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2020
07.10

相対的幸福と絶対的幸福

Category: 信心
 


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 このたびの九州を中心とした全国的な大雨では、甚大な被害が出るとともに、多くの方が犠牲になられました。お亡くなりになられた方に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます。また被災された方々においては、行政の方でも最大限の援助をしていただき、復興への道を作ってあげてほしいものです。

 疫病や災害など、まさに仏法で示された通りの末法の姿が現出しています。これからも人類は災害と向き合って暮らさねばならない・・・政治の取り組みはもちろんですが、信心している私たちは今一度、日蓮大聖人の立正安国論に学び、正を立て国を安んずることを案じなければならないと思います。

 その意味で妙法を信じる「異体同心」の人々の存在意義はますます大きいものと思います。国家、世界の安穏も創価学会の発展と妙法による祈りにあると私は確信しています。諸天が歓喜し、悪鬼が退散するような国土に変えていかねばならない。日々の御祈念でより一層、災害の起こらないことをしっかりと祈りたいと思います。

 少し前から池田先生の「諸法実相抄講義」を研鑽しています。その中に興味深いお話が出ていました。それは相対的幸福と絶対的幸福の関係についてのお話で、大聖人様の佐渡御流罪の法難を通して次のように講義されています。

 「「流人なれども」――いま、大聖人の御立場は、流人という、まことに厳しくつらいものである。これは、相対的次元の幸、不幸の現証です。その次元では、この世でもっとも不安定な、不幸な姿であられる。しかし、内心の胸中に確立された境界――絶対的幸福の次元では、この世で誰よりも豊かで、広大かつ不動の幸福を満喫されているのであります。」

 「絶対的幸福とは、相対的幸福の延長線上にあるものではない、ということです。これを、もう少しわかりやすくいいますと、経済的に豊かになり、健康で、周りの人からも大事にされ・・・等々の、一切の幸福の条件が満足しているのが、絶対的幸福ではないということです。」

 「相対的にはいくら不幸であっても、絶対的幸福を確立することはありうる。逆に、相対的幸福の条件は、どんなにととのっていても、絶対的幸福に程遠い人も少なくありません。(中略)相対的には不幸でも、絶対的幸福を確立した例が、いまここで述べられている大聖人の境界なのです。」


 これを読んで私はその通りだと思いました。人と比べて幸せだ不幸だというのはそれは相対的次元です。それと仏法が教える絶対的幸福は違うものです。宿業が重く、また願兼於業から世間的には不幸な姿に見えても、信心によって胸中に絶対的幸福を確立することはできる。絶対的幸福とは自身が仏であると悟ることであります。それを悟った人が、相対的次元でもやがて勝利の人生となり栄えゆくことは、御書にも示され、また多くの学会員の方々が証明しているところです。

 池田先生は「自分の定めた目的観、使命感が、宇宙とともに不変常住の法に合致していることが、絶対的幸福の完璧な要件である」と述べられています。生きる目的が不変常住の法・・・すなわち妙法に合致していることが条件であり、妙法と一体となって信心根本に生き抜く時、生命は充実し、大歓喜にあふれたものになることは間違いないと確信します。

 あの牧口先生、戸田先生のご法難を思う時、お二人が相対的幸福を求めての信心であれば、要領よく振る舞い投獄を避けられたことでしょう。しかし、仏法の本当の究極の信念に殉じて生きる道を選ばれた・・・そこに人としての崇高さ、偉大さがあり、人類に先駆けて絶対的幸福に生きる道を示されたものと思います。

 その巌のような信念、そしてそれを受けて死身弘法の戦いで世界広布を成し遂げられた池田先生があって、今の私たち学会員の信心の道は開かれたといっていい。まさに偉大なのは先駆者であり、その「事」の功績に対し自分は何の労苦もなく、後から「理」だけで批判をする人に、一体どれだけの値打ちがあるのか・・・膝を屈し、頭を垂れて、死身弘法の人に教えを乞うべきだと思います。

 私も拙い信心ですが、未来が明るく開けゆく思いで、歓喜で広宣流布に生きることができるようになりました。信心する今、私の生命には未来に絶対的幸福の大樹と育ちゆく苗木が根付いたものと確信しています。今後、その木を金剛不壊の大樹として育てるためにも、信心の実戦を貫いていかねばと決意しています。

 誰しもやがて死と向き合わねばなりません。その時にはお金も贅沢な暮らしももっていくことはできない。それらをすべてはぎ取られた赤裸々な自分で裁かれるものです。

 その時のためにも、胸中に絶対的柱である妙法の生命を確立しておきたい。三世永遠の幸福を目指し、いよいよの心で信心に精進していきたいと思います。





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2020
06.30

今、ここから現当二世の信心を!

