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2020
02.02

波浪を乗り越え、我らは進む

Category: 信心

「広宣流布も信心も同じだよ。ひとたび帆を上げたら、嵐がこようが、何があろうが、前進するしかないんだ」
(「新・人間革命」第8巻・布陣の章・62p)

 これは奄美大島に指導に向かわれる船上で、船酔いに苦しむ同行の幹部の方に、「港を出た以上、船から降りることはできない。前に向かって進むしかない」という意味で、先生がお話しされたものです。

 私たちはこの世に生を受け縁あって、「創価丸」の一員となりました。魔軍が待ち構えていようとはよもや夢にも思わずに・・・(笑)大海原に「一生成仏」という楽土を目指して航海に出たのです。池田先生を師匠・船長と仰ぎ、襲い来る波浪を団結で乗り越え広宣流布を目指していく・・・それが創価池田丸の大船団です。今や世界192か国から呼応して船が集まってきました。



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                     ( 京都府・丹後半島)



  各地域にあっては、誰一人、下船することのないように、皆で励まし合っていかねばなりません。幹部や役職など関係なく、困っている人、苦しんでいる人に寄り添って、ともに最後まで旅を全うする・・・その意味で親や兄姉の思いで同志を慈しむのは当然です。

 最初は自分のことしか考えなかったような人間が、他者に愛情を注ぐようになる・・・これは大きな「人間革命」だと言えないでしょうか?私も自分の人間革命を問われれば、「人嫌いで自己中だった自分が、多くの人を尊敬し愛せるようになりました」と言いたいと思います。相手の欠点ではなく良い部分が見えるようになれば、どなたも自分より素晴らしい人材に思え、尊敬できるようになるものです。
 
 長年、私も研究しましたが、夫婦や家族は褒めて讃え合うようになる以外に、一家和楽の道はないことを発見しました。(笑)大発見です。あり余るお金を奥さんに持って帰れば夫婦円満かもしれませんが、お金が切れた時は悲惨です。そんなお金のない時も互いを尊敬し褒めあっていけば何とか楽しくやれます。心まで貧乏になることはありません。沢庵と白いご飯を出してくれるだけでも感謝できます。それに焼き鮭でもあれば「素晴らしい」と讃嘆できるではありませんか。

 まだまだ人の素晴らしさが見えないとすれば。そこに境涯革命が必要になってきます。心の眼、生命の眼が濁って、相手の悪いところしか見えない。その曇ったレンズを相手の良さが見えるまで磨かねばなりません。題目で磨いて仏の生命が開いてくれば、どの人の生命も素晴らしく見えるに違いありません。

 さて新年から気持ちも新たに「新・人間革命」を少しづつ研鑽始めました。組織では7巻を今やっていますので、私は予習の意味で8巻から再スタートです。「法華経の智慧」も並行して読みます。私はとても遅読で少し読んでは気になるところに線を引いたり書き込みもします。そこでしばらく立ち止まり、思案したりまた前に戻ったりといった調子ですので、1巻読むのにとても時間がかかってしまいます。30巻通しではいつ全部読めるやら・・・

 その代わりゆっくり読むことでいいこともあります。食事と一緒で、よく噛んで味わえるということです。
描かれている時や場所に自分がそこにいればどうするだろうかと考えます。登場人物の人間性や善悪なども深く洞察できます。描かれる事象から仏法を考え、吸収し、自分の血肉としていかねば、せっかく読むのにもったいないというものです。ザルの目から黄金をこぼすまいとの思いで学びたいと思います。

 記事冒頭に紹介しました一節も何気ない言葉ですが、多くの人が退転していったこれまでの歴史を振り返れば、とても意味深い言葉に思えます。悪知識にあって創価丸を見捨て退転した人の末路ほど哀れなものはない・・・それゆえ「誰一人としてこの道から落とすまいぞ」との信念と、仏法の因果の厳しさを知っておられるゆえの親心のような心情が、行間から伝わってくるのです。

 
 さあ「伝統の二月」がスタートしました。折伏と言えば難しい戦いのように思いがちですが、感謝と歓喜の生命をもって楽しくやりたいものです。私も歓喜の生命をもって渦巻く娑婆の大海に躍り出ます。そしてシャチの如く体を躍動させ、弘教に邁進していきたいと思います。






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2020
01.14

君自身が「御本尊」

Category: 信心



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                            2020年初日の出


