2014
10.30

誰にもあるよ「怨憎会苦」は・・・

Category: 信心
 
 仏法には四苦八苦ということが説かれます。皆さん、ご存知のことと思いますが、四苦は生・老・病・死 、八苦はそれに愛別離苦(あいべつりく) 怨憎会苦(おんぞうえく) 求不得苦(ぐふとっく) 五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを加えたものです。

 どれも苦しそうですが(笑)、信心によってこれらの解決ができる、乗り越えて行けるということになっています。今、私でいえば「老」と「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の4つを身に感じているところでしょうか?(多いなあ(笑))

老・・・これはどなたもやむをえませんね。心だけは青年で!

愛別離苦・・・愛する人と別れて生きる苦しみです。今はありませんが、これからまた出会うことになると思います。若い時には好きでならなかった人とも結ばれることはありませんでした。(アハハ)

怨憎会苦・・・嫌いで憎いと思う人に会う苦しみです。組織の中にどうしても好きになれない、傲慢な人がいましてね(笑)、その人と共に信心しなければならない苦しみ。

求不得苦・・・求めても得られない苦しみです。これはお金のことから、信心のことでも年中、様々ありますね。好きな人と結ばれない苦しみも、これに重複しますね。

五陰盛苦・・・身や心の五陰(色受想行識)の作用が盛んでありすぎたり、それへの執着が強いことによる苦しみ・・・難しいですが、生きること全般の苦しみにも通じています。


とまあ、人間革命していくための苦悩は、たっぷりとありますので、信心するには申し分ない(笑) 一旦は嘆くものの、この煩悩の薪(たきぎ)がないと幸福になれない。これらの苦しみを利用して私は成仏を目指すのです。

 一生懸命信心して、宿命転換しますと、例えば求不得苦(ぐふとっく)が不求自得(ふぐじとく)になると説かれています。漢文というのは一字違うとえらい違いです。求めずしておのずから得られるというのですからいいですね。 

 嫌いな人と一緒に生きる苦しみ、「怨憎会苦」で悩まれている人は多いですね。職場でも、いやな同僚、上司と一緒に働かなければならない、家庭内でも嫁姑、一緒に暮らさねばならない・・・この人さえいなければ、私は幸せなのに、かといって殺すわけにもいかない。(笑) 朝、起きるとまたあいつと一緒の一日かと憂鬱になる。そんな目の上のたんこぶのような人の一人や二人、どなたにもあるのではないかと思います。



itikawa1_R.jpg



 そこで、たいていは相手を悪く思います。これが厄介なところですね。向こうも同じことを思っている。これは何かあるたびにお互い憎悪が増していきます。日中や日韓など国レベルも同じことです。

 普段は冷静な人も、憎い人のことになると熱くなって、すぐに修羅や怨嫉をおこす。信心もどこへやら・・・仏界、菩薩界はあっという間に冥伏して、やっぱり駄目かとまた数珠を握りしめ、仏壇の前に座るわけです。相手が間違っていても、怨嫉すれば罰はこちらにもでます。それはまだいい方で、幹部なんかに怨嫉したまま、信心の冬眠に入る人がいます。

 いつの頃からか、さすがにこれでは駄目だと気が付いて、発想転換しました。相手のことを悪く思わない、悪口は言わない・・・自分が嫌いな人といなければならない宿命を転換するのだと・・・それからは「自分を治そう、自分だ、自分だ」と言い聞かせました。そうして題目に励みますと、妙法の良薬が自分の苦しいところに効くように感じられるのです。

 それと同時に、その人に対し、あまり苦しみも感じなくなりました。自分を治そうという祈りが、相手に幸せになってもらおうという祈りに通じていきます。これは不思議な感覚です。今まであの人さえいなければ楽しいと思っていたのが、いや、あの人にも幸せになってもいたい、(ちょっとくやしいけど(笑)) 「喜とは自他共に喜ぶなり」だから・・・なんて思ったりします。

  嫌いな姑さんが早く死んだらいいのに・・・そんな祈りは仏様の祈りにはない。自分には罰が出て、姑さんは余計に元気で長生きします。(笑) 祈りは絶対に叶うのですから、あの人と仲良くなろうと決めればそうなりますが、そう思えないときはそれが叶ってしまいます。どっちに思えるか、自身の境涯が反映されますね。

 相手が本当にひどい人だという時もあるかも知れません。でもそんなひどい人と、共に暮らさねばならない自分の宿業もまた深いのだ、と思えば一方的に相手が悪いということもないはずです。

 そんな心で信心に励むと、いつしか、自分の深い業を見せるために、嫌いな人が目の前に顕われてきてくれたことが良くわかります。本当に世界(依報)は自分の生命が、鏡に映し出されたものに違いありません。

