2017
09.13

閻魔の笑った顔

Category: 信心
 信心だけでなく、どんなことでも、自分の命で体当たりし、もがきながらつかみ取ったものでなければ、本物とは言えないと思う。妙法という仏の良薬を服し、折伏を実践し、どのように自分が変わっていったか、その体験がその人にとっての仏法であり、その姿、確信が、周囲の人をも変えていくに違いない。

 自分に確たる信仰体験のない人が、理だけを学び人を指導しても、やはり説得力にかけるだろうし、仏法の素晴らしさを生き生きと伝えることはできないと思う。

 仏法を実践すれば歓喜が湧き、生命が躍動する。どんな御馳走も食べなければ、いつまでたっても「おいしそうだ」で終わる。実際に食べてみたら「おいしい!まいう~!」と身口意で叫べるのであり、その感動で、人も食べたい!と思うのである。

 そういう意味では、人に対しても想像や妄想の域で考えても、何もわからないし、何も変えられない。それよりは直接会いに行き、眼を見て話をしてみることが大事だと思う。一度でダメなら、二度三度とぶつかっていく。そこからきっと何かがわかり、何かが変わる。

 私は27歳で入会したけれど、入会したら周りに学会員がたくさんいることがわかった。それで私はその人たちに、「どうして君たちは、もっと早く僕を折伏をしてくれなかったんだ」と言ったら、「おまえだけは絶対、信心しないだろうと思っていた。」という返事が返ってきた。

 命のどこかで信心を求めていた私だったのに、誰も「そうではない」と決めつけていたのである。その経験からすれば、表面的な姿で人を決めつけてはいけない。決めつけるなら、どの人も仏法を求めていると見るべきだ。へたな鉄砲も数打ちゃ当たるというけど、名人であっても打たなければ、永久に当たらない。

 大聖人様御在世当時、熱原の三烈士をはじめ、名だたる信者の方にしても、御書全集があったわけでもなければ、教学の本の一冊もあったわけではない。もちろん「博文堂」でお土産を買うという楽しみもない。(笑) 農民の人などは、文字も読めなかったと思う。それでも命を捨てるまでの信仰を実践し、山賊の出そうな山海の道を、大聖人様を求めて旅をしたのだ。たとえ難しい法門は知らなくとも、人はここまでの信心が十分できるのである。それこそが「信」の持つ力だと言えないだろうか。

 そうやってみると、雪のような純白な求道心こそが、一生成仏にとって、絶対に必要だということであり、その清らかな信こそが一切の要であるといえる。

 自分がそういう心で信心しているか、その一念が問われるのであり、人の観察ばかりしていないで、自分自身を見つめることがとても大事なことだと、私も反省している。(笑)

 ともあれ仏法の実践は楽しいものだ。今月の座談会御書は「持妙法華問答抄」である。「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき(御書全集467p)と仰せである。折伏の好きな人なら大好きな御書である。この世の出来事は一睡の夢に終わるとも、実践した唱題と折伏だけは生命に刻まれ、命から消えることなく、冥途の衣装となるのである。

 閻魔大王もこの衣装を見れば、三途の川で笑って道を開け、「あちらで大聖人様、日興聖人様がお待ちですよ。」と案内してくれるやも知れない。皆さん、めったに見れない閻魔の笑った顔を見るためにも、「自行化他」の実践に悔いなく、励んでまいろうではありませんか。




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2017
08.26

この道を生きるに迷いなし

Category: 信心
 私は今、創価学会に全幅の信頼をもって生きている。それは私の信念であり、運命であり、人としての正しい道だと確信している。

 三世の旅路に牧口、戸田、池田先生に随順して生きていく・・・自分の生命にその確信を得たことが悟りであり、生命の基底部にそれは土台となって現れたと思う。今度生まれ来たれば、もっと若き時から池田先生のもとにはせ参じ、広布のお役に立ちたいと思うし、きっと願った通りの人生になるだろうと安心もしている。

 その道に入れたことは、過去の宿縁によるところが大きいに違いないが、何の逡巡もなく、ごく自然にその道を行く自分になったことは、やはり不思議と言わざるをえない。こればかりは創価を批判する人には、理解不能な世界だと思う。

 入会以来、私はお山への登山も人一倍参加し、宗門へのご供養もよくしてきた。アパートで強い声を出せないために、近くの正宗寺院にも日参する如く、題目をあげに行ったものだ。

 そんな私が、宗門問題を契機に、宗門を捨て、学会へと大きく舵を切るに至った。私にしてみればその判断は直感的であったけれど、今思うと命の奥底の声が、「学会が正しいのだ」と、そう私に呼びかけたのだと思う。

