2018
05.04

折伏応援記

Category: 信心

 先週の日曜日は、わが支部の男子部N君に同行し、彼が今折伏している友人を一緒に訪ねました。男子部長のK君も加わり、N君の軽自動車に乗り合わせで、片道1時間半の折伏行となりました。

 二人とも実直な青年です。私など彼らの年のころは創価学会も知らず、どこか暗い青春でしたが、それに比べ20代で信心一途に生きている二人は素晴らしいの一言です。

 K君は大阪、N君は横浜の出身。N君は就職で神戸だと思って来たら、それが私の住む町で、とんでもない山奥だったのでびっくりしたそうです。こちらに来て、ある日、車で大事故をやり奇跡的にも一命をとりとめ、なおかつ軽傷だった体験に確信をつかみ、それから熱心な活動家となりました。

 道中、K君が「生まれも育ちも違う3人が、同じ組織で、同じ車に乗り合わせ折伏に向かっている・・・不思議ですね。」というので、「仏法に偶然はないから、ここで3人会う約束をもって生まれてきたんや。」と、私は答えました。



yuuhi1a.jpg



 事前にK君が相手の住む市の学会会館と連絡を取り、折座に使わせてもらう手筈を整えていました。途中で相手の方を乗せて会館へと向かいました。私は学会の会館に案内することもりっぱな折伏であると思います。

 折伏の相手Hさんは40歳の青年で、いろいろと悩み不幸を抱えています。ところが今一つ入会に踏み切れないようです。N君K君がHさんより若いので、年上の相手に強く言えないところもあり、それで今日は私に応援の声がかかったようでした。

 その日は年長の私に話をしてほしいということで、車座になって、私は自分の入会のこと、その後の体験、この信心の大事な点など、確信をもって話しました。話す内容もさることながら、声に確信があることが何より大事です。こちらの迷いのない強い心が、相手の迷妄を打ち破ります。

 途中からHさんの話を聞きながら、質問にも様々答えました。今の家の宗教を変えるのに抵抗があるとのこと・・・それなら家の宗教はそのままに、あなただけが自分のためにまず信心を始めてはどうかと勧めました。

 緊張気味のHさんの気持ちも次第にほぐれ、笑顔も出るようになったので、「一緒にお題目を唱えましょう」と言って御本尊を拝し、数分お題目をあげました。三唱を終えて振り向き、彼の顔を見ますと様子が変わっています。「あれ?顔が明るくなりました。」と言うと、「そうですか?」と驚いたようでした。

 悩み深い心に一条の光が射したのか・・・それとも体内の仏様がにっこり微笑まれたのか?暗かった顔が確かに明るくなっています。その時、私はこの人は近いうちにきっと入会するだろうと思いました。

 慎重なHさんはもう少し学会を見たいというので、5月の同中、座談会に出てもらうこととし、その日の入決とはなりませんでしたが、紹介者のN君と連絡を取りながら、毎日題目をあげていくことになりました。

 その後、二階の大広間なども案内し、Hさんも学会の素晴らしさを実感されたようです。「今日はお疲れさんでした。次は座談会で会いましょう。」と、私は用意していた数珠と経本、先生の本をHさんに差し上げました。

 Hさんを送った後、帰りは3人でこれからHさんの入会までのことを語り合いました。折伏行は楽しいものです。何と言っても仏様のお使いです。私もその日は男子部員になった気分で行動させてもらいました。60を超えても心は20代です。(笑)

 ともあれ、これから残りの人生で後継の青年を育てなければならない・・・元気なうちに、わが支部に10人の若き精鋭を輩出したい。それが私の願望であり、日ごろの祈りです。そのためにもみんなの力を結集したいと思います。

 まずは一人であり自分が立たねばなりませんが、地域広布を阻む強い魔、一人一人の心に巣くう魔を破るには、どうしても同志の団結が必要です。魔は何かと同志間の分断を狙い、人を臆病にさせるものです。