 それがわかると信心がぐっと楽しくなります。信心があると自分次第でどうにでも開いていけます。 「嫁と姑の喧嘩も亭主の私の業だ、国の不幸に出会うのも私の業だ、嫌なあいつと生きるのも私の業だ、地区の人の宿業も自分のものなのだ・・・」と思えば、自分の題目ですべての宿命転換を祈っていくことができます。

 「人は皆、悩みの中 あの鐘を鳴らすのはあなた・・・」 (和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」)これは私の好きな歌の一節です。

 衆生の悩みの中に入って、人々の生命の鐘を鳴らすのは、ほかでもない、きっと数多(あまた)の衆生に先駆けて妙法をたもった、あなたであり、私に違いありません。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村



Comment:12  Trackback:0
2014
10.24

九思一言(くしいちごん)

Category: 信心
 秋の穏やかな光は人の心を和らげ、優しい気分にしてくれるものです。そんな太陽の恵みに感謝しながら、今日も元気に生きていける・・・そのことに感謝したいと思います。

 私のように、組織からも、また先生からも一番遠いところにいると思っていた人間が、信心の功徳によって、今や組織の一員として師弟の道を歩けるようにしていただきました。これが私がいただいた一番大きな功徳と言ってもいいと思います。 「師弟」それこそが仏法における幸福の軌道なのだと今は確信しています。

 私など先生という主君にお仕えする、一地方の足軽風情ですが、心は一つと思えば、この五体に力がみなぎります。(笑)先生を思えば、先生からの波動が、この体に電流のように流れてくるかのようです。

 かつて、幹部や組織嫌いだった私も、いつしか副支部長や、地区部長を拝命し、いっぱしの中堅幹部として、学会活動に励むようになりました。しかし、「師弟」というのは役職や住む地域とは関係ありません。先生のお傍にいながら、反逆した本部幹部も多くいます。表の姿は善人ぶっていても、「心」「一念」を見抜かないといけない。人の眼はごまかせても、仏を騙すことはできないものです。最後はどの人も厳しく裁かれるというのが、法の力ではないでしょうか?
 

 地区部長などの役職をもらって一番注意するようになったことは、自分の言葉使いかも知れません。不用意な発言で、人を傷つけたり、誤解を受けたことも何度かあります。少子化のことが話題に上った時、「みなさん一生懸命、子作りしましょう」と言ったのですが、そこに一人、長年、お子さんに恵まれない婦人部の方がおられた。私はハッと気が付いて、申し訳ないことを言ったと思ったものです。

 会合にはいろんな悩みや苦しみを抱えた方がおられ、全員の顔を見て喋らないといけないと反省もしました。その意味で、普段の会話においても、言葉を選んで話すようになったと思います。

  四条金吾殿御書(P1175)には孔子の教えを引用され、「九思一言(くしいちごん)」の お話が出てきます。これは物事を慎重に、また思慮深くしなさいという戒めのようです。一言いうにも、全体や前後をよく見て、慎重にやらねばならないと思います。

akebi3.jpg
                                              <アケビの実> 


 また往々にして、自分の見立てや考えが間違っていることが多いことにも気づかされます。以前、婦人部の方で、この人の信心は大丈夫かな?と見ていた方がいました。私も何かのことで強く言った記憶があります。でも今、その方が一番まじめに協議会をはじめ、地区の会合に出てこられます。私の知らないところで、信心の心を入れ替えられたのだと思います。今でも疑ったことを心でお詫びしていますが、そんな経験から、人を軽々に判断してはいけない・・自分の判断を過信するなと思ったものです。 (そういう私も昔は同じ目で見られていました。(笑))

 「人から疑いの目で見られることほどつらいものはない」これもまた事実です。歴史上の冤罪事件はその最たるものだと言えます。そのつらさを多少なりとも知る人であれば、人を見定めることには、ことのほか慎重でなければなりません。

  いろんなことがありますが、大事なことは真実であり、仏法だと思います。法を尊び、それに殉じる心があれば、自分が間違った時も、正しい方に軌道修正できるものです。行き詰ったら、題目をよくあげるというのも、法に従うという心の発露かもしれませんね。「自分」が中心か「法が」中心か、それは振る舞いや、言葉に現れます。「心の師とはなるとも心を師とせざれ」との言葉は短いですが、厳しいことです。

 特に人から間違いを指摘された時、、それに反発したい気持ちは誰にもあります。自分の非を認めることは勇気がいります。しかし勇気は誠実であり、周囲に清々しい空気が広がります。それは自分をも清らかにし、高めます。
 結局、相手ではなく自分の方に人間革命の目を向けるしかないということでしょう。周りの縁は全部、自分を映し出す鏡なのですから・・・

