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2019
03.09

信心とは確信なり

Category: 信心





 寒さの中にも春の日差しが射しますと、心は上気し、何か幸せがあちらこちらからやってきそうな気配がします。こんな私の心にも春の太陽が輝きだしたのでしょうか?そういえば今日は3月9日・・・「サンキュウの日」ということで、宇宙にも世の中にも感謝の言葉を投げかけながらこの記事を書き始めました。

 大白蓮華3月号には次のような池田先生の指導があります。

 若き日、戸田先生に「どういう人が偉い人なのでしょうか」と質問したことがあります。恩師は即答してくださいました。「確信のある人だよ。人生は、また、すべては確信だよ」(P12)

 この言葉に私は信心のすべてが言いつくされていると感じます。御本尊に対する絶対の確信、創価学会、池田先生に対する絶対の確信・・・その絶対の確信をもって、学会活動に励む人にほかに一体どんな指導が必要でしょう?その確信があればどんな人生の悩みであれ解決しないことなどないのですから。

 必ずやその人の生命は春の陽光のように輝き、未来に向かって力強く前進していくことでしょう。そういう確信の生命に自分を作り上げていく・・・それが精進行である仏道修行なのだと私は思います。その確信のない人にこそ、励ましや指導が必要なのだと思います。

 しかしながらその確信は決して一朝一夕にできるものではありません。私など疑い深く、迷いながらくねくねとやってきた方ですので、随分と道草を食いました。しかし、ここ10年、「無冠の友」を始め、「拠点提供」、「支部地区の役職」、「王城会や未来部」など、私なりに率先してやってきました。活動家も青年部もそれほどいない田舎の地域で、組織からのこれでもかという打出にもめげず(笑)、どうなろうと自分一人になっても旗を降ろさない覚悟でやってきたつもりです。

 そんな時、私が頼りに思った地区の壮年の人たちは、見事にあてにはなりませんでした。(笑) 唱題会に必ず参加されるのも婦人部の皆さんです。いつも婦人部数名の中に壮年は私一人・・・そんな唱題会、協議会を何年もやってきたのです。そのおかげで地域の婦人部の方からは信頼を得ているやもしれません。私がどれほど一緒にやる壮年の人を欲したか・・・自身の徳のなさも感じつつ、今も信心に目覚めた壮年よ出でよ!と祈る日々です。

 「一体、いつになれば自分の生命に太陽が昇るのだろう?」と思っていた私ですが、陰徳が御本尊様に届いたのか、ここ数年はそれこそ日増しに「確信」が生命に成就してきました。「これを強めれば仏なのだ」、「仏とは絶対の確信の人のことなのだ」と、今ではそのことがよくわかります。また「自信」とは信心の確信のことだということも身で知りました。本当に戸田先生はすごい指導をされるものですね。

 「法華経を信じる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(妙一尼御前御返事)・・・誰もが愛する御本仏のお言葉ですが、人の生命に春の太陽が輝きわたるなら、世の中は明るく楽しいものとなり、また縁する人をも輝かせていけます。妙法をもって世の中を平和で幸福にしていきたい・・・そんな仏様の心の一分が、凡夫の身にもふつふつと起こってくるではありませんか。それこそが「太陽の心」です。

 この確信をさらに絶対のものとしていくのだ・・・今日よりはさらに信の一字をもって「元品の無明」を打ち砕きながら、「人間革命」と「広宣流布」の戦いに挑戦していきたいと思います。







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2019
02.04

寒椿

Category: 信心


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今朝の池田先生の「四季の励まし」(3日付聖教新聞)の一節にはこうありました。

「人生の価値とは記録への挑戦から生まれる。自分のこれまでの最高記録をどう更新し、書き改めるか。その挑む姿勢から、勝利と満足の人生が開かれていく。」

「日蓮大聖人は、自らを”法華経の行者”と言われた。行者とは行動の人であり、行動してこそ真実の仏法者である。」



 人と比較するのではなく、昨日までの自分を越えていく・・・それが成長ということではないでしょうか?これまで以上の戦いに挑んで自身を鍛え上げていく以外に、宿命転換も一生成仏も果たせないものと思います。たとえ今はびりっけつを走っていても、また絶望の淵でもがいていても、それでも前に一歩でも1mmでも進もうとする・・・その一念があれば私は大丈夫だと思います。

 逆に自分の智慧に慢じて、学会の活動を馬鹿にしたり弘教の実践に挑戦もしない人が、一番危ない・・・私は常々そう思います。

 あとは「行動」です。私も今日は、内外の方を訪問、聖教新聞の集金も兼ね、法戦のポスターも地域内に数か所、貼らせてもらいました。「この地域の広宣流布は自分が責任を持とう!」「因習は深くとも勇気を奮い起こしてこの道を進むのだ」との思いで、活動に挑戦しています。