 5月3日・・・今日の創立記念日から、心新たに信心の波動を起こしながら、広宣流布の長征に「今、再び」の出発をしていきたいと思います。


 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ




Comment:8  Trackback:0
2018
04.27

言葉は信じない、行動を見る

Category: 信心


 今、地方の大学に行っている長男が、先日20歳になりましたので、その記念に池田先生の「青春対話」を贈ることにしました。頂き物の大吟醸も一緒に送ってやったのですが、こちらの封はすぐに開きそうです。(笑)その勢いで「青春対話」の扉も開けてほしいものです。

 それでも無事に成人を迎えましたのでありがたい限りです。「全部信頼しているから、責任をもってやるんやで」とメッセージも添えました。反抗心もあってこれまで素直に信心はしませんでしたが、それでもこの春、一緒に勤行をして「お守り御本尊」を受けました。それだけでも大前進です。引き続き、彼が前向きに信心する日をしっかりと祈っていきたいと思います。

 「青春対話」は中高校生向きの本ですが、大人が読んでもとても勉強になると思います。贈る前に少し読みましたら、「私は言葉は信じない。行動をじっと見ています。」との一節が目に入り、胸を突かれる思いがいたしました。




IMG_8467a.jpg




 「言葉は信じない・・・行動を見る」と先生は言われます。これは学園性などが「先生、やります」「頑張ります」というのに対し、「言葉は当てにしない、行動を見ているよ」という意味で言われたものと思います。私も毎朝、毎日、同じ道を踏み固めていくような平凡な活動の繰り返しですが、「無冠の友」「勤行唱題」「学会活動」「役職」「仕事」・・・それらをしっかりやっているかどうか、その一念、心はどうか?先生は逐一見ておられる・・・そう思うと私などまだまだ甘いものです。

 外の御本尊様も、私自身の生命の中におられます。そうでないと私が仏になれませんので、いていただかないと困るのですが、そしてやはりすべての振る舞いをご覧になっていることでしょう。その前で怨嫉や嘘の報告なんかをやってもすべてお見通しです。

  おまけに同生天同名天というのがいて漏らさず天に報告するそうで、これではたまったものではありませんね。(笑)少しは見逃してほしいというか、目をつぶっていただきたい・・・それが凡夫の偽らざる気持ちです。(笑)

 今でこそバリ活のように書いている私ですが、30代のころは訪ねてくる男子部に冷たく当たったり、会合をすっぽかしたり、白百合長さんに全部まかせてB長の自分は居眠りしていたり・・・とそんないい加減な時もありました。今思うと冷や汗タラリです。とても信用などできたものではありません。そんなひどい自分を自分は知っているものです。

 かつての私を知っている人は、私がこうしようと言っても、「そういうあなたも昔は何もやらなかったじゃない」などと言われ、一瞬、凹みます。(笑)でもそれだけ変わったということですので、その分「人間革命」も果たしたのです。「使用後」を見るには「使用前」が必要だから、最初にわざとダメな方を演じたというのが、私の言い分です。

 「自分を一番知っているのは自分です。他人の目は感情で見たり、おとしいれの目で見たりする。わからない。だから仏法の眼で、自分を見つめながら生きることが大事なのです。」

 これも「青春対話」の中の言葉です。人の評価など気にしなくていい。まして自分を知らない人の評価など的外れが多い。それに惑わされるのは愚かです。自分を見つめ、自分はこうすると決めたら、その自分を信じて生きていきたい。自分を信じられない人が、人の言葉に惑わされるものでしょうか?堂々とした自分を築き上げていくことが「人間革命」の目的ですね。

 年々、信心が進むにつれ、強く逞しい歓喜の生命となっていきます。自分がそのように変わっていけるから、この先いけばどんな自分になるだろうと、それが楽しみで私は信心を続けるのです。