 人間革命は「人の命を革(あらた)むる」と書きます。御本尊様への信と、池田先生との師弟の道以外は、大いに変革して自分を革めていかねばならない。

 その内省と、求道心があるところ、ひねくれ者がまっすぐに、いじけ者にもじんわり春の陽が射してくる(笑)・・そんな風に自分革命しつつ、それを御本尊様に深く感謝しゆく人が、やがてさらなる大きな歓喜に包まれていく人だと思います。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村



Comment:6  Trackback:0
2014
10.18

「善悪不二」ということ

Category: 信心
 
 今、支部総会が各地域で行われています。わが支部でも様々、内容を考え、工夫をこらし、支部一丸で取り組んでいます。私も裏方で会場設営に当たる他、このカテゴリでおなじみの「土星人さん」の寸劇を拝借してお芝居も演じます。「もう一つの5月3日」と題して、先生、奥様のなれ初めのお話です。(笑)

 今朝も新聞配達の途中で、荘厳な朝日を眺めることができました。それに合わせて、我が心にも太陽を昇らせることができる・・・それが日蓮仏法です。太陽は遍く世の中を照らします。たとえそれが極悪人、犯罪者であろうと、一寸の虫けらであろうと平等に照らします。

 大地はすべての人畜草木を乗せ、雨風は人を潤します。そうした働きに宇宙の広大無辺なる慈愛を感じるものです。地は体の肉に、水は血液や水分に、火は熱に、風は呼吸の流れに、そして空は心にと、大宇宙の地水火風空は生命と一体となって、休むことなく成住壊空(じょうじゅうえくう)を展開している・・・その根本の法こそ妙法と説かれます。

 その妙法を受持し、一切の苦悩を歓喜に転換しながら生きていける・・・それこそ私たちが宇宙からいただいた最高のプレゼントだと思います。

  大聖人様は、自らを大難にあわせた平左衛門尉や北条時頼を一番先に救ってあげたいと申されました。我々でいえば、日顕を一番先に救ってやりたいと・・・(そんなこと嫌だという声も聞こえそうですが(笑)) しかし、これが仏様の不可思議な境地なのかもしれません。


1029 047_R


 大聖人様が出世の本懐を遂げられるためには、平左衛門尉や東条景信、極楽寺良観らは欠かすことのできない登場人物でした。御書には「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信法師には良観道隆道阿弥陀仏と平左衛門尉守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(種種御振舞御書)とあります。いつの時代も法華経の行者、信者を迫害するものがいて、正法正義を顕すことができる。善と悪はまさに表裏一体であると言えます。

 日顕が極悪を現し、悪鬼入其身の姿を演じて、学会を迫害してくれたから、私たちはその呪縛から解かれ、宗教団体として自由を勝ち取ることができました。また不純な学会員はふるいにかけられ去っていきました。 善悪を峻別し、悪を責めることにより、善や正義もより確かな形で浮き彫りになる・・・日顕という大悪によって学会の正義はより一層、鮮明になったと言えます。

 極悪の人間がいつどのように救われるものか、どれほどの無間地獄に住むものか、それとも永遠に地獄なのか、それは凡夫にはわかりません。 しかし、提婆達多の成仏を説く法華経ですので、いつかは必ず仏になるということが示されます。順逆ともに救う法華経の偉大さ、スケールの大きさに驚くほかありませんが、それは万人に仏性があるということにほかなりません。大悪、極悪さえも、法華経は見捨てることはない・・・そこに私は仏の大慈大悲を思うものです。それと同時に学会の後世を思い、この大悪を呼び起こされた、池田先生の深き一念というものがどれほどすごいものであったか、私はあらためて強く感じます。

 提婆達多は過去世の釈尊の姿だという話が法華経には出てきます。これは非常に意味の深い、不思議なお話です。そこに法華経の善悪不二ともいうべき深い法理があると思います。(このことについては、これからもよく考えてみたいと思います。)

 
 ともあれ、太陽のように一切衆生を愛しゆく大きな人間になりたいものですね。この人は仲間として認めるけど、この人は許さない・・・これでは偏狭な自己中心主義であり、いわば小乗教に近い考えかたです。大乗経は十界の衆生、すべてを乗せて成仏へと向かう大船であり、法の下では皆が平等です。

 アンチであろうと、外部であろうと、その人達の反対のおかげで、仏になれると感謝しつつ、今度はその人たちを、真っ先に救っていこうとする・・・その心こそ、折伏精神であり、内も外も、仏の眼から見れば、愛すべき衆生に変わりないと思います。

 学会をかく乱させる、師子身中の虫が、これから出てくることも考えられます。しかし、それがまた法華経の宿命でもあります。魔が競うゆえに正法であり、それによって大善も来るのです。その時こそ、我ら、信心あるものが仏になるチャンスととらえ、仏敵を責めて行かねばと思います。

 戸田先生は佐渡御書講義で「運が良ければもう一遍、牢屋に入れますが、運が悪ければ、このまま幸福になって死ぬだけです・・・それでは困る」と言われました。本当にすごい境涯ですね。

