広布の大河に君ありて tori

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幸福の種


 昨夜は我が地区でも座談会があり、新入会者の方も参加され、15名ほどと、いつもより多くの方が集われました。尊敬する本部長、婦人部長夫妻もサプライズでやってこられ、元気にあいさつされました。
地域のトップを切って上半期ブロック1の弘教を達成し、静かな田舎の地区ですが、今、活気に満ちています。

 自分の進む道に一点の迷いがないことほど、活力に満ちて確かなことはありません。毎日、多くの人の入会と幸福を祈りながら、広宣流布のために生きていく・・・その日々の積み重ねに心と生活が豊かさを増していく。求めずともそういう自分になっていくのですから、法華経は不思議な力ある経です。





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 御書には「譬(たと)へば人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」(食物三徳御書1598P)とあります。広宣流布(他者の幸福のため)に生きる人が幸福になっていく原理がここにも示されているように思います。
自分のことしか考えられないような小さな自分が、人の幸福を目指して生きようとしているのですからそれは偉大な「人間革命」に違いありません。


 宗門問題を契機に私も日顕宗を捨て、池田先生により深く随順していくようになりました。やはりそのことが私の信心において、とても大きな意味があったと思います。なぜならお寺にもよく唱題しに行き、猊下、僧侶を敬い、宗門の機関誌まで購読していた私が、一連の事件できれいさっぱり、寺、僧侶への執着を断ち切ることができたのですから。

 正本堂や大客殿まで破壊しつくしたあの日顕宗を許せない反面、池田先生と学会という自分の行く道をはっきりと教えてくれたという意味で、私にとっては「発迹顕本」といってもいい出来事でありました。それらの大難を今となっては「ありがたいことだ」とも思うものです。

 決意が人の未来を決定するのであれば、私は学会と池田先生に生きることを決意したのであり、それから俄然、生命が大きく回転し、幸福に向かい始めたことを感じます。植物が種に未来の花を内包するように、その決意こそ三世に花開く幸福の種であると確信します。

 先日、聖教新聞を購読していただいている外部の方とお話する機会がありました。「こんな田舎では学会のことはよくわからないですが、創価学会が日本だけでなく世界に花開いている。池田先生の世界との対話をはじめ、世界中に学会が発展していることに驚きです。」とおっしゃっていました。

 私もいいご縁になればと思い、その方の庭に咲いていた牡丹の花を写真に収め、朝の聖教新聞に挟んで届けました。するとその日のうちに、心温まる令状をもって私の家まで来られたのです。少し障害のある御婦人ですが、配達員の私の家を探しながら、1キロほどを歩いてこられたそうです。真心には真心が通じるものです。「この人もきっと胸中深く妙法を求めておられるのだ。そしてこの方の幸せを祈り、妙法に導くことが自分の責務なのだ」そう強く決意いたしました。

 口だけで学会や池田先生を批判することは簡単なことです。しかし、学会と同じ広宣流布の姿を実現することはいかなる人も団体もできません。その意味で批判する人々は遠くから師子を吠うるに等しいものです。現実に広宣流布の姿を現せない言葉だけの理屈に従って、「一生成仏」の軌道から離れていく人ほど、哀れな人はいないと思います。


 私も60歳を超えてある意味、残り少ない今世の命です。「四十にして惑わず」との言葉がありますが、「六十にして天命を知ったのだ」と思っています。あれこれ迷っているうちに皆さんもあっという間に年を取りますよ。(笑)

 学会一筋、「師弟」一筋を我が人生と定めきって、今日よりはさらなる大前進を開始していきます。




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師弟の月・五月

 5月に入り、学会員にとっては「師弟の月」ともいうべき意義深き月を迎えました。ゴールデンウイークは、私も農作業の合間をぬって、対話と家庭訪問に走りたいと思います。


 この5月3日を目指し、決着をつけたいと思っていましたある婦人の方への折伏が実り、昨夜は婦人部長と共に訪問、無事に謗法払いを済ませることができました。天理教、S会の祀り物、法然の姿絵、真言や般若心経の経本、数珠や仏具と、スーパーの袋いっぱい、邪念の染み込んだ謗法物を処分することとなりました。