Category: 信心
 

 コロナの問題も先行き不透明で予断を許さない状況が続いています。どなたであれ感染のことを思うと、もやもやした気分で日々をお過ごしかと思います。自分一人気が晴れても、世の中全体がこういう状況では、やはり心から喜べないものです。

 経済的にも精神的にもつらい日々ですが、同志の方々と励まし合いながら乗り越えていかねばと思います。

 どんな状況であっても広宣流布という目的に自分の生命を定めていく・・・そこさえ見失わなければ、心がぶれることはありません。迷ったときは原点である広宣流布という目的観に立ち返って、そのために自分の道を開こうとの思いで、私も御本尊に向かうことにしています。

 前回の記事にも少し書きましたが、信心は現当二世です。過去は問わない・・・過去はすでに過ぎ去り記憶の中にしかないものです。また未来も全くの白紙です。あるのは今の自分のみです。今日から、今の自分から生まれ変わると決めれば、過去の悪事など夢の如くスーと消えて(笑)、仏の生命としてまっさらな自分でやっていけます。



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 仏の生命としてやっていくのですから、清らかで楽しく、祈りは叶っていく・・・仏の未来が暗いなどそんな馬鹿な話はありません。自分の信心でどんな素晴らしい未来でも作れるのに、疑ったり不安なことばかり考えているとそうなってしまうではありませんか。

 「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」というのが仏法です。過去の因は現在の果に出ていますが、未来の果は今の因で決まります。ですから過去の自分がひどいからといって、未来まで駄目だなどと思わないでください。今の一念で未来は決まる。「自分は仏なのだ」「広宣流布するのだ」と決意し、今から学会活動に励むなら、それを因として未来の果はおのずと輝いたものとなるのです。

 物事にはすべて目的があります。商売人は金儲けが目的であり、物理学者は宇宙の真理を発見することが目的です。菩薩の境涯の人は人を幸福にするのが目的、男性が女性に高価なものを買うのは気を引くのが目的です。(笑) と、高尚なことから低俗なことまですべては何らかの目的があるものです。

 信心の目的は自分も他者も幸福にすることです。題目をあげるのは、自分の生命の仏性を呼びあらわすため。折伏をするのは他者の心田に下種をして、仏界を呼び覚ますためです。題目も折伏も自他共の仏の生命をあらわし、絶対的幸福すなわち一生成仏を果たし、三世永遠の幸福を獲得することが目的です。

 それゆえ信心に励むことは人としての最高善であり、無上道となります。仏弟子としてまた仏の使いとして大善を為すのですから、果報としてその人には仏の生命が現れます。仏様からのご褒美です。上中下根と機根は様々ですが、どなたも一生の内には必ず仏となると説かれるのですから、これをしないという人は、本当に損をするのがお好きな人としか言いようがありません。

 池田先生の「諸法実相抄講義」(池田会長全集10巻)の中に戸田先生の次のような言葉が引用されています。

 戸田先生:「この私の悩みは、信心に強く立つものが少ないことである。また、初心の者が、御本尊のご威徳を信ぜずに、退転することである。これらの者は、なんと浅はかなものであろうか。清水のごとく、こんこんとわき出る功徳の味を、味わいきれずに、死んでしまうのである。なんと、かわいそうなことではないか。私の胸の中は、キリで、もみこまれる思いで一杯である。」(戸田先生巻頭言)


 何らの徳もなく、人一倍愚かな衆生であり、創価の陣列からも最も遠い人間だと思っていた私ですが、幸いにも創価学会と池田先生だけは捨てることなく今日まで来ることができました。それだけが私の福運です。

 一人の一念が世界を変えるという信心です。我らの祈りでコロナ魔で鬱屈とした世界を「三変土田」し、清らかで明るい世界に変えなければなりません。そのためにも今から、今日から、自分からと決意も新たに出発していきたいと思います。









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2020
06.11

久遠の時は今ここに・・・

Category: 信心

 数日前、時間というものについて少し思うところがありました。私の考えることですので、正しいというよりは手探りで思索していくという感じですので、そのつもりで読んでくださればと思います。

