広布の大河に君ありて tori

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生命の基底部

 
 ある方のブログに「生命の基底部」というお話が出ていました。私も「法華経の智慧」講義に出て学んだ後でしたので、そのことについて書こうかなと思っていたところでした。

 「生命の基底部」といいますとなんか難しそうですが、もともと生命の中のお話は、何をも聞いても難しい話ばかりですので、根気よく思索していく以外ありません。


 もちろんそんな難解な話を自前でやるわけにはいきませんので、池田先生の指導に学びたいと思います。(法華経の智慧・第4巻288P~池田先生のお話は茶色部分になります。)

 先に十界論のお話が少しありまして、その考え方について先生が話をされています。

 「一つのとらえ方として、生命の基底部を考えたらどうだろう。基底部というのは同じ人間でも地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる」

 「いわば、生命の『くせ』です。これまでの業因によってつくりあげてきた、その人なりの『くせ』がある」

 「バネがのばした後も、また戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の『勝他の念』を基底部にする人でも、時には天界や菩薩界を出すこともあるでしょう。

 「修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、またすぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。その人の『奥底の一念』を変えるといってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。」


 
 そのあと、先生は餓鬼界の基底部の人は餓鬼界の船に乗っているようなものであり、一時的に変化はあっても餓鬼界の軌道を進んでいる。死後も宇宙の餓鬼界の方向に合致していくと述べられています。

 「この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし、人生の根底が『希望』になっていく。『安心』と『歓喜」のリズムになっていくのです。」と言われています。

(更に戸田先生の素晴らしいお話も引かれていますが、長くなりますので、詳しくは本編を読んでいただければと思います。)




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 私達は目の前の悩みで、宿命転換といって信心をしています。しかし、一歩、深い次元で見れば生命の奥底から変革しゆく戦いをさせてもらっているわけです。人間革命とは生命の基底部を仏界に変えることであり、それこそが本当の冥益の功徳です。種々の悩みはそこに至るための方便の悩みともいえるのではないでしょうか?

 表面的な生活の姿では、信心している人もそうでない人も違いはないかも知れません。しかし、生命の基底部を仏界にしていく作業を日々行えるのは創価学会員だけだといえます。

 そのことがわかると、「こんな悩みが現実に起こっているが、これは自身の仏界を強めるためなんだ」と思えるようになっていく。それを知らないと表面的な出来事で迷ってしまう・・・生命の基底部の変革を自覚できれば、信心の見方も変わっていきます。慌てることなく、悠々と戦うことができる。目先のことで一喜一憂することなく、「なにがあっても信心さえあれば大丈夫!」と希望が湧き、安心できるのです。

 更に先生は「九界の現実の苦悩と無関係な仏など、真の仏ではない。十界互具の仏ではないのです。それが『寿量品』の心です。」

 「ある意味で仏界とは『あえて地獄の苦しみを引き受けていく』生命といってもよい。仏界所具の地獄界。それは同苦であり、あえて引き受けた苦悩であり、責任感と慈悲の発露です。弘教のため、同志のためにあえて悩んでいく・・・その悩みが仏界を強めるのです。」
と教えてくださっています。

 これを聞けば苦労も悩みも大いに引き受けていこうという気持ちになるではありませんか? 学会で役職をいただいて、同志のため、地区のために苦労するということは、そういう深い意味があると思います。

 いい生活をすることだけが信心の目的ではない・・・どこまでも悩める人に同苦し、苦労を引き受け、難に耐えて仏法を語り弘めていく・・・常にその道を誓願し、最後まで戦いを全うする人こそが本当の信者であり、池田門下と呼べる人だと思います。


 私達は「仏界丸」という船に乗って、第六天の魔王が支配する大海原を航海していく仏の軍勢です。時には嵐を受けたり、氷に閉ざされることもある。仲間であっても波に呑まれ退転していく人もいる。その中を固く信心をたもちゆくならば、嵐を乗り切り、仏国土へと向かっていけます。そのための試練を避けて通るわけにはいかないと思います。

