広布の大河に君ありて tori

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臨終只今

  はや5月も終わりになりました。この間、新年と思ったのにもう一年の半分が過ぎていきます。年を重ねるとほんと月日のたつのが早く感じられる。(笑)
 私も7月か9月には広布大誓堂に行かせていただくことになりました。(4月に行けたのですが、婦人部長が行きたい様子なので譲りました。)これからそれに向けて心と経費の準備もしっかりやっていきたいと思います。

 「人間革命」は一人の人間における総体革命だといえます。身体の健康から、脳内の浄化、人格の形成、宿命転換、はたまた社会での活動、それらすべてのことが唱題、折伏行を通じて自分の知らない間に醸成され、顕現していきます。その間、生命の奥底では仏界の湧現、仏の生命の開覚と「人間革命」のドラマがダイナミックに展開していきます。そして私たちは仏様から功徳と罰で「身に説法、心に説法」をいただきながら、日々、総体革命に向かって前進しているのです。

 信心の過程では病気が治ったり、お金儲けの功徳があっても、それらは永遠のものではないですし、誰しもやがて死ぬ時を迎えます。いい家が建った、お金が儲かったというのは、すごいことですが絶対のものではない・・・大恐慌や大地震が起きれば消えてなくなるかもしれない、まして死後に持っていくことなどできないものです。

  身と心、両面にわたり妙法で我が生命を打ち固めていく、永遠の幸福生命である「一生成仏」の功徳こそが真の功徳と言えます。その功徳は「生老病死」、「生死」を乗り越えることができると説かれます。御書には「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず」と仰せです。(椎地四郎殿御返事)それは「生も歓喜、死も歓喜」の世界です。

 「一生成仏」という目的地を知っていくのと、知らないでいくのでは大きな差があります。目的地を知らないでいくことは道に迷うもとになります。

 信心の功徳は命にいただくものです。命でがっちりつかむから、安心立命の生命となる。そうでないと信じきれないし、どこかにも持っていけないですよね。戸田先生の獄中の悟達も、池田先生の大境涯も全部、命で証拠をつかまれている・・体得されているというほかありません。戸田先生も「生死の問題に解決がついたので私は創価学会の会長になった」と申されました。

 私たちが体得した妙法の功徳は死後にも持っていけます・・・命に刻み込んだお題目と学会活動は我が命に大善となって、それを後生の幸福として来世にもっていくことになります。まさに御本尊様こそ冥途の衣装ですね。

 臨終のときには裸のこの身一つで閻魔えんまの前に立たねばなりません。お金も恋人もつれていくわけにはいかない。(笑)そこで閻魔の言うには「おお、あなたは本当に広宣流布のためによく戦われました。諸天からお話は良くうかがっております。ささ、どうぞこちらへ・・・大聖人様、日興上人様が霊山におられます。どうぞこちらの仏門へとお進みください。」

 そして心地よい美しい音楽が流れる中を、千仏が迎えに来て手を取ってくれる。綿のような軽やかさで、七宝で荘厳された大白牛車だいびゃくごしゃにのって仏界の宮殿へと入っていくのです。日蓮大聖人様の御尊顔など恐れ多くて拝せない・・・日興上人様が近くにこられ、「お疲れ様でした。来世はどのような境涯がお望みですか?お好きな境涯で生まれ変われますよ。」と聞いてくださる。「あのー、何不自由ない王様のような境涯で・・・あ、間違えました。できれば苦しい人を救って行きたいので、不幸な人と同じ境涯で、また大変な業を一つ二つ、つけていただいて、仏法のすごさを証明いたします」などと言ってるかもしれない。(笑)大変な業はほどほどにしても、かかるめでたき処に行きたいものですね。

 一方、日顕宗は「仏意仏勅の創価学会を見下し見捨て、ご供養を収奪し、同志を誹謗、まじめな信者をたぶらかし、学会を利用して法を食い物にしたその大罪は無間とも言うべきか、その罪、千劫経ても消し難し・・・地獄へ落ちて、阿鼻あびの大苦に沈むがよい」などと遠山の金さん風に言われ、獄卒達に引ったてられ、地の底へと暗い階段を下りていかねばならない。