 宗門は仏法を伝持してきたかもしれないが、創価学会の折伏弘教がなければ、とてもこの正法に巡り合うことはなかっただろう。その意味で、私は創価学会に大恩を感じるのであり、いかに落ちぶれようと、決して学会だけは裏切りたくないというのが、私の人としての思いである。

 もちろん、学会のすべてが正しいとか、何も問題がないとは思わない。組織である以上、また凡夫の集団である以上、様々なことがあるのは当然であり、いつの時代にも内部に魔がうごめくのも、仏と魔の世界である以上、やむを得ない。

 そうであっても私は学会から離れることなく、そこで「人間革命」と「広宣流布」に励んでいくだろう。池田先生との「師弟」の絆こそが、私の生命線であり、そこから御本尊様を拝することが、仏果を得る最上の道だと確信しているからだ。

 地元の組織にあっても、私は人として未熟だけれど、同志からある一定の信頼を受けていると思う。そうした信頼は、昨日今日できるものではない。自分の顔、姿、生活をさらし、信心の姿勢を長年にわたり見てもらい、得られるものである。そして私もまた多くの婦人部、壮年部の同志の方々を信頼し、尊敬している。

 人が見ようが見まいが、長年、地道に唱題に励み、活動に勤しむ持続の信心が、その人の信心の骨格を作るのだと思う。そうやって作られた信念は、決して凡師人師の言葉に左右されるものではない。いかなる悪縁に出会おうとも、まったくぶれることもない。

 地元の同志の方々を大切に、さらなる信頼を勝ち得て、私も地域の柱となる決意である。決して同志の方々を欺(あざむ)くようなことだけはしたくない。そんなことをすれば、忘恩の輩となって、これまでの功徳は一時に消え去り、死しては阿鼻地獄に落ちるだろう。

 「この道を生きるに迷いなし」・・・人間それでこそ力も勢いもでる。世界を照らす太陽の心で、不信の闇を晴らしながら、今日も明日も、未来にも、喜んで創価の大道を歩いていきたいと思う。






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2017
07.19

組織という名の宝処

Category: 信心
 
64年前の7月21日に池田先生の人選で新たに「水滸会」が発足したそうですが、その折、池田先生が三か条の誓い(水滸の誓い)を示されたそうです。

 それは「御本尊に対する誓い」「師匠に対する誓い」「会員同志の誓い」の三か条です。(聖教新聞「栄光の峰をめざして」7.10日付より)

 とてもシンプルな言葉ですが、私は創価学会の信心の根本がここに示されていると思います。

 この3つの誓いに生きる人は、仏法の軌道に乗り、やがて歓喜と幸福の世界に入っていくだろうと思います。逆にそのうちのどれかが欠ければ、やはり不完全な信仰になるだろうと思います。日々の修行は御本尊に対し、その心をより深く強めていくものだと私は思います。

 その心で信心に励む人達が団結し、「広宣流布」の戦いをしていく・・・それを仏様は、どんなに喜んでくださるだろうかと思います。互いに尊重しながら、信心を高めあう・・・同志が生命と生命で結ばれた家族のように仲良くしていくことも、人としてまったく自然な流れです。

 学会の師匠は、常に民衆の中に飛び込み、民衆と一体となって、広宣流布をされてきました。そこに仏法者の向かうべき正しい道があると思います。ガンジーやキング博士など、人権運動のリーダーも、同志と手をつなぎ、連帯をもって権力や差別と戦いました。真に「一人立つ」人こそ民衆から離れない・・・積極的に同志との連帯を広めゆく人だと思います。






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 組織がなくても一人で、信心はある程度できるかもしれない。しかし「広宣流布」はできないと私は思います。世界広布が進展する時代にあって、しっかりとした組織がなければ、どうして多くの入会者を受け入れ、責任をもって育てていくことができるでしょうか?各自が勝手気ままで、どうやって「異体同心」の勢いが出せるでしょうか?「広宣流布」の信心である以上、それを推進する創価学会に殉じることは、私は日蓮門下として最も正しい生き方であると思います。

 私もかつては素直になれずに、組織に出ない時期もありました。そのどちらもやった経験から、組織に出ないときは、やはり独りよがり(利己的)であり、発展性のないものであったと思います。今、地域の人々と切磋琢磨する中で、生命は「麻畝の性」のごとく素直になり、人間的にも開けてきたことを感じます。

 そこに組織活動による功徳の大きいことを感じますし、何より同志の方と活動している自分を健全に感じます。学会活動が何をするよりも好きになったと言ってもいいかと思います。

