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2019
01.20

魔が競ってこその信心

Category: 信心

 一月もはや半ばを過ぎ、私のほうも革新しゆく生命を感じながらの日々です。今年はきっと大きく変われる・・・そんな予感でやっています。組織の方も、法戦を中心に早速動き始めましたが、私も新年の地区部長会で「今年は変わります」と宣言をいたしました。

 革新しゆく生命とは、自分の命が明るく軽快になっていくことだとも言えます。信心を始めたころは、体も心も水を含んだ布団のようなもので、「重い、冷たい、穢い」といった様子でしたが、それがだいぶ良くなってきました。悩みもたくさんありますが、それらは前進するための燃料であり、悩みがないと前に進まない・・・「人間革命」は煩悩の薪(たきぎ)を燃やし、幸福の智慧へと転じる戦いですね。

 また同時に内外に魔も競ってきました。一つは先日来、支部内の地区部長宅に家庭訪問に行ったのですが、どうも地区部長の様子がおかしい。すっかり魔に信心を食い破られてしまっている様子なのです。

 詳細は書けませんが、学会に対する不信が以前からあったのが、それがはっきりと形になって出てきました。一年ほどまえから、昼の勤めに加え、深夜にも一般紙の配達をするようになり、仕事を理由に夜の会合にまったく来なくなってしまったのです。過疎地域で人材がいないため、50代の壮年と言えば地区の柱でありますし、男子部時代から聖教配達を30年以上、頑張ってきた人です。その彼の変節は、地域にとって痛手ですし、大きな事件だと言えます。

 「○○長も一度、考えた方がいいですよ。学会を一途に信じるのは、危ないですよ。少しは疑っていかないと・・・」

 退転していく人というのは、なぜかこのような言葉を必ずいうものです。それが自分の中の不信という魔が言わせていることに気が付かない。心が魔に誑(たぶら)かされて善悪が逆転してしまうのでしょう。

 もちろん地区部長には、改心してほしいと思いますし、私も祈り、対話をしていきたいと思います。そう簡単には目が覚めないかもしれませんが、すべてに深い意味があり、無駄なことなどないはずです。残念ではありますが、その反面、これは地域の広宣流布が発展する前兆だと私は感じます。それは自分の信心にも関わってくるのですが、どんなことがあっても、いい方向に転じていくという確信が、今の私にはあるのです。

 仏の軍勢が、不信という魔に負けるなどということは絶対にない・・・そうであるなら、最後は勝利するのは学会員です。法華経に身を任せて、池田先生との師弟の道を歩んでいく限り、行き詰りも敗北もない・・・私はそのことを信じています。

 あらゆる試練は、波のようなものです。それを乗り越えて、さらなる大海へと出ていくことができる。それ自体が境涯革命ですし、地域の広布の発展につながります。私はこの問題の行く末を楽しみに、その魔を粉砕する祈りでやっていく決意です。
 
 「魔が競ってこその正法だ。もっと大きな魔をあぶりだして、さらに前進!」・・・そういう決意で、今年は戦いきっていこうと思います。


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2018
12.21

一年間、ありがとうございました!

Category: 信心



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 「光陰矢の如し」・・・一年は早いもので今年も残すところあとわずかとなりました。皆様におかれましてはどのような一年だったでしょうか?時が早く過ぎ去るだけに、一日一日を、いや一瞬一瞬を大切に、仏を求めて生きぬいていきたいものです。「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(970p富木殿御返事)との御金言は年と共に、身に沁みるものとなっていきます。

 その意味で学会とともに、池田先生とともに生きる人生ほど、価値多き、実り多き生き方はないことを私は感じます。他者を批判するのではなく、自分を見つめその生命を信心で耕しながら格闘しゆく、その人こそ、「外道」ではない「内道」を生きる人であり、仏法の真髄を悟り、仏となる人に違いありません。

 私もここ数年は、外に花開くというよりは、生命の基底部を「仏界」で、また「師弟」で固めゆく数年であったと実感しています。凡夫ですので、確かに外に鮮やかな花を咲かせたいものです。しかし、仏様の化導は決してそうではありません。どこまでも生命の基底部に「仏」という根を張ることを教え、促されるものだと思います。それができれば、やがて花も実もなることは絶対の道理であるからです。

 根も土台もいい加減なうちに、なまじ花が咲いたところで、そんなものは長続きはしないでしょう。かえってその姿に溺れて怠惰な心を起こし、信心を失うことだってあるでしょう。ですから少ししんどいぐらいのところを行くのがちょうどいいのです。

