
「自分がどれだけ偉大な存在か。それを皆、忘れているのだ。たしかに家に帰ってもたいした食事もない。家も宮殿みたいに大きくもない。だから自分は・・・と卑下するけども、とんでもない!人間それ自体が偉大なのである。いわんや広宣流布をし抜いていく学会員こそ、崇高な仏だ。最高の人間なのである。」


 本当に勇気の湧く指導だと思います。信心する以上はこういう気概でやりたいものです。
「自分なんて・・・」 そう思う気持ちは誰にでもあると思います。私もかつてはそんな気持ちで生きていました。ところが信心を多少していきますと、そうではないという心に変わってきました。自分ほど崇高な生き方をしているものはいない、自分だけでなく人もまた仏の生命であり王者の生命なのだ・・・とそう変わってきたのです。

 「自分なんて…」と言うのは、一見、謙虚に見えますが、まったく信心に逆行した貧乏臭い心だと思います。それは人として、決して言ってはならない、自分も仏も下げゆく最低の言葉なのだと、今はそう思えて仕方がありません。

 「自分は崇高な仏の生命だ」と思うのか、「自分なんて・・・」と思うのか、それは微妙な一念の違いです。ところがこの一念の違いが人生を、またその人の「一生成仏」を決すると言っても過言ではない。信心をして伸びていく人、人間革命していく人は、自分が仏であることを信じている人、この信心に歓喜と誇りを感じている人だと思います。

 逆に信心しているのに伸び悩む人は、やはり「自分なんて・・・」の一念が奥底にある人と言えないでしょうか。それこそ自分の無限の可能性に蓋をする人間不信です。私も人と話をしたときに、「あなたは仏です。もっと王者の気概で自信を持っていくべきです」と励ましても、「いいえ私なんかとてもとても・・・」という返事が返ってくることがあります。聞いていて歯がゆいばかりですが、「自分なんて・・・」という言葉の奥に無明の心に支配された何ともやるせない諦観を感じてしまいます。

 人を励ますとき、私は「あなたは仏ですよ。尊貴な生命ですよ。無限の可能性があるのです。それをこの信心で出しましょう!」とそう呼びかけたい気持ちでいっぱいになります。またそう呼びかけていくのが、自分の使命だと思い、人に接するようにしています。人を讃え励ませば、自分も輝いていく。人や自分を下げる生命から、人を讃え励ます幸福の軌道へと自分の生命を変革していくことが、人間革命の正しき軌道だと思います。

 
 この娑婆世界は第六天の魔王の世界です。。魔王は私やあなたが仏になることを忌み嫌います。そうなられたら、自分たちの所領が仏国土になってしまい、自分たちの好きなように操れなくなるからです。

 ですから、私達の心にありとあらゆる不信の網を張りめぐらし、生気を奪い、諦めの心、絶望の心で覆ってやろうと狙っています。それが「自分なんて・・・」という卑下の言葉となって出てくる。だから私はその言葉が嫌いです。

 とりもなおさず信心は「仏と魔」との戦いです。それは生命根本の無明とそれを具現化して信心を妨げる第六天の魔王と、仏である自分との戦いです。これから「人間革命」と「広宣流布」を目指して、その戦いの土俵に上がる人が、「自分なんて・・・」という心で勝てるはずがありません。自分を仏と信じ、人間王者と決めきって「必ず自分は勝利するのだ」との心で勝負に挑みたいものです。

 そう決めきれれば、もう勝ったも同然です。仏が魔に負けるわけがない・・・妙法の宝剣をもって、颯爽と勝利を目指して、生活にまた広布の戦いに自分らしく挑んでいけます。そこに諸天もいや増して働き、生命に歓喜と躍動が湧現していくに違いありません。

 いよいよ後半戦・・・私もまた、仏の心こそ我が心と腹に据え、「日蓮と同意」の心で、創価師弟の大道を前進していきたいと思います。




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2019
03.09

信心とは確信なり

Category: 信心





 寒さの中にも春の日差しが射しますと、心は上気し、何か幸せがあちらこちらからやってきそうな気配がします。こんな私の心にも春の太陽が輝きだしたのでしょうか?そういえば今日は3月9日・・・「サンキュウの日」ということで、宇宙にも世の中にも感謝の言葉を投げかけながらこの記事を書き始めました。

 大白蓮華3月号には次のような池田先生の指導があります。

 若き日、戸田先生に「どういう人が偉い人なのでしょうか」と質問したことがあります。恩師は即答してくださいました。「確信のある人だよ。人生は、また、すべては確信だよ」(P12)

 この言葉に私は信心のすべてが言いつくされていると感じます。御本尊に対する絶対の確信、創価学会、池田先生に対する絶対の確信・・・その絶対の確信をもって、学会活動に励む人にほかに一体どんな指導が必要でしょう?その確信があればどんな人生の悩みであれ解決しないことなどないのですから。

 必ずやその人の生命は春の陽光のように輝き、未来に向かって力強く前進していくことでしょう。そういう確信の生命に自分を作り上げていく・・・それが精進行である仏道修行なのだと私は思います。その確信のない人にこそ、励ましや指導が必要なのだと思います。

 しかしながらその確信は決して一朝一夕にできるものではありません。私など疑い深く、迷いながらくねくねとやってきた方ですので、随分と道草を食いました。しかし、ここ10年、「無冠の友」を始め、「拠点提供」、「支部地区の役職」、「王城会や未来部」など、私なりに率先してやってきました。活動家も青年部もそれほどいない田舎の地域で、組織からのこれでもかという打出にもめげず(笑)、どうなろうと自分一人になっても旗を降ろさない覚悟でやってきたつもりです。