 私などはその時が怖いので、この信心で我が生命を何としても染め抜いておかねばと考えています。やはり悠々と死を見下ろして、安祥として旅立つためにも、学会員として信心だけは真面目にやらねばと思うのです。まさに「まずは臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(妙法尼御前御返事)です。そのため仏意仏勅の学会にだけは弓を引いてはいけない・・・そう戒めています。

 死後の話ですので、この話が本当かどうか、みなさんも臨終のときにわかります。もし私より先に行かれた方がございましたら、どうかコメント欄よりお便りください。(笑)


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 信仰とは希望であり、勇気であり、歓喜であると思います。自分の心をみて、こうした心に満ちているか、それこそが信心のバロメーターです。戸田先生は「歓喜と感謝のないのは信心にあらず」と言われています。宝くじが当たって歓喜が出るのはそれは単に天界に過ぎない。本当の信心の歓喜は逆境や苦難の時こそ、あふれゆくものではないかと思います。

 かの楽聖ベートーベンも「苦悩をつきぬけて歓喜に至れ」と叫びました。歴史に名の残る人は言うことが違いますね。先の椎地四郎殿御返事にも「但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」と「難即安楽」の大確信を大聖人様は述べられています。

 私も今、自分はほんとに幸福者だ・・・そう思いながら、厳しい現実ですが、日々題目と共に生きています。「南無妙法蓮華経」だけあれば他には何もなくて大丈夫なのだ。必ずどんな苦難も打ち破っていける。その確信をもてばそこから誰人であれ、不思議と功徳があふれだします。
 

 田植えの終わった田んぼでは夜になるとカエルの大合唱が始まりました。これから梅雨に向かいますが、心はからりと晴れ渡る5月の空のようにありたいものです。6月はワールドカップサッカーもありますね。楽しみな方も多いと思いますが、私もサムライjapanを応援します。(笑)

 最後に勝利するは創価の師子たち・・・その因果を持った私たちです。大勝利の人生を目指して大悪を攻め、広布の一陣の風となって駆け抜けていきたいものです。


※大白牛車につきましては御書に「大白牛車御消息」というのがあります。
  臨終の姿につきましては 「松野殿御返事」(p1386~87)などに詳しく描写なされておられます。





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誠実の光

 
 私も仕事などを通じて、いろんな方とお会いしますが、最もいい人だと思う人は、信心のあるなしに関わらず、清潔感や誠実さ、それに人としての重厚感が感じられる人です。自分もそういう人になりたいと思いますが、汚れた垢が人並みはずれて多いこともまた事実です。(笑) やはり池田先生が一番のお手本ということになりますね。

 そんな私でも信心をずっとやってきますと、以前に比べ、自分がいくらかそういう方向に向かっている・・・と感じる時があります。言葉でいえば「常楽我浄」の世界です。「さっぱりと、さわやかに、嘘のない誠実な人になろう」と思う時があります。それこそが人としての宝ではないかと思えるのです。

 こちらも誠実さがにじみ出ているような人とお話しするのは、それだけで気持ちのいいものです。欲や苦しさがにじみ出ている人もいれば、慈悲や思いやりがにじみ出ている人もいる、人間は実に様々です。また時によって同じ人間でも変化します。うわべの言葉の奥に隠された、その人の本性からにじみ出るものはやがて、事あるごとにあぶりだされてくるものです。

 悪でいえば、日顕しかり、山友しかり、また多くの会員もそれにならってあぶりだされ、ふるいにかけられ落ちて行きました。そうした人間性を鋭く見破る、たぶらかされない、慧眼けいがんを養うことも、良き人生を送るためにはとても必要なことだと言えます。