   
 皆さま、新年明けましておめでとうございます。
 2020年が開幕し、元気に新年を出発をされたことと思います。新春の箱根駅伝では創価大学トップの米満君、アンカーの嶋津君の大激走があり、シード権獲得となる9位の大勝利・・・波乱の展開もさることながら、眼の障がいに負けない嶋津君の姿に、内外に大きな感動が広がりました。本当におめでとうございます。

 一昨日、早速、年初めの座談会があり、私も御書講義を担当しました。
「末法に入つて 法華経を持つ 男女のすがたより 外には宝塔なきなり 若し然れば 貴賤上下をえらばず 南無妙法蓮華経と となうるものは 我が身宝塔にして 我が身 又 多宝如来なり「御書1304p)

 この「阿仏房御書」に信心の真髄もあると思います。
 「神様は素晴らしい、教祖は偉大だと言う宗教はあれど、「あなたこそが仏ですよ」と讃えているのはこの宗教だけではありませんか。法華経をたもつ私たちが宝塔であり仏です。またそれだけわかればいいと仰せです。今、キリスト教の世界にも内道たる「人間革命」の教えがどんどん広がっています。この10年は創価学会が世界宗教になっていく10年であり、本当にすごい時代の幕が開いたのです」・・・私はそうお話ししました。

 私も今年から新しく生まれ変わった思いでやっていこうと決意しています。「唱題で一切を切り開くのだ」「先頭に立って折伏をやるのだ」と一層、強い思いにかられます。

 「題目しかない」と腹が決まれば、信心に迷うことはありません。それが決まらないうちは、信心に迷っているとも言えます。本当に困り果てて拝むしかないとなれば、そこから本当の信心が始まるのだと思います。

 仕事を持っている人であっても、一日一時間の題目はあがります。また外にいても胸中唱題に励めます。時間の長短だけではなく真剣な祈りが大事だと思います。私も朝は5時過ぎに起きて1時間の聖教配達です。仕事もあれば、夜も毎日のように会合があり、帰宅すると九時を回ります。その中を朝から晩まで題目を唱えぬいて前進する決意です。

 先週はほかの地区の座談会にも出て、各地区の皆さんから大いにパワーをもらいました。やはり人の輪の中に入ると、寒さも吹き飛び元気が出るものですね。題目と活動・・・その両輪があってはじめて車となってまっすぐに進みます。また日曜、月曜と二日間休みでしたが、私は新年勤行会に参加できなかった人を中心に、精力的に家庭訪問に歩きました。唱題、折伏、家庭訪問・・・その実践と行動の中に、自分の人間革命もおのずと進展していくことを確信しています。

 昨夜、同志の方に贈る言葉を探していましたら、池田先生の指導にこんなふうに書いてありました。

 (=父が未入会であることに悩む学生部メンバーに対して)
池田先生:そこで「仏法」を出すからいけないんだ。そんな必要はないんです。君自身が「仏法」であり、君自身が「御本尊」なんです。御書にもそう書かれているじゃないか。大事なのは、親を思う子としての振る舞いです(新・人間革命第25巻「人材城」)

 まさに阿仏房御書の通りですね。私たちが仏法であり御本尊です。その代わり、普段、御本尊のような振る舞いができなければいけません。何かあるたびに愚痴ったり、怒ったり、また親に向かって、「仏法」をわからせようとしたり・・・(若い頃は私もやりましたが。汗)それではお寒い親不孝菩薩です。

 私にも年老いた母がいますが、あれこれ理屈で言う前に、親に感謝して優しく振る舞うことのほうがどれだけ価値的か・・・今頃になって身をもって感じます。自分がその振る舞いになれば、親もこちらに感謝を感じ、信心にも納得せざるを得ないことでしょう。

 また家に暖炉がひとつあればいいとの指導もあります。暖炉が一つあるだけで皆が暖かい。それと同じで信心する人が一人いれば、その功徳は家中を満たします。だから信心のことで喧嘩など絶対してはいけないとあります。日蓮大聖人が一家に一人おられるとなれば、その家はそれでもう十分すぎるのではないでしょうか。

 人から見て「あなたのようになりたい」「あなたの人柄や生き方が素晴らしい」と言われることは仏法の素晴らしさの証明となり、大きく折伏に通じていきます。それこそが「人間革命」する人の本当の折伏であり、私もそうありたいものです。
 
 今年から2030年までの10年は、私としても今世の勝負を決する10年だと思っています。その時に当たり、創価学会の一リーダーとして戦えることは本当にありがたい・・・まさに血沸き肉躍る思いです。私にとって天下分け目の関ケ原への出陣の時がやってきたようです。

 皆様の信心倍増、ご健康、ご多幸を祈りながら、本年も出発進行・・・いや出発信仰!!です。 どなた様も乗り遅れの無いように、幸福特急「創価号」で、楽しく希望に満ちた旅路へともに出発してまいりましょう!