 私たちは普段、時間の流れを一本の線のようにとらえ暮らしています。過去、現在、未来・・・昭和・平成・令和という風に。しかし、仏法では時間の流れは「無始無終」となっています。始まりもなければ終わりもない・・・たとえ線であってもいつから始まっていつ終わるということもない不思議なものです。



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 その時間を実体として感じられるのは、今のこの瞬間の生命だけということになります。昨日の私や明日の私がどこかにいたりはしません。今の私以外に過去や未来の私がどこかにいたら気味悪いことになります。今ここにいる私以外に私はいません。

 過去に戻りたい、未来に行きたいと思ってもそんな時はありません。タイムマシンに乗って若くて美しかった20歳のころに戻りたいと思っても、人生は残酷で年老いていくだけの一方通行です。(笑)

 仏法には「久遠」とか「久遠元初」という言葉がありますが、それは遥か彼方、計り知ることのできないほどの昔と説かれます。しかしそれも、紀元前何年何月というような具体的な時ではなく、どこまでも「無始」を表現したものだと言えます。

 これまた実体があってないような「空」という考え方でないと理解できない時です。その時はいつだったのか?本当にあったのか?と問われれば、死後の世界を知るよりも難しいかもしれません。

 その上、時間だけでなく、空間的にも宇宙は無限であり、果てしがないと説かれます。時間、空間共に果てのない世界であり、そしてそれがまた私たちの生命なのだと言うのです。私たちの生命も無始無終であり、果てのない宇宙だと・・・

 生命にも終わりがないのですから、死んでもまた生まれてくることになります。死は無になる死ではなく、生まれ直るための方便であり、「若退若出」(にゃくたいにゃくしゅつ)とあるように、ちょっとひと眠りしてまた出てくるようなものだとあります。

 池田先生はその生命の生死を波の起伏に譬えておられます。生きている時は波が立ったようであり、死ぬ時は波が収まって消えたようなものであると・・・それを読んだ時、すぐにはわからなかったのですが、しばらくして私も生命の永遠性が腑(ふ)に落ちたと感じました。波は大海の上で立ったり消えたりします。生命の大海とは宇宙です。死んで宇宙のどこかに冥伏しては、また縁に触れオギャアと生まれ出る・・・自分は無始無終の生命として波のように宇宙を母体として、生死生死と経めぐっているのだ。すなわち私の生命は宇宙であり永遠なのだと・・・

 「久遠」という時が一体いつか?凡夫にはわからない時なのかといいますとそんなことはありません。実は久遠とは末法の今だと教えるのです。それが「久遠即末法」「末法即久遠」ということです。これは久遠も末法も一つであり、せんじ詰めると生命の中にあっては一体だということです。生命を離れて久遠という時はないとも言えます。

 時間を歴史のように線で考えますと、久遠と末法は別地点ですが、生命の中では同時であり、それゆえ私たちは末法にいながら、久遠元初の生命に立ち返って生きていくことができます。

 私たちが受持し、拝む御本尊は末法の御本仏である日蓮大聖人様の「南無妙法蓮華経」のご生命をあらわされたものです。大聖人様はまた久遠元初の御本仏です。久遠元初の大聖人様も末法御出現の大聖人様も同じご生命であり、大聖人様のお出ましになられるところはいつの時代でも久遠元初と言えます。それで私たちも御本尊を拝む時、意識せずとも「久遠即末法」と開いていることになります。

 きっと今、共に戦う学会同志もみんな久遠の時にともにいた仲間なのでしょう。今が久遠ならば人も同じです。創価三代の会長先生たちは、一番先頭に立って、修行をなされていた・・・その時、私はいつも遅刻ばかりして、後ろの方でぼんやりしていたのかもしれません。

 「そんな難しいことわからんけど、私は元気いっぱい学会やっているよ」・・・それが現当二世の信心の証です。どんなに宿業が深くても信心を強く持てば、過去の業因は太陽の昇った後の朝露のように消えはて、毎日、久遠元初の生命に立ち返り、溌剌と未来を創造する人生を生きていけるのです。

 元気で生命力に満ち明るい人、宿命に負けずに笑い返せる人、うれしくて題目をよくあげている人・・・そんな人が一番です。きっとその人が「久遠即末法」を身をもって生きている人だと言えるのではないでしょうか。