 仏法ではそれらを見通す五眼を説きますので、信心を強くして、法眼、仏眼が開くように精進したいものです。


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 「誠実」と聞いて、私が連想しますのは画家の東山魁夷かいいさんの作品です。(『新・人間革命)のカバー表紙装画は氏の『郷愁』という諏訪地方を描いた作品です。)私は時たま、何気なく画集を開いたりします。

 もちろんその淡い色使いや、シンボリックな馬や月の構図など、技術的な素晴らしさもすごいと思いますが、なんといっても見たものの精神を昇華する力、美がもたらす心の清らかさ、誠実感というものは、私の知る限り、画家としては第一の方ではないかと個人的に思っています。

 その根本はやはり魁夷氏の人間性からにじみ出る力ではないかと思うのです。精進の力、清らかで誠実な心が作品の隅々に凝結していく。「画竜点睛がりょうてんせい」という言葉がありますが、最後は人間性が勝負を決める「点」ではないかと思います。氏の作品は見るものを善き心へと引き上げてくれる・・・絵と私の生命が共鳴してあたかも美しい音楽を奏でる・・・その清らかな世界が氏の作品の持つ魅力だと思っています。

 世の中、人を蹴落としても自分が生き残る・・・文化や芸術よりもお金優先、というのが大方の風潮かもしれません。
兄弟抄には「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり」とご教示されています。その汚れた世界にあって、創価の人間は一輪の蓮の花のように、汚泥に染まらない、けなげに咲き誇る清らかな花であらねばなりません。その花には自然と福運も人間性も備わっていくというのが法華経の心です。

 「爾前にぜんの経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(白米一俵御書)とあります。 花のような、ではなく、一人一人が桜梅桃李それぞれの花であれ、というのが法華経だと教えておられます。

 どんな花であれ、花として咲くことができれば、そこに所願満足、ほしいものは求めなくてもすべて備わっていると教えているのです。そしてそれが永遠に続いていく素晴らしい世界です。それが「人間革命」「一生成仏」ということだと思います。
スマップの「世界に一つだけの花」ではありませんが、人ではない、自分が咲くことに一生懸命であればいいということに共通していますね。

 世の中の多くの人は創価学会の信心を避けて生きようとします。しかし、そこにしかに三世永遠の幸福を開く鍵はありません。
 幸いにも私もこの御本尊を信じる身に生まれました。その姿は人にあざけられようとも、しばし苦闘の日々を強いられようとも、これほどの大善の人生に出会えたことに感謝でいっぱいです。それゆえ何があっても愚痴はもったいない、まさに愚人の痴と知るべきです。

 思うに任せない日々であろうとも、決して人をうらやむこともなく、人として他者を尊重し、小欲で事足りる人間でありたいと思います。そうして自分の与えられた条件、環境の中で、けなげに咲く花として、また新たな心で信心に励み、今世を、まっとうしたいと念願するものです。






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一家和楽への道

 ある女性の方から結婚について書いてくださいとメールをいただいたのですが、プライベートなことというのは、どうもうまく書けそうもありません。それでも最近、奥さんに対して感じていることなど、信心の面から書きたいこともありますので、そのことで少し書いてみようかと思います。


 奥さんとは仕事の関係で知り合いましたが、知り合った時、彼女は学会員ではありませんでした。私は学会宣言だけしてお付き合いしていました。その後、いよいよ一緒になるということで、彼女が切り出した条件は「あなたは自由に信心していいけど、私と私の両親には強制しないで」というものでした。もちろん自分が自由にできるだけで私は十分でしたので、その条件を受け入れて一緒になりました。

 どの夫婦もそうでしょうけど、結婚前と後ではそのギャップに苦しみます。彼女も私の母親と同居、因習深い田舎での生活ということで新しい環境に苦労があったと思います。その上、どちらかというと理知的ですが、反面、感情も激しくでるタイプ。私の未熟さもあいまって、一緒になってしばらくすると、私たちは何かあるたびに、激しく衝突、喧嘩することを繰り返すようになりました。