 一信者として、自らが選んだこの地域で「希望」と「安心」の笑顔を振りまきながら、広布のため、堂々と戦っていきたいと思います。





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祈りから始まる

 各地で雪の被害が出ていますが、みなさんのところは大丈夫でしょうか?関西方面はそれほどでもなかったですが、中部や関東から北の方は積雪で大変だったようですね。心よりお見舞い申し上げます。


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 私の地区の50代の壮年部員のB君が、ここのところ、協議会や唱題会に少しずつ出てくるようになりました。B君は7年ほど前に入信したものの、会合にも余り顔を出さず、もちろん仏法対話などもやらずに今まできていました。ネットなんかの学会の裏情報や地域の方の個人情報を拾ってきては、批判めいたことを言ったりもしていました。

 そういう信心のせいもあったと思うのですが、入信以後、よく罰が出たのです。入会直後にお母さんが病気になったり、弟さんが脳梗塞で半身麻痺、本人も失職したりと・・・そのたびに激励しましたが、それでも信心を熱心にやろうとはしませんでした。またそういう罰で余計に信心に対して不信になってしまったのです。

 私もB君にいささか手を焼いて、「信心やのに疑ってばかりでどうするんや?」「学会に入ったんやから一度、騙されたつもりでがむしゃらにやってみよう」などと、訪問しては発心を促していました。

 先日「他者の幸福」という記事を書きましたが、実はその頃、「連れ出すことに一生懸命で、自分は本当にB君の幸せを祈れていただろうか?」とふいに思い当たったのです。B君を動かそうとしている自分、B君の信心を弱いと思っている自分はいるけど、ではお前は本当にB君の幸せを祈っているのか?と考えさせられたのです。



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 それ以後、朝晩の勤行の時、唱題の時、彼が活動に出てくる、出てこないに関わらず、B君の幸せを祈っていこう、と深く決意しました。お題目を彼の生命に送り、「御本尊様、どうか彼を幸福の軌道に導いてください」と強く祈るようにしました。するとB君に対する自分の気持ちもやさしく穏やかになっていくのです。

 そして、それから1週間としないうちに、なんと彼が出てきたのです。私は思わず「すごいなあ、御本尊様は!」と思いました。こちらの一念というのは宇宙に広がっていく・・・当然B君の生命にも沁みこんでいく・・・こちらの一念が変われば、相手も変わるというのを目の当たりにしたのです。


 衆生を幸福にしたいというのが仏様のお心です。ですから、こちらも友人、知人に幸せになってもらいたいという仏様と共通の思いで祈る。その祈りは叶っていくんだ!と思いました。

「だから祈っていくことが大事なんだ・・・これだ、これだ」となんだか一人で小躍りしたい気分でした。

 仏様は一切衆生の幸福を願われているのに、祈る方はいつまでも「お金に困ってます、体の具合が悪いです・・あの幹部のせいで信心が面白くありません」などなど・・・自分のことばかり言ってる、相手の批判ばかり言ってる・・・これでは水の上で火を炊くようなもので、仏の心とバラバラの祈りですよね。(笑)

 長年、信心してきてそれなりにお題目は良くあがっているのに、状況は変わっていかない・・・そんな時に、自分の祈りの姿勢をあらためる機会を、彼は私を悩ませることで教えてくれたのです。



 今、朝晩の勤行等で私は多くの人の幸福を祈っています。それは私の未知なる挑戦です。同志の方々、家族、友人、知人、またこのブログで御縁のある方も・・・その祈りがどこまで叶うか、祈り抜いていこうと思います。




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 ※余談ですが、今朝の浅田真央さんのフリーよかったですね。SP16位の時には私も「なんだよ、それ~」ってまことに勝手なものでちょっと不満が出ました。でも今朝の演技はドラマチックでした。勝負には負けたけど、最後は自分に勝ったんだって、そんな顔でした。こちらもうるっときちゃって・・・SPで自分を見失ってそのあと、精神的に本当に大変だったと思います。立派だったと思います。感動をありがとうございました。 2/21