 海上に嵐が起こっていようと、深い海底は穏やかなように、山頂が吹雪いていても、山は不動で安泰であるように・・・信心強き人の生命は、様々な苦難を悠然と見つめ、乗り越えていく、「大海」「大山」のごとき生命となるのです。

 学会員は毎日、毎日、同じことの繰り返しを重ねながら、日々、仏界という漆(うるし)を倦(う)まず弛(たゆ)まず塗り重ねているようなものです。世間の華やかさも、富や名声を求める生き方とも無縁な、あまりに地味な日々の連続です。勤行、唱題を基本に、真面目に生活と向き合い、夜は協議会や唱題会、友の激励や折伏、法戦にと、休みの日も広宣流布のために身を投げ打って戦う・・・そうしたひたむきな学会員の生き方こそ、「如来の事」を行じることに通じる真正の信仰者の姿だと思います。必ずやその人こそが最後の勝利者となることでしょう。

 それがどれだけありがたく、また尊い無上の生き方であるか、またいかに自身の宿命と粘り強く戦うことが大切なのか・・・そのことを知ることが何より大事だと思います。今、無間地獄とも思える苦難、宿命と戦っている方も多くおられることと思います。しかし、必ず出口は見つかり乗り越えていくことができる。それらの苦難を魔の試練ととらえて、より一層信心に励んでいけば、必ずその人にふさわしい幸福の道が開けていく・・・それが学会の信心の素晴らしさだと思います。

 とりもなおさず、どの人の生命も「仏」という尊極の生命です。各々、その「仏の生命」を顕す以外に本当の幸福はありません。それ以外の相対的幸福はいつか泡のように消えていく・・・たとえ今、栄えている人であっても遅かれ早かれ、名聞名利をはぎ取られ、裸の人間として「死」と向き合わねばならない時がやってくるのです。

 その時に「死」と正面から立ち向かえるものは何なのか?それは自身の生命の「仏界」だけではないでしょうか?「最後まで学会員として忍辱(にんにく)の鎧(よろい)をまとい戦い抜いてまいりました!」と誇らしく言えることが何よりの「冥途の衣装」となることでしょう。その人は必ずや諸仏から讃嘆されながら、大歓喜の生命となって旅立っていくことができる。その時に後悔しても間に合わないのですから、今、信心に励むほかありません。動けるときに勇気を出して立ち上がる・・・賢明な人ならわかることだと思います。

 疑いを抱かず、純真に信心に励む我ら学会員こそ、その誉の人です。あまたの不信の輩の言葉など、愚かな敗残者のものと喝破しつつ、さらなる大成長を期して私も新しい年に向かって飛躍してまいりたいと思います。

 この一年、ブログの方も変動があり、申し訳ありませんでした。今後も時間があれば、思うところを書ければと思います。以前よりも多忙の身となり、更新もあまりできませんので、期待をせずに読んでいただければと思います。

 一年間ありがとうございました。皆様、良いお年を!



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2018
11.16

身に説法、心に説法

Category: 信心


 御本尊様はきっと我々を幸福にするために、口ではお話されませんが、毎日、「身に説法、心に説法」をくださっているのでしょう。法華経の寿量品には、「毎自作是念」(毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)す)とあります。休むことなく衆生の幸福を思っていてくださるのですから、こちらも休むことなく御本尊様を求めていかねばなりませんね。

 説法と言っても、こちらも耳を澄ましたり、思索したりしませんと、ぼんやりと過ぎてしまうことだってあります。毎日の出来事の中に、自分自身を知る機会は実に多いものです。「奥さんとの些細な口喧嘩」(笑)にしても、「会員さんとのやり取り」にしても、一日の諸法にこちらの人間性や境涯が、ことごとく映しだされると言っても過言ではありません。それをどう捉えていくか・・・そこに「信心」はあるはずです。

 ある時のことですが、私も自分の生活上において苦しんだことがありました。その苦しみを打開するために、学会活動にも熱心に取り組んでやっていたのですが、ところがいつまでたっても打開できません。そんなわけでつい御本尊様にも文句を言いたい気分にもなっていました。「こんなに頑張っているのにどうして?」と・・・

 そんなある日のこと、ふと気がついたのです。「あれれ?俺はこの苦しみから逃れようとして、そのことばかり御本尊様にお願いしているじゃないか?」「一日も早く、この苦しみが消えてなくなりますように!と、本当はそう祈っているだろう?」

 「その一念は「宿命転換」ではなくて、現実逃避だよ。御本尊様拝みながら他力本願な念仏やってどうする?」と・・・そこで初めて目が覚めた思いがしました。「御本尊様、私が間違っていました。今日よりは心を入れ替えて、自力で壁を破る法華経の信心をします。」その場でそうお誓い申し上げました。

