広布の大河に君ありて tori

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同志誹謗

 私自身、信心をしていく上においては、よく目標を立てて取りくむようにしています。大なり小なり、決意と目標がないとやはり信心は惰性になり、ピントがぼやけてしまいます。仕事や生活にしろ、学会活動にしろ、具体的に祈っていく。ほかにも自分の生命を見ていて、これは直さないといけないと思うと具体的な変革を祈ります。その方が祈りが叶っていくかどうかより明確にわかるからです。

 そんな中、実は自分の信心において、ある時から同志への怨嫉がでていました。以前にも書いたのですが、大変傲慢な壮年の方がおられ、私だけでなく、ほかの会員さんや地域の方からも嫌われている方がおられたのです。お金の貸し借りなどの問題もよく耳に入りますし、婦人部などの会員さんを見下げたり、それは目に余る行状が多い人だったのです。その上、自分ほど信心強情なものはいない、たくさん折伏をしてきたなどと自慢されるというので、みんな陰では対応に困っていました。

 「あの人が学会におられる限り、創価学会には入らない」といった人もおられます。いつしか私もこちらが正しくて、向こうはおかしいというスタンスで長らくその壮年と付き合っていました。当然、嫌いなわけですが、反面、信心としてそれで終わってよいのかと思うところもありました。なぜなら、嫌っている間、こちらの心も楽しくないですし、ご夫婦で学会活動も長年やってこられたことも事実でありましたから、地区部長としてこういう方とどうおつきあいしていいか、手を焼いていたのです。

 それがここ数か月、私自身が変革してきたのでしょうか?前とは違う感じになってきました。相手のことを嫌ったりというよりは、自然とその方が人間革命されますようにと祈れるようになってきたのです。

 自分は一生、この人の幸福なんて思うことなんかできないだろうとも思っていました。あれだけ傲慢にやってきた人だから、少し痛い目にあっても仕方がない・・・心のどこかで罰が出ても仕方ないと思ったことさえあったのです。

 しかし自分もこの境涯を乗り越えたいと思い、御本尊様に「自分を大きくして、相手を憎まない自分になります」と決意して拝むようにしました。

 そして今、私はその壮年の幸福と人間革命を祈れるようになったのです。地域で一番嫌いだと思っていた人物の幸福を祈れるようになったのですから、自分でも拍子抜けしたみたいに「あれ?」という感じです。不思議なことに怨嫉が消えていったのです。それどころか今度はその人の幸福を誰より祈っていこうと思うのですから、生命は不思議なものです。私は自身の生命の怨嫉に打ち勝てたと思いました。




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 相手が悪かったり、間違っていても同志である以上、怨嫉すれば罰はこちらに出ます。福運も消えていきます。まして相手の罰など思えば、それこそ還著於本人(げんちゃくおほんにん)そのものの行為となってわが身を損じます。(さすがに罰を祈りはしておりません(笑)) それに追従する人も時には与同罪を受けることになりかねません。


 お恥ずかしいお話ですが、私も地区の人達とその人の悪口を言ったことがありました。
相手がどうであれ、陰で悪口を言うのは、同志への誹謗行為です。松野殿御返事には十四誹謗が説かれます。その中に誹謗=正法を謗り、悪口をいうこと。軽善=正法を信受している人を軽蔑すること。憎善=正法を信授している人を憎むこと。嫉善=正法を信授している人を妬むこと。恨善=正法を信受している人を恨むこと。とあります。邪宗を尊崇するのと同様、同志誹謗は絶対にしてはいけないことなのです。(御書や学会指導に照らして相手が間違っているときは、本人に直接いうことは謗法ではありません。)

 邪宗は悪いとわかっているのでしませんが、この怨嫉は過去の宿習から出てきますので、とても厄介なものです。3時間のお題目の功徳も一瞬の怨嫉で消えてしまうかも知れません。(笑)

 ですから私は信心あるように見えて、功徳を消す同志誹謗を心のどこかでやっていたわけです。それも長年・・・これでは思うような功徳は望めません。ゆめゆめ肝に銘じていかねばと思うのと同時に、過去から命に沁みこんだ謗法の害毒というのは実に根深いものだと思いました。それを乗り越えて相手の成長を願えるようになったことは、私にとって命が浄化された一つの証となったのです。

