2013
10.30

感謝と歓喜の信心

Category: 信心
 「進まざるは退転なり」という言葉があります。信心をしていて変わらない自分であれば、それは惰性の信心か、退転の信心になっているということになります。大変厳しい指導ですが「信心はどこまでも自分が変革していかなければいけない・・お題目をあげることは目的ではなく、自分が変わること(人間革命)が目的なわけですから、100万遍題目をあげても、私は変わりました!といえなければ、本人には功徳があったかどうかわからないのではと思います。


 感謝と歓喜の心が弱いと信心は弾んでいきませんね。歓喜があれば生命が空気がいっぱい入ったボールのように、軽やかにポンポンはねていく・・空気は感謝と歓喜のお題目でしょうか?。そして愚痴や文句は針でボールをブスブスつっついているようなものといえます。感謝と歓喜の心はおのずとその人を輝かせますし、その心が出ない信心は錆びついたギアを回すようにどこかしんどいものです。それが顔や振舞に全部現れてきます。

 そんなわけで、今、私は御本尊様に歓喜と感謝の題目をあげて生きています。「罰をたくさん出していただいてありがとうございます。一段ときれいな命になりました。福運の尽きた私を教えていただいてありがとうございます。でも信心があるので大丈夫です。」と言えるようになりました。。見るもの、聞くもの、楽しくなってくる、時につらいこともあるけど、生命の奥が安心して笑っている・・・そんな風に変わってきたのです。



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 でもそこに来るまでは、本当に罰の連続でしたので、世間でいう目に見える功徳はほとんど感じないでやってきました。頭破七分の悩乱あり、10年にわたる首や肩の神経痛、腎臓癌との戦い、金欠病、そのほか学会活動の休止、自身の悪癖等々いっぱい出ました。本当に人様に言えないほど、汚れたヘドロが轟々と生命から噴き出たのです。お題目さえ、頭が痛くてあげられなかったほどですから。だから、歓喜というよりは苦しげな信心が20年以上は続いたでしょうか?我ながらよく退転しないで踏ん張ったと思います。罰の数では負けないぐらい出ました。おかげで「罰即功徳」ということは身で読ませていただきましたので、それについては体験発表できると思います。(笑)

 
 戸田先生のご指導に「初心の功徳の後は、谷に下りるように魔王の試練がやってくる。たいていのものはこれに負けてしまう」とあります。私はこの言葉に救われました。
そのご指導によって、身から出る罰を魔王の試練といつも受け止めることができたのです。


 今は御本尊様がありがたい・・・今までは紙に印刷した文字だったのが、我が家に日蓮大聖人様がいらっしゃると思えるようになる・・朝晩、大聖人様にお目通りできるのですから歓喜が湧きます。何が来ても大丈夫、我が家には御本尊がある、と・・・自信に満ちてくるのです。

 この信心は宇宙大と説かれます。こちらの浅智慧でとても考えが及ぶようなものではありません。
今日は勤行しなかったから罰が出ないかしら?・・・などというそんなせこい(笑)仏様はいませんよね。それはこちらの心が小さいだけです。宇宙とまでいかなくともせめて日本一の~になる」ぐらいの気持ちを持って信心したいものです。


 御本尊に身を任せて、ただ信行学に専念していけば、どの人も自然に仏界に至ると断言されておられます。
  本来、自分が仏なのですから、いつか死んでもまた幸福の世界に入って、おぎゃあと出てくる、この人生で信心をやり抜けば、絶対、幸福に生まれついてくる。「ありがとうございます。私ほど幸福者はいません、うれしいなあ」と決めて感謝感謝で南無南無していけばOKです。

 そしてその先に未来永遠の幸福が私達には待っている。
そう確信できれば、心配がない・・・仏様もありがたければ、池田先生もありがたい・・・来世はどんな人生がいいかな?なんて想像するのも楽しくなります。顔の色つやから、振る舞いまで、力に満ちて輝いていきます。

 怨嫉したり、いがみ合っているのは、結局、自分が仏だということをすっかり忘れて、歓喜の信心を見失っているのかもしれませんね。

 さて11.18総本部完成のこの秋こそ、新時代到来の幕開けです。皆さんと一緒にお祝いし、我が生命の宝塔もご覧の通りですと報告できるよう、共に信心一途で日々、勝負を決していこうではありませんか?