 私たちはつい苦しみから逃げ出したり、甘い姑息な解決を願ったり・・・浅ましい爾前の心にとらわれがちです。宝くじが当たるような幸せをつい妄想しますが、信心に「棚からぼた餅」もなければ、「信心しているから何とかなる」もありません。鑿(のみ)を手に固い岩盤を掘り下げていくように、自分の苦悩と正面から向き合って戦ってこそ、信心の力も威力を発揮するのです。

 活動を熱心にやっても、一念が念仏臭くては、これでは打開できない・・・自分の苦悩から逃げ出さずに、信心でその壁にぶつかり、自力で壁をうち破っていこう・・・その一念が私には弱かったのです。そのことを御本尊様は辛抱強く、私に教えようとされたのだ・・・そう気づかされました。

 「煩悩よ!今日から俺は一歩も引かずにお前の相手になろう。さあ、かかってこい!」・・・そういう心境に立ちますと、生命には逆境を跳ね返す気力が充満します。悩みはあれど心は清々しく、「一切は自分を強くしてその力で打開するのだ」と、そう思えます。環境は同じでも、前と違って心が強く負けないのです。

 もしあのまま悩みから逃げ出していれば、一時的に楽になったかもしれませんが、私という人間は何ら「人間革命」することなく終わったことでしょう。しかし、その宿業と正面から向き合って戦った分、私は負けない自分となって、「宿命転換」することができたのです。

 そういうところに、自分が変わりゆく、「人間革命」の醍醐味があると言えないでしょうか?これからは何が起ころうと、すべてを自身の生命で受けきって、正々堂々、自身の力を信心で磨いて乗り越えていく・・・そのことを学んだのですから、まさに闘争者の心境です。この信心は何があろうと逃げ出してはいけない信心なのです。

 これが私がいただいた仏様からの説法であり、数年、苦しんだとはいえ、今となっては本当に素晴らしいことを教えてくださったと、感謝している次第です。





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2018
11.02

浄土と云ひ穢(え)土と云うも・・・

Category: 信心

 人が生きていく上で必要なものはたくさんあるでしょうけど、楽しく生きていくために一番必要なものは、私は歓喜と感謝の心ではないかと思います。私自身、歓喜や感謝には縁遠く、むしろ苦しく不満の多い生命で長年、生きてきたわけですが、ここにきてようやくいろんなところで歓喜や感謝を感じるようになりました。

 そうなってみますとその心で生きていくことが、とてもいいことだということがわかります。心に歓喜と感謝があふれていれば、その人の心は清々しく、人からも愛されるに違いありません。それがまた諸天を喜ばせ、幸せを招き寄せることでしょう。仏法では四恩ということを説いていますが、親や家族を始め、まわりの人に感謝できるようになれたら、それだけで自分を幸福だと感じられるものです。逆に愚痴や批判、不平が心に多い人は、自ら苦を招く因を作っているのだと思います。




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 信心をして功徳を受けますと、生命が清らかになっていくことを感じます。功徳とは悪が滅し、善が生じることだと言われます。また「六根」が清浄になっていくとも説かれています。汚泥に染まったこの命が浄化され、清らかになっていくのですから、おのずとさわやかになります。悶々とした心が風呂上がりのようにさっぱりとしたりもします。そうなると見るもの聞くものが清らかで楽しく感じられる・・・地獄界か畜生界のように感じる私の国土世間も、「ここが宝土なんだ」と少しずつ思えてくるのです。


 自分の生命を仏と悟れば、自分の住む世界が仏国土となることでしょう。仏のいるところ、どこであれ仏国土ですから、仏様が地獄界に行かれたなら、そこはたちまちのうちに仏国土と変じます。餓鬼の生命の人にとっては、どこにいようとそこは餓鬼世界です。境涯が変わらないのに、よそへ移っても、根本的な解決にはならないというのはそういうことだと思います。

 「浄土と云ひ穢(え)土と云うも土に二の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(「一生成仏抄」384p)と、大聖人様が仰せの通り、人の幸不幸はまさに境涯、心の善悪によって決まるのですね。

 私は今では、学会活動が楽しくできるように変わってきました。以前は渋々嫌々やっていた時もあったのです。信心は体、生活は影ですので、信心の活動に不満があるならやはり生活にも不満が出ます。それが今では小さく地味な活動であっても、喜んでやれるようになりました。そうなると活動がそのまま御本尊様への報恩感謝の行動となり、ありがたさの方が勝ってきます。