※学会活動も一段と多忙となり、今年は記事の更新があまりできないと思います。広告のぺんぺん草が生えることもあるでしょう。別館の「法華経の智慧ノート」も同様です。座して思索するよりは実践第一、現場第一でそこにすべてを賭けて戦いたい・・・それが今の私の心境です。どうかその旨ご了承願います。

 



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2019
11.24

籠の中の鳥

Category: 信心


 先日の夜、私は学会の会館警備の任務に就いておりました。その夜は特に大きな会合もなく、男女青年部がそれぞれ小会合を予定していただけでしたが、女子部のほうは珍しく部長2名だけで唱題会をするということでした。

 会館は地方にある比較的小さな会館です。しばらくすると警備室にいる私の耳にも女子部員の唱題する声が聞こえてきました。それは女子部らしく、山の谷川を清水が迸って走り落ちていくようなよどみのないリズミカルなお題目です。二人で警備についていましたが、相方の高齢の方も「私には早すぎるけどさすが女子部部長、ええ題目やなあ」と言っておられました。



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                     関西池田墓地公園の紅葉(11月10日)



 私は思わず目を閉じ、耳を澄まし、その音声に心をゆだねて聴きいりました。そしていつしか自然とその題目に合わせ心で唱えていました。するとやがて二人の題目の音声に、自分の仏性が呼ばれてしきりに体内から出ていことするような感覚に襲われたのです。「南無妙法蓮華経はすごい世界だよ。早くあなたも出てきなさいよ」とそんなふうに聞こえるのです。私はまるで籠の外の声に誘われ出ていこうとする鳥のようでありました。

 御聖訓には「譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し」(法華初心成仏抄557p)とあります。

 それと同じことが私の中で起こったかのようです。それはあまり経験したことのない不思議な感覚でした。女子部の唱題は一時間以上も続いたのですが、よどみなく題目をあげ切った二人に私は感動を覚えました。私の仏性を呼び出すために唱題してくださったようにも思えます。唱題を終えて玄関に出てきた二人に「あなたがたの題目がすごいからこっちの仏性が飛び出すかと思ったよ」と言いますと、二人は上気した顔で笑っていました。

 「南無妙法蓮華経という仏の生命はどの人の命にもある。あるから縁に触れて出るのだ。なければこのような感覚に襲われることもない」―そのことを如実に教えられた出来事でした。あれから3日ほどたちますが、まだ私の体内を彼女たちの題目が駆け巡っているようで、私も題目をもっとあげたいと思います。

 池田先生は「ひたぶるな題目」と言われます。法華経の兵法とは理屈ではなく、只々「ひたぶるな題目」を唱え抜くということではないでしょうか?それ以外の策は世間の兵法です。何かあるごとに題目、題目と御本尊に向かう人こそ真の信者だと思います。

 11月も後半に入り、朝晩も少しづつ寒くなってきました。間もなく厳しい寒さがやってきますね。信心する人は冬のごとし・・・厳寒の暗い冬の道を、御本尊という一筋の光明を信じ、負けじ魂を発揮しながら信心に励む・・・それが私がイメージする求道者の姿です。中には満ち足りて悠々自適の人もおられるでしょうが、耐えながら苦難の中を歩く人こそ私は人として魅力を感じます。本当の行者とは安易で楽な生活を夢見る人ではないはずです。

 日蓮大聖人様も大難の連続であられました。牧口先生、戸田先生も獄中生活・・・池田先生も世間から悪口の限りを言われ、信頼する同志に裏切られ、僭聖増上慢である坊主どもから赤誠のご供養を破壊され苛(いじ)め抜かれるという大難を歩み通されました。そしてあらゆる難に屈することなく完全勝利されたのが創価の師弟です。その師匠の生命こそ法華経に説かれる宝塔であり、あたかも大殿堂を仰ぎ見る思いがするのは私だけではないと思います。