 戸田先生は「戸田の命より大切な学会の組織である」と烈々たる気迫で言われました。また「大聖人が創価学会を召し出だされたのだ。学会の信心以外に、大聖人の御心(みこころ)に適(かな)う信心などない。御本尊の本当の功力もない。仏法は勝負だよ。」と言われています。本当にこちらが吹っ飛んでしまいそうな戸田先生の師子吼は、まさに学会こそが宗教界の王者との大確信の言葉であります。

 信心の組織である以上、、教義や運動などその教団の独自性はあります。また内部に傲慢な人もいるかもしれない。負の部分をあげれば、どの組織、団体もあるに決まっています。しかし、学会の本質は、戸田先生が断言されたように、日蓮大聖人が召し出だされた「仏意仏勅」の仏の一団であり、大聖人様御遺命の広宣流布のための陣列です。

 私はそこに偉大さを感じますし、そこで戦える自分を誇りに思います。学会はまさに法華経に説かれる地涌の菩薩の集結の場であり、仏の生命が躍動するもっとも輝かしい宝処であると、私は確信しています。

 それゆえに学会から離れていく人ほど残念な人もいない、これは本当に正直な私の気持ちです。「何があっても学会から離れてはいけない」・・・との池田先生の指導は、人の三世の生命を考えるときに、重い意味があるだろうと思うものです。


 さて昨夜は多くの方が集っての座談会となりました。様々に境遇は違えども、創価の善友であることは皆同じです。「なぜ組織に出るか?」と問われれば「そこに多くの同志がいるから」「この集まりが好きだから」・・・それが私の答です。

 暑い夏を境にいよいよ後半戦、弘教拡大を目指し、意気軒高にやっていきたいと思います。






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2017
07.08

胸中の闇は深くとも・・・

Category: 信心


 世の中には様々な考えの人がおられ、創価に対してもいろんな意見を発信なされています。生まれついて、反創価の生命を色濃く宿しておられると感じる方もいれば、創価を信じたいのにどうしても現状の創価学会を肯定できずに悩んでおられる方もおられます。

 もちろんどう生きていかれるかはそれぞれの道であり、気安く干渉できるものではないかもしれません。私が学会で信心していくということは、自分の意思が好んでそうしているわけで、結局、どの人も自分の心に背いて生きていくことはできないと思います。

 私も一見、学会一筋のバリ活人間のように思われますが、人間の生命というものがそれほど単純でないことも、当の本人が一番よく知っています。池田先生とともに学会でやっていこうというところに命が定まるまでは、私なりの紆余曲折がありました。

 入信以来、陰に陽に魔が出来して、修行の枝は大きく曲げられました。学会に入ったものの、真言の家で10年近く過ごしましたので御本尊様の御安置から苦労したものです。周囲の反対以上に自分のひどさに苦しみ、思うようにいかない・・・御本尊様を恨めしく眺めたことも一度や二度ではないかも知れません。「もう信心はやめます!」と御本尊様を睨んで宣言し、布団をかぶってふて寝した夜もありました。(笑)



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 特に池田先生と自分が一体で信心するという、「師弟不二」の入り口にたどり着くのに30年余りの時間がかかったのですから、いかに私の生命の闇が深かったか・・・その心が確立するまで、信じては疑い、疑ってはまた信じと・・・その反複作業を懲りずにやってきたように思います。そのたびに新たな「信」を奮い起こして前進してきたわけです。

 今、若き青年部が「池田先生」を師匠と求めて信心する姿を見て、「僕はとてもあのころ、あんなふうに「先生!」と叫べなかったなあ、組織にも不信があって参加できなかったし。そうできる連中が内心、不思議に見えてたよ。」と思ったりもするのです。

 その意味で信心の深化と共に自分は変わっていきました。今のように自分が池田先生を師と仰ぎ、「不二」で生きていきたいと思うようになるとは、さほど自分でも思っていなかったのです。

 「学会員だから先生と不二で戦え」というのは押し付けに感じる人もいることでしょう。私が幸運だったのは、人から言われるのではなく、先生と共に生きていこうという自分にみずから変化し、その思いが胸中に確立していったことです。蝶がさなぎから羽化するように、私も自然と「我」というコートを脱ぐことができました。
 
 それは私にとって「発迹顕本」ともいうべき出来事でしたが、それ以来、私の使命も定まったと思います。「学会員として、同志の方と共に妙法流布のために生ききっていこう!」そういう生命の土台が命に座ったのです。

 その功徳は、お金が儲かったというような現世の利益と違い、三世にわたる「心の財」です。「創価と共に自分は来世も生きていくだろう。そうであるならたとえ死んでも、御本尊様と学会のもとに生まれてこれる」・・・そう安心できるのです。

