2013
06.14

ハービー氏からのメッセージ

Category: 徒然の記
 一、私たちは、人生を即興で演じているようなものです。
 私がジャズバンドを通して見つけ出してきた根源的な価値をいくつか紹介したい。

 まず、自分自身に安心することです。
 少し時間を割いて、自分がどういう人間なのかをよく知り、自分の中にいる“子ども”と“大人”を受け入れて、生涯、一緒にいる自分という人間に対する自信、感謝、尊敬の気持ちを見つけ出すことです。

 2つ目に、既成のものを打破し、枠にとらわれない考え方に挑戦する勇気を持て!──ということです。
 自分で、自分が前に進む邪魔をしてはいけません。

 3つ目に、あなたが勝つためには他人が負けなければならないと考えることは誤りであり、紛れもなく危険であるということです。
 唯一の競争は自分自身の中にあるのです。

 4つ目に、違うということ、新しいこと、普通でないことは面白いということです。
 古い、いつもと同じことは面白くないのです。アイデアが出あい、ぶつかりあうときに、優秀な音楽が創造されます。

 5つ目に、不可能なことは可能にすることができると信じることです。
 あなたには、生まれながらの想像力があります。それを前進へのアイデアを広めるために使ってください。

 6つ目に、あなた自身について探究することが、想像力のために不可欠であり、自身の理解の一歩となることです。
 考えることが痛いような、考えを刺激する質問をすることによって、自分自身の励みになります。

 これは5月にありましたSUA(アメリカ創価大学)でのハービーハンコック氏の卒業生へのメッセージの一部分です。(5月29日付け聖教新聞掲載)

 それぞれに含蓄のある言葉です。昨夜の座談会で、出席の皆さんにも紹介させていただきました。


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 アメリカにいます私の友人が、かつて「アメリカ人は功徳を感じる間はやるけど、功徳が感じられないとすぐにやめてしまう・・・それがストリート折伏の功罪かもしれない」とメールをくれたことを思い出しました。

 しかし、本当の信仰者は苦難を友とし、苦難を愛し、苦難をばねに大きく成長しゆくことは、単に創価学会に限らず、多くの歴史が教えるところです。ハービー氏やウエインショーター氏のように、様々な宿業や苦難を乗り越えて、師弟不二の道を貫いておられる方がいることは本当に感動的です。むしろいくつ苦難を乗り越えたか・・それこそがその人の人間力の真価だといえるのだと思います。


 スピーチは最後に次のようなメッセージで締めくくられています。

 「理由がなくても、笑顔でいることです。毎日笑い、面白くあり、ジョークを飛ばし、困難の中にもユーモアを見つけ、かつ他人を笑わないことです。
 そして、創造力、情熱、類い稀な才能を、高貴で壮大な、危険にさらされているこの世界を守るために使ってください。平和のために美を創造し、人類を前進させるあなただけのアイデアを、作り上げていってくだい。」

 いい言葉というのは、命の洗濯、心の洗濯をしてくれます。
私の心の中には池田先生も、戸田先生、牧口先生もいらっしゃいます。決して、遠い雲の上の人ではありません。人生と信仰を教えてくださる家族です。そして同志であるハービーハンコックさんも兄弟です。距離が離れていようと、お会いすることがなかろうと、無線のようにきっと心はつながります。

 良き言葉の栄養を今日も心に注入して、暑い日々に負けないで、さらに精進を重ねていきます。



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2013
06.11

男は走れ!

Category: 徒然の記
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「男は走れるだけ走るんだ。” 俺は走り抜いた ”と思えた時に『勝利』がある。私もそうしてきたんだよ」

 過日、聖教新聞に載っていました池田先生の言葉です。

 「ああだこうだ言う前に、それだけの戦いをしてごらん、幸せは後からついてくるよ・・・」
先生がそう言われているように私には感じられます。

 信心は頭で考えるより、むしろ体を使うことの方が大切です。自分の智慧はいらない・・何の兵法より法華経の兵法です。お前の智慧はいらないといってくださるのですから、私などにとってはありがたいことです。まさしく以信代慧です。
お題目も御本尊様しかない、妙法しかないという心で拝む・・・
仏法対話も勇気を奮い、相手を訪問し、心を尽くして語る・・・日々、その繰り返しが信心です。