 こんな私も時には人の悩みの相談を受けることもありますが、いつも思うことはその人に「信心で打開するのだ」という心があるかどうか・・・それに尽きると思います。その心があれば、もう悩みは解決したも同然です。なぜなら、仏を信じて広布の活動に励んで解決できない悩みなどないからです。

 実は私もなかなか思うようにいかないところを長くやってきましたが、それには深い意味があるのだということを知りました。それはどういうことかというと、すぐに悩みが解決すれば、私のためにならないということなのです。信心しているのにどんどん苦しいところに追いやられる・・・・凡夫ですから、一日も早く楽になりたいと思います。しかしその苦しみによって、本当の信心の世界に入っていける、妙法で立つしかないという自分へと変貌していったのです。

 もちろん私の信心が本物だとか立派という意味ではありません。それでも以前の私を思えば、信心に向かう一念が変わりました。苦しむたびにより真剣に仏法を求め、実践に挑戦する私が出てきました。今となっては「仏様は谷底に私を落とし、そこから這い上がっていくことで、私を一人前の信者に、また幸福にしてあげたいと思われているのだ」と感じられてならないのです。

 最近は写真を撮る機会も減りましたが、先日は配達途中のあるお宅で、一輪の椿の花が目にとまりました。車に戻り、カメラを取ってきて、外気に凍り付いたその赤い花びらに目を凝らしました。その花は私には宿命と戦いながら、人生の冬を戦い生きる婦人部の方の姿を彷彿させました。

 周りの大半の花は散っていたのですが、この花だけはいまだ凛と咲き誇っています。しかも厳寒の朝、凍てついた霜を身をまといながら・・・・「人もこうあらねばならない」私はそう思いました。獄中の戦いを貫き通された厳しい牧口先生のお姿も心に浮かびました。「私の信念など、牧口先生に比べれば、まだまだヒヨコのようなものだ」と、そうも思いました。

 もっともっと強くしっかりとした師子にならねばならない・・・「一生成仏」とはそういうことなのだ。何があろうとも妙法の信念を貫き通す「人間王者」になることなのだ・・・寒椿はそのことを私に教えようとしたのでしょうか?命の限り咲かんとするこの花に応えるためにも、さらなる行動の人となって、娑婆世界に打って出たいと思います。




※タイトル、文中に「椿」と表記しておりますが、後日、よく見ましたら葉の形状から「山茶花(さざんか)」だと気が付きました。タイトル本文などはそのままにしておきますが、一応、訂正させていただきます。
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2019
01.20

魔が競ってこその信心

Category: 信心

 一月もはや半ばを過ぎ、私のほうも革新しゆく生命を感じながらの日々です。今年はきっと大きく変われる・・・そんな予感でやっています。組織の方も、法戦を中心に早速動き始めましたが、私も新年の地区部長会で「今年は変わります」と宣言をいたしました。

 革新しゆく生命とは、自分の命が明るく軽快になっていくことだとも言えます。信心を始めたころは、体も心も水を含んだ布団のようなもので、「重い、冷たい、穢い」といった様子でしたが、それがだいぶ良くなってきました。悩みもたくさんありますが、それらは前進するための燃料であり、悩みがないと前に進まない・・・「人間革命」は煩悩の薪(たきぎ)を燃やし、幸福の智慧へと転じる戦いですね。

 また同時に内外に魔も競ってきました。一つは先日来、支部内の地区部長宅に家庭訪問に行ったのですが、どうも地区部長の様子がおかしい。すっかり魔に信心を食い破られてしまっている様子なのです。

 詳細は書けませんが、学会に対する不信が以前からあったのが、それがはっきりと形になって出てきました。一年ほどまえから、昼の勤めに加え、深夜にも一般紙の配達をするようになり、仕事を理由に夜の会合にまったく来なくなってしまったのです。過疎地域で人材がいないため、50代の壮年と言えば地区の柱でありますし、男子部時代から聖教配達を30年以上、頑張ってきた人です。その彼の変節は、地域にとって痛手ですし、大きな事件だと言えます。

 「○○長も一度、考えた方がいいですよ。学会を一途に信じるのは、危ないですよ。少しは疑っていかないと・・・」

 退転していく人というのは、なぜかこのような言葉を必ずいうものです。それが自分の中の不信という魔が言わせていることに気が付かない。心が魔に誑(たぶら)かされて善悪が逆転してしまうのでしょう。