 「こんなはずではなかった・・・」とお互いが思い、こんな状態で、この生活がいつまでもつだろう?と衝突するたび、「離婚」の二文字が頭をよぎりました。

 ただ不思議なことに結婚後、間もなく彼女も学会に入ったのです。強制しなくても自然にそういう流れになりました。もちろん祈ってはいましたが・・・入りますと学会の「企画」や「守る会」など、彼女はきちんとやります。そういう性格なのです。ただ「何故、拝まなければならないのか私にはわからない・・」という理由で、毎日、勤行をやるということはありませんでした。 あまりお題目をあげない婦人部の方と仲良くなって、「ああいう人がいるから私もやりやすい」などと喜んでいました。人材不足でそれから白百合長にも任命されましたが、お題目は相変わらずあげないで三唱程度で今日まで来ています。(笑)(昨日、支部唱題会を我が家でやりましたが、彼女がうしろでお題目をあげていました。最近、少し変わってきたようです。)

 彼女が題目をあげないことに私は不満はありません。共働きですが、仕事をもって、家事、子供の世話一切を切り盛りしてくれるだけでもう十分です。洗濯物の山を見ただけで、よくやるなあと感嘆してしまいます。ただ、何かにつけ、夫婦仲というか相性がしっくりいかなかったので、そのことは祈りました。すると少しづつですが、喧嘩の回数も減ってきました。そして最近のことですが、私の中である変化が起こったのです。それは彼女のことを尊敬する、尊敬しているという心がはっきり芽生えてきたのです。奥さんを尊敬するという感覚はそれまでありませんでした。

 彼女自身も変わったかも知れませんが、私の中で彼女と口論しようとする気持ちがなくなりました。たいていのことは「そうか、いいよ、わかった」と言うことを聞いてあげたくなるのです。

 よく見ると彼女は私にないいいものをいっぱい持っています。特に自然科学など知識も豊富です。 いきたい場所もディズニーランドやUSJという感じではなく、山や海にいき、鉱物や貝殻、漂流物を拾いに行くのを好むような人です。(笑)


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 子供には相変わらず大きな声でよく怒っていますし、私に対する気の強さも変わりません。それでも私には彼女が今までとどこか違って見えるのです。「どうしてこんな奴と一緒になったんだろう?」というのが、「自分にはこの人がいないと駄目だ」「どうすれば彼女をもっと大事にできるだろう」となんだか180°ひっくり返ってしまったのです。

 自分でもこういう心境の変化には驚きました。ついこの間まで「今世は辛抱するけど来世はもうごめんだ(笑)」と思って腹を立てていた。それが「いやいや、これは自分はすごい宝物をいただいたかもしれない」と思えるのですから・・心とは不思議なものです。


 学会には永遠の5指針というのがありますが、その中に「一家和楽の信心」が掲げられています。ようやく私もそういう軌道に乗った気がするのです。

 一緒に暮らす眷属(家族)を愛し、尊敬できる・・・これは何よりも、幸せな生活の基本でもあると思うのです。もちろん自分は最初からそうではなかった・・・彼女とだって離婚してもおかしくない雰囲気の時もありました。でもその苦しみが何年も出た後に、奥さんを尊敬できるようになってきた。妙法の力でいつの間にか変毒為薬していったのです。


 仮に最初はうまくいかない関係でも信心を根本に努力していけば、仲良くなるというのが私の体験です。一旦はドロドロしたものが出ても、あとはすっきりする。ですから、メールをくれた彼女には「結婚っていいものですよ。恐れていないでした方がいいですよ」と言ってあげたいと思います。

 
 生きていますと、お金も欲しい、幸せな結婚生活も送りたい、健康でありたい、そう願うのは当然かもしれません。ところが人生は、意に反してその反対のものが出てくる。私の奥さんも実はバツイチです。信心していても商売で借金を背負ったり、思いもかけない病気になったり・・・「どうして?」ということに誰もが遭遇します。けれどそこに幸福が紙の表裏のように備わっていることを妙法は教えています。最初からすべてバラ色なんてありえない・・・これが人生の真実です。(笑)