  それらの師匠に比べれば、我々はまるで温室の中で信心しているようなものではありませんか。せめて与えられた小難に屈することなく信心を貫きたいものです。苦難の中に、またギブアップしない精神の中に仏という財宝があることを信じ、いよいよ題目一筋で前進していこうと決意しています。




                     

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2019
11.11

「化城即宝処」

Category: 信心


 今月は聖教啓蒙が活発に行われたこともあり、私の地区でもいつもの倍以上の配達となりました。普段は4、50分ほどの配達ですが、今月は新規の方も多く1時間半近くを要します。慣れないうちは配達漏れが出て「はて、どの家を忘れたか?」と配達表を見直すこともあります。

 今は広宣流布のお役に立つことが生きがいとなりましたので、部数が増えても苦にはなりません。むしろより多く広布の戦いに勤しめるのですからありがたい限りです。こうして生きて広布のために身を削る・・・それは糞を黄金に変えていただくようなもので、その労苦は願ってでも受けたいと思います。



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 今、私も「法華経の智慧」(聖教新聞社)に学んでいますが、(「法華経の智慧ノート」)合間を見て池田先生の指導に学ぶのは私にとっては楽しい時間です。御書を拝するのも池田先生の指導を拝しながらということが多いですが、最近は「そうだ、そうだ、その通りだ」と思いながら拝読することが多くなりました。

 「信行」だけでも人間革命はできるでしょうけど、「信行」が進めばおのずと「学」も欲するようになると思います。法華経は何を説こうとするのか・・・この世で信心を受けたもった意味とは・・・そして絶対的幸福とはどういうものなのか・・・と、様々な疑問が次々と湧き、戸田先生や池田先生の指導にその答えを発見しては、また力を得て前進する・・・その繰り返しです。

 ちょうど組織でも今「法華経の智慧」講義をやっています。私も月に一度ですが総県の会場へと一時間半かけて受講に行きます。自分で家で読むのもいいですが、人の講義を聞きますとまた新たな知見が得られます。目で読み、耳で聞き、一人で思索し、また同志とともに学ぶ・・・生来、怠け者ですが一歩でも1㎜でも機会をとらえて学びたいと思います。

 今回も「化城即宝処」についてのお話を聞き、改めて「なるほど、そうか」と納得することがありました。
 信心していますと「一生成仏」という明確なゴールがあったり、また「広宣流布」という「舎衛の三億」に説かれるような到達点があるという風につい思ってしまいます。「今日で広宣流布は完成しました。もう明日から折伏も選挙もやらなくていいですよ」とそんな時が来ればいいのですが、それではこちらの修行の場がなくなってしまいます。(笑)

 それではどう考えるのか・・・結論だけ言いますと、いつか、どこかに「一生成仏」や「広宣流布」のゴールがあるのではない、今、ここに「一生成仏」もあれば「仏国土」もあるというふうに捉えるのです。それが「九界即仏界」「化城即宝処」ということになります。学会でも現実の実証ということを大事に考えますが、今この場所で勝利して幸福になることを目指します。どこまでも今いる場所が宝処であり、悩み深き自分が仏だと教えているのです。皆さんはそう信じておられますか?たとえ身が地獄にある時も、そう堅く信じて前進することだと思います。

 九界と仏界が別物だったり、化城と宝処が別々なら、一体、仏界や宝処はどこにあるというのでしょうか?それでは死んで極楽浄土にいくような話で、凡夫には死ぬまでわかりません。私の先輩も「いつか竜門の滝を昇って仏になるのではない。今、仏となって滝を昇ればいいのだ」とおっしゃいました。その意味が今ならよくわかります。

 日蓮大聖人のお言葉も、法華経の法理にしても、決して御書や仏典の中だけのことではない。長者窮子や衣裏珠の譬えにしても決して他人事ではありません。それらはすべて自分のことを説いているのであり、自分の生命の話なのです。その意味で「我が身一人の日記文書」(御書563p)と拝するべきだと思います。そう信じていくならば、自分の生命をより深く掘り下げていくことができます。

 「教学は信心を深める。また、信心が進んでくれば、どうしても教学を要求する、その教学はかならず信心を深め、その信心は功徳を涌現していく」(池田先生)

 まさに師匠の言葉通りですね。今日よりはさらに道を求め、「行学の二道」に励んでいきたいと思います。

 

※「化城宝処の譬え」については、「法華経の智慧」(単行本第二巻)の中で斎藤さんが解説されていますので転載いたします。その前後に池田先生の大事な指導がありますので、本書の拝読をお勧めします。