 もちろん地区部長には、改心してほしいと思いますし、私も祈り、対話をしていきたいと思います。そう簡単には目が覚めないかもしれませんが、すべてに深い意味があり、無駄なことなどないはずです。残念ではありますが、その反面、これは地域の広宣流布が発展する前兆だと私は感じます。それは自分の信心にも関わってくるのですが、どんなことがあっても、いい方向に転じていくという確信が、今の私にはあるのです。

 仏の軍勢が、不信という魔に負けるなどということは絶対にない・・・そうであるなら、最後は勝利するのは学会員です。法華経に身を任せて、池田先生との師弟の道を歩んでいく限り、行き詰りも敗北もない・・・私はそのことを信じています。

 あらゆる試練は、波のようなものです。それを乗り越えて、さらなる大海へと出ていくことができる。それ自体が境涯革命ですし、地域の広布の発展につながります。私はこの問題の行く末を楽しみに、その魔を粉砕する祈りでやっていく決意です。
 
 「魔が競ってこその正法だ。もっと大きな魔をあぶりだして、さらに前進!」・・・そういう決意で、今年は戦いきっていこうと思います。


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2018
12.21

一年間、ありがとうございました!

Category: 信心



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 「光陰矢の如し」・・・一年は早いもので今年も残すところあとわずかとなりました。皆様におかれましてはどのような一年だったでしょうか?時が早く過ぎ去るだけに、一日一日を、いや一瞬一瞬を大切に、仏を求めて生きぬいていきたいものです。「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(970p富木殿御返事)との御金言は年と共に、身に沁みるものとなっていきます。

 その意味で学会とともに、池田先生とともに生きる人生ほど、価値多き、実り多き生き方はないことを私は感じます。他者を批判するのではなく、自分を見つめその生命を信心で耕しながら格闘しゆく、その人こそ、「外道」ではない「内道」を生きる人であり、仏法の真髄を悟り、仏となる人に違いありません。

 私もここ数年は、外に花開くというよりは、生命の基底部を「仏界」で、また「師弟」で固めゆく数年であったと実感しています。凡夫ですので、確かに外に鮮やかな花を咲かせたいものです。しかし、仏様の化導は決してそうではありません。どこまでも生命の基底部に「仏」という根を張ることを教え、促されるものだと思います。それができれば、やがて花も実もなることは絶対の道理であるからです。

 根も土台もいい加減なうちに、なまじ花が咲いたところで、そんなものは長続きはしないでしょう。かえってその姿に溺れて怠惰な心を起こし、信心を失うことだってあるでしょう。ですから少ししんどいぐらいのところを行くのがちょうどいいのです。

 海上に嵐が起こっていようと、深い海底は穏やかなように、山頂が吹雪いていても、山は不動で安泰であるように・・・信心強き人の生命は、様々な苦難を悠然と見つめ、乗り越えていく、「大海」「大山」のごとき生命となるのです。

 学会員は毎日、毎日、同じことの繰り返しを重ねながら、日々、仏界という漆(うるし)を倦(う)まず弛(たゆ)まず塗り重ねているようなものです。世間の華やかさも、富や名声を求める生き方とも無縁な、あまりに地味な日々の連続です。勤行、唱題を基本に、真面目に生活と向き合い、夜は協議会や唱題会、友の激励や折伏、法戦にと、休みの日も広宣流布のために身を投げ打って戦う・・・そうしたひたむきな学会員の生き方こそ、「如来の事」を行じることに通じる真正の信仰者の姿だと思います。必ずやその人こそが最後の勝利者となることでしょう。

 それがどれだけありがたく、また尊い無上の生き方であるか、またいかに自身の宿命と粘り強く戦うことが大切なのか・・・そのことを知ることが何より大事だと思います。今、無間地獄とも思える苦難、宿命と戦っている方も多くおられることと思います。しかし、必ず出口は見つかり乗り越えていくことができる。それらの苦難を魔の試練ととらえて、より一層信心に励んでいけば、必ずその人にふさわしい幸福の道が開けていく・・・それが学会の信心の素晴らしさだと思います。

 とりもなおさず、どの人の生命も「仏」という尊極の生命です。各々、その「仏の生命」を顕す以外に本当の幸福はありません。それ以外の相対的幸福はいつか泡のように消えていく・・・たとえ今、栄えている人であっても遅かれ早かれ、名聞名利をはぎ取られ、裸の人間として「死」と向き合わねばならない時がやってくるのです。