 私もしっかり題目をあげて、久しく遠い時を思い出し、一層、信心に励んでいかねばと思います。


※長くなり恐縮ですが、池田先生のご指導です。ともに研鑽してまいりましょう。

妙法広布に戦う現在こそ久遠元初
 久遠元初とは歴史的過去ではない。遠きかなたのことでもない。この瞬間に永遠を凝結させている、大海のごとき大生命そのものであり、満々たる力と息吹をたたえているものであります。「御義口伝」にいわく「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」とあります。久遠は通常「時の無窮なこと」「遠い昔」「永遠」というように理解されております。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の眼からみるならば、久遠とは時間的な意味も含めて、大宇宙の本源、生命の根源の意義にまで及ぶのであります。無作本有常住の生命、無始無終の生命であり、久遠元初自受用報身如来の御生命を指すのであります。同じく「御義口伝」に「久遠とは南無妙法蓮華経なり」とあるごとく、久遠元初とは、一言にしていうならば南無妙法蓮華経それ自体であります。
 さらに南無妙法蓮華経と唱うる私達の生命もまた久遠元初を開いているというべきであります。
 故に、私達が常に御本尊を受持し広布のために戦うことこそ自体が、久遠の仏法の姿となっていくのであります。この元初の生命に綴られた尊い歴史というものは、永遠に消えることなき信心の元初の経典として輝いていくに違いありません。私達は今こそ、元初の朝の日の出を迎えている信行学の日々と銘記したい。
(百六箇抄講義より)



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2020
05.28

「冥益」の功徳を楽しみに

Category: 信心


 全国的にも「緊急事態宣言」が解除され、ウイルス問題も一山超えたかのようですが、第二派も予想される中、油断は禁物ですね。まだまだ自粛の心も持ちながらあ安全に留意して生活したいと思います。

 そんなコロナ問題の最中、私も題目をあげていて生命がまた一歩、変革していく功徳を感じています。そしてそれが家庭や仕事に現証となって現れてきました。



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                       <今年も無事に田植えが終わりました>



 プライベートなことで詳しくは書きませんが、家庭内が以前に比べ円満になってきました。なってきたということは以前はそうでなかったわけで、夫婦や嫁姑、親子関係など、時には口喧嘩やギクシャクすることも良くあったのです。

 それが変わってきた一つの理由として、私が家内を立派だと思い、感謝できるようになったことがあります。家庭は一番身近で気を使わない人間関係なので、感謝というようなことは普段あまり感じない、ご飯作るのも洗濯するのも当たり前のことです。それが家事から仕事からよくやってくれていることに、心からありがたいと思う気持ちが出てきたのです。それが相手に通じるのか自然と会話も増え、相手も私に対しとげとげしさが無くなってきたように思います。

 嫁姑ということも、家内がよく私の母の面倒を見てくれるようになりました。普段は「私、お母さんのこと好きになれんわ」と距離を置いていましたが、先日、母が転倒してから、お風呂やトイレ、食事などあれこれよく世話をしてくれます。「よくやってくれるので感謝してる」と言いますと、「家族やから弱った時はみんなで助けるのは当たり前や」と言います。そんな言葉を聞きますと、家内もすごく変わってきたんだと思います。

 また下の娘がコロナで休校中ということもあり、夜は親子3人で勤行をするようになりました。「ほかのクラスの子は学会なんかしてないのに、どうして私だけ拝まんとあかんの?」とよく文句を言ってましたので無理にはさせませんでしたが、ここにきて素直に勤行するのです。娘の信心はずっと祈ってきたことでもありますので、まだお付き合い程度ですが少しは道が開けた思いです。

 さらに仕事の面でも新しい仕事の話が進んでおり、今年中に受けるかどうか答えを出すことになっています。厳しい仕事ではありますが、受ければ地域にも貢献できるいい仕事です。

 そういういくつかの現証を見ていますと、根本は私自身の生命が変革したことから、環境が変わってきたことを実感します。周りの環境が変わるから幸せではなく、自分が変わることによって幸せが湧現(ゆげん)してくることを感じるのです。

 家庭や職場において愚癡や不満がたくさんあるのが凡夫の現実です。しかし、それから逃げたり、相手を責めたりするのではなく、自分が変わることによって環境を変えていく。要領ではなく地道に信心しながら悩みを乗り越え、境涯を開いていくのが正道だと思います。


 信心は変わること、「人間革命」すること、幸福になることが目的であり、お題目はそのための手段です。現実生活の中で新しい自分の眼が開くこと、「何か変わってきたな」と新しい発見があること・・・そういった変革の現証を知り確信をつかんでいく人は、悩みがあっても決して行き詰まることはないに違いありません。