 苦しみの中にダイヤモンドが隠れているんですよね。だから決して逃げてはいけない・・・苦しさに耐えて、それをバネにして信心していく。そうすると必ず逆転できる。そして人間として、また一つ楽しい自分に変わっていく、強い自分になっていく。その生命の大地に本当の幸福の樹が育っていくに違いありません。

 今、彼女と一緒に暮らせることに感じる歓喜と感謝は、夫婦仲で苦しむという体内の悪が善に変わったものだと思います。それは私の家の中にとどまらず、地域にもきっと伝わっていくと思います。「あの家は仲睦まじいね」そう言われて初めて信心の波動も広がっていく。家庭が暗く、ぎくしゃくしていては広宣流布も仕事も行き詰まる・・・今までを振り返ってそう思います。

 光日上人御返事には「松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり」とあります。これは子供に先立たれたご婦人に与えられたお手紙の一節ですが、夫婦の間にも通じることと思います。私自身が人間革命を遂げて栄えればやがて奥さん、子供も喜び栄えていくものと思います。

  長い悩みの中にいる時も、うまくいかない不遇の時も、御書を心肝に染め、宿命転換の日を信じて、粘り強く挑戦と精進を続ける日々でありたいと思います。



 ※メールをくださったCさん、答えにはなっていないかもですが、よろしくです(笑)
   幸せをお祈りしています。




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お詫びの信心

 人にとって自分の過ちを認めて素直に謝るということはとても難しいことなのかもしれません。世の中、いろんな方を見ていても、早く非を認めて謝った方が、よほど人間の値打ちも上がるのに・・・と思うこともしばしばです。

 自分に非がある時にどうして素直に謝れないのか、考えて見ますと、やはりそこには我が身を悪者にしたくない、という名聞名利と保身の心が多分に働いていると思うのです。つまり自分だけはいいい子ちゃんでいたいわけです。利害が絡む場合は欲が働きます。そしてそれを指摘されることに怒りや、増上慢も出てきます。人間は厄介な生き物ですね。

 もちろん世間の目を欺けば、世間ではいい子で通ったり、裁判では無罪にもなりますが、仏法に来ると過ちを犯した上にそれを隠ぺいしたり、嘘をつくと、さらに罪が増えていく。人を殺して、運よく無罪になっても、仏法にきたら見逃してもらえない・・ちゃんと裁かれることになります。

 同生天、同名天というのが両肩にいて、人の善悪すべてを天に報告していると説かれます。「ちょっとここは目をつぶってくれよ」といっても真面目ですから融通はきかない(笑)信心しながらでも悪いこともいっぱいやってしまう私ですから毎日大変です。


 素直に罪を認めて早く謝ればすっきりしますし、人間、徳が増すものです。謝れる人にはどこか器の大きさを感じます。「負けるが勝ち」「間違いをあらたむるにはばかることなし」とのことわざもあります。過ちを認めることができた人の方が、その時は負けても、後々、本当の勝利者になることが多くあります。

 自己への執着が強いと人間は素直に謝れない。政治家などは地位や名誉に執着が強いですから、面の皮を厚くしてなかなか謝らない(笑)人間ができてくると、自分への執着が薄くなっていくと思うのです。

 自分なんか全然だめだ、きたなくて臭いもんだ・・・こんな自分はもういらない、何とか南無妙法蓮華経の命に代えてもらいたい、それも少ないお題目で・・・と私なんかそんな横着なことを思っています。(笑)



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 「懺悔滅罪ざんげめつざい」の言葉の通り、法華誹謗の罪は御本尊様に手をついて詫びるしかない・・・いかなる罪も消えないことはないと断言なされていますので、自分の罪障に気が付いて早く詫びた方がいい。お題目を唱えることがお詫びなんだよということをある先輩から聞いたことがあります。

 そして同志と呼吸を合わせて広宣流布のお手伝いをする。組織や幹部の批判なんかやっても罰がでるだけです。組織は戸田先生、池田先生の命だとおっしゃっているのですから・・・