 言葉は「理」、行動は「事」・・・行動の人だけが「事の一念三千」を体得でき、わが身を仏と悟ることができる・・・学会員としてまた活動家として、行動できる誉れを胸に、今日も地域を駆けたいと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



Comment:11  Trackback:0
2018
04.13

題目の人となる

Category: 信心



                      


 ここ最近は唱題が快調で、精神面、健康面と充実した状態が続いています。生活のリズムもほぼ安定しており、朝は聖教配達、勤行唱題、仕事に行き、夜は学会活動、帰宅後に唱題・・・そんな中でも最近はよりお題目に精進できるようになりました。

 過日の北海道総会の中の池田先生のスピーチです。
一、信心の根本は「祈り」である。自身のこと、友のことを、具体的に祈っていくことである。「慈悲」の根本も祈りである。「指導」の根本も祈りである。「指揮」をとる根本も祈りである。その根本を忘れると、すべて御本尊から外れた“策”になってしまう。策は、結局、空転し、皆に迷惑をかけるだけである。

 祈り(唱題行)に挑戦しない人は、御本尊から外れた「策」の人となり、皆に迷惑をかけるだけと言われています。厳しい指導です。仏法は世法とは違う一面があります。世法は策を大事に考え、祈りで悩みを打開するということはありません。しかし、信心の世界は祈りが根本であり、悩みの打開を願うならば一番に御本尊に向かう・・・それが学会員のあるべき姿だと思います。

 御書にも「同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり」(寂日房御書902P)とあります。「題目の人」とは「題目しかない」「題目だけでいい」との決定(けつじょう)した一念で、一心に唱題に励む人だと言えないでしょうか?その意味で私もやっと法華経の信者らしくなってきました。

  そうなると信心への取り組みもとてもシンプルです。何があろうとお題目だけでいいのですから、あれこれ難しいこともありません。妙法こそ師子吼であり、「いかなる病障りをなすべきや」・・・御本尊に祈りゆくのみです。その心に歓喜が湧き、題目にも拍車がかかります。智慧が足りない私にはピッタリのありがたい信仰です。なまじ頭のいい人が、不信を起こし、邪智をめぐらし、学会を批判するといういうのですから、仏法は恐ろしいものです。


 今日の聖教新聞の随筆の中で池田先生は、「大文豪ゲーテは、「悪意」や「悪口」、また「否定するしか能のないもの」を厳しく戒め、「破壊するときなら、どんなに誤った論拠でも通用するが、建設するときには決してそうはいかない。真でないものは建設しない」とのゲーテの言葉を紹介されています。(13日付聖教新聞「永遠なれ創価の大城」より)

 事あるごとに創価を批判するだけでは、「悪意」「悪口」「否定するしか能のないもの」であり、悪意の人の中には学会の破壊や分断を画策する人もいることでしょう。創価学会も一つの生命体と見れば、そこに善悪あるのは当たり前です。その悪だけをつついて批判する、ことさら破壊のためにあらゆる論拠を用い、結果、人々の不信と退転を煽(あお)る人・・・そういう人は魔の思いをなす人であります。

 学会員の信心は、自身の生命に御本尊と同じ宝塔を、事として打ち立てる「建設」の戦いです。その「建設」のために唱題行を根本に「人間革命」に挑戦していく・・・それこそが真の価値創造です。創価を批判し分断しようとする人の不信や嫉妬、憎悪の心に比べ、自他共の幸福建設に挑戦しゆく心は、なんと生気にあふれ清々しく明るいものであることか・・・「信の道」と「不信の道」・・・まさにそれは天地雲泥の相違となって、いずれ自身に返ってくるものだと思います。

 今は創価を批判する人であっても、どの人も仏の生命であることに変わりはありません。自分の信心で、また自分の生き方で一人でも縁する人に仏法理解の輪を広めたい・・・その心で私はやっていきたいと思います。