 「冥益」(みょうやく)と説かれる信心の功徳は、「顕益」(けんやく)と違い、パッと魔法のように現れはしません。日々の精進においても薄紙をはぐように、木々の成長が目に見えぬとも、10年、20年たてばその成長を見るように、じわりじわりと年月をかけて変革していくものです。

 たとえ苦難の道に遭遇しても、そうした冥益の功徳を楽しみに、粘り強く最後の人間勝利を目指して朗らかに今日も歩いていきたいと思います。





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2020
05.07

逆境こそ私の本舞台

Category: 信心



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 5月の連休もコロナウイルスによる自粛の状態が続きましたが、今しばらくは自重しながらの生活ということになります。私の住まいは田畑が広がる田舎ですので、感染のリスクは都会ほどではありませんが、やはり用心するに越したことはありません。
 
  実は私の地区には信心に対していつも否定的な考えの同志の方がおられます。残念というほかありませんが、そういう人を訪問した時、もっと前向きに希望ある言葉がその人の口から出ないものかと、こちらの気持ちも悲しくなります。信心の心がある人、その心が出ない人・・・そこには何とも大きな開きがあるように思えて仕方ありません。

 信心があるというのはどういうことか・・・結論として、善きにつけ悪しきにつけ、何があろうとさらに御本尊へと強く向かっていく人のことではないかと私は思います。

 いいことがあれば感謝できます。つらいことがあれば御本尊にしがみつく思いでぶつかっていけます。ありのままで幼子が親に抱きつくがごとく、見栄も格好も関係ない、正直に自分をさらけ出してぶつかっていく・・・その人を仏様が見捨てようはずがない。またそれが凡夫の正直な信心の姿ではないかと思うのです。

 今回のコロナウイルスのために商売がやっていけなくなり店をたたむ人もあるかもしれません。そしてそれに不信を抱いて信心から遠ざかる人もいるかもしれない。逆に今こそ「変毒為薬」、「人間革命」のチャンスと捉え、さらに強く御本尊に向かっていく人もいると思います。当然、後者の人こそが「信心のある人」だと言えます。

 まさに試練の時こそその人が篩(ふるい)にかけられる時であります。その時に迷うことなく、学会活動に打って出る、ひたぶるな唱題に励んでいく・・・そうすれば難を乗り越えるだけでなく、最後は「一生成仏」の仏果を得ることができます。四条金吾殿しかり、池上兄弟しかり、死んであの世に旅立つ時に「大聖人様、あの苦しい時に私は一歩も引かずに御本尊を信じ抜きましたよ」そう晴れやかに言えるようにしておきたいものです。

 いい家に住んで贅沢な暮らしをして、人並み以上に楽しみを得て、それが功徳・幸福だというのはあまりにも浅薄な考えです。それが目的というなら信心をしないでも世間にそういう人はたくさんおられるでしょう。信心の本当の功徳は「発迹顕本」であり「一生成仏」であり、それだけはお金を積んでも買えない・・・天皇陛下でも総理大臣でも日本一の金持ちの人でも手に入れることはできないものです。

 その意味で信心強盛な学会員はどの人よりも尊貴でありがたき人です。我々もその栄誉ある仏の軍団との自覚とプライドを持って生きていきたいものです。

 ちょうど昨日、拝読しました「四信五品抄」には次のようにしたためられています。

「問う汝(なんじ)が弟子一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何(いかん)、答う此(こ)の人は但(ただ)四味三教(しみさんきょう)の極位(ごくい)並びに爾前(にぜん)の円人(えんじん)に超過するのみに非(あら)ず将(は)た又真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(げん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり、請(こ)う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿(なか)れ進んで過去を尋(たず)ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒(あにきれんいちごう)の者に非(あら)ずや退(しりぞ)いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可(べ)し天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如(ごと)し蔑如(べつじょ)すること勿れ蔑如(べつじょ)すること勿(なか)れ」


 たとえ外に見える姿は貧しき身なりとも、その内証は仏なのです。人が嘲笑(あざわら)おうとも、自分で自分を卑下することなど決してあってはなりません。いついかなる時も胸を張って、「私は仏なのだ、大長者なのだ」と心得ていくべきです。功徳があまり感じられないという人を見ていますと、自分を低くしたり自分はだめだと思っている人が案外、多いものです。自分は素晴らしいと思って讃嘆していくことはいい意味で「法華の慢」に通じます。

 人は一番苦しい時に本当の信心があるかどうか試されます。また苦しい時に本当の信心が出ます。試練を善き友として信心だけは一歩も引かないように、「逆境こそ私の本舞台」と胸を張り、前進していきたいと思います。







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