2013
09.27

祈りと確信

Category: 未分類
 私のつたない信仰ですが、これまで数々のことを感じ、学ばせてもらいました。その一つに、「決意と確信なき祈りは叶わない」ということがあります。「祈りとして叶わざるはなし」との信心をしていながら、祈りが思うように叶わないということを私もそれなりに経験しました。

 その原因がどこにあるか?これは私の体験で言うお話ですが、自分自身に「絶対にそうなる」「そのことを成就してみせる」という、迷いなき強い決意があるかどうかで、祈りの叶う、叶わないが決まってしまうということです。

 ある人を折伏する。その人の入会を祈っていくとき、必ずこの人を入会させるという確信、決意があるか、自分に聞いてみるのです。「むずかしいかな・・」と言葉を濁すようであるなら、こちらの決意はまだ弱い、その祈りは水の上で火をたくようなものであり、いつまでも叶わないのです。

 もちろんその決意が、本物になるには時間がかかると思います。特に不可能と思われることに挑戦する時は、決意してもまた崩され、また決意していくという繰り返しかもしれません。けれど、そのたびに挑戦し、信心を根本に祈っていくなら、その使命がある時、必ず自分の中で、祈りが叶うという強き確信が五体に漲ってくるのです。

 その確信が自身の体に漲る時、依正不二の法理から、絶対に結果が出ていきます。不可能が可能となる力が不思議と身の周りに現れだすのです。


中区夕焼け2


 信仰されていても、医者も見放したような病気で、苦しまれている方もおられることと思います。しかし病気は絶対に治る、妙法に不可能はないと確信することが大事だと思います。「いかなる病さわりをなすべきや・・」と大聖人様が御断言なされておられます。医者の言葉と日蓮大聖人様のお言葉と、どちらを信じるのか?私なら仏様のお言葉を信じて生きていくと思います。(40代の初めに私自身も病を体験し、大きな手術をしましたが、無事に生還しました。)

 よく病気の悩みで指導を受けられた方に、池田先生は、「あなたは病気なんかではありません!」とピシっと言われています。これは病魔に負けて、心まで病人になっている、その弱き心を、打ち破らんとする先生のお心ではないかと思うのです。

 「絶対にこの病に勝って見せる!勝つに決まっている、私は健康なんだ。」と大確信を持つことが何よりの薬です。そして健康でいきいきしている自分をいつも心に描く・・・死んで葬式を出してる姿などイメージしてはいけない。先生も「人生は強気で行け」と常々おっしゃっておられます。大確信ある信心に病魔は驚いて、あなたの体の中から出ていかなくてはならなくなるのです。

 題目をあげぬくということは、不幸を打ち破る決意と確信で、体中をいっぱいに満たしていくことではないでしょうか?
 そして自身が確信の塊(かたまり)のようになった時、その祈りは必ず叶っていくのです。

 仏の力を表わす言葉に「如意宝珠」とあります。心で決意したことが意のままに成就していくという意味です。それが妙法の偉大な力です。それゆえ、「心こそ大切なり」と仰せだと思います。自分がこうなると決めれば、広宣流布のためです。必ずそうなっていくに決まっています。同じ信心をするなら、まずは絶対、健康になる、幸福になると決めてかかりたいものです。

妙楽大師のたまわく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(乙御前御消息、1220P)
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし・・」(日厳尼御前御返事1262P)との御文もあります。すべてはこちらの確信ある一念、信心で決まります。
肝心の自分がぶれていては、いつまでも状況を打破できない。そのことをいくつかの体験を通して私は学ばせていただきました。

 悩みを抱えている人に対していつも私は「本当のあなたは病気なんかじゃない、貧乏なんかじゃない、一人ぼっちでもない、立派な地涌の菩薩です、すごい仏なのです」と励ましてあげたい気持ちでいっぱいです。

 さあ、今日も明るく、信心への大確信を奮い起こして、池田先生とともに広布と人間革命の坂を一歩、また一歩と登攀していこうではありませんか!


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