 さて、明日は「座談会」、日曜は「壮年大会」、「創価ファミリー大会」と多くの同志と共にまた力強く前進です。私も風を切るような唱題行で、一切を切り開く「題目の人」となって、広宣流布の新しい道を開拓していきたいと思います。



<4月14日に一部、加筆、訂正をしました>

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



Comment:9  Trackback:0
2018
04.04

仏のエンジン

Category: 信心



IMG_1491a_R.jpg


 

 私もこの3月に新しい役職を受け、これまで以上に同志の皆さんと共に、広宣流布の戦いに挑戦していく身となりました。「創価学会とともに広宣流布に励める人生こそ最高やね」と、私もある友人に語りました。色心ともに穢(きたな)き身の私が仏様の聖業のお手伝いができるのですから心からありがたく思うものです。すべて広宣流布のための労苦ですので、無上宝珠となっていつの日かわが身に返ってくることでしょう。

 信心と役職は関係ないと言えますが、反面、役職を持つことはとても大事なことだと経験からそう思います。私など役職によって信心がまっすぐになり、師弟の道に入り、我見の道を断ったようなものです。またその責任をしっかり果たしていくことで、自分というギアが広宣流布の大きな歯車にかみ合い、功徳の軌道に乗ることが可能となります。

 ブログにも縷々(るる)書いていますが、私自身は真言宗の家の生まれで27歳の入会です。入会当初は熱心に組織で活動していたわけでも、池田先生を師匠と仰いでいたわけでもありません。

 それが40歳になったころ、こんな中途半端な信心では駄目だろうと思い、発心して学会にすべてを賭けてやってみようと決意しました。中途半端は嫌いですのでやるならとことんやる方がすっきりします。そのころ宗門問題もありましたが、私は躊躇(ちゅうちょ)なく学会の信心を正しいと選択し実践していきました。やはり、決意の一念が道を開くものです。

 学会員の多くは、決して特別な人たちでもなく華やかでもない・・・貧乏や病気や家庭問題など様々な悩みの中を信仰している普通の人たちです。そのことがかえって学会が民衆から離れない信心である証明であり、そこに私は安心を覚えます。

 そういう平凡な庶民の人たちと一緒に生きていくことが、正しい人の在り方だと思います。生来、排他的で高慢なところが自分にはありましたので、その自分が「人間革命」するということは、人の輪の中でスクラム組んで共に生きていけるようになることだと思ったのです。

 おかげさまで今では地域の人たちと仲良く信心に励むようになりました。釈尊も「善き友をもつこと、善き仲間がいることは、仏道修行のすべてである」と述べています。一部ではなく「すべて」との言葉ですので、いかに善知識が大切か・・・信心において和合僧団を離れ、独りよがりになることは危険な兆候だと私は思います。

 そんな私も年々信心で功徳をいただき、すべての面でよくなってきました。その確証がないとやはり信心は面白くありませんし、飽きっぽい私ですので続かなかったでしょう。仏様というのは、その人の欠点も含めてちゃんと化導してくださるものだと思います。今では池田先生と共に広宣流布に生きていく自分となりましたので、基礎の部分で「人間革命」ができたと思います。

 「学会こそ生命の安全地帯」・・・池田先生はそう言われました。私もそのことを今、強く実感します。たとえすぐに目に見える大きな功徳がなくても、学会員としてまじめに信仰に励めば必ず守られていきます。そしてやがて枯れかかっていた木が息を吹き返して青々とした葉が茂るように「蘇生」していく・・・ほんとうに「妙とは蘇生の義なり」です。

 題目と学会活動を旺盛にすれば、生命にある仏のエンジンがうなりをあげてばく進していきます。その力をもってすれば不可能などないという確信が私にもふつふつと湧いてくるではありませんか。いよいよ仏のエンジンのアクセルを吹かして、時には元気な男子部員と、また信心強盛な壮婦の方々と弘教街道をひた走りたい・・・そんな思いで日々の学会活動に全力で取り組んでいきたいと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ


