広布の大河に君ありて tori

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其の国の仏法

 私の住む地域は田舎でいわゆる農村地帯です。若い頃、都会に出ましたが、父親の早逝に伴って田舎に帰ることになりました。その頃はまだ私も30代そこそこで、入信して4年ほどのことでした。入会したときに信心を教えていただいた方から、邪宗教の恐ろしさをよく聞いたものですから、こちらに帰った時、そうした宗教がらみの行事が多いのでどうつきあえばよいのか随分ととまどいました。

 神社、天照大神、伊勢の御講、寺の付き合いと何かと用事が回ってきます。都会にいればそんな付き合いも知らん顔で済ませられますが、田舎は少々うるさいですし、当時、未入会だった母からも「ここの人達と同じようにしてほしい」と泣き言を言われて困ったものでした。

 しかも我が家は真言の寺と親戚筋にあたり、母も毎晩のようにご詠歌の練習に寺に行ってました。家の仏間には当然、真言の仏壇があり、私は自室に小さな学会用の仏壇を置いて御本尊様をご安置、小声で拝むという日々が何年も続きました。


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 その後、7年たってようやく母が入会してくれたのですが、今では我が家を学会の拠点に解放、支部、地区の会場として使ってもらえるようにもなりました。

 そんな中、今年は地域の大きな神社の世話役が10数年ぶりに回ってくる年にあたっています。お祷(とう)と言って8人ほどで一年間、神社の世話をするのですが、これについても受けたものかどうか思案しました。と言うのもこの対応について、幹部さんに聞いても意見がまちまちで、「気にせずにやれ」と言う人と「謗法厳戒」を立てる人と二色あるからです。そのためか会員さんの中でも受ける人と断る人がいたりします。

 思いあぐねてある日、学会本部に聞いてみようと思い、信濃町の本部に電話して担当の方とお話をしました。担当者は「信心は強く持たねばいけませんが、地域のお付き合いで役目上、またその土地の人間として、一般的に受けていくことが習わしなら、あまり気にしないでおやりください。参加しないで学会を悪く理解されたり、あなたが独りよがりに思われることの方が、マイナスになることもあります。自分から進んで神社を参拝しない限り、謗法にはあたりません。」と言うことでした。

 これは戸田先生のころの指導とはだいぶ違ってきていることも確かです。それだけ学会が開けてきたともいえますし、現に友好関係を作っていくことを思えば、相手の懐に飛び込むことも時に大切なことです。山にこもって一人で生きて行くわけではない…信心をしていない人々とどれだけ友人になれるか、その外交戦こそ、広宣流布の要です。学会の正しさだけを押し付けては独善と言われても仕方がない、そういう思いもありました。

 そこで先日、新旧の神社の世話人の引き継ぎの会合がありましたので、折を見て私は発言の機会をもらいました。
「御存じのように我が家は創価学会で信心しています。そのため神社への参拝、神事、お札の配布などできないこともありますが、そのほかの掃除や祭りの手伝い、会計などはできますので、できればお祷人の末席においてもらいたい」と申し出ました。

 その結果、「信仰が理由ならしょうがない」との意見で私の願い通りになりました。地域の人々も「信教の自由」は理解されており、神社の世話役を絶対的に押し付けることもできないことはわかっておられます。
 ここらでも別の新興宗教やキリスト系の宗教の方などはっきり断られる人もおられます。でも私は地域の人々と一緒に生き、信頼関係を築くことを第一に考え受けることにしました。

 「学会やのに神社の会計したり、神殿の掃除や餅投げなんかして大丈夫か?」と言ってくれる人もいました。「大丈夫やで。役の上で、地域のためにすることやからな、その代りまた公明党も頼むで!」と笑って答えました。

 謗法厳戒と言う考えもあれば、随方毘尼(ずいほうびに)ということもあります。いずれにしろ、御本尊を信じ、広宣流布のためにどの振る舞いが正しいか思索することも大事だと思います。昔、ある方から「身は落ちても心までは落ちてはいけない」と聞きました。役目上、やむなく神社に行くことはあっても心から拝まなければよいとの意味と思います。同様に他宗の葬式や仏事などもその考えでいいと思います。

 今、私はそういう役柄を多く受けなければならない年代です。自治会の役員、人権委員、子供会の三役、そして学会の地区部長と、夜は毎日のように会合に追われます。

 そういう役職を通して、ある人には学会宣言をし、信心の功徳を語り、仏縁を広げていくことができる・・・そのうれしさの方が私にとってずっと大切であり、ありがたいことなのです。