 私達は凡夫ですので、清廉潔白などという人はまずいません。みんな叩けば埃の出る体です。(笑) 誰が正しいとか、悪いとか功罪善悪は御本尊様にお任せすればいいことであって、私たちの凡眼で決めることではないのです。私たちはどこまでも他者の幸福を祈っていかねばならない立場だと思います。

 「間違っているから、あの人は嫌い」というのもいけませんが、「嫌いだから、あの人は間違っている」という考え方に人は気がつくとはまりやすいものです。人間にはそんな偏見が強く染みついています。どの人にも仏性や使命があると学びながら、嫌いな人の仏性は信じようとしない・・・それでは反仏法です。

 広宣流布は歓喜と希望をもってこの世の中に幸福の種をまいていく仕事です。それを地区部長でありながら、怨嫉や、こちらは正しいんだという独善を、ほかの人達と一緒になってやっていた自分を反省することとなりました。

 仏法は厳しいです・・・自分や周りの人がいいと思っても、仏様がそうだと認めてくださらないとどうしようもない。依法不依人の言葉をよくよく思うべきです。仏眼でも開かないと人間の善悪などそう簡単に見えないものかもしれません。

 仏法者はどうあるべきか、こうした体験もすべて自分を人間革命していく肥しとして、また自分を見つめる鏡として出てきます。自分の身に起こってくる出来事は、すべて自分を変革していくために意味があると見るのが人間革命の一歩です。相手ではない、信心は自分だということをまた教えていただきました。おかげで心も体もスッキリとしました。(笑)


 一つ殻を破らせていただいた・・・御本尊様の前に端坐し、感謝申し上げました。無慈悲な自分を乗り越え、もっといっぱい人を愛せる自分に成長していかねばならないと思う次第です。





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友の蘇生

 随分と春らしく暖かくなってきました。5月に向かって風も光も輝いてきました。農家ではそろそろ田ごしらえと言って田植えの準備に入ります。私も兼業農家、仕事の合い間をぬって米作りをやりますが、この時期は中々忙しい季節でもあります。毎年、ゴールデンウイークは田んぼで過ごします。(笑)


 さて昨夜は我が家で座談会がありました。都合の悪い方が多く出てしまい、7人ほどの集まりでしたが、それでも歌あり、体験あり、未来部の朗読あり、と楽しい一時でした。

 そんな中、以前このブログで紹介しました、私と同じ年のF君が自らの近況を報告してくれました。親の残した家のローンの返済が滞り、おまけに仕事が激減、自宅が競売にかかっていたのです。数年前、私の紹介で学会に入ったこともあり、また小学校からの同級生でもあり、私もなんとかしたいと、いつも祈り、相談にのっていました。

 競売にかかった家の方ですが、ある不動産関係の人が買うことになり、利息は付きますが、その人の好意で新たに返済計画を立てて返していくということで話がつきました。家を出て行かなくてもよくなったのです。

 仕事も家で繊維関係の仕事をしていたのですが、これから先行きを考え、高校出てから40年近くやってきたその仕事を思い切って廃業しました。電気も止められ、85歳のお母さんと二人の生活もいよいよというところへきていました。

 私もともに祈っていたのですが、私の友人が、休みの日の副業で金属研磨の仕事をしていたので、そこに頼み込んで、何とかF君に仕事が回せないか掛け合いました。そしたら快く会社の社長を紹介してくれ、3か月間、研修に行くことを条件に話がまとまったのです。諸天善神が動いてくれたと思いました。

 ちょうどその研修が先日、4ケ月目に入ったのですが、社長からも期待をされているようで、間もなく、自宅の工場跡に研磨の機械を導入して、家で仕事ができるようになるそうです。研修が3か月で終わらなかったのは、新型の1千万を超えるような機械を会社が購入し、その使い方に習熟するためで、その新しい機械をF君の工場に入れても良いという話だそうです。「機械がきたら一日、12時間は仕事する」と言う彼の表情は笑顔に輝いていました。



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 私も折に触れて、絶対大丈夫と励ましてきましたので、自分のことのように嬉しく思いました。「地区部長には世話になったわ。どんなお礼がほしい?」というので、「俺以上の活動家になって、早く地区部長変わってくれい」と言っておきました。