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2013
10.24

声仏事をなす

Category: 未分類
 今朝、私は聖教新聞を読みながら、唐突に家内に話しかけました。「今度、生まれてきても僕と一緒になる?」と・・・「朝からどうしたん?」という顔をしていましたが、実は最近、来世のことを想像することも多く、(来世より今をしっかりやりなさい・・という声も聞こえますが)今度、生まれ変わったなら、できるだけ早く、池田先生の元にはせ参じて、文化や芸術の仕事でお手伝いできたらいいなあと思うことがあるのです。たとえば今でいうなら、富士美術館や 民音の職員として働けたら素晴らしいだろうな・・と思うものですから、そういう仕事を持つ奥さんになるのはどう?という意味で聞いてみたのです。

 案の定、彼女の答えは「生活さえ安定するなら、考えてもいいよ」という、鋭い剣で一刺しやられたような納得の答えでした。いかに結婚してから、生活の苦労をさせているかと、裏返しに言われたようなものですが、女性は時に男の夢を打ち砕くほどあっさりと現実的であったりするわけです。
 
 もちろん、貧乏するにはそれなりのわけがあるわけですし、私にはそれを楽しんで行こうぐらいの気構えがあるのですが、我が家は子育て中ということもあり、彼女にしてみれば本当に苦労を感じていたのでしょう。


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 実は今、私の手元に戸田先生の指導のLPレコードがあります。これはある方が、私にはいらないけどあなたには必要でしょう、とわかったような理屈でくださったものです。長い間、しまっていたのですが、一度、座談会でみんなで聞こうと思いまして、古いプレーヤーから重いスピーカーまで仏間に運びセットしました。

 針を下しますと、タバコとお酒?で少ししわがれたあの戸田先生のお声が、パチパチというレコードノイズの音とともに、ビンビン流れてきました。たまたまそれが登山会の質問会で、貧乏についてのお話だったのです。

 戸田先生曰く、「病気というのは本人が苦しむでしょう?だから治りが早いのです。ところが貧乏は時間がかかるのです。それは種を植えて、明日収穫したいといってもそれは無理です。桃栗3年、柿8年、稲だって半年、菜っ葉だって3月かかる。だからちょっと待てというのです。そんなに待てませんと言ってもそれは無理なのです。」と・・そして「育ってしまえば金なんかいくらでも入るようになる。」(要旨)と言われています。その確信に触れるとこちらの心まで実に暖かく、希望に満ちてくる。まさに「声、仏事をなす」そのものだと改めて感じました。


 池田先生が、戸田先生とお会いになられ、その人格、生命に呼応してついていかれたのも、まことに僭越ですが、よくわかる気がします。池田先生は「私は宗教で入会したというより、戸田先生にお会いしてこの人だ!と思った」という意味のことを、のちに述懐されておられます。

 私達も仏法対話をしますが、相手の方が欲しているのは、宗教的な理論や理屈というより、こちらの大確信の声ではないかと思うのです。悩みの衆生の中に入り、その魂を揺さぶり起こすような、人間的な暖かな声・・・その声が相手を変えていくのだと信じます。

 スピーカーから流れる戸田先生のお声を聞いていると、知らずいい湯加減のお風呂に入っているような、温かいものに包まれます。御本尊様を御不敬した人に対する指導も聞きましたが、罰論で言われても本当に暖かい・・抱きしめるように、噛んで言い含めるように、相手の方に全生命で過ちを正すよう諭されている・・・私ならその声を聞けば、「ああ。この人だ、この人なら信用できる・・ついていける・・」とそう思うと思います。それほど声には力があるのです。お題目の良く上がった、確信あふれる声が、衆生の心の襞に染み入り、その人の眠れる善なる心を呼び覚ましていく・・それが仏法対話、折伏の基本ではないでしょうか?

 私の声に家内が感応して「どんなに貧乏してもあなたについていくからね!」なんて、浪花節みたいにいってくれたら、男は馬鹿な生き物ですから、やる気が出るのですが、そのためにも更なる仏道修行に精進してまいりたいと決意しております。(笑)

 本当に人の心を覚醒させる「力ある声の人」に私はなりたいと思います。わが生命を仏の生命に染め抜いていくとき、おのずと慈悲と智慧に優れた暖かな人間になれるものと確信しています。

 私は生きている限り、一人でも多くの人に仏法を教え、救って行きたいのです。それが地涌の菩薩の使命です。そのためには世間から一歩抜きんでた人間力が必要です。仕事であれ、なんであれ、「あいつは違う、すごい!」と言われるぐらいの魅力あふれる私になることが大事なことです。

 そんな自分に日々生まれ変わり、強い生命力を湛え、陽に焼けた逞しき顔で、人々に微笑みゆく快活な青年・・・生涯、そのスタイルでこの人生を闊歩してゆきたいものです。

 さあ、今夜は我が家で座談会です。戸田先生のレコードをみんなで聞き、温まりながら、来られた方がまた一段と元気になって帰って行かれるよう、準備万端お迎えしたいと思います。