 「「ヨン様」の写真はそのままでいいですよね。」といわれるので、壁を見ると、大小たくさんの「ヨン様」が微笑んでいます。もちろんそれはOKです。(笑)




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 聖教新聞の購読が縁で対話するようになり、10年ほどかかりましたが、最近、難聴で悩まれるところとなり、何としても謗法との縁を切って、「一生成仏」の道に入っていただきたいと、私も一念を定めました。「なんとしても」・・・その祈りこそ通じていくものだと思います。

 隣の地区でも青年が折伏を決めており、5月3日、支部で2名の入会となります。「支部長を男にしたい」・・・その願いも叶いました。(笑)

 学会の信心はまさに「師弟」の信心です。池田先生は戸田先生に対し、一点の疑いもない、澄み切った心境であられたと思います。師匠の御構想実現のためにただ一人、「不二」となって命を捧げ、戦われました。反対に己心に疑いのある者は、師の苦境の時、「戸田の馬鹿野郎」と言って去っていきました。また臆病で名聞名利の強き幹部が、まさかの時に師匠を見限りました。人としてあまりにもあさましい姿ではありませんか?「ここぞ」という難の時にその人の本性がたまらずに出るものです。

 ある人曰く、「最近は学会に見切りをつけやめる人も多いですね。」
「「会則の改正」はいろんな意見があるのでもう少し様子を見ます。」
「ネットの反学会の記事のほうが頷けますよ。」等々・・・

 そんな人を見ると、私は学会や池田先生に対する疑念を感じ、歯がゆく思います。またなんと惰弱な「信」であることかと嘆かわしく思います。「学会が隆盛ならついていく、衰退し始めたら去っていく」・・・というのでは、「事業が成功している戸田先生にはついていき、苦境に立てば去っていく」、あの退転者たちと何ら変わらない根性ではありませんか?「その不信に魔が棲みついて、あなたこそ悔いを残すことになりますよ。」私はそう答えるほかありません。

 学会が衰退するならその時こそ、旗を振って自分が先頭に立って戦うべきです。身は学会員でありながら心は学会を冷ややかに眺め、傍観者でいる、そんな「身口意」が一致しない中途半端な信心に本物の功徳はない・・・功徳がないからさらに疑いを強めるという悪循環こそ、魔に支配された姿であると思います。

 「師弟」に生きる人は5月の陽光のようにさわやかに、輝くことができる。そして祈りは次々と成就し、生きていることがうれしいという歓喜あふれる絶対的幸福の世界へと入っていくことができる・・・これが私の知る学会の信心であり「師弟の世界」です。

 さあ、気候も良く一番動ける季節ですね。同志のため、友のため奮闘しゆく日々に、師匠への報恩を重ねながら、走りぬいていきたいと思います。





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「信は強く、信は楽し」

  季節は廻り、ようやく春めいてきましたね。「冬は必ず春となる」・・・これが宇宙のリズムです。桜やレンギョウなどの花々も「いよいよ咲く時だ」と開花の時を待っている、そんな鼓動をこちらも感じて嬉しくなります。

 
 「信心はわかることより変わることだ」とよく言われます。仏法のことを頭で理解できたとしても、自分が変わらなければ何のための信心かわからない・・法華経の学者になるために信心しているのではなく、幸せになるために信心している。学者を目指すなら、疑ってかかっていいかもしれませんが、幸福を目指すなら、信じていくことが何よりです。その原点にいつも立ち返って、自分がどう変わったか、功徳を味わい、噛みしめていける日々でありたいですね。




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  御聖訓には「信は道の源、功徳の母と云へり」(P97)とあります。その信じるというところで道に迷う人も多いものです。それを疑わせ迷わせるために、さも正しげに理屈を述べたり、悪しき情報を流す人もいます。よくよく心しておかないと、「信弱き人」は引き込まれる・・・魔というのはそういう人を幸福の軌道から引きずり降ろそうと、隙(すき)あらば心に取り入ってきます。

 信じて実践していくことで自分が変わっていく・・・それが本当の「信解」だと思います。また自分がいい方向に変わっていくなら、「信は楽し」ですね。御本尊様を強く信じることが「常楽我浄」の人生を勝ち取る根本と確信します。

