広布の大河に君ありて tori

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祈りと確信

 私のつたない信仰ですが、これまで数々のことを感じ、学ばせてもらいました。その一つに、「決意と確信なき祈りは叶わない」ということがあります。「祈りとして叶わざるはなし」との信心をしていながら、祈りが思うように叶わないということを私もそれなりに経験しました。

 その原因がどこにあるか?これは私の体験で言うお話ですが、自分自身に「絶対にそうなる」「そのことを成就してみせる」という、迷いなき強い決意があるかどうかで、祈りの叶う、叶わないが決まってしまうということです。

 ある人を折伏する。その人の入会を祈っていくとき、必ずこの人を入会させるという確信、決意があるか、自分に聞いてみるのです。「むずかしいかな・・」と言葉を濁すようであるなら、こちらの決意はまだ弱い、その祈りは水の上で火をたくようなものであり、いつまでも叶わないのです。

 もちろんその決意が、本物になるには時間がかかると思います。特に不可能と思われることに挑戦する時は、決意してもまた崩され、また決意していくという繰り返しかもしれません。けれど、そのたびに挑戦し、信心を根本に祈っていくなら、その使命がある時、必ず自分の中で、祈りが叶うという強き確信が五体に漲ってくるのです。

 その確信が自身の体に漲る時、依正不二の法理から、絶対に結果が出ていきます。不可能が可能となる力が不思議と身の周りに現れだすのです。


中区夕焼け2


 信仰されていても、医者も見放したような病気で、苦しまれている方もおられることと思います。しかし病気は絶対に治る、妙法に不可能はないと確信することが大事だと思います。「いかなる病さわりをなすべきや・・」と大聖人様が御断言なされておられます。医者の言葉と日蓮大聖人様のお言葉と、どちらを信じるのか?私なら仏様のお言葉を信じて生きていくと思います。(40代の初めに私自身も病を体験し、大きな手術をしましたが、無事に生還しました。)

 よく病気の悩みで指導を受けられた方に、池田先生は、「あなたは病気なんかではありません!」とピシっと言われています。これは病魔に負けて、心まで病人になっている、その弱き心を、打ち破らんとする先生のお心ではないかと思うのです。

 「絶対にこの病に勝って見せる!勝つに決まっている、私は健康なんだ。」と大確信を持つことが何よりの薬です。そして健康でいきいきしている自分をいつも心に描く・・・死んで葬式を出してる姿などイメージしてはいけない。先生も「人生は強気で行け」と常々おっしゃっておられます。大確信ある信心に病魔は驚いて、あなたの体の中から出ていかなくてはならなくなるのです。

 題目をあげぬくということは、不幸を打ち破る決意と確信で、体中をいっぱいに満たしていくことではないでしょうか?
 そして自身が確信の塊(かたまり)のようになった時、その祈りは必ず叶っていくのです。

 仏の力を表わす言葉に「如意宝珠」とあります。心で決意したことが意のままに成就していくという意味です。それが妙法の偉大な力です。それゆえ、「心こそ大切なり」と仰せだと思います。自分がこうなると決めれば、広宣流布のためです。必ずそうなっていくに決まっています。同じ信心をするなら、まずは絶対、健康になる、幸福になると決めてかかりたいものです。

妙楽大師のたまわく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(乙御前御消息、1220P)
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし・・」(日厳尼御前御返事1262P)との御文もあります。すべてはこちらの確信ある一念、信心で決まります。
肝心の自分がぶれていては、いつまでも状況を打破できない。そのことをいくつかの体験を通して私は学ばせていただきました。

 悩みを抱えている人に対していつも私は「本当のあなたは病気なんかじゃない、貧乏なんかじゃない、一人ぼっちでもない、立派な地涌の菩薩です、すごい仏なのです」と励ましてあげたい気持ちでいっぱいです。

 さあ、今日も明るく、信心への大確信を奮い起こして、池田先生とともに広布と人間革命の坂を一歩、また一歩と登攀していこうではありませんか!