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2013
10.06

師弟の道

Category: 信心
 私は創価学会に入った(昭和57年)ものの、当初はあまり学会と言う団体が良くわからず、様々に戸惑いを感じながら、信心していました。日蓮大聖人様を信仰していくのに、どうして創価学会と言う団体が必要なのかも実はよくわからず、日蓮正宗の信者になっただけで十分なのではないかと思うところもありました。

 日蓮大聖人様は、主師親の三徳をお備えになった御本仏です。それには師匠の義がありますので、池田先生を師匠と仰いで信心していくと言われた時、師匠がお二人になって、私の命の中ですんなりと納まりが付かなかったのです。
 学会も当時はまだ宗門を外護し、大石寺への登山も活発に行われていました。私自身、入会時は日顕の御本尊をいただきましたし、東京世田谷の小さなアパートでの生活でしたので、唱題も思うようにできなくて、近くの正宗寺院に行って唱題することもよくありました。入信間もない私は、寺も学会もよくわからずに信心していたのです。

 そういう意味では、一般の学会員よりは寺への出入りも多かったかも知れません。しかし、平成に入り、第二次宗門問題が起こった時、私の心には学会が正しいという点において、いささかの迷いも起きなかったのです。これはほんとに不思議なことでした。それと言うのも私の友人の大半は、学会を去って法華講に行ってしまったからです。中には今もって反学会の先頭に立って、暴れている輩もいます。池田先生と言う存在自体は、私にとって依然、おぼろげな存在だったわけですが、「学会が正しい、先生が正しい」というそのことについては何の疑いも起きなかったのです。

  実際、その問題によって宗門の実態を知り、日顕の悪人たるを知ったわけですので、その事件は私を正道に導いてくれる出来事になりました。その事件によって私はついていくべき、師匠としての池田先生にようやく目覚めることができたように思います。法華経には長者窮子(ちょうじゃぐうじ)という説話がありますが、まさに私自身、師匠を見失って放浪する愚かな放蕩息子であったのです。


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 池田先生という方が、日蓮大聖人様から御遺命を受けて、昭和、平成の世に出てこられた仏意仏勅の方であることを私は確信しています。日蓮大聖人様と池田先生は師弟不二ですし、牧口、戸田先生も不二であることに何の不思議もありません。もちろん、大聖人様は御本仏ですし、池田先生は戸田先生と並んで一番のお弟子さんです。けれど法華経という大海の中では一体不二であり、異体同心です。また純粋に信心していく私達も、その師弟不二の道に連なることができる、日蓮大聖人、池田先生の生命と不二の生命に必ずなれるのです。

 今、私は、日蓮大聖人様を主師親三徳具備の末法の御本仏として仰ぎ、また池田先生を広宣流布の総大将と仰ぎつつ、お二人が不二の関係となって、私の生命の中でおられることに、とても自然な納まりを感じています。以前、感じていた違和感が、霧が晴れるように払拭されてきたのです。

 入会当初から池田先生一筋できた人から見れば、「なんだ、そんなことか」というお話でしょうが、自分は創価学会から遠い存在だと思っていましたので、随分、道草は喰いましたが、こういう道筋もあるのだなあという不思議な感じがするのです。

 その師弟一体の世界に流入し、法華の大海の一滴として生きて行ける。一滴と言えど、それは大海と等しい。その世界から日常の九界の世界に立ち返り、弘教していく・・・そういう心になってきたことが、私が今一番、ありがたいと感じている功徳です。

 師匠の義と同じく、法華経には親の義があります。今、池田先生を父と思い生きて行ける。池田先生を別の世界の方と思っていたのが、先生を大好きな父と思い、師匠であると言える自分になれたことが、素直にうれしいのです。

 これからの学会を思う時、池田先生の弟子であることを自覚した人々が立ち上がってやっていく以外に広宣流布の道はありません。その自覚なき人は、所詮、本物の人材にはなりえない人です。必ず信心は篩(ふるい)にかけられます。そして本物と偽物は厳しく峻別されていくのです。

 先生の命ともいえる創価学会を、私たちの手で断じて守っていく、決して魔に食い破られないよう、魔を打ち砕き、攻めたてていく・・それが弟子の勤めです。

 池田先生は、そうした後継の者たちの自覚と力量を、今、しっかりと見定めようとされているのではないでしょうか?今後、必ず学会に大きな難が襲ってくると思います。その時、本物の門下が顕われ、大聖人様の正義を守りゆく・・・それがこれまでの法華経の歴史でありましたし、再び私たちが篩にかけられる大難の時が来ると思います。

 私自身、年を重ねても、邪悪に対し先陣をきって戦いゆく、若武者のごとき自分でありたいと思っています。後継の一人として、日蓮仏法と学会正義を宣揚し、地域の広布に一つの歴史を作りゆく決意で、精進してまいります。
 
アニメ長者窮子


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