 学会に入った時も、30数年たった今も、私はただ「信」をもって御本尊様に向かっています。大宇宙と冥合したいと願い妙法を唱えます。私の「信」に「仏」が感応し、幸せを願うその一念にきっと「仏」も時を感じて、春のごとく目覚めていくのでしょう。そして昔のどこか苦しげで悩み深い顔の私が、柔和で笑みがこぼれる人となる・・・それが「変わる」ことであり、「変わった」自分の生命が、今までにない幸福を呼びよせるのだと思います。

 先日、外の同級生の友人と、短い時間でしたが話をしました。彼は大学時代に御本尊を受けながら、田舎に帰ってから世間体と親の反対で、信心を引っ込めました。世間的には教師で生活も地位も安定しています。片や私は親や周囲の反対を押し切って「親不孝者」と呼ばれて、地位も金もない中を喘ぎながら信心してきました。

 「○○君、、前に比べてええ顔になったな」と彼が私に言うので、「外に地位や名誉を求める生き方もあるけど、この信心は生命に幸福を築くんや。生きることがうれしくなってくる、そんな心の幸福が得られるんや。30年信心を貫いて、ようやくそういうところへ来た気がするよ。」といいました。彼はどこかで信心を捨てて生きた人生を後悔しているに違いない・・・私は対話しながら彼の表情にその思いを感じとりました。

 「信は強く、信は楽し」です。人がどう言おうと、学会員として信念を持って生きていくことで私は変わり、功徳をいただくことができました。これが私の真実です。学会員として日蓮大聖人の仏法を信じることができて本当に幸運だったと思います。

 今日よりはさらに後悔のない人生のために、強き信を持って使命の道を生き抜いていきます。




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幸福のデパート




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 先日、「信心していても苦しいです」という婦人部員さんと話をしました。その方はまじめな方で100万遍の題目にも挑戦されています。でも思うように晴れない・・・そんな悩みでした。

 それで私はその方に「御本尊様の中にはあなたのほしいものが全部ありますよ。お金も健康も一家和楽も、なんでもあるんですよ。まさに幸福のデパートです。どんな不幸をもっていっても、幸福へと転じてくださる「幸福製造機」とも言われます。だから御本尊様の前に座ったら、「ああ、ありがたい。これでもう私は大丈夫、助かった。」そういって喜んで安心して題目をあげるといいですよ。そして「これこれこんな悩みで苦しんでいます。どうかこの悩みを解決する智慧と力を出してください。よろしくお願いします。」そう拝めばいいのではありませんか?」と言いました。

 その方は「絶対の御本尊」を拝みながら、どこか疑いながら不安な心で拝んでおられたのです。それではせっかくの100万遍のお題目も苦行です。それで功徳が感じられなくて、また疑うということでは「不信の悪循環」というものではないでしょうか?

 どうせやるなら「祈りは叶うに決まっている。私の元気な題目が御本尊様に通じないわけがない。今日もよろしくお願いします。」とはつらつと勇んでやるほうが、仏様もきっと喜んでくださると思います。「白馬がパッパッと駆けていくように」お題目は確信をもって迷いなくあげたいものです。

 そういえば昔、先輩から「仏様の気持ちになって信心はやるもんだよ。」と言われたことがあります。「半信半疑の題目」をご供養するか、「信強き歓喜の題目」をご供養するか、聞かされる仏様の側に立てば、どちらが喜ばれるか簡単なことです。

 諸天善神は苦しんだり恨んだり、怒ったり・・そういう命には寄り付かないし、守護はしないものです。諸天善神は楽しくってうれしくって、歓喜と感謝の命に集まってくるのです。私はそう思います。

 「広宣流布のお手伝いをさせていただける、うれしいなあ!」「宿命転換させていただける、ありがたいなあ!」「その上、一生成仏もや約束してくださる、もうめっちゃ感激です。」と、どんなことも歓喜と感謝に変えて、御本尊を拝していく・・・その心に諸天も感応して信者のために一生懸命働くに違いありません。そうなるとまたうれしくって、歓喜の信心に一層、拍車がかかります。今度は「信の好循環」です。


 とはいえ・・・・たったそれだけのことに気が付くのに、私も10年20年かかりました。(笑)だから人のことは笑えない・・・病多き、疑い深い末法の衆生です。知恵も福運も枯れ尽きた愚かで寒い衆生です。それをすべて直してくださるのですから、「こりゃありがたい。ぜひ、あの人にもこの人にも教えてさしあげたい」となるではありませんか?