 かつて戸田先生は苦しむことが償いになると言われました。(池田先生の随筆にあったと思うのですが、うろ覚えですので詳細は違うかもしれません。)

 ある日、学会本部で一人の女子部の方が学会の大事な花瓶を落としてしまい、それが割れてしまったそうです。まわりにいた幹部がその子を叱って「なんてことをしてくれたんだ」「不注意だ」とさんざんなじった。その女子部員は涙を流しながら「申し訳ありません、すいません」と何度も何度も謝った。それでも幹部は叱っていた。そこへ戸田先生が見えられて「もういいじゃないか・・こんなに泣いて謝っている、こんなにこの子は苦しんだのだからもうそれで罪を償ったんだ、許してあげなさい」ということを言われたそうです。 

 境涯というのはすごいものです。この場面を修羅場にするも、さわやかな雨上がりのように結末つけるのも境涯のなせる業だと思いませんか?このお話を読んだとき、私もこういう人間にならねばと思いました。

 昔、「不揃いの林檎たち」というドラマがありましたが、私たちは高い空から見ればどんぐりの背比べのような不揃いの人間です。東大出ても中学しか出ていなくても宇宙から見れば0.1㎜とも違わない・・・そう思えば喧嘩したり、偉そうにしたり、なんだか滑稽なものです。

 御書には、「若し重罪有つて乃至人中に軽く償うと此 れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」(太田入道殿御返事)と仰せです。悪しき宿業が出ることは「業が謝ろうとして出てくるんだ」と止観の言葉を引いておられます。

 法華誹謗の罪を謝ろうとして、精神病も出てくる。他の病気も出る・・・それでうんと苦しんで償ってきれいな身体にしてもらえる。出た時はつらいですが、自分のしたことです。もう観念するしかない・・(笑)

 「法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫(おんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(妙法尼御前御返事・臨終一大事)というとてもありがたい御文もあります。

 罪を認めて、罪を償って、きれいな命になって、生きていることがうれしくてしょうがない・・・そんな境涯に早くみんなでなろうではありませんか?





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「創価学会母の日」に寄せて

 どの人にもお母さんがいる。母が信心していてもしていなくても、母が子供を思う気持ちは世界共通です。今日は5月3日、「創価学会の日」であると同時に、「創価学会母の日」でもあります。

 私にもまもなく90歳になる母親がいます。いまだ健康で、時に畑に入ったり、犬の世話をしたり、またデーサービスや、お茶会に出かけたりと何かと動ける体です。朝、昼、晩とごはんを好み、今の季節だとタケノコやワラビなどを、自分の部屋で炊いて楽しんだりもしています。

 私にとって母に感謝することはたくさんありますが、やはりもっとも大きな出来事は、真言宗を捨てて創価学会に入ってくれたことです。

 私は27歳の時、当時、生活していました東京で入会しました。家を捨てるように上京し、堕落も放蕩もそれなりに経験し、生命力も枯れ果てて、一人路頭に迷っていたところを、友人の折伏で学会に拾われたのです。



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 その後、4年ほどたって私が31歳の時に父が癌で早逝したこともあり、田舎へ帰ってきました。家は真言宗の檀家で、田の字型の田舎の家には広い仏間があり、仏壇には真言の掛け軸と先祖の位牌が祀ってありました。私の人生も文字通り、「真言亡家」そのものの人生でした。母はもちろん学会に反対していましたが、帰省して7年たったころに「家に二つの宗教があるのは良くないし、あんたが学会をやめることを願っていたけど、その様子もないので、私が折れるわ」と言ってくれたのです。

 後で聞いたら、母は本当に学会に入るか悩んだそうで、なんと近隣の邪宗の成田山に出向き、お金を払ってみてもらったそうです。「子にしたがって私も創価学会に入った方がいいでしょうか?」 そうするとそこの坊主が「まあ、それも別によろしいかな・・・」といったそうで、これで踏ん切りがついたとも言っておりました。(笑)

 一つ間違えば恐ろしいことですが、これは笑い話のような本当の話です。まさかその時、成田山に諸天がいたとも思えないのですが、どうだったでしょうか?