 学会が正しいと主張するだけでは相手は理解してくれません。それはよその宗教もそうだからです。その上で、学会員は何かが違う、積極的で献身的だ、なにより笑いがあって楽しい、この人なら信頼できる・・・そう思われて初めて相手がこちらを認めてくれるのです。そしてその行動の基準はこの地の広宣流布を一歩でも進めていこうとする心であらねばと思います。

 以前は神社のお祭りなどあってもほとんど参加せず、村の幼なじみがハッピを着て御輿を担いでいるのを、遠くから見ておりました。

 今年は世話役として、また子供会の会長として、祭りや御輿の運行にも参加しなければなりません。けれど決して心苦しく思うことはありません。周りの人からも、「あなたは昔と変わったね」と言ってもらうこともあります。そうやって友好を深め、ここで生きる同じ人間として私は仏法を語ってゆく・・・今その生き方に大いなる未来の広布の展望が開けていく思いがします。

 有名な高橋殿御返事の御文には「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」とあります。この地域で一人立つ精神で、同志とともに師子の如く私も生き抜いていきます。




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難こそ誉れ・・・

 日蓮大聖人様は立宗宣言以後、法華経ゆえの大難の人生を貫き通され、万年救護の大御本尊をご図顕あそばされました。また法華経の正しい信心のお姿を身を持ってお示しくださいました。創価学会の三代の師弟も法華経ゆえの大難を受け、日蓮大聖人様のご遺命である広宣流布のために戦いぬいてこられました。もったいなくもこの方々のおかげで、今日、学会員は御本尊を受持し、一生成仏のための信心を意気揚々と歩むことができます。

 今なら、官憲に囚われ牢屋に入れられても、退転しないで頑張る人も多いのではないかと思いますが、それは、牧口先生や戸田先生が初めに難を受けられ、池田先生の力をもって勝利した今日の学会の姿を見たからではないかと思うのです。

 末法の初めに熱原の三烈士の立場にいきなり立たされたら、きっとたいていの人は逃げ出すように思います。
牧口先生、戸田先生が逮捕、投獄された後にほとんどの人が退転していったように、私もその立場に初信のころに行きあったら、どうしていたか自信はありません。ぶるぶる震えて逃げ出したかもしれません。そう思うと、これらの難に最初に遭遇して、たじろがなかった人々は本当にすごい人達だと思うのです。

 これはある意味、本当の法華経の功徳の意味を知っていないとできるものではないし、そうでなければ純真に日蓮大聖人様を信じ抜いていないいとできないことです。現世利益だけを思っている人にはとても耐えられない話です。今の私なら、そうした難があれば受けて立つように思いますが、5年や10年の信心ではとても私はそこまで行けなかったように思います。

 そういう偉大な精神の持ち主がおられたがゆえに、今の私たちの信心があると思いますし、いついかなる時も、先人のそうした行動への感謝を忘れてはならないと思います。



夏野菜



 当初、御書を学び始めて大聖人様がいたるところで「難がある、難がある・・」と何度も説かれることが不思議で仕方ありませんでした。すぐに功徳が出るものと思い入信したものの、こんなに難があるなんて話が違うよ・・・と内心思ったものです。実はそれが妙法の良薬たる所以だと後々わかったのですが・・・妙法の力で私たちの生命に潜む第六天の魔王をあぶり出し、難を起こさせ、信者を悩ませ、その毒を持って毒を制し、一生成仏の大功徳に変えて差し上げますと言われているのです。そうしてみると難はすべて仏さまの慈悲の計らいととらえて勇んで戦っていくことが肝要です。

 今の時代は非常識な行動でない限り、いくら折伏しても逮捕されて牢屋に入れられることはありません。せいぜい悪口を言われるか、仲間外れか村八分にされる程度のことです。ですからとても信心はやり良い時代だと言えます。大いに仏法対話に汗を流さなければ、このままでは私も報恩の道を歩んでるとはとても言えないぞと自省する日々です。

 御聖訓には「和党共二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこえよかし。 わずかの小島の主等が威嚇さんを恐じては 閻魔王の責めをばいかんがすべき。 仏の御使となのりながら、 臆せんは無下の人々なりと申しふくめぬ。」(種々御振舞御書962P) 