 一人の人間が宿命に泣き、首を括るか、夜逃げするか・・・世間の笑いものになって終わるところを、じわじわと蘇生の道を開始しました。

 御本尊様はすごいですね。9回裏2アウトランナーなしからでも、信心があれば逆転は可能です。今、ようやくその兆しが訪れてきました。しっかりやって社長の信頼を失わなければ、下請けの個人経営者として再起できる道が開いたのです。みんなからも「はよもうけて、おいしいもんおごってな」などと楽しい声がかかりました。

 F君が信心に確信をつかんで、一生成仏を目指す本当の信者になってもらいたい・・それが私の願いです。

 一人の友人が新しい人生の道を切り開いていくのを見るのは嬉しいものです。「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御義口伝巻下)この御文の意味を噛みしめる夜となりました。




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山谷曠野

 
 私の住んでいます地域は田舎ということもあり、自治会でも200世帯のうち、学会員は2世帯という少ない状況です。寺や神社が信仰の中心で多くの住民の方が、その流れの中で生活しておられます。といっても、形式的なことも多く、先祖伝来の風習を変えたくない、新しい信仰などいらないといった消極的理由がもっぱらその理由ではないかと思います。

 もう少し、広く見ましても2000世帯のエリアに学会世帯数は約60世帯、そのうち活動等に出てこられる世帯は約半分の30世帯程度でしょうか?その上、会員の高齢化は否めず、昭和60年代をピークに会員数も下降気味というのが実態です。

 因習はある意味深いわけですが、こんな話を先日伺いました。

 その方は、大阪から越してきて関西墓園で働かれていたのですが、来た当初、学会宣言をしながら村を挨拶周りされたそうです。そうしましたら、多額の入村権料を請求され、道を通るのに通行料まで出せと言われたそうです。もちろん露骨な学会いじめだったのですが、ゴミだしを拒否されたり、村八分で口もきいてもらえない状態が長い間、続いたそうです。村の入り口には村人が立っていて、よそから選挙の支援に友人の学会員さんが来ても「何しに来たんや、うちの村でそういうことをしてもらったら困るから帰れ」と未開の地の部族のようなことを言われたそうです。墓園は平成二年の開園ですから、少し前のことでなおのこと驚きます。そんな中、少しずつ村の人の手助けをしたり、奉仕作業をしたり、できることを見つけては協力されたそうですが、10年たってその村から出ていくときには「頼むからここにおってほしい」と村の人から言われるまでになったということでした。

 ほんとうにそういう人達の苦労の汗で学会の灯は守られてきたんだと思いました。

 その関西墓園も計画当初は地元の猛反対にあったそうです。それを地元と誠意を尽くして交渉し、神社でさえ新しく作り変えるなど、村に計らって今の墓苑ができたわけですが、今では地元の方にも「学会に来てもらってよかった」と言われていると聞きます。

 どんなことも粘り強く、辛抱しながら地道にやっていくことの大切さを教えられます。


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4月6日 関西池田記念墓地公園

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 こういう田舎で信心していますと、一人の存在というのが限りなく大きいわけです。都会にいた時は私が何をしようが、近所でうわさされることもなかったわけですが、ここでは良きにつけ悪しきにつけ、すぐに人の口にのぼります。
ですから何があっても負けるわけにはいかない、しっかりやろう・・・と自然と学会員の看板を背負っている自分がいます。いつでも多勢に無勢ですが、つらいことも多い分、いただいた功徳も大きいことを実感しています。


「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」(御義口伝下)とあります。また乙御前母御書には「道の遠きにこころざしのあらわるるにや」とご教示されています。

 交通も買い物も何かと不便で、会員も少ないこの山間の田舎で信心するからこそ、そこはより寂光土と輝いていくのではと、地区のみんなを励まし、またひそかにありがたく感じる次第です。

 私も謗法の家で生まれ、真言亡家の通り、若くして家を捨て放浪したわけですが、一族でただ一人、妙法を信受し、田舎に帰って一家を背負って生きて行く人生となりました。これからが本当の戦いの本番ですが、ようやく信心の土台だけは完成したように感じています。

「妙とは蘇生の義なり・・・」今、私はこの御文を毎日、唱題と共に身読しています。その歓喜が私の背中をあと押してくれます。この感謝と歓喜の世界に入れていただかなければ、私は今頃、退転していたかも知れない。いつものことですが、御本尊様はもう駄目かというぎりぎりのところで救ってくださいますね。(笑) 