Comment:4  Trackback:0
2018
03.14

生命はやまびこのように

Category: 信心



sakura1a_R.jpg



 ここ数日、友人から電話やラインでいろいろと連絡をいただきました。一人は婦人の方で長年、お子さんのことで苦しんでいた悩みがすっきりと晴れたとの知らせです。電話の向こうの声も弾んでおり、「煩悩即菩提でしょうか?地獄の苦しみがぱっと消えたようです」と言われていました。いつもと違って(笑)花が咲いたかのような元気な声でしたので「彼女にも春が来ました」と私も御本尊様に感謝を申し上げました。

 もう一人は数年前、本部長の家に営業で出入りしていた置き薬店の青年(非学会員)です。ここしばらく連絡が途絶えていたのですが、2年前から発心してこの春、27歳で早稲田の教育学部に合格したとの連絡でした。突然で私もびっくりしましたが、そのあと私からもお祝いの電話を入れエールを送りました。自分から連絡してきたのを見ると、やはり本人もうれしかったのでしょう。両親が離婚し生活も大変なのを聞いていましたし、そんな中、夢をあきらめないで一人頑張っていたのです。「本当に素晴らしい、よく頑張ったなあ」と私も感動しました。

 また今日は先ほどある婦人の方から、「池田先生から書籍の贈呈をしていただくことになりました」との連絡がありました。その方も苦難の中を地道に活動に頑張っておられる素晴らしい方です。「どうして私がいただけたのでしょうか?」と聞かれるので「あなたがコツコツと頑張っているのを幹部さんが見ておられ、きっと先生に報告されたのではないですか?」と申し上げました。

 ご縁のある人に不思議といいニュースが続くので、「ああ、私の周りで諸天が舞い始めているぞ」と、私もありがたい気持ちになります。。

 以前の私なら人が幸福になる話を聞けば、どことなくうらやましく思ったり、自分を卑下したりとそんな心もありましたが、今は一緒になって喜ぶことができる。そうなると私にもその人たちと同じ幸せが訪れたようであり、自分にも功徳が出たように感じるのですから不思議です。

 そういう日常の小さな出来事に自分が「人間革命」していく姿が映ります。人が頑張っているのをちゃかしたり、上げ足を取る人もいる中で、人に同苦し、励まし、その幸福を喜ぶ・・・そういう自分を発見することは素晴らしいことであり、それは気持ちのいい生き方です。また自身が幸福へと向かっていく上で菩薩の証にもなると思います。

 妬みや憎悪の生命が強い人は、やはり自分自身が苦しく、またそれが反映されて自分の生活に現れます。私もどちらかというとそういう生命でした。先日も私はある人に「生命はやまびこのようですね。妬みや憎悪を出せばそれがそのまま自分に返ってくる。感謝や歓喜の心を出せばそれがそのまま自分に返ってくるんですよ」と・・・

 歓喜と感謝の自分になり、諸天が喜び舞うような自分にならねばならない。どうすればそんな自分になれるか・・・私もそのことでは随分悩みましたが、結局は広宣流布を目指し、学会同志の輪の中で切磋琢磨し、誰が見ずとも唱題に活動に地道に励むしかないのだと思います。信心には魔法も要領もありませんね。先生を信じ、求め、陰徳に徹していく・・・私が今感じている功徳の多くも「無冠の友」として、また同志の方々と一緒に長年、耐えて信心に励んできたことによるものと思っています。

 私も今では妙法を唱えることに歓喜と感謝をもって唱えることも多くなりました。そうなると諸天善神もきっとじっとはしていられないでしょう。万里の外から私にふさわしい幸福を連れて、やまびこのように帰ってくるに違いありません。

 さあ時は弥生三月・・・陽光もすっかり春めいてきました。花々も一斉に咲き誇ります。皆さんの生命がさらに春の花のごとく光に輝き、生きている歓喜を広げていかれることを祈りながら、私も前進したいと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ




Comment:5  Trackback:0
back-to-top