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宿命転換の戦い

 創価学会も総本部の完成が目前に迫り、青年部の目覚ましき台頭も連日、聖教新聞等で紹介されています。草創のころ、病気と貧乏人の集まりと言われた学会の姿は、いまや遠い昔のことになったかのようです。学会を牽引されているリーダーの方々も、2世3世の青年部や若い壮年部の方が中心となり、福運も豊かですっきりとした方が多い・・・まさに新しい創価学会の時代が到来しつつあると感じているのは、私一人ではないと思います。


 とはいえ、現実には病気や経済苦など様々な悩みを抱え、日々、戦っておられる方も多いのも事実だと思います。

 本人にとって簡単な宿命転換などありません。崖っぷちで戦っている方にとっては「願兼於業」「転重軽受」と言われても、「一刻も早く助けてほしい、守ってください…」と言うほかない切実な時もあると思います。

 自分の信心が弱いと、つい環境や誰かのせいにしたくなります。その間、何も変わらない、よくなってもまた同じ苦しみが起こる。結局、自分がそれらの苦難をバネに発心して、変革していく以外にない・・・逆に言えば、どんな状況でも自分が変わることによって乗り越えることができることをこの信心は教えています。

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 あたかもサーフィンをするように、波が高ければ高いほど、荒々しければ荒々しいほど、すごいサーフィンになるのと同じです。小さな波では面白くない、人も感動しない・・・それぐらいに思えたら、きっと自分に生命力が付いた証拠です。

 「来るなら来い!俺にはこれぐらい猛々しい宿業がちょうどだ、自分が勝つか、魔性が勝つか、真剣勝負の時が来た」そうやって腹を決めないと絶対に勝てないのが、宿命転換の戦いではないでしょうか?


 悩みに押しつぶされて逃げ出すか、今こそ最大のチャンスの時と信心で立ち上がり戦闘開始するか、まさに勝敗の分かれ目は、自分の心の仏と魔との戦いにあります。負けてなるものかと、なりふりかまわず立ち上がった時、戦いは必ず勝利の方向に向かい始める。大勝利の人生には、大きな苦難こそ善知識となるのです。

 「何故、自分がこんなに苦しまなければならないのか?他の人は随分、楽しそうに生きているのに・・・私だけ宿業が深いのか!」と思うことは、どなたにでもあると思います。ガンジス河の砂の数ほどの生死を経巡ってきたと説かれる私達です。あなた一人が宿業が深いなどと言うことはないと思います。みんな深い(笑)・・・でも信心して出たということは、凡夫にはわからない深い意味があると思うのです。だから軽々に、病気が出たから罰だ、会社が倒産したから信心がおかしいなどと、こちらが勝手な判断するのは慎むべきです。

 大聖人様は、「我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん。設へば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず。彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(聖人御難事)と暖かくも厳しく仰せです。

 これは法華経ゆえの大難に遭われたことについて述べられた御文ですが、私たちの苦難にも通じるお言葉だと思います。「ただ一えんにおもい切れ」とのお言葉に、法華経に生きることの偉大さを強く訴えられているように感じられてなりません。

 何があろうと、仏様にわが生命をおまかせして、強く生きて行く以外にない。「体当たりでこの信心にぶつかる・・それが私のすべてだ!」そう思って信心に賭けるしかなくなったら、私はそれで本望だと思うのです。そういう境地へ達したなら、逆にそれは素晴らしいことだと思います。苦難に負けないで信心で戦いゆくその人こそ選ばれし誉れの勇者です。

  本当に苦しいところに行かないと、その人の本当の信心は出てこない・・・ここに信心の奥深さがあると思います。泣いて御本尊を拝んだこともないような人に信心はわからないとも思うのです。

 魔王の試練は、私たちの信心を破壊するためのように見えますが、実は信心強き人にとっては、自身の仏の生命を顕す絶好の機会です。仏様は私たちの生命に仏の生命を顕すために毎時作是念の思いで、その人に応じて試練を与え、化導なされるのです。
 

 幸いにも私達は法華経の剣をたもつ身です。宿命転換を前にして、臆病や優柔不断では、いかに名刀を持っていても切れない。けなげでまっすぐな信心で、魔王の試練を叩き切り、師弟勝利の実証を私も皆さんとともに勝ち取っていけるよう戦って参ります。




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幸福の方程式

 信心を頑張っていても苦境に陥り、その出口すら見えず、思うようにいかない中を歩いておられる方も多いのではないかと思います。実は私もその一人でした。自身の宿業の深さに何度も途方に暮れ、絶望的な気持ちになることもありました。「信心しているのに何故?」とそのたびに思い、投げやりな気持ちで布団をかぶって寝たこともあります。それでも陽が昇ると、泣く泣く気を持ち直し、自分を励まし、「やっぱ信心しかないもんなあ・・・」と思い直し御本尊様に向かいました。。振り返るとそのたびに信心を強盛に、また自分を強くしていただいたと、今ではそれらのことにも感謝しています。