身で読む信心

 自分が信心をしてみてどう変わったのか、どの人も様々な体験をお持ちだとおもいます。その姿や心の状態ほど信じれるものはありません。それをそのまま語れば人に仏法が伝わります。歓喜も確信もそうした現証によって湧きあがってきます。自分の信心が少しでも御本尊様に通じて、功徳を感じられることほど、信心していてうれしいことはありませんね。

「大白蓮華」を読みましても、理論的なお話はすぐに忘れますが、(笑)「あしおと」のような名もなき方の体験(名はちゃんとありますが・・・)ほど心に響くものはありません。そしてその方の生きざまが感動となってこちらの身に沁みてきます。


 教学よりも実際の体験や活動の話の方が私は好きです。苦楽合わせた現実の姿や体験・・・そこにこそ仏法が息づいていると思うからです。・・・体験談はどなたがやられても非常に面白く、人柄も含めて桜梅桃李の姿そのもの・・・10人の人が語れば十色のドラマがそこにはあります。

 学会の会合は、体験主義であってほしいですね。体験談に花が咲くようでないと、形式的だったり、理論的になりすぎたり、楽しくないものになってしまいます。


 妙法は「是好良薬」と薬に譬えられます。昔、同志と話していた時に、「薬だから入信ではなく入院の方がいいか」と笑ったことがありました。悪い宿業にもズバッとメスが入りますし・・・心と体の病を抱えて最後にたどり着いたのが創価総合病院(笑)というわけです。どの病にも薬は一つだけ・・・「南無妙法蓮華経」だけを唱えていく…疲れたら、婦人部の看護婦さんに励まされ、壮年同志のお見舞いを受けて、また頑張ろう・・・なんて。

私なんか相当、病が重いので、「春が遠いなあ・・・」なんてぼやきながら、長い入院生活を送ってきました。主治医の仏様は「いよいよこれからが本当の治療ですよ」と言われております。(笑)




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                                          <Myfamilyではありません(^_^)v>


 あまり教学がなくても、真剣に宿命と闘い、信心に挑戦している人はどこか前向きで明るく勢いがあります。それこそ仏法を「身」で読まれているのでしょう。そういう人のお話には逆にこちらを励ましてくださるような温かささえあります。

 またその功徳を人に語ることはとても大事なことです。法華経にも五十展転の功徳のお話があります。自分が身で読んだ功徳、歓喜を次々と人に伝えていく、その功徳は五十番目の人でも大きい・・と説かれます。


 提婆達多は六万法蔵を空にうかべるくらい知識がありましたが地獄に堕ちました。それは知識があっても仏法の肝心要の信がなかったと言われています。信がないので功徳の体験もなかったでしょう。その上、釈尊への激しい怨嫉や名聞名利の心が強くありました。人を軽んじ、自分を高めるためにのみ、仏法とその組織を利用しようとしたのです。

 その提婆達多の現在版が日顕宗です。提婆と同じく日顕も池田先生への激しい嫉妬でした。男の焼きもちは怖いそうです。学会を裏切っていった人はみんなそうです。戸田先生が言われている通り、提婆達多や五老僧の末裔が、日蓮正宗や学会の中に生れ出て信心を迫害すると述べられています。そういう輩を鋭く見抜いてたぶらかされないことが大事ですね。

 しかし、一面ではそういう輩がいるから学会の正義が顕現していくというのも事実です。仏法には無駄がないものだとつくづく思います。彼らがますます私達を学会の方へ、先生の方へと追いやってくれるのですから、ありがたいことです。

 
 妙法というお薬を体内に流し込み、腐った根から蘇生させ、「こんな明るい私になりました。」「こんな元気な私になりました。」「生きてることが楽しいのです。」とそう言える人間革命をやって、「この信心はほんますごい!」と、体内から湧き出る歓喜の波動を地域に広げていきます。