 そんな時、私が頼りに思った地区の壮年の人たちは、見事にあてにはなりませんでした。(笑) 唱題会に必ず参加されるのも婦人部の皆さんです。いつも婦人部数名の中に壮年は私一人・・・そんな唱題会、協議会を何年もやってきたのです。そのおかげで地域の婦人部の方からは信頼を得ているやもしれません。私がどれほど一緒にやる壮年の人を欲したか・・・自身の徳のなさも感じつつ、今も信心に目覚めた壮年よ出でよ!と祈る日々です。

 「一体、いつになれば自分の生命に太陽が昇るのだろう?」と思っていた私ですが、陰徳が御本尊様に届いたのか、ここ数年はそれこそ日増しに「確信」が生命に成就してきました。「これを強めれば仏なのだ」、「仏とは絶対の確信の人のことなのだ」と、今ではそのことがよくわかります。また「自信」とは信心の確信のことだということも身で知りました。本当に戸田先生はすごい指導をされるものですね。

 「法華経を信じる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(妙一尼御前御返事)・・・誰もが愛する御本仏のお言葉ですが、人の生命に春の太陽が輝きわたるなら、世の中は明るく楽しいものとなり、また縁する人をも輝かせていけます。妙法をもって世の中を平和で幸福にしていきたい・・・そんな仏様の心の一分が、凡夫の身にもふつふつと起こってくるではありませんか。それこそが「太陽の心」です。

 この確信をさらに絶対のものとしていくのだ・・・今日よりはさらに信の一字をもって「元品の無明」を打ち砕きながら、「人間革命」と「広宣流布」の戦いに挑戦していきたいと思います。







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2019
02.04

寒椿

Category: 信心


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今朝の池田先生の「四季の励まし」(3日付聖教新聞)の一節にはこうありました。

「人生の価値とは記録への挑戦から生まれる。自分のこれまでの最高記録をどう更新し、書き改めるか。その挑む姿勢から、勝利と満足の人生が開かれていく。」

「日蓮大聖人は、自らを”法華経の行者”と言われた。行者とは行動の人であり、行動してこそ真実の仏法者である。」



 人と比較するのではなく、昨日までの自分を越えていく・・・それが成長ということではないでしょうか?これまで以上の戦いに挑んで自身を鍛え上げていく以外に、宿命転換も一生成仏も果たせないものと思います。たとえ今はびりっけつを走っていても、また絶望の淵でもがいていても、それでも前に一歩でも1mmでも進もうとする・・・その一念があれば私は大丈夫だと思います。

 逆に自分の智慧に慢じて、学会の活動を馬鹿にしたり弘教の実践に挑戦もしない人が、一番危ない・・・私は常々そう思います。

 あとは「行動」です。私も今日は、内外の方を訪問、聖教新聞の集金も兼ね、法戦のポスターも地域内に数か所、貼らせてもらいました。「この地域の広宣流布は自分が責任を持とう!」「因習は深くとも勇気を奮い起こしてこの道を進むのだ」との思いで、活動に挑戦しています。

 こんな私も時には人の悩みの相談を受けることもありますが、いつも思うことはその人に「信心で打開するのだ」という心があるかどうか・・・それに尽きると思います。その心があれば、もう悩みは解決したも同然です。なぜなら、仏を信じて広布の活動に励んで解決できない悩みなどないからです。

 実は私もなかなか思うようにいかないところを長くやってきましたが、それには深い意味があるのだということを知りました。それはどういうことかというと、すぐに悩みが解決すれば、私のためにならないということなのです。信心しているのにどんどん苦しいところに追いやられる・・・・凡夫ですから、一日も早く楽になりたいと思います。しかしその苦しみによって、本当の信心の世界に入っていける、妙法で立つしかないという自分へと変貌していったのです。

 もちろん私の信心が本物だとか立派という意味ではありません。それでも以前の私を思えば、信心に向かう一念が変わりました。苦しむたびにより真剣に仏法を求め、実践に挑戦する私が出てきました。今となっては「仏様は谷底に私を落とし、そこから這い上がっていくことで、私を一人前の信者に、また幸福にしてあげたいと思われているのだ」と感じられてならないのです。

 最近は写真を撮る機会も減りましたが、先日は配達途中のあるお宅で、一輪の椿の花が目にとまりました。車に戻り、カメラを取ってきて、外気に凍り付いたその赤い花びらに目を凝らしました。その花は私には宿命と戦いながら、人生の冬を戦い生きる婦人部の方の姿を彷彿させました。

 周りの大半の花は散っていたのですが、この花だけはいまだ凛と咲き誇っています。しかも厳寒の朝、凍てついた霜を身をまといながら・・・・「人もこうあらねばならない」私はそう思いました。獄中の戦いを貫き通された厳しい牧口先生のお姿も心に浮かびました。「私の信念など、牧口先生に比べれば、まだまだヒヨコのようなものだ」と、そうも思いました。

 もっともっと強くしっかりとした師子にならねばならない・・・「一生成仏」とはそういうことなのだ。何があろうとも妙法の信念を貫き通す「人間王者」になることなのだ・・・寒椿はそのことを私に教えようとしたのでしょうか?命の限り咲かんとするこの花に応えるためにも、さらなる行動の人となって、娑婆世界に打って出たいと思います。




※タイトル、文中に「椿」と表記しておりますが、後日、よく見ましたら葉の形状から「山茶花(さざんか)」だと気が付きました。タイトル本文などはそのままにしておきますが、一応、訂正させていただきます。
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