広布の大河に君ありて tori

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誰にもあるよ「怨憎会苦」は・・・

 
 仏法には四苦八苦ということが説かれます。皆さん、ご存知のことと思いますが、四苦は生・老・病・死 、八苦はそれに愛別離苦(あいべつりく) 怨憎会苦(おんぞうえく) 求不得苦(ぐふとっく) 五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを加えたものです。

 どれも苦しそうですが(笑)、信心によってこれらの解決ができる、乗り越えて行けるということになっています。今、私でいえば「老」と「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の4つを身に感じているところでしょうか?(多いなあ(笑))

老・・・これはどなたもやむをえませんね。心だけは青年で!

愛別離苦・・・愛する人と別れて生きる苦しみです。今はありませんが、これからまた出会うことになると思います。若い時には好きでならなかった人とも結ばれることはありませんでした。(アハハ)

怨憎会苦・・・嫌いで憎いと思う人に会う苦しみです。組織の中にどうしても好きになれない、傲慢な人がいましてね(笑)、その人と共に信心しなければならない苦しみ。

求不得苦・・・求めても得られない苦しみです。これはお金のことから、信心のことでも年中、様々ありますね。好きな人と結ばれない苦しみも、これに重複しますね。

五陰盛苦・・・身や心の五陰(色受想行識)の作用が盛んでありすぎたり、それへの執着が強いことによる苦しみ・・・難しいですが、生きること全般の苦しみにも通じています。


とまあ、人間革命していくための苦悩は、たっぷりとありますので、信心するには申し分ない(笑) 一旦は嘆くものの、この煩悩の薪(たきぎ)がないと幸福になれない。これらの苦しみを利用して私は成仏を目指すのです。

 一生懸命信心して、宿命転換しますと、例えば求不得苦(ぐふとっく)が不求自得(ふぐじとく)になると説かれています。漢文というのは一字違うとえらい違いです。求めずしておのずから得られるというのですからいいですね。 

 嫌いな人と一緒に生きる苦しみ、「怨憎会苦」で悩まれている人は多いですね。職場でも、いやな同僚、上司と一緒に働かなければならない、家庭内でも嫁姑、一緒に暮らさねばならない・・・この人さえいなければ、私は幸せなのに、かといって殺すわけにもいかない。(笑) 朝、起きるとまたあいつと一緒の一日かと憂鬱になる。そんな目の上のたんこぶのような人の一人や二人、どなたにもあるのではないかと思います。



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 そこで、たいていは相手を悪く思います。これが厄介なところですね。向こうも同じことを思っている。これは何かあるたびにお互い憎悪が増していきます。日中や日韓など国レベルも同じことです。

 普段は冷静な人も、憎い人のことになると熱くなって、すぐに修羅や怨嫉をおこす。信心もどこへやら・・・仏界、菩薩界はあっという間に冥伏して、やっぱり駄目かとまた数珠を握りしめ、仏壇の前に座るわけです。相手が間違っていても、怨嫉すれば罰はこちらにもでます。それはまだいい方で、幹部なんかに怨嫉したまま、信心の冬眠に入る人がいます。

 いつの頃からか、さすがにこれでは駄目だと気が付いて、発想転換しました。相手のことを悪く思わない、悪口は言わない・・・自分が嫌いな人といなければならない宿命を転換するのだと・・・それからは「自分を治そう、自分だ、自分だ」と言い聞かせました。そうして題目に励みますと、妙法の良薬が自分の苦しいところに効くように感じられるのです。

 それと同時に、その人に対し、あまり苦しみも感じなくなりました。自分を治そうという祈りが、相手に幸せになってもらおうという祈りに通じていきます。これは不思議な感覚です。今まであの人さえいなければ楽しいと思っていたのが、いや、あの人にも幸せになってもいたい、(ちょっとくやしいけど(笑)) 「喜とは自他共に喜ぶなり」だから・・・なんて思ったりします。

  嫌いな姑さんが早く死んだらいいのに・・・そんな祈りは仏様の祈りにはない。自分には罰が出て、姑さんは余計に元気で長生きします。(笑) 祈りは絶対に叶うのですから、あの人と仲良くなろうと決めればそうなりますが、そう思えないときはそれが叶ってしまいます。どっちに思えるか、自身の境涯が反映されますね。

 相手が本当にひどい人だという時もあるかも知れません。でもそんなひどい人と、共に暮らさねばならない自分の宿業もまた深いのだ、と思えば一方的に相手が悪いということもないはずです。

 そんな心で信心に励むと、いつしか、自分の深い業を見せるために、嫌いな人が目の前に顕われてきてくれたことが良くわかります。本当に世界(依報)は自分の生命が、鏡に映し出されたものに違いありません。

 それがわかると信心がぐっと楽しくなります。信心があると自分次第でどうにでも開いていけます。 「嫁と姑の喧嘩も亭主の私の業だ、国の不幸に出会うのも私の業だ、嫌なあいつと生きるのも私の業だ、地区の人の宿業も自分のものなのだ・・・」と思えば、自分の題目ですべての宿命転換を祈っていくことができます。

 「人は皆、悩みの中 あの鐘を鳴らすのはあなた・・・」 (和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」)これは私の好きな歌の一節です。

 衆生の悩みの中に入って、人々の生命の鐘を鳴らすのは、ほかでもない、きっと数多(あまた)の衆生に先駆けて妙法をたもった、あなたであり、私に違いありません。


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