 

 今日の写真は、兵庫県丹波市の関西池田墓地公園の近くにあります、清住地区のコスモス畑です。池田先生もお見えになり、写真を撮られており、関西墓園内にはその写真が飾られています。一面のコスモスと、のどかにたなびく畑の煙がマッチした美しい写真です。実は先生と同じような場所から撮影したカットもあるのですが、さすがそれは二番煎じなのでひっこめました。その日もなぜか背景に煙がたなびいておりました(笑)



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他者の幸福

人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、たとへば人のために火をともせば・
我がまへあきらかなるがごとし  (食物三徳御書)


汝須くなんじすべから一身の安堵あんどを思わば先ず四表の静謐せいひついのらん者か  (立正安国論)

 日蓮大聖人様は自身の幸福を願うならば、まずは他者の幸福、世界の平和を祈っていきなさいと教えておられます。

 「そう言われても自分のことで精一杯で、とても他人様のことまで・・・」
私もそんな人間です。それが我々凡夫の偽らざる心情かもしれません。
宿命で苦しむ人や不幸に喘ぐ人に、一瞬、同苦できても、その人々の幸福を願い続け、最後まで行動していくことは、本当に強く利他の心を持つ人でないとできることではありません。

 そんな私達の慈悲のなさを見越して戸田先生は、凡夫は「勇気」を持って慈悲に変えなさいと仰せになりました。「実はその勇気も出ません」(笑)なんていったらもう信心はしないも同然になってしまいます。それだけは奮い起こして、容器から最後のケチャップを絞り出す思いで出していきましょう。いつだって容器の底の方に少し残っていますよね・・・




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  信心が進んでいくとどの人でも、それに応じてある時、生命で何かを感じることがあります。
「これがわかっていなかったなあ」とか「あれはこのことを言われていたのか」とか・・・目から鱗的に何かに気が付くことがあります。

 私も最近、また一つ感じることがありました。
それは「他の幸福を祈りゆくことが法華経の祈りなんだ」ということです。
「おいおい、そんなこと聖教にも大白にもいつも書いてあるじゃん、いまさら何だ・・・」なんて言わないでください。(笑)


 信心は人を救いたいという凡夫の菩薩界の願いと、衆生を実際に救済する仏界との共同作業であり、唱題行という祈りの行為を通して、信力・仏力が双方向に流れ通う・・・という風に体で感じたのです。(もうちょっとわかりやすく書けないかなあ・・・すいません)

 もちろんこれは今、私が感じたことであってそれが絶対というつもりはありません。また九界即仏界ですから、地獄から菩薩界まですべての衆生を救済する信心であることも当然です。

 その上で、最初の御金言にありましたように、大聖人様は、自分をさておいても他者の幸福を祈っていきなさいと教えておられます。そうすればあなた自身も幸福になりますよと仰せなのです。他者の幸福を祈り、行動することによって、やがて我が身も幸福に包まれていく・・・確かに自分の事だけを祈っていた時より、人の幸福を祈れるようになった今、私自身、歓喜と感動を感じて生きています。たったそれだけのことで生きてることがキラキラと輝きはじめたのです。


 「あの人に絶対幸せになってもらいたい」そう思ってあげる祈りの題目は、いつかその人の仏界を揺り起こし、信心を励ましたり、折伏となって結実していくと思います。
そしてその心で信心し、生きて行く私もやがて、豊かな心の人となり、楽しい人生へと転換していくに違いない・・・

 自己への執着を一旦おいて、他者の幸福を祈り生きて行く・・・その生き方に自他共の幸福が出現していくことを法華経は説いています。決して自分だけの幸福を目指さない・・他者を慈しみ共に生きる精神に、エゴイズムや勝他の心を打ち破る、法華経の人間観を垣間見る思いがするのです。

