2014
04.23

同志誹謗

Category: 未分類
 私自身、信心をしていく上においては、よく目標を立てて取りくむようにしています。大なり小なり、決意と目標がないとやはり信心は惰性になり、ピントがぼやけてしまいます。仕事や生活にしろ、学会活動にしろ、具体的に祈っていく。ほかにも自分の生命を見ていて、これは直さないといけないと思うと具体的な変革を祈ります。その方が祈りが叶っていくかどうかより明確にわかるからです。

 そんな中、実は自分の信心において、ある時から同志への怨嫉がでていました。以前にも書いたのですが、大変傲慢な壮年の方がおられ、私だけでなく、ほかの会員さんや地域の方からも嫌われている方がおられたのです。お金の貸し借りなどの問題もよく耳に入りますし、婦人部などの会員さんを見下げたり、それは目に余る行状が多い人だったのです。その上、自分ほど信心強情なものはいない、たくさん折伏をしてきたなどと自慢されるというので、みんな陰では対応に困っていました。

 「あの人が学会におられる限り、創価学会には入らない」といった人もおられます。いつしか私もこちらが正しくて、向こうはおかしいというスタンスで長らくその壮年と付き合っていました。当然、嫌いなわけですが、反面、信心としてそれで終わってよいのかと思うところもありました。なぜなら、嫌っている間、こちらの心も楽しくないですし、ご夫婦で学会活動も長年やってこられたことも事実でありましたから、地区部長としてこういう方とどうおつきあいしていいか、手を焼いていたのです。

 それがここ数か月、私自身が変革してきたのでしょうか?前とは違う感じになってきました。相手のことを嫌ったりというよりは、自然とその方が人間革命されますようにと祈れるようになってきたのです。

 自分は一生、この人の幸福なんて思うことなんかできないだろうとも思っていました。あれだけ傲慢にやってきた人だから、少し痛い目にあっても仕方がない・・・心のどこかで罰が出ても仕方ないと思ったことさえあったのです。

 しかし自分もこの境涯を乗り越えたいと思い、御本尊様に「自分を大きくして、相手を憎まない自分になります」と決意して拝むようにしました。

 そして今、私はその壮年の幸福と人間革命を祈れるようになったのです。地域で一番嫌いだと思っていた人物の幸福を祈れるようになったのですから、自分でも拍子抜けしたみたいに「あれ?」という感じです。不思議なことに怨嫉が消えていったのです。それどころか今度はその人の幸福を誰より祈っていこうと思うのですから、生命は不思議なものです。私は自身の生命の怨嫉に打ち勝てたと思いました。




山桜_R0





 相手が悪かったり、間違っていても同志である以上、怨嫉すれば罰はこちらに出ます。福運も消えていきます。まして相手の罰など思えば、それこそ還著於本人(げんちゃくおほんにん)そのものの行為となってわが身を損じます。(さすがに罰を祈りはしておりません(笑)) それに追従する人も時には与同罪を受けることになりかねません。


 お恥ずかしいお話ですが、私も地区の人達とその人の悪口を言ったことがありました。
相手がどうであれ、陰で悪口を言うのは、同志への誹謗行為です。松野殿御返事には十四誹謗が説かれます。その中に誹謗=正法を謗り、悪口をいうこと。軽善=正法を信受している人を軽蔑すること。憎善=正法を信授している人を憎むこと。嫉善=正法を信授している人を妬むこと。恨善=正法を信受している人を恨むこと。とあります。邪宗を尊崇するのと同様、同志誹謗は絶対にしてはいけないことなのです。(御書や学会指導に照らして相手が間違っているときは、本人に直接いうことは謗法ではありません。)

 邪宗は悪いとわかっているのでしませんが、この怨嫉は過去の宿習から出てきますので、とても厄介なものです。3時間のお題目の功徳も一瞬の怨嫉で消えてしまうかも知れません。(笑)

 ですから私は信心あるように見えて、功徳を消す同志誹謗を心のどこかでやっていたわけです。それも長年・・・これでは思うような功徳は望めません。ゆめゆめ肝に銘じていかねばと思うのと同時に、過去から命に沁みこんだ謗法の害毒というのは実に根深いものだと思いました。それを乗り越えて相手の成長を願えるようになったことは、私にとって命が浄化された一つの証となったのです。

 私達は凡夫ですので、清廉潔白などという人はまずいません。みんな叩けば埃の出る体です。(笑) 誰が正しいとか、悪いとか功罪善悪は御本尊様にお任せすればいいことであって、私たちの凡眼で決めることではないのです。私たちはどこまでも他者の幸福を祈っていかねばならない立場だと思います。

 「間違っているから、あの人は嫌い」というのもいけませんが、「嫌いだから、あの人は間違っている」という考え方に人は気がつくとはまりやすいものです。人間にはそんな偏見が強く染みついています。どの人にも仏性や使命があると学びながら、嫌いな人の仏性は信じようとしない・・・それでは反仏法です。

 広宣流布は歓喜と希望をもってこの世の中に幸福の種をまいていく仕事です。それを地区部長でありながら、怨嫉や、こちらは正しいんだという独善を、ほかの人達と一緒になってやっていた自分を反省することとなりました。

 仏法は厳しいです・・・自分や周りの人がいいと思っても、仏様がそうだと認めてくださらないとどうしようもない。依法不依人の言葉をよくよく思うべきです。仏眼でも開かないと人間の善悪などそう簡単に見えないものかもしれません。

 仏法者はどうあるべきか、こうした体験もすべて自分を人間革命していく肥しとして、また自分を見つめる鏡として出てきます。自分の身に起こってくる出来事は、すべて自分を変革していくために意味があると見るのが人間革命の一歩です。相手ではない、信心は自分だということをまた教えていただきました。おかげで心も体もスッキリとしました。(笑)


 一つ殻を破らせていただいた・・・御本尊様の前に端坐し、感謝申し上げました。無慈悲な自分を乗り越え、もっといっぱい人を愛せる自分に成長していかねばならないと思う次第です。





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