 その時に「死」と正面から立ち向かえるものは何なのか?それは自身の生命の「仏界」だけではないでしょうか?「最後まで学会員として忍辱(にんにく)の鎧(よろい)をまとい戦い抜いてまいりました!」と誇らしく言えることが何よりの「冥途の衣装」となることでしょう。その人は必ずや諸仏から讃嘆されながら、大歓喜の生命となって旅立っていくことができる。その時に後悔しても間に合わないのですから、今、信心に励むほかありません。動けるときに勇気を出して立ち上がる・・・賢明な人ならわかることだと思います。

 疑いを抱かず、純真に信心に励む我ら学会員こそ、その誉の人です。あまたの不信の輩の言葉など、愚かな敗残者のものと喝破しつつ、さらなる大成長を期して私も新しい年に向かって飛躍してまいりたいと思います。

 この一年、ブログの方も変動があり、申し訳ありませんでした。今後も時間があれば、思うところを書ければと思います。以前よりも多忙の身となり、更新もあまりできませんので、期待をせずに読んでいただければと思います。

 一年間ありがとうございました。皆様、良いお年を!



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2018
11.16

身に説法、心に説法

Category: 信心


 御本尊様はきっと我々を幸福にするために、口ではお話されませんが、毎日、「身に説法、心に説法」をくださっているのでしょう。法華経の寿量品には、「毎自作是念」(毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)す)とあります。休むことなく衆生の幸福を思っていてくださるのですから、こちらも休むことなく御本尊様を求めていかねばなりませんね。

 説法と言っても、こちらも耳を澄ましたり、思索したりしませんと、ぼんやりと過ぎてしまうことだってあります。毎日の出来事の中に、自分自身を知る機会は実に多いものです。「奥さんとの些細な口喧嘩」(笑)にしても、「会員さんとのやり取り」にしても、一日の諸法にこちらの人間性や境涯が、ことごとく映しだされると言っても過言ではありません。それをどう捉えていくか・・・そこに「信心」はあるはずです。

 ある時のことですが、私も自分の生活上において苦しんだことがありました。その苦しみを打開するために、学会活動にも熱心に取り組んでやっていたのですが、ところがいつまでたっても打開できません。そんなわけでつい御本尊様にも文句を言いたい気分にもなっていました。「こんなに頑張っているのにどうして?」と・・・

 そんなある日のこと、ふと気がついたのです。「あれれ?俺はこの苦しみから逃れようとして、そのことばかり御本尊様にお願いしているじゃないか?」「一日も早く、この苦しみが消えてなくなりますように!と、本当はそう祈っているだろう?」

 「その一念は「宿命転換」ではなくて、現実逃避だよ。御本尊様拝みながら他力本願な念仏やってどうする?」と・・・そこで初めて目が覚めた思いがしました。「御本尊様、私が間違っていました。今日よりは心を入れ替えて、自力で壁を破る法華経の信心をします。」その場でそうお誓い申し上げました。

 私たちはつい苦しみから逃げ出したり、甘い姑息な解決を願ったり・・・浅ましい爾前の心にとらわれがちです。宝くじが当たるような幸せをつい妄想しますが、信心に「棚からぼた餅」もなければ、「信心しているから何とかなる」もありません。鑿(のみ)を手に固い岩盤を掘り下げていくように、自分の苦悩と正面から向き合って戦ってこそ、信心の力も威力を発揮するのです。

 活動を熱心にやっても、一念が念仏臭くては、これでは打開できない・・・自分の苦悩から逃げ出さずに、信心でその壁にぶつかり、自力で壁をうち破っていこう・・・その一念が私には弱かったのです。そのことを御本尊様は辛抱強く、私に教えようとされたのだ・・・そう気づかされました。

 「煩悩よ!今日から俺は一歩も引かずにお前の相手になろう。さあ、かかってこい!」・・・そういう心境に立ちますと、生命には逆境を跳ね返す気力が充満します。悩みはあれど心は清々しく、「一切は自分を強くしてその力で打開するのだ」と、そう思えます。環境は同じでも、前と違って心が強く負けないのです。

 もしあのまま悩みから逃げ出していれば、一時的に楽になったかもしれませんが、私という人間は何ら「人間革命」することなく終わったことでしょう。しかし、その宿業と正面から向き合って戦った分、私は負けない自分となって、「宿命転換」することができたのです。

 そういうところに、自分が変わりゆく、「人間革命」の醍醐味があると言えないでしょうか?これからは何が起ころうと、すべてを自身の生命で受けきって、正々堂々、自身の力を信心で磨いて乗り越えていく・・・そのことを学んだのですから、まさに闘争者の心境です。この信心は何があろうと逃げ出してはいけない信心なのです。

 これが私がいただいた仏様からの説法であり、数年、苦しんだとはいえ、今となっては本当に素晴らしいことを教えてくださったと、感謝している次第です。





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