2014
06.19

御書と歩む道

Category: 信心
 入会当時、ある方から御書をよく読むようにと教えられ、入会できた喜びも手伝って、わからないままに、けっこう一生懸命拝読しました。その頃は東京にいて、小さな会社で営業をしていました。移動中の電車や一息入れる喫茶店などでも、すぐに御書を開いたものです。

 あの黒皮の分厚い御書は持ち歩きには不便で、人目にもつきましたが、たとえ一行でも拝読したいと思い、欠かさずカバンの中に入れていました。仕事の書類より、御書や大白蓮華など信心のものの方がかさばっていたかも知れません。(笑)

 その頃は初めて知った日蓮仏法に、砂漠で水を得た旅人のような心境でした。(笑) そのおかげでしょうか?今でも何かあると御書の一節が出てきます。何か救いの手が伸びてくるようなそんな感じで・・・それはありがたく思います。

 田舎に帰ってからは、信心も思うようにできなくて、御書もあまり開かないこともありました。最近はまた御書の拝読が日課になっています。御書を読みたくて開きますので、よくいえば自分なりに信心が進んでいるのかもしれません。もちろん、その逆の時もあります。ある方が聖教新聞を読みたくないときは信心がおかしい…とおっしゃっていましたが、その人なりの信心を点検するバロメーターがありますね。


  戸田先生が「御書が分かったといったら増上慢だ、 わかんないと言ったら謗法だ」と言われたそうです。この話を聞いた時、「どっちやねん」と思ったものです。(笑)今ではわかるとかわからないという、拝読の仕方そのものが間違っていると気がつきました。信心をわかった、わからないということも同じだと思います。そういえば、随分、わかろうとして拝読していたなあと自分の増上慢を恥じております。
 御書は大聖人様の魂であり、お心です。凡夫らしく、それに触れさせていただける感動を持って拝したいと思います。



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 境涯で読み方が違ってくると言われますが、むずかしいことは私にはわかりません。ただ最近は御文に接すると、大聖人様にお会いして、直接、お話をうかがっているような気持ちになることがあります。そういう感覚は以前にはなかったものです。それから御書の拝読が楽しくなりました。御書を開くと大聖人様にお会いするように思いますので、それはうれしく思います。

 日蓮大聖人様が大好きで恋しいとなればきっと幸福になりますよね。経文(寿量品)には「心懐恋慕・渇仰於仏」とあります。男女でも恋に落ちると、若い時など会いたくて仕方ない。(笑)恋愛は時に悲しい結末に終わりますが、(そんなこともあったなあ・・・)日蓮大聖人様を好きになって恋い焦がれても、裏切られないばかりか、不思議なことに幸福の方向へとどんどん向かって行きます。

 しかしその道はまた、難信難解の茨の道です。宿業とか魔王の試練とか罰とか、いっぱい邪魔なものが顕れては苦しめられます。歯を食いしばり、一人悩みながら乗り越えていかねばならない。その時、道を照らし、確かな道しるべとなってくれるのが、御書の一節一節であり、それを根本にした学会指導ではないかと思います。

 大聖人様は悩み多き凡夫に寄り添い、語りかけてくださる。励ましては、希望と勇気を与えてくださる。この世の言葉で、御書ほど確かで信じられる言葉はないはずです。まさに「御金言」ですね。

 それを仮名交じりと言って見下し、焼いたり漉き返したりした五老僧・・・大聖人様に信伏随従していなかった証拠だと思います。日興上人様もさぞかしお嘆きになっておられたのではないでしょうか?

  いつの時代にも信心には御書があり、信徒の生活の中に御書は輝いていきます。御文には「此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(総勘文抄563P)とあります。

  忙しい時はせめて『今日の発心』だけでも拝し、(笑) 大聖人様のお心を学び、御書を身に帯した信者として、魔軍との戦いに勝利していきたいと思います。



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