 また「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」(如説修行抄501P)等々、難を覚悟するよう仏様の大確信のお言葉を持って促されています。

 暑い夏も間もなく終わり、活動には絶好の季節の到来です。多くの同志の方々と共に、ともに励まし、「一歩前進、日々前進」の心意気で我が人間革命の仏道修行に邁進したいと思います。



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さくらはおもしろきもの・・・

 教学の方で最初に覚えた仏法用語の一つに「十界互具」という言葉があります。
「地獄、餓鬼、畜生。修羅、人、天・・・」と何度も繰り返し覚えました。十界にまた十界が備わっている・・・「うーん、一体それが何を意味しているのか?」などと不思議に思ったものです。

 でもその十界互具がすごいことだと知ったのは、ずっと後になってからのことでした。それは実に九界に仏界が具足していることを教えておられるわけですので、一切衆生が仏だという、仏法の根幹ともいえる大事な法義だったのです。

 信心することは、この十界互具があるゆえに仏の生命を体得できるのだとなっています。
それも釈迦の時代のように歴劫修行をするのではなく、信心さえ強ければ即座にわが生命に仏界を顕現していくことができると説かれています。

 地獄や餓鬼界に生命が落ちようが、「南無妙法蓮華経」とひたぶるに御本尊を信じて唱えれば、仏界をあらわすことができる。そして現実の悩みを乗り越えて行く・・私のような三毒や煩悩の強い者にはうってつけの信心です。
 頭のいい人でないと駄目、生命が清らかでないと駄目というのではとても私は救われない・・どんなに汚れていても、どんなに悩みが深くても、あなたは仏なのですよといってくださるのですから、この信心はそれだけですごいですね。

 世間を見渡しても私のことを讃嘆してくれたり、敬ってくれる人など、正直、一人もいません。(笑)
仏様だけです。私を見捨てないで仏ですよ、最高に尊貴ですよと言ってくださるのは・・・だから私は信じてついていけるのです。 

 仏と言うと、どこか悟り澄ました聖人のように思いますが、この凡夫の身がそのままで仏だというのですから、法華経はまさに難信難解です。仏様にも当然、餓鬼や畜生の九界が備わっていると説かれます。
 「実はこう見えてお父さんは仏なんだよ」と言っても家族ですら信じてはくれない・・・普段、息子には軽くあしらわれ、奥さんには見下げられ・・・現実はあまりにも厳しい(泣)

 私の周りの方も「自分が仏だなんて俄かには信じがたい・・・」という人もいます。それも無理からぬ話ですが、「あなたが仏です、そして地涌の菩薩です・・と日蓮大聖人がそう言われているのだから、そうでないといえば仏様を疑うことになる。ここだけは大信力を出して信じましょう!」ということにしています。

 いずれにしろ、この「十界互具」と言う法理は本当に素晴らしいと思います。これがあって私たちは初めて幸福になれると証明できるのですから・・・

 他の宗教にはこれは絶対にない・・・あなたこそキリストです、親神様です、大師様です・・・などということはなく、教祖はあくまで衆生から離れた特別な存在で、信者はどこまでも罪深きしもべなのです。

 さくらはをもしろき物木の中よりさきいづ・・と十字御書(1492ページ)で日蓮大聖人は仰せになられました。
 衆生を桜の木に、仏を美しい桜の花にたとえられていると思いますが、いつか春になれば、自分の仏界も咲き誇れる時が来るからと、この御文に何度も励まされ生きてきました。

 また「冬は必ず春となる・・」という有名な御金言があります。多くの学会員の方がこの言葉を抱きしめ、宿命を打破して勝利の人生を勝ち得てこられました。
「冬は必ず春となる・・」なんとシンプルで希望にあふれたお言葉でしょうか?仏様は本当に励ましの名手だと思います。
 
 縁あって学会の信心をした以上、この凡夫の身に仏界の生命を顕すことが本当の目的です。まさに目指すべきはわが身の仏界であり、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也 」(富木入道殿御返事、955ページ)との御金言を心に掲げて歩みたいと思います。

 それにしても冬が長いなあ・・と内心思うのですが、それはまだまだ信心が足りていない証拠、今一度初心に返り、信心を強盛にして、必ずやこの人生で晴れやかな仏国土の空を仰ぎたいと強く願うものです。


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