 一日の仕事を終えて、地域の会館、拠点に集い来る同志の方々を、私は本当に不思議な善なる人たちだと感じることがあります。久遠の同志でなくてどうしてここに集うことができるのか?宿縁深厚でなければとてもここに集うことはない・・・偶然、集まったなどということは絶対にないと感じます。

 凡夫の陣列である創価の同志が、御本尊を抱きしめて、それぞれの宿命へと挑戦していく・・・お金も智慧もない、あるのは「煩悩・業・苦」という中を、ただ「信の一字」をもって唱題し、その姿のままで折伏に走る・・・それが我ら地涌の菩薩の本領だと思います。

 たとえ胸中の闇は深くとも、その奥底に仏の生命を信じ、今日も創価の庭で戦う人たちと共に、私も仏界を呼び出だしながら、「太陽の人」となって前進していきたいと思います。







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2017
05.31

信心の「糸」

Category: 信心
 先日、地元のある婦人部の方と話をしていましたら、「○○さん、信心は縦糸が「師弟不二」、横糸が「異体同心」ですね。どちらがかけても「広宣流布」も「人間革命」もできません。」と言われました。

 私は一瞬、中島みゆきさんの「糸」の歌を連想したのですが、確かにいい言葉だと納得して、「そうですね。先生を求めぬいて、同志の中で生命を磨くことですね。「師弟」に生きればおのずと「異体同心」となっていく。この二つも本来、「相即」の関係ですね。」と答えました。

「幸福と平和の智慧」(大白蓮華)には次のような指導があります。

 「師匠と弟子とは、針と糸の関係にもたとえられよう。師が道を開き、原理を示し、後に残った弟子たちが、その原理を応用、展開し、実現化していく。また弟子は師匠を凌いで行かなくてはならない。一方、師は弟子たちのために一切をなげうち、捨て石となる覚悟でなくてはならない」






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また「それ(師弟)は、身分による上下の関係でもなく、利害や報酬に基づいた契約関係でもない。同じ目的を分かち合い、信頼を基盤とした最も自発的にして純粋な精神の融合といってよい。」
と仰せです。

 私も信心の「師弟」は「精神の融合」そのものであると思います。今やアフリカ、インドなど、世界のあらゆる地域で、「広布」と「人間革命」の布が織りあがり、はためく時代がやってきました。生涯、先生に会うことがなくても、幹部でなくても、先生を求める心が強盛であるなら、その瞬間から「師弟不二」となるのが、仏法です。

 私も信心をしていく過程で、自然と池田先生と「不二」になっていこうという自分になりました。その精神作業において、先生に対する「壁」が一枚づつ取れていったように思います。そして先生の生命力がダイレクトに自分の生命力となって返ってくるような、不可能と思えることも可能にできる、そんな師子の力が漲っていくのを覚えます。こんな自分にも青年の力が漲り、それが歓喜となって噴き上がってきます。

 その生き方になることが幸福なのだと思います。池田先生と「不二」になることに疑いを抱く人も多いことでしょう。しかし、私は信じることによって、「師弟不二」の道に「人間革命」「一生成仏」があることを確信できるようになりました。もはや自分が進む道に迷いはなく、後はこの道を一筋に、精進していけばいいのだと思っています。

 
 もう何年も池田先生は私たち会員の前に直接、出てこられていません。もちろん会員にとって一抹の寂しさはありますが、今こそ、弟子と決めた一人一人が「一人立つ」精神で、師の教えを実現する戦いに挑んでいく時だと言えます。

 池田先生は弟子達にその自覚を促されながら、あえて表に出ることなく、信頼をもって見守っておられます。「あの町には池田先生の精神を継承した立派な青年がいる。彼がいればこの地域の学会は盤石だ」といわれる、そういう一人が踊り出てくる・・・それを先生はきっと期待されていることでしょう。

 その時に「魔」は必ず「師弟不二」の「縦糸」を食い破り、「異体同心」の「横糸」を引き裂かんと動いてくるものです。

 「池田先生はおかしい」「学会幹部はおかしい」「今の幹部は池田先生の教えに背いている」等々、ことさらに吹聴する人は、結果として同志を分断し、迷わせ、信心を食い破る「師子身中の虫」となることを知るべきです。

 一人一人がそれらの魔を見破り、魔を寄せ付けない・・・そのためにリズムある地道な日々の仏道修行、学会活動が大事になると思います。誰が見ることもない、陰の地道な精進、それに励むことが肝要であり、そのための組織です。

 さあ、今夜も唱題会・・・強き信のこもった題目で、同志の方々と共に、一切の障魔を打ち砕く思いで前進です。





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