 さてまた今日から使命あるこの地で「ただ今入信」の心で信心に生活に挑戦していきたいと思います。



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親の心

 昔、信心強情な先輩の方から「御本尊様の立場になって自分の信心を考えて見るんだよなあ」と言われたことがあります。その時には、あまりわからなかったのですが、折に触れてその言葉が脳裏に浮かんできますので、私なりに考えたりもしてきました。

 御本尊様は主師親の三徳を御備えですが、その中でも私は親の徳ということを考えることが良くあります。つまり、私たちは子供で大聖人様は親ということになります。親から見れば、どの子もかわいいわけですが、とりわけ、病の重い子や、出来の悪い子には愛情も強くお持ちになるのではないかと想像します。


 私にも高校生の息子がいますが、本当に4歳、5歳のころはかわいかった。名前を呼べばすぐに私の腕にも飛び込んできて「とうちゃんが大好き」とかいいながらニコニコしていた。それが今、高校生になってみると、返事もしない・・・朝でもこちらが「おはよう」といっても、こっちを見ることもなく「・・・ふん」なんて言ってる。「ただいま」と言って帰ってきてもやっぱり「・・・ふん」です。「あのね、ふん(糞)という返事は相手に対してもっとも失礼な言葉だから、それはやめたほうがいい」なんて、ま、笑い話にして怒ったりするわけです。(笑)

 4歳、5歳で無邪気にこちらを信じて飛び込んできた時には、「ああ、この子は何の疑いもなく私を信頼している。かわいい子だな、この子のためなら何でもしてやろう、命だって惜しくないぞ」などと思ったものです。

 それが今、シラッとこちらをにらんで、チョー反抗的な態度で来ると「そんなに偉そうにするなら、ここを出て一人で生きて行けよ」などと思ってしまうわけです。

 子供が成長するという意味では親離れの訓練をしているわけで、これでいいのかも知れませんが、「ほんと可愛くないなあ、腹立つわ」となってこっちもいうことを聞きたくなくなってしまうものです。(まあ、腹の底ではかわいいんですけどね)


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一つ58円のホームセンターのパンジーがきれいに咲きました。かわいいですね。健気に喜んで咲いています。



 仏様もやはり、多少似たところがあるのではないかと思うのです。(ここからは私の想像です) こちらが苦しくて「もう仏様しかいません。命がけで信心しますからどうか守ってください」と赤子が無条件に親にすがりつくように行けば、仏様も不憫に思われて救ってやろうとお思いになるのではないかと思うのです。

 それを「まあそのうちやりますよ。ちょっと待ってください、私もあれこれ忙しくて。よっこらしょ」的な態度で向かっていけば、怒られはしないでしょうけど、「私も暇じゃないので、もっと困ってる人の方へ先に行きますよ」といって、席を立たれるかも知れないと思います。なんせ一千万以上の人が24時間、御本尊様を拝んでいる時代ですから、仏様も忙しい・・・(笑)

 仏様の立場で考えるという意味では、本当に純粋に信じて、ありのまま、なりふり構わず、ぶつかっていく信心でいいのではと思います。それに喜びや感謝があれば10分のお題目でも受け取ってくださると思うのです。それを知ったかぶりしたり、やせ我慢や義務のようなつらい心で何時間拝んでも、それでは仏様から「なんかかわいげのない信心だね」と言われたりすると思うのです。仏様から見れば、どんな人も、幼稚の凡夫です。また苦楽ともに思い合せて・・・と仰せですので苦しい時は苦しい顔のまま、変毒為薬の感謝をもってひたむきに信じていけばいいのではと思います。


 先生もかつて指導の中で「かわいく拝むのです」と教えてくださったことがありました。そういわれれば、功徳をいただきたいわりに生意気な根性でやってるなあと自分を思ったものです。

 一度、お仏壇の中から自分を眺めて、純真でかわいい顔でお題目をあげているか、それともふてぶてしい顔でやっているか見てみるのも必要ですね。自分の信心に功徳を出してやりたくなるかどうか?(笑)

 「幹部がやれというから、まあやるか・・・一応成果の報告もあるしな、0では格好悪い・・・」なんて思いでやったところで、仏様や先生がお喜びになるか・・・やっぱこの信心はどこまで行っても志、真心・・・「心こそ大切なれ」なんだなあと思います。「喜んでやります。宿命転換させてください。仏道修行がうれしくて、御本尊様ほんとにありがとうございます。」せめてそんな心で日々、健気に信心に向かいたいと思います。そしてかわいい心で南無南無しようではありませんか?そしてこのパンジーの花のように自分らしく清らかに咲こうではありませんか? 