 学会活動に不満をいう人に対しては「それってもったいない話や。学会は喜んでやればいくらでも功徳がもらえる「宝の山」なんや。おもしろくないというのはやらされてるからと違うか?」と、私は言うでしょう。学会が宝処・仏界に見える私の眼は、学会不信の人から見たらさぞかし「おかしなやつだ」と思えるのでしょうね。(笑)

 信心の功徳はお金には変えられませんが、変革した生命はいつでもどこへでも持っていけます。ですから金の亡者になるよりは信心に熱心な方がずっと得です。信心こそ無上の宝です。私も日々の唱題と学会活動で、歓喜と感謝の生命をさらに磨いて、我が生活、我が人生を一新したいと、そう決意して日々の戦いに挑戦しています。




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2018
06.02

妙法の種蒔(ま)く人

Category: 信心

 少し前に、「折伏応援記」という記事を書いた。その後、相手のHさんはお題目を唱えていかれることになったのだが、もう少し学会を見たいということだったので、5月の座談会へとお誘いさせていただいた。

 実はHさんには持病があり、心臓に時折、発作が出る。そのため遠い私たちの地区まで来るのが不安ということで、地元の方に急きょ配慮いただき、そちらの座談会に入らせてもらうことになった。諸天と言うのは、肝心な時には迅速に動いてくれるものである。

 Hさんは病や生活のことなど、その座談会の中で本当に真摯に自分のことを飾らずに語られた。また多くの同志の励ましや応援にも感謝を述べられ、座談会後に進んで入会を決意されたのである。男子部のN君の一念、座談会に快く招いてくださった地元の皆さん、また支部拠点で入会を祈り続けてくださった同志の皆さん・・・そうした全員の心が一つになった結果だとうれしく思う。


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 我ら創価家族は「種を蒔(ま)く人」である。妙法という、最極の「幸福の種」を「平和の種」を蒔いて、蒔いて、蒔き広げていくのである。(中略)泥沼の如き濁世に、この種を忍耐強く蒔き続け、幸と平和の花園を創るのが、広宣流布といってよい。(大白蓮華6月号池田先生の巻頭言より)


 一人の人を妙法に導く功徳は計り知れない。仮に相手が入会しなくても功徳は同じだと説かれる。仏法を語ること自体、「声仏事を為す」である。私も悔いを残さないように、この種を蒔いて蒔いて蒔ききって、この世を去っていこうと決意している。

 組織の中で多くの同志と心を合わせて信心するから、広宣流布も可能になるのだと思う。一人では独善とわがままに陥るというのが私のやってみた体験だ。同志と力を合わせ(異体同心)、師弟の道に徹して(師弟不二)いくなら、こうやって一歩一歩着実に実証をあげていくことができる。その意味でこの二つの法理が、「広宣流布」と「人間革命」の必須の条件だと思う。

 その軌道に乗って信心するなら、対話の相手は次々と現れる。私も今朝、聖教配達の時に村の人と話ができ、6月の同中にともに行く約束をした。また先日は、以前、花の写真を撮らせていただいた老夫婦のお宅を訪問・・・大白蓮華、聖教PR版などを贈呈し、和やかに仏法対話をすることができた。任用試験の勉強を通じ、未入会の高校生にも今、一生懸命仏法を語っている。「あの人にもこの人にも下種したい」と、私の心はいよいよ折伏の使命を果たす時がきたと弾む。

 Hさんと共に参加した座談会ではSTB「人生の金メダル-幸せはあなたの心の中に-」を視聴した。全国津々浦々、多くの方がご覧になり、感動が広がったと想像する。その中にあった坂本さんという女性の体験は、まさに引きこもりの地獄からお題目で仏界を湧現し、友人に歓喜の対話、何人もの友を入会に導き、そして見事に自身の10年に及ぶ難病から蘇生されたというものだった。

 私たちは業が深いとか、自分はダメだとかよく口にするが、それは爾前の諦観や無常観のようなものではないだろうか?日蓮大聖人の仏法に来り題目を唱えゆくなら、それらの宿業もたちどころに歓喜の生命へと転換できる・・・宿業の浅深で幸不幸が決まるのではなく、信心の厚薄で決まるのだと。それがわかればなんと頼もしい仏法か?「鬼に金棒」とはこのことだと説かれている。

 わが身の宿業が出れば信心の火をいよいよ盛んにし、苦難にあってはそれを肥やしとして幸福の新芽を出だしゆく・・・私も多くの同志の皆さんと歓喜の題目を唱えぬいて、創価の大道を溌剌と前進していきたいと念じる日々である。




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