2014
09.30

『行の題目』 と 『信の題目』

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 御嶽山の噴火はまたも大惨事となりました。残された方の捜索も厳しい状況が続いています。ご家族の方の心中は大変なことと思います。また命を落とされた方々のご冥福を祈りたいと思います。本当に、天災、人災の事故が近年多発していますね。信心する一人として、安穏な国土であるよう祈らずにはいられません。


 先日は会館で「法華経の智慧講義」があり、参加しました。今回は「如来神力品」のところで、このことを記事にしようかと思いましたが、難かしいですので(笑)講義で聞いたことを、少しだけかいつまんで書きます。

 それは広宣流布を託された地涌の菩薩である創価学会員をおいて、この世界に仏はいないということです。どこか別の世界に大仏さんのような金ぴかの仏がいたり、社会的にも富裕な人格者が仏に近いというわけではありません。

 三類の強敵の迫害を忍びながら、また病気や貧乏と悪戦苦闘しながら、凡夫の姿で妙法を弘めゆく、学会員こそが仏だということです。それまでの宗教というのは、特別な神仏がいてそれにすがったり、崇めたりというものでした。それがここにきて、凡夫こそが実は仏(菩薩仏)であり、人間ほど尊貴なものはないという、一大転換がなされます。そして上行菩薩を上首とした地涌の菩薩に末法の広宣流布を付属されたのです。その誓いのまま、約束通り凡夫としてこの世に生まれきた「地涌の菩薩」が、何を隠そうあなたであり、私なのです。(ジャーン、すごい!)忘れましたか?すっかり・・・(笑)


 うちの奥さんに「あの、大事な話なんだけど、俺ね、実は仏なんだ・・・」と言っても「ええ?拝みすぎて変になった?」なんて言われそうです。(笑)でも池田先生に聞いたら「そうです。健気に信心しゆく皆さんこそ、地涌の菩薩であり、仏なのです」ときっと答えてくださると思いますよ。



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 決して僧侶が上、在家が下などとそういう考えは仏法にはありません。一切衆生が平等に仏の生命を秘めている。いかに世間の人が嘲笑おうと、煩悩まみれの自分であろうと、本来、仏です。ピーマンの種はピーマンに、カボチャの種がカボチャになるように、妙法の種ですから、仏の生命を成就できるに決まっているのです。


 実はその後の対談の中で、遠藤さん(教学部の方です)が「祈ってはいるのですが、なかなか叶わない」という人に・・・と質問されています。(うーん、これこれ。すぐにでも聞きたい、遠藤さん、その質問ナイス!)

 それに対して先生は「大事なことは、日寛上人が仰せのように、題目には『信の題目』と『行の題目』があることだ。同じように題目を唱えていても、唱えるのは『行の題目』に当たる・・・御本尊の功徳を「確信」しているかどうかで、結果は変わってくる。この『信の題目』が大切なのです。」と答えておられます。

 100万遍唱えても、叶うことを信じていないと結果が出てこない。 病気が治る、仕事がうまくいく、家族が仲良く暮らす・・・みんなそうなりたくて信心しています。絶対そうなることを確信して題目をあげないといけない・・・「無理かな?」「自信がもてない」そういう疑いで「南無」したら、それが叶っていくものだと、実は私もよくやってきました。(笑)どうしても疑いが出てきてしまう。雑念もよく出ますが、疑いもほんとよく出るものですね。

 でもそこを抜け出るのはやはり題目の力だと思います。腹を決めて題目をあげぬいていくと、生命に確信が出てくる・・「これでいいのだ、妙法しかないのだ」 そう信じる心が定まっていくのも、題目の力だと思います。そうなって初めて諸天善神が動き始める。御聖訓には「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(四条金吾殿御返事)とあります。

 私も、自分は絶対に幸福になる・・・願いはすべて叶っていく・・との大確信で今は前進しています。過去にはもう戻りたくない(笑)そうなるとほんと未来は太陽が昇るように,明るいものです。       

 さて今夜は本部の唱題会。呼吸を合わせた確信の題目で、一切を開いていく戦いに挑戦していきたいと思います。
 


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