斎藤:譬喩の題材になっているのは砂漠を旅する隊商の一行です。宝のある場所(宝処)を目指して五百由旬もの険しい遠路を、一人の導師に導かれた隊商が行きます。しかし、途中で人々は疲労の極に達し、もうこれ以上進むことはできない、と導師に言います。ここで引き返しては、これまでの苦労が無駄になってしまいます。すばらしい宝を捨てて、なぜ帰ろうなどというのか、と人々を憐れんだ導師は、三百由旬を過ぎたところに神通力によって一つの城(都市)を作り、あの城に入れば安穏になれると励まします。この言葉を聞いて歓喜した人々は進んでその城に入り、疲れ切っていた体を休めました。人々が休息を十分にとったことを確認した導師は、その城をたちまちに消し去り、あの城は、あなたがたを休息させるために私が作った幻の城に過ぎない、真の目標である宝処は近い、と説くのです。




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2019
10.30

不惜の誓いに生きる(1)

Category: 信心



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 このブログを通じてお知り合いになったある方から、先日、池田先生の「不惜身命と現代」という指導を紹介していただきました。「御書と師弟Ⅰ」(聖教新聞社)という本の中に収められているものですが、それを読んで思ったことを少し書こうと思います。

 この章の冒頭に戸田先生の言葉を紹介されています。「人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも、万人の幸福への根本的な道はない。その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」

 この言葉通りに戸田先生との師弟の道を全うされたのが池田先生です。先生ほど広宣流布に身命を捧げられた人はいない。先生は「私を超える人材に・・・」と常々、青年部に呼びかけておられますが、今後、立派な弟子の方が出現されたとしても、先生を超えるような人材が出ることはないでしょう。「あなたもその一人になってください」という池田先生の言葉は、後継の人への魂からのメッセージだと思えてなりません。

 世間のことにしろ、命を賭けないものに本物はないというのは真実でしょう。その意味で自分が命を賭けるものに出会えるかどうか・・・まずそのことからして至難のことだと言えます。多くの人が命を賭けるものに出会うことなく人生が終わる、また出会えたとしても世間の浅きことや、偏狭な思想に捕らわれて終わることも多いものです。戸田先生が「これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」と言われた仏法に、私たちは出会えました。あとは自分がどこまでやるか・・・自分との戦いですべては決まることでしょう。

 池田先生は「一滴の水は、そのままではいずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠性の命を得ることができる」と言われています。己一滴の小我を捨て御本尊という大海に、また広宣流布という仏の誓願に命を賭けて戦いゆく時、凡夫の生命が御本仏の大生命と一致し、大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのだと教えておられます。

 しかし凡夫がその道を行こうとするなら、容赦ない魔との戦いを覚悟しなければなりません。私も落ちることのないように、毎日発心して前進する日々です。それでも自分が命を賭けてやってみようと思えるこの仏法に出会えたのですから、信心だけは中途半端ではいけない、魔王に堂々、宣戦布告して雄々しくやろうと思っています。

 昨年 法華講から学会へと生還された壮年の方から、今日も相談をいただきました。「友人がいまだ法華講にいるのですが、どうしても自分一人では話が切り出せない、力を貸してもらえませんか?」というものでした。私は二つ返事でOKして、次週の相手の休みの日に一緒に訪問することにいたしました。

 信心のことにはすぐに行動を起こす。善良なる同志の力にいつでもなりたい・・・と、喜び勇んで動く自分でありたいものです。こんな私も今では、学会活動が一番楽しい自分となりました。

 戸田先生はこう言われています。「私は二年間の獄中闘争に勝った。それは己を捨てたからだよ。牧口先生にお供して、広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、何の迷いも恐れもなくなった」

 私たちもその心の万分の一でも命に刻み、この信心に己を捨てる決意で臨みたいものです。それが師弟不二の道であり、何より自身の三世の幸福のためです。それは特別なことではなく、今の姿のまま、今いる場所で、一人御本尊様に誓って行動できます。自分はこう生きようと決めたらあとは前進あるのみです。今の境遇を嘆くこともなく、「ここから反転攻勢の戦いをやってやろうじゃないか!」との闘魂が湧いてきます。

 迷いも恐れも悲観もない・・・そんな不惜の心に立って、今日も明るく元気に前進、前進、また前進です。





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