 私達は「地涌の仏」ではなく「地涌の菩薩」と名付けられます。それは完成した仏ではなく、どこまでも九界の代表選手として、悪や煩悩の渦巻く社会で、いまだ信心なき人々に妙法を語り、自らも宿命と闘い、菩薩行を根本に仏界を目指すという生き方を実践しているのです。


 生まれつき、名声にも富にも、また智慧や美貌(笑)にも見放された私ですが、縁あってこの御本尊様を首にかけてもらうことができました。
 他者の幸福を祈りゆく日々にわが生命も輝いていく・・・そんな素晴らしい生き方をこれからは生きていける・・・それだけで私は幸せ者です。

きょうも御本尊、明日も御本尊と、先生、同志の皆様と一緒に求道の道を歩いていきます。


がんばれ、地区部長!(^_^)v




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滝の詩

滝の詩

滝の如く 激しく
滝の如く 撓(たゆ)まず
滝の如く 恐れず
滝の如く 朗らかに
滝の如く 堂々と
男は 王者の風格を持て

 池田先生が青森県奥入瀬の滝を詠まれた詩です。
ここ数年、壮年部の会合などで合唱でよく歌いました。婦人部の皆さんの前で歌い、大きな拍手をいただいたこともあります。(笑)凛々しくない私でも、すっと背筋を伸ばして歌いたくなります。個人的にも好きで一人の時も時々口ずさんでいます。

 特に最後の歌詞が好きです。「滝の如く堂々と 男は王者の風格をもて」
ほんとに男(人間)は師子王のごとき王者の風格を備えなければなりません。まさに池田先生の態度、振舞いそのものが王者の貫録というものです。

 買い物などするときに、ちょっと値切ろうかなどと思うと、ふっとこの歌が脳裏に出てきます。「男だろ、王者の風格をもって安物買いするなよ」なんてやっております。(笑)「おばさん、お釣りはいいよ、とっといて、いいから、いいから」なんて言える境涯に早くなりましょう。
 
 学会歌を会合でやるのはいまどきじゃない、歌も軍隊調だし・・・という意見もあります。確かにそうかもしれません。ことさらネクタイしめて、センスを持ってソレッとやるのはいまどきのノリではないですね。何十年と変わらないスタイルですし・・・でも学会歌は会員のために先生が心を込めて作られたものが多いので、やはり心して聞いてしまいます。

 「人間革命の歌」も心に沁みるいい歌ですね。
池田先生の若き日の決意が見事に謳われていて、いつ聞いても襟を正したくなります。
先生の広布への情熱が体に沁みわたります。「自分も一緒に戦います」という気持ちになります。

 そのほか、「世界広布の歌」、婦人部愛唱歌「きょうも元気で」なんかも好きですね。(なぜかつい口をついて出てきます。過去世は婦人部だった?)




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 また個人的に熱くなるのは私の場合、創価大学の学生歌です。
かれこれ20年ほど前に通信教育で入り、毎年、夏のスクーリングなどにもよく行きました。創価高校が甲子園に出た時も学生食堂のテレビでみんなで応援してました。知らない人同士が、そのことで一つになって歓声を上げたことなど懐かしく思い起こします。

 何か今思い出すとキャンパスのあちらこちらでこの歌が響いていたような錯覚を覚えます。(もちろんそんなことはないのですが)本当にいい歌ですので、御存知でない方は是非聞いてみてください。
信心の心熱き人ならこの歌聞くだけで創価大学をめざしたくなります。(笑)


 信心が深まると、境涯が変わると、御書もまた深く読めるようになると言われます。学会歌もそうかもしれませんね。「人間革命の歌」も「滝の詩」も年ごとにその歌詞の意味が重みを持ってきます。

 事あるごとに学会歌を口ずさみ前進しようとしている私がいます。
単に古いとか新しいとかではなく、学会歌には永遠不滅の仏の生命、不撓不屈の精神が詠われているからでしょう。
我が境涯の歌としてこれからも大事にしていきたいと思います。

