2014
06.08

信の一字

Category: 信心
 全国的に梅雨入りしたようで、こちらも2.3日雨模様の日が続きました。近年は大雨の被害もよくあり、その被害も甚大です。被害のないように祈りたいものです。我が家の田んぼの緑も日毎に色を増し、これから一段と成長していく時を迎えます。私も半分、(いや4分の1ほど)お百姓さんですので(農漁光部員です)たまには農作業の汗もかいています。


  創価学会に入らなければ私は祈るという事について、深く考えることもなかったと思います。入信したときは願いと祈りの違いすらわからない有様でした。考えて見ると、願いはこうなりたいという望みですが、それに対し祈りとなると、それは成就するまで念じゆく能動的な行為になってきます。

  病気を治したい、貧乏を転換したい、人生を明るくしたい…等々、切実な悩みをぶつける御本尊があるということはすごいことだと思うのです.
まして、世界最高の強力な御本尊なのですからありがたいことです。世間で、「御多幸をお祈りします」と言っても漠然として、具体性がない。それに対し、学会員の祈りは叶えることに目的があり、祈るということが前提になります。どこまでも具体的に現実の自分なり、生活なりの変革をめざしていくものです。

 有名な祈祷抄には「大地はささばはづるるとも虚空おおぞらをつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」とあります。 それらの御文を始めて拝しましたとき「え?そうなの?本当に?」と思いました。これはすべての祈りが叶うという断言のお言葉です。

  それなのに現実には祈りの叶わないことがあります。それは何故なのか? 私が一日2時間のお題目を続けていた時、友人から「そんなに題目あげないと願いは叶わないものなのか?」と言われハっとしたことがあります。(笑)  題目をよくあげ、、学会活動をよくやっていても、思うようにいかない・・・一体、何がおかしい?自分の信心のどこがいけない?・・・私はある時期、よく考えさせられました。

 4月号の大白蓮華の池田先生の指導にこうあります。

 <願いは、心の奥底のものが叶う >
  「よく皆さんは、口では“叶う”と言いながら、心の中では、あまり思わない場合がある。 願いは、心の奥底のものが叶うのです。“病気が治りますように”と、お願いしながら、心では“治らないかもしれないな”と思う。これでは御本尊に通じません。
 信心をキチッとしていれば、どんなことでも叶いますよ。叶わないのは、そう願っていないのです。皆さんの心に聞けば、良くわかるでしょう。信心をしきっていけば、絶対、どんなことでも現証として現れます。ただ、宿業によって、時間がかかる場合がありますが、それでもキチンと分かるものです。何らかの形態で現証がでます」




バラ園
                    


 実は私のようなものはいかに御本尊様でも救いようがないかもしれない・・・と、暗にどこかで自分を否定し、疑いをもつ、自分を信じきれない私がいたのです。あることの成就を願いながら、壁に突き当たると「やっぱ無理なんじゃないか?」と疑いの心が出る・・・確信をもちたいのにどこかに不信がにじみ出ている。そして祈れども祈りが叶っていかない・・そういうジレンマにずっとはまっていたのです。

 不信の根本は生命に備わっている「元品がんぽん無明むみょう」と説かれます。それは第六天の魔王を動かし、その人の信心をたぶらかし、退転させゆくものです。御書には「設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり」(兄弟抄)と述べられています。もちろん私は等覚の菩薩ではありませんので、なおさら大変だと言えます。

 その自分に気が付いてからは、もっとしっかりと「信」を確立させなければならない、と思うようになりました。唱題行を根本に、御本尊様への絶対の信を打ち立てたいと思いました。そうなれば祈りは全部叶っていくから・・・そう言い聞かせました。今もその揺らぐことのない「信」に向かって毎日が挑戦だと言えます。

  いかなる病も治ると言われている。その力は誰しも自分の生命に持っている。けれどそれを祈る私が「そうは言っても大丈夫かな?」と思う時、治る力は湧現しない。本当に願っているとは言えなくなる。それが不信であり、題目をあげても水の上で火を炊くようなものだと仰せです。
 それが私の或る時の信心でした。それまでの自分の生きざまや、命の癖で、自分が幸福になれるなんてなかなか信じることができなかったのです。(ほんと人生そのものががトラウマでした)(笑)

 私は自分の信心を反省し、御本尊に対する不信をお詫びしました。「もっと自分の信力を強いものにします。さらに深い信心に立っていきます。どうか見ていてください。その信が確立した時には願いをかなえてください」と誓いました。
 仏法では「以心得入」「信のみ能く入る」など信じることの大切さを求めます。御本尊様は身の財や蔵の財以上に、信じるという心の財の供養を一番喜んでくださるのではないかと思います。

 信じきってはじめて不可能が可能となる道が開ける。「疑いなき信」が祈りを叶えていく最低の条件なのかもしれません。自身の無限の可能性を信ぜずして、御本尊を信じているとはとても言えない。そこまでいくだけでも私などは大変なことです。

  日蓮大聖人様は「元品の無明を対冶する利剣は信の一字なり」(御義口伝/751P)と、不信には信をもって対決せよと喝破なされています。自身を「信の一字」に染めあげて題目をあげる。その師子吼が我が心の不信を打ち破り、すべての祈りを叶える力となっていくことを学びました。

   信心はこの生命に潜む不信の命との対決だとも言えます。これは誰の生命にもあるものです。御本尊様に対し、また学会に対して、はたまた自分に対しても最初から100%信じている人はいないと思います。この不信をあぶり出し、信力、行力で対冶しゆくところに、清らかな強い「信」が常住してくるものと思います。

  その道を行くと魔の反撃もおのずと強くなってきます。その魔を魔と見破り、それを一歩深く打ち破るまで、私は一歩も引かない覚悟で行こうと決意しています。

 日蓮大聖人の仏法という最高の宗教、生命哲学を持った一人の人間が、どこまで人間革命できるものなのか、人間革命というのはどういうことなのか、それを求めて、今再びの心で新たな挑戦を開始したいと思います。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村



Comment:2  Trackback:0
back-to-top