 その人にふさわしい方法で、妙法のために体を駆使して走りぬく・・・そんな信心をすれば何より爽快だろうなと思います。まして仏様のお使いです。まだ功徳をいただいていないという人は「俺は走りぬいた」という戦いをしていないといっているのと同じです。 正しい因果の法則ですから、限界まで戦えばどんな悩みも解決するのです。


 これから秋まで地元の市会の地方選を含めて、わが地域では法戦が続きます。戦いの場は用意されています。これをわが決戦の場とするかどうかは個々の決意、一念の問題です。幹部さんが言うからしぶしぶ腰を上げるなんてことは私は嫌いです。いっそ幹部さんが目を白黒するぐらいやってやろうではありませんか?「この勝負、先陣をきる!」と決意して立ち上がれば、また勝利の扉が開きます。

 もともと選挙の戦いは好きでなかった私ですが、最近は生命力が付いたのか、一皮むけたのか、まったく苦にならなくなりました。「ああ、また戦わせていただける、ありがたいなあ・・・」と思うようになりました。選挙を前にしてそれこそ、ああだこうだと言っていましたが、もうそんなことは言っておれません。前向きにやればどんな戦いも楽しいのです。選挙の戦いが嫌いだという人で、題目闘争、折伏闘争をガンガンやっている人がいるかというと、私の知る限り、そんな人はいません・・・

” 俺は走り抜いた ”と思えた時に『勝利』がありました。そんな体験発表をしたいものです。その先に何が開けるか、どうせ学会員と定まった運命、楽しく舞いながらやろうと決意しています。

 




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2013
06.07

祈りについて

Category: 信心
 少し前のことになりますが、私は自分がお題目をあげていて、その祈り方がおかしくなっていることに気が付きました。

 私は現在、自営の仕事をやっていますが、仕事上、思うようにいかない状態が長く続いていたのです。
 そのこともあって、御本尊様を拝むときに、「広宣流布のために頑張ります、どうか仕事を拡大できるよう、販路が開くように・・・」と祈っていたのですが、その祈りがいつしか、おすがりのような心になっていたのです。
 「仕事がたくさんありますように・・」というのは偽りのない気持ちですが、それがどこか他力本願な心で祈っている・・・。
 その考えを延長しますと、うまくいかないのも、自分が苦しむのもまるで御本尊様のせいのようになってしまいます。お題目もどこか苦しい感じであげていました。

 信心で仏力、法力を呼び出し、悩みを解決するのですから、悩みが解決しないのは御本尊様のせいではなく、自分の一念と信心に問題があるはずです。
 それをこんなに信心しているのだから、もうそろそろ何とかしてください・・・的な、御本尊様に責任があるようなそんな横着な考えになっていたのです。(こんなに信心しているというのはそれ自体、身勝手な甘い自己採点ですが・・・)

 それですぐに、「御本尊様、間違っていました。自分の信心で道を開きます。問題を解決していきます。」という風に心を入れ替えました。

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 普段、「広布のために戦わせてください」と言えば聞こえはいいですが、「広布のために自分は戦います」というのが本当だと思います。「病気を治してください」ではなく「妙法の力で病気を治します」というべきだと思うのです。

 おすがりの心は、信心していれば何とかなるだろうという考えについ人を落としてしまいます。

この信心は「実はあなたが仏なのですよ」と説いているのですから、私にも無限の可能性があるはずです。その内なる無限の力を引き出そうとしないで、どこかから功徳が漫然と降りてくるような曖昧な心に陥ってしまったのです。

 以前、ある方から、「御本尊様を拝むと、お仏壇の御本尊様から知恵や福運がやってきて私の命に入るのですか?」と聞かれたことがあります。私は思わず笑って「いいえ、そんなことはありません。あなたが御本尊にお題目をあげると、あなたの命の中にある仏の生命が呼ばれて現れるのです。それに知恵も福運も全部備わっています。もともとあるあなたの仏の生命が出てくれば、どんな悩みも解決していくのです。」と答えました。

 人にはそういいながら、いざ自分が苦境に立つと、おかしな思いをして、その上、本当に御本尊様、大丈夫かなあなどと疑ったりして・・・(冷汗)
 