 今もたくさん悩みを抱えています。でもきっとまた解決がついて私は楽しく生きて行く・・そう思います。悩みがあっても不思議と命には、それを乗り越えてみせるというド根性のような力が湧きあがってくるのです。
 
 池田先生の指導に「幸福だから感謝するのではなく、感謝するから幸福になる」とあります。私たちはつい、「お金持ちにでもなったら楽しいし、そりゃ感謝もできるよ」なんて思ってしまいます。でも先生の教えは逆なんですよね。感謝するから幸福になるというのが幸福になる順序であり、方程式なのです。それを私は20年以上、反対のことをやってきたかもしれません。「まずは幸福にしてください。そしたらいい人になり感謝もしますから」なんて・・・(笑)

  世間は単純に「健康や経済面の姿をもって幸せだ」と言います。法華経は三世の幸福を説くわけですから「まずあなたの命を常楽我浄の仏の生命に変えなさい。そうすれば永遠にあなたは幸福です。幸福ですからお金でも家でも必要なものは出てきますよ」となります。先に人間革命ありきです。信心は私たちが仏の生命であるということを悟るためにやっているのです。決して今日、明日の生活のためだけにやっているのではないはずです。


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  幸福が少なく生まれついているということは、地獄や餓鬼界の因をたくさん持っているともいえます。私がそうです。父や母を軽んじ、人を見下げたり、人の苦しみを他人事のように見てる。そんな悪しき心がいっぱい充満しているのが私の命の実相です。そういう命だから現世で種々の苦しみに会う・・・これは道理です。

 そういうどうしようもない人間を幸福にしてあげましょうというのがこの信心です。今すぐ治してほしいですけどそうもいかない・・仏様にも都合があります。何よりこちらの病も重症ですし・・・

 私の命の不幸の汚泥に、法華経の良薬たる妙法蓮華経を毎日流し込んでいる。「あなたは汚泥の量が半端ではないので少々時間がかかる。荒療治も必要だ。転重軽受と言っても人の倍の苦しみは覚悟しなさい。それでも今世のうちには何とかしてあげますから・・・」とそういわれているようなものです。
それで本当の人間革命には時間がかかると思うのです。

 そうして毒が出て苦しんで、また毒が出て苦しんで・・様々に罪の償いをしてようやく命に清らかさを感じられるようになる。そして常楽我浄の命がほのかに立ち昇ってくる・・・こうなって来ればきっとOKです。

 なぜなら自分の命が清らかで楽しくなって来れば、自然と何にでも感謝の心が湧いてきます。そんな命に変えてくださる御本尊様には一番感謝の心が湧きます。悪いことがあっても感謝できるようになる・・・「ありがたいなあ、うれしいなあ…」そんな言葉がいつも出るようになればようやく自分も幸福行きの船に乗ったことがわかる。(実は妙法に縁した時、すでにその船に乗ったのですが・・・)

 よく「愚痴は福運を消す・・」と言われます。不平や不満をたらたらやっていると、感謝の真逆ですから不幸への道を転がっていくようなものです。人も自分も仏の命なのに、文句ばかり言ってたら、そりゃ仏の命も曇って福運も輝きませんよね。

 感謝できる自分へと変わっていく・・にこにこ楽しい自分へと変わっていく・・力にあふれ、生きていること自体がうれしくてキラキラしてる・・・そう変革することが人間革命ではないでしょうか?そういう人の命に諸天善神は喜び輝くのです。
自身の生命が、いやでも幸福が吸いついてくる磁石になってしまうのです。

 いかに頭が良くても、しかめっ面の理屈屋では駄目です。そんな人には幸せがよりついてくれません。
多少、頭が弱くても仏様から「この子はかわいくていい子だね」と思われるほうがずっと上です。
純真で愚直の信心の人が最後には絶対、勝つのです。

 十字(むしもち)御書にはこう仰せです。
「わざわいは口より出でて身を やぶる さいわいは心よりいでて我をかざる。(中略)今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし・・・」

 万里の外から幸せがやってきたらどんなに素晴らしいことでしょう!私なら舞を舞って喜びます。
そのために心をどう磨くべきか・・・「ただ、南無妙法蓮華経・・」と日々、余念なく唱え、折伏に励み、仏様のお使いをすることが、絶対唯一の道なのです。
 それをやりぬいた人だけが、御本尊様から讃嘆していただけることを確信し、この信心に命でぶつかっていきたいと思います。




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