 この子には一番に功徳をあげたいなあ・・・仏様からそう思っていただけるような信心とはどういう信心か・・・仏様の立場に立って考えて見るのも大事なことではなかろうかと今日もまた思った次第です。




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師弟の道

 私の住む山間の田舎も、ようやく桜が満開となりました。池田先生が巡りくる桜の時を戸田先生を偲びつつ、いつもどれほど待ち望まれているか、私なりに想いを巡らせております。

 創価学会に入会以来、30年余りたって、私の中の混沌とした思いにも、霧が晴れて春の陽が射し込むような、池田先生との師弟の道を生きる喜びこそが、春の桜花のように私の幸福の象徴ともなりました。

 前にも少し書きましたが、私は入信以来、創価学会と池田先生からとても遠いところで信心をしていましたので、御本尊様は求めていましたが、池田先生という存在が、もう一つしっくり感じられずに長く来てしまいました。

 しかし、ここ数年のお題目の功徳でしょうか?はたまた、無冠の友や我が家を地域の拠点に解放してきた学会活動の功徳でしょうか?私の生命は池田先生と一体になって生きて行くことに信心を見出し、それと共に、身の内外に大きな功徳を感じるようになったのです。


 当たり前のことですが、池田先生は信仰の対象ではありません。信仰は日蓮大聖人様の御本尊に向かって行うものです。池田先生はその信徒の団体の中心者であり、棟梁、導師であられます。その池田先生に呼吸を合わせ、共戦していくことがそのまま、御本尊様への信心になっていくということをあらためて身で知ることができました。

 私の中で信心が深まるということは、池田先生との師弟不二に生きて行くということと、まったく同義となったのです。
 
 


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 創価学会にいながら、池田先生と呼応できない生命はやはり矛盾を抱えて信仰していかざるを得ない。なぜなら創価学会=池田先生であるからです。私も天秤棒の上でどちらに転んでもおかしくないような信心を長年やってきました。それだけに、今、池田先生に不二となって信心をしたい自分になって、「師弟の世界」のすごさ、力をまざまざと感じるものです。


 学会員でありながら多くの人が先生との師弟の道に迷うのも事実ですし、その心境はわからないでもありません。「日蓮大聖人様がいれば、創価学会も池田大作もいらないのではないか・・・」「池田教じゃないのか?」等々

 確かにそういう人もおられるでしょう。しかし、私の体験をもっていえば、池田先生を信じ、実践すればするほど、そのまま日連大聖人様に通じていく・・・仏法を体得していけるという厳然たる事実です。池田先生ご自身はどこまでも御本尊根本、御書根本です。その上で、ご自身との師弟を強調されるのは、それが凡夫の我々が一番早く、功徳を受け、宿命転換できる道であるからにほかなりません。池田先生を通じて仏様の功徳、血脈が我ら会員の身に流れ通うのです。

 
 末法悪世に出現したこの巨大な信徒の団体を束ね導くには、やはり創価三代のような死身弘法の導師が出現されなければ、学会は烏合の衆となり、分裂と派閥の抗争に終始したのではないかと思います。もちろん多くの人が信心を知らないまま終わったと思います。そういう意味で、創価学会は仏意仏勅であり、大聖人様の御仏智で出現したものと、恐れ多いことながら、私は確信しています。

 その大導師である池田先生と、不二になって生きて行こうとすることはどれほど功徳が大きいか・・・凡愚の私などが仏になる道は、ここにしかないというのが、私の結論です。

 このことを知るのに30年かかりました。(笑)、長者窮子の譬えを私なりに身で読んだと思います。

 
 時はまさに春・・・創価池田大学の門をくぐり、池田門下生のバッチを胸につけ、今日からまた心新たに、晴れがましく「師弟の道」を前進していきたいと思います。




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