 それまで私もなかなか思うように信心ができず、熱心にやると母と衝突していましたし、ある日などは母の留守に、仏間の弘法(真言宗開祖)の肖像画の曼荼羅を外して焼いてしまおうと思ったこともありました。さすがに母の同意なく外すこともできず、やむなく手の拳でその弘法の顔を力任せに殴ったことを覚えています。(笑)

 そして晴れて我が家は学会の家となりました。しかし、母自身はむしろそれから周りからのバッシングにあったのです。真言の寺と親戚にあたる我が家でしたので、世間の風当たりは予想外に強いものでした。私は寺に行き、老住職に「これから親戚の付き合いはしますけど、宗教上のお付き合いは一切しません。」といいに行きました。住職の奥さんは「これからあんたの家は惨めになってやで」と鼻で笑っていました。

 それでも仏間の真言の曼荼羅や、邪宗のお札など、家じゅうの謗法を一切合財集めて、母と庭で燃やすことができました。真っ黒い煙がもうもうと立ち昇ったのをよく覚えています。

 
 寺や神社の行事を中心に動いているような村ですので、その群れから外れることは仲間外れを意味します。何かにつけ、母は邪険に扱われ、「こんなことなら学会にはいるんやなかった、あんたは親にこんな目に合わせてほんまに親不孝もんや」とよく嘆かれました。もちろん、宗教の正邪を母に言っても通じませんし、かといって一緒に暮らす以外、これといった親孝行もできませんでしたから、まあお互い、忍耐の日々だったかも知れません。


 それから我が家を学会の地区の拠点に解放し、地域の中心会場として使ってもらうようになりました。また地域の付き合いにも積極的に出て、周囲に理解してもらうように心がけました。私の結婚は遅かったのですが、子供にも恵まれ、母も健康で、寺の奥さんが言うような惨めな姿ではありません。

 この田舎の封建的な因習の深さ、そして母の反対が私の信心を鍛えてくれました。今では学会宣言はもちろんのこと、多くの人と仏法対話できる下地ができてきたように思います。

 奥さんも大事にしないといけませんが、母親というのは男にとってまた特別な存在ではないかと思います。御書には「父の恩の高き事・須弥山猶ひきし、母の恩の深き事大海還つて浅し、相構えて父母の恩を報ずべし」(上野殿御消息)とあります。子を思う母の気持ちは、やはり奥さんが主人を思うよりは強いのかもしれません。案の定、うちの奥さんの愛情も今では私から遠ざかり、(笑)二人の子供にしっかりと向けられています。もちろんそれでいいのです。(笑)
 
 池田先生が母を常に讃え、詩に歌われるのも人間の本源的なもっとも崇高な愛の原型がそこにあるからではないかと思います。親のありがたさを感じ、報恩していける人が本当の仏法を体得した人です。

 同じ上野殿御消息には「一に父母に孝あれとはたとひ親はものに覚えずとも悪さまなる事を云うとも聊かも腹も立てず誤る顔を見せず親の云う事に一分も違へず親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり」と仰せです。親が間違ったことを言っても、「はいはい」と笑って聞いてあげなさいと言われています。私なんかまだまだです。(笑)

 時折、仏間からは母のか細くたどたどしい勤行の声が聞こえてきます。小さくなって背中を丸めて、題目を唱えている心は何を想っているのでしょうか?「親不孝ばかりしてすまんかったね、親孝行は何もでけへんかったけど、僕の題目で絶対成仏させてあげるからな、僕のいただく功徳はみんなお母さんにあげるよ。これから楽しみに待っときや・・・」そういつも心で誓う私です。

 御聖訓の一行すらいまだ実践できない私ではありますが、残り少ない母の人生を大事に見守ってあげたいと思います。





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