 皆さんはどんな学会歌がお好きですか?好きなのがあればまた教えてくださいね。

創価大学学生歌



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小さな勝利から

 今日は少し寒さも和らいで日中は暖かな陽が降り注いでいました。きっとそこかしこの土の中では虫や植物たちも地上に出でゆく準備をしていたことでしょう。

 春はいいですね。秋もいいけどやっぱり春は希望の匂いがします。 「希望・・・」ほんといい言葉です。希望があれば人は生きて行けます。もちろんお金も健康もいりますが・・・(笑) 猪木さんは「元気があれば何でもできる!」でしたが、私なら「希望があれば・・・」と言いたいところです。 心の栄養はやはり希望ではないでしょうか?もし人にプレゼントできるなら、希望を贈りたい・・・というわけで、お題目に乗せてこのブログを読んでくださる皆様にも希望が届けられるよう頑張ります。

 今、私には毎日、何十回となく呟く言葉があります。それは「自分に負けるな、自分に勝て!」という言葉です。単純ですがこれこそ勝利のキーワードではないかと思います。それは己の胸中を制覇できないものに勝利はないと思うからです。「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とのご金言と重なるかもしれませんが、まさに「汝の敵は汝自身の心の中にあり」です。

 人体は免疫細胞が侵入する悪いウイルスなどと始終戦っているということですが、心も一瞬一瞬、己心の魔と戦っているといっても過言ではありません。


 何かあるたび、私も弱い自分がにょきにょき顔を出します。それに打ち勝つことができることもあれば、逃げてしまいたい時もある。寒くて暗い冬の朝、私は配達のために起きだしますが、毎日、目が覚めた時からもう戦いです。今朝も疲れが残っている・・・もう少し休んでいたい・・そこで呟くのです。「自分に負けるな、自分に勝て!」と・・・池田先生のお顔が浮かびます。師はきっと見ておられる。「よし、起きるぞ!今日も戦闘開始だ」そうやって毎朝、その繰り返しで8年間走ってきました。

 そして無事に配達が終わると「先生、行ってまいりました。ありがとうございます」と心でお伝えします。その小さな勝利を毎日報告しながら戦って行くのが私のささやかな日課です。特別な脚光を浴びるような勝利は私にはありません。一時間題目をあげぬいた時、仏法対話から帰った時、「先生また一つ自分に勝ちました」とその小さな勝利を報告していくのです。


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 人間は死ぬ時に「私は戦い抜いた。自分に負けなかったよ」と言えることが結局、勝利の人生ということだと思います。「人でもない、時代でも環境でもない・・・弱い自分に負けないこと」その日々の積み重ねが自分の勝利の軌道になっていくはずです。人が見ていなくても、地味な一日であっても、陰でその戦いをこつこつと勝利していく人は、必ずいつか陽報の花開く時が来ると思います。平凡であってもそういう生き方が、人としてりっぱな人生になるんだと今はつくづく思うようになりました。またそういう生き方をされている方が私は大好きになりました。

 「闘争心のない人に福運はつかない」と先生はご指導されています。私たちは宿命という名の戦場を一人一人が持って生まれてきました。宿命がでたということは、「いよいよそこで戦いなさい、今がその時ですよ」という仏様の合図です。乗り越える力があなたにあるから出たのです。決して焦らず、目の前の小さな目標を一つ一つ勝利していく。魔法も夢のような解決策もありません。私なら朝の配達、一時間の唱題、夜の活動、また唱題・・・と「今日も負けなかった、勝ったよ。」とそうした陰徳の日々の繰り返しに、いつしか宿命の壁は破れゆくものと信じて挑戦しています。

 今、つらき宿命と闘っている人に、「大丈夫ですよ。どうか自分に負けないで、応援していますよ」そんな言葉とともに、「希望の春風よ、届け!」と念じています。

 春は一度にやっては来ません。じわりじわり、寒い日、暖かい日を繰り返しながら、雪解けの水嵩を少しづつ増しながら、それでも必ずあなたの元にやってくるのです。




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