 「また一つ教えていただいた。信心はすごいな・・・」

 そのことに気が付いた今は御本尊様に感謝の題目が上がるようになりました。「まだまだだなあ、でもこれで変毒為薬できるぞ。ありがとうございます・・・」


 信心は歓喜と感謝が本当の姿です。その心で信心できているか?そのことはとても大事なことだと思います。きっと諸天善神もその心に感応し、守護しゆくのですから・・・


 善きにつけ、悪しきにつけ、いつも感謝のお題目で!・・今日も初心にかえって一から出発です。

 



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2013
06.04

雪山童子

Category: 信心
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 法華経にはたくさんの比喩や説話が出てきますが、私が入信したときに読んた説話で、特に印象に残ったのが「雪山童子」のお話です。

 入信して30年たった今も、この説話に接するたび、初心に返って、心が洗われるような気持ちを感じます。常日頃、何の前触れもなく、心にこの童子の姿が浮かぶこともあり、その姿に自らの信心の姿勢を反省することもあります。

 どうして私はこんなにこの説話に引き付けられるのか・・・もちろん、その根底には仏法を修行していく究極の心構えが説かれていることがあるからだといえます。しかし、それ以外にもう一つ、この説話が物語として本当に素晴らしい構成になっているためではないかと思います。

 物語の詳細は省きますが、雪山という人里離れ、静まり返った奥深い山で、一人の童子と鬼神との1対1のやりとりがとても臨場感にあふれ、鮮やかに描かれます。

 帝釈が鬼神に変じて雪山童子を試すこと・・・おなかをすかして暖かな人の血と肉を食べたいこと・・・雪山童子がそれに対し、法を求めて、あまりにも潔く身を投げ出すこと・・・そしてその瞬間に鬼神が帝釈に戻り、童子を讃嘆すること・・・など短い中にもすべてが比喩的であり、大変ドラマチックな展開になっています。(いつか支部総会でもあればこれをみんなで演じるのもいいと思っています。)

 それにしても雪山童子の心には一分たりとも身を惜しむ気配がありません。私たちは普段、命が惜しくて信心しているといっても言い過ぎではないのに・・・
生きて幸福になりたい、お金も健康も長寿もみんなほしいと思い信心したはずです。それなのに雪山童子は最初からそれらを捨てる覚悟を持っています。これはすごいことです。

 半偈のために恐ろしい鬼神に身を投げ、しかも自己のためでなく、後に続く人のために、あたりの木に経を書き付けて残そうとした。まさに童子こそ真の仏であり菩薩にちがいありません。このことによって童子はさらに立派な仏になったかもしれませんが、因果具時の意味を思えば、雪山童子はこの行為をなさんとする時、すでに仏であったとも言えると思います。

 私たちも日々、悩みを抱えながら、末法悪世において、時には悪口を言われながら、仏道修行をしています。いつか仏の生命を感得するという考え方もあるでしょうが、こうして日蓮大聖人と創価学会に、この身を投げ出して戦おうとしている、その姿にこそ仏の生命が躍動しているに違いありません。

 また創価学会の3代の会長、牧口先生、戸田先生、池田先生こそ、現代にあって、雪山童子の「我不愛身命」を実践された方といえます。保身のために神札を受け、軍部に追従した宗門と、命を惜しまず国家を諌暁した創価学会と、どちらが仏意を受けた団体であるか・・・正邪はあまりにも明白であります。

 一人一人が難を乗り越え、雪山童子のようにより強く「不惜身命」の心で生きて行くことが人間革命の道であり、その行く手を切り開いてくださったのが3代の会長にほかなりません。

 修行の途上で我らを悩ます煩悩の山は、帝釈が鬼神に変化したものと心得、潔い信心の利剣で魔を打ち砕き、威風堂々、前進してゆきたいと思います。そして信心が停滞した時は再び、この説話に戻り、自らの信心の糧にしていきたいと思います。


 「雪山童子」につきましては、日蓮大聖人の御書の中に20編以上にわたり、大小引用があります。特に「日妙聖人御書」、「松野殿御返事」などで詳しく語られています。(下記URL参照


参考URL
アニメ雪山童子
日妙聖人御書
松野殿御返事



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