 私たちも師子身中の虫を冥伏させていてはならない・・・あぶりださねばなりません。創価学会が新たに発迹顕本し、学会員が大きく境涯を開くためにも、大悪を呼び顕し、打ち破っていく気迫をもちたいと思います。難が来るかと思えば、心踊るのが日蓮門下です。私もその心で新時代の先駆けとなって、やらんかなの決意に今、あふれております。

、皆さん、時が来れば共々に戦おうではありませんか!(どこかの幹部さんみたいですが(笑))



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村



Comment:3  Trackback:0
2014
10.09

日女御前御返事

Category: 未分類
 ここしばらく秋晴れのいい天気が続きました。週末の台風が気になるところですが、こちらでは米の収穫も終わり、秋の祭りが各地域でたけなわとなります。田舎で暮らしていますと、神社の役なども回ってきます。以前はお付き合いの仕方に心を悩ましたものですが、最近は受けるもの、断るものもはっきりとして、そう悩まなくてもよくなりました。(笑)

 創価学会からも「自分から進んで謗法を拝んだりしなければ、祭り等への参加、やむなく神事に立ち会う等は地域友好の一環であってけっして謗法ではない」という見解が、原田会長の指導として数年前に聖教新聞に出ました。中には鳥居をくぐるのも嫌だという人もおられますが、それで罰が出る、謗法に染まるという道理はありません。

 かつて池田先生が、出雲大社の境内で店をやっていた会員を激励されたとき、堂々と鳥居から入られ、その会員の商売、生活を励まされたことは有名なお話です。私自身も寺や神社に行くのは決して好きではありませんが、秋になるとハッピを来て、太鼓神輿で練り歩くというのがこちらの秋祭りの風習ですので、それらとも自然体で付き合うようにしています。

 昔、先輩からは「身は落ちても心は落ちてはならない」と聞きました。生活上でそういった場所に行くことがあっても、身と心をきっちりと立て分け、心で謗法を戒めつつ、身は良識ある振舞をすることが大事だと思っています。


IMG_8708a.jpg
                                   <月食>10月8日午後7時21分・自宅



 さて今月の御書講義は『日女御前御返事』でした。「相構えて相構えてとわりを我が家へ寄せたくもなき様に謗法のものをせかせ給うべし、悪知識を捨てて善友に親近せよとは是れなり。」とあります。自分の信心を誑(たぶら)かし、悪道に落とし行くものとは戦わなければなりませんし、用心して近寄せないことが大事です。

 私の地域でも支部長までしながら、陰で同志の悪口を平気でやるような男がかつていました。表向きは強信者に見えたこともあり、結果、数人の会員がその男に同調しました。私は最初から彼が自分を立派に見せたい、名聞名利の信心であることを感じていました。そのせいか、私のことは疎ましく思い、陰で様々、あることないこと悪口もいっていたようです。ちょうど私が地区部長になったころでしたので、彼に地区内を乱され、地区をまとめるのに苦労しました。信心ありげに「先生、先生」と常にいいながら、裏では自分にいいように会員を誑惑していたのです。幹部でさえ、彼を信用して支部長にもしました。表面だけでは人間はわからないものです。

 後日になって、女性問題や悪僧との付き合いなど、いろいろと彼にまつわる悪い話が出ました。そのこともあったのか、支部長職を放棄して、ある日突然、この地域から去っていったのです。何故、あわてて去っていったのか、いまだに謎というほかありません。陰で同志の悪口を言うことに対して、仏罰が厳然と出るということを私は知りました。その時、一緒に同調した人達も本当にろくなことになっていない。それに比べて、組織から離れずに地区を盛り立てやってきた人は、みんな守られています。

 あまりにもはっきりと現証が出ましたので、私も驚きました。ですから今、会う人には、「組織について地区や支部を盛り立ててやっていくことが大事だよ」と話をしています。それが我が身を謗法・悪知識から守る事にもなると思います。和合僧を破壊する罪は誠に重いと、私自身を戒めるいい体験となりました。学会と言えど、ほんといろんな人がいるもんです。(そういう私も少し風変わりな人間ですが・・・(笑)

 御書の最後で、「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」と述べられています。

 私にとって、また学会員にとって、最高の善知識は言うまでもなく池田先生です。その先生に追随して、確信あふれる題目をもって、御本尊の宝塔の中に突入していく。それも日々、いつでもそうしていける。その無上道の人生を満喫していけます。そのことを教えていただいた学会に、地域広布の弘教を持って、必ずや報いていく決意です。

 昨夜は美しい月食でした。赤銅色の月をしみじみ眺め、自分の人生の来し方など、思いを巡らせながら(笑)宇宙と対話しておりました。皆さんはどんな思いでご覧になりましたか?



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


Comment:17  Trackback:0
back-to-top