 そんなわけで、会う人ごとに自然と仏法対話になります。信心している歓喜をもっともっと爆発させて、仏法の素晴らしさを語っていこうと決意しています。




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誇り高き「幸の城」



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 昨夜は支部の唱題会があり、新入会の婦人が、紹介者の男子部員とともに参加して下さいました。支部長からも「入会前より、顔が明るくなりましたね」と言われ、30分の唱題を元気にあげられました。何かあるごとに私にも電話が入ります。入会前から築いた信頼関係を大事にして、「学会に入ってよかった」と言ってくださるように、これからも力になっていきたいと思います。

 この信心は実生活と離れてあるのではなく、「信心即生活」とあります。その指導は永遠に学会員の柱とするべきものだと思います。「信心は観念の遊戯ではない」との戸田先生の指導もありますね。信心は行動、実践によって、現実の自分を変革し、周りの環境をも変えていくことを目指します。たとえ相手や環境が悪くても、自分を変革することによって、解決していけるのですから、結局はすべて自分に因を求めるものだと思います。

 その体験をつかんだ人は強いですね。なぜなら何があろうと、自分の信心で解決できることを知るのですから、頼もしい限りではないですか?

 その意味で自身の変革を決意して挑戦の信心をしたいものです。どこまでも自分を変える・・・内道探求の信心です。「自分はこうなりたい」「こう変わるんだ」と決めて挑戦です。確かに決意した時に、すでにそうなっていることが、今では私も感じるようになりました。

 私など仏様が功徳を受けられるようにたくさんの悩みや業苦をつけてくださいました。幸福になるための燃料には事欠きません。(笑)それをありがたいと思うか、つらいと思うか・・・どうせなら「ありがたい、やってやるぜ!」と笑っていきたいものです。

 自分が生きる地区、地域が生活に根差した本当の「人間革命」の道場であり、そこを離れて仏法はない・・・それが「信心即生活」の基本だと思います。私自身は相手も見えない、自分も見せないネット空間を「信心修行の場」と考えたことはありません。一人の人間を信仰に立たせ、自分が「人間革命」していくということも、地域という生活の大地で戦って一つ一つ勝利したいと思います。

 「人柄はどうか?」「生活はどうか?」「信頼はできるのか?」鏡のように地域では自分が映し出され、実像が等身大でさらけ出されます。ええかっこいってもすぐにメッキがはがれるのが実につらいところですが(笑) 現実を直視してこの姿で勝負です。日ごろの振る舞い、人間性が常に問われ、それによって信頼も決まってきます。

 「組織が面白くない」という人の気持ちもよくわかります。私もかつては組織が大の苦手でした。しかし組織がなければ「世界広布」も「人間革命」もできないでしょう。そこに身を惜しげなく投じて戦えば、確かに学会の組織というのは素晴らしい「人間革命」の道場だと必ずわかります。

 現実社会で悩み苦しむ人々が集い、顔と膝を突き合わせ対話する・・・一軒一軒家庭訪問し、唱題会を持ち、座談会を開き、一所に集いあって信心を学んでいく・・・そんな小さな会合を毎日のように私もここ10数年続けてきました。それは鑿(ノミ)で岩盤を打つような地味な作業の繰り返しですが、その中に「人間革命」の真髄があることを確信します。

 学会の組織こそ「師弟不二」「異体同心」の二義が厳然と備わっているご本尊様直結の「修行場」です。 そうであるなら田舎のこの小さな地区こそが私の誇り高き「幸の城」であり、「人間革命の港」です。何よりも私はその場所を愛している・・・今は心からそう思えるようになりました。

 
 「春はもうそこまで」と言いながらまだまだドン冷えの冬ですね。しかし、私の心にはポカポカ温かな春風が吹いています。地区の人たちを愛し、励まし、ともに成長しながら、御本尊と池田先生への「信」の一字をもって今日も前進しています。




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