広布の大河に君ありて tori

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「仲良くしていこう」

 


「仲良くしていこう」と思える人は幸せである
 「仲良くしていこう」と心を配り
 行動していける人は立派である
 心がきれいであり 豊かな人である
                「池田大作 名言100選」(中央公論社刊)


 私も生活上、お会いする方には、この心で接していきたいと心がけています。仲良くするということは、相手を尊重していくことです。同じ時代に生きる者同士、信心のあるなしに関係なく「君の友達になりたいな・・・」「よかったらお茶でもどうや?」「何か僕にできることないかな?」そんな気持ちで相手に接していくことは、まさしく広宣流布の第一歩ですし、豊かな人間性の発露だと思います。



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 3年ほど前になりますが、私に青年の友人が一人できました。その友人は偶然ともいえる形で、ある日、私を訪ねてきたのです。当時、学習教材のセールスマンだったその彼は、私の家の近くに営業に来ていました。信心にも行き詰まり、悩みを抱えていたようで、我が家の塀に公明党のポスターが掲示してあるのを見て、思わず訪ねてみたくなったのだそうです。

 その日は日曜でしたので時間もあり、仏間に彼を案内し、話を一時間以上しました。組織活動になじめず幹部とも話が合わないこと、仕事のかたわら小説を書いていること、そしてウツを抱えていること、そのため仕事も続かないことなど、初対面にもかかわらず心を開いて話をしてくれました。

 実はその日は話だけ聞いて、「また会いましょう」といって別れました。ウツを持っていると言ったので、私も「こうしたら、ああしたら」という積極的な話をするより、もう少し、長い目で彼と付き合おうと思ったのです。

  正しくても話が押し付けになったら、人はえてして拒否反応を出すものです。目的は彼に笑顔が出て元気になること、信心を楽しいものだと思えるようにしてあげることですから、私の話がスーと通じるような機根を作ることが大事だと思ったのです。幸いなことにいつも話は弾んで、時には喫茶店で2時間ほど話していることもありました。

 彼が信心の道からそれないよう、支えになるだけでも会いにいく意味があります。また彼という人間を通して自分も学び成長させてもらえます。やはり直接会わないと私は本当の心は通わないし、相手を理解することも難しいと考えています。

 人に同苦し、励ますということは大変なことのように思いますが、端的に言うとそれは「仲良くなる」ということではないでしょうか?この人には心を許せる、信頼できる、そして話をしたい・・・とそうなれば、悩みを分かち合っていけます。それが同苦の姿です。御聖訓にも「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御義口伝下761)とありますね。そう言えば友好という字も「友が好き」と書きます。いい言葉です。(笑)


 今の自分の生活に直接かかわる人は、50人とか100人とか・・・その中でゆっくり話までするとなると、もっと少ない数になります。一生のうちに何人の方と袖すりあうか?一億人以上もいるこの国でその数はあまりにも少ないですね。

 そうであるなら一つひとつの出会いや共に生きる人がいかに大切か・・・先生の言われる「仲良くしていこう」の呼びかけはとてもシンプルな言葉ですが、人間にとって幸福に生きるための大事な本質をついていると思います。

 日々の言動や振る舞いが「仲良くしていこう」の方向に向かっているか・・・そこにその人の仏縁を広げゆかんとする信心の姿も浮き彫りになってきます。

 かつて人が苦手で、一人が好きだった私も、人間革命でその殻を破り、笑顔で他者に声をかけゆく日々になりました。

「おいしいコーヒーでも飲みながらちょっと話をしようよ」と、そんな言葉が自然に口をつく今日この頃です。




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信心は毛穴から入る

 
 今週はわが地区で座談会がありました。ブロック座談会ですが、会員数の少ない地区ですので、地区一体でやっています。

 私も外の壮年の方を一人お誘いしました。同中にも時々一緒しますが、その方は糖尿病があり、眼があまり良くないようで、どんな会合も目を閉じて、会合の雰囲気を味わっておられます。

 「一言お願いします。」と言いますと「ここに来るといつもファミリーみたいな雰囲気で、ほっとするんです。」と言っておられました。こちらこそありがたい「会友」ともいうべき仲間の方です。

 私は無冠の友として、毎朝、一時間ほど配達をしています。もう一人、婦人の方にもお世話になっていたのですが、最近、高齢ということでやめさせてほしいと話があり、私の配達範囲がさらに広くなるところでした。

 そこで座談会の場を借りて、「配達希望の方がおられましたら歓迎します」と言いましたら、別の婦人の方が「私、やるで」と言われたのです。

 その方は、普段、私にも憎まれ口を平気でやる方で、「○○さんに言いたいこと言うたらすっとするねん。それでストレス解消できるわ」というような、あけっぴろげな方です。



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 その方が配達すると言ったので、周りの人も一瞬「え?」という感じでした。一番しそうにない人でしたから(笑)離婚して今は一人で、生活保護も受けておられます。言葉など荒れたところもありますが、根はいい人です。2.3年前にこの地区に移ってこられた時は、もっとすさんだ感じだったのに、「いつの間にか信心が沁みてきてるやん」と思いました。

 また別の婦人部の方は、御書の一節を紙に書いて短冊にし、家に余っている石鹸や、乾電池、インスタントラーメンなどに、それを貼りつけてみんなに配ってくださいました。

 各自、いただいた真心のこもった手書きの御文を読み合いました。ちなみに私がいただいた御書は「大地はささばはづ(外) るるとも虚空(おおぞら) をつなぐ者はありとも・潮のみ(満) ちひ(干) ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかな(叶) はぬ事はあるべからず」(御書1351-18祈祷抄)」有名な祈祷抄の一節でした。

 今月の座談会御書は「阿仏房御書」でしたが、目の前にいる会員の方々が、「ああ、この人達こそ宝塔なんだ。今日はそう見えるなあ」と思いながら、拙い講義をさせてもらいました。

 みんなの信心の思いが集い合うのが座談会です。そこにいるだけで一つになれる仏の会座です。熱心な人も、久しぶりに出てこられた人も、すぐに一つに溶け合えます。きっと仏様の空気が部屋中に、また集まった人の生命に、花の香りのように沁みこんでいくのだと思います。

 そういえば、「信心は毛穴から入る」と言われます。信心が嫌いでも、知らないうちに毛穴から仏様の空気が沁みこんでいきます。それはきっと、その人の仏性を眠りからさまし、幸福の方向へと立ち向かわせていく、希望の光となります。

 正しい仏法は人々を結びつけ、和合の世界に変えていきます。反対に魔は争いを好み、和を破壊し、心をかたくなにさせていきます。目の前で起こる出来事も、それを基準に見れば、仏の所作か、魔の所為か、一目瞭然です。いくら仏法を語っても、人々を暖かく包む明るくさわやかな心がなければ、最後は賢明な民衆に見放されていきます。

 「みんな、喜んで帰ってくださったかな?」「温もっていただけたかな?」
 そんなことを思いながら、また明日から善なるこの人達を守っていこう…そう思う夜となりました。



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「題目」で「開目」してますか?


 学会は教授主義ではなく指導主義だとよく言われます。

 例え話ですが、他の色は見えても赤の色だけ見えない人がいたとします。その人に向かって「ほら、このイチゴの色が赤だよ。わかるだろ?これが赤なんだ。わかると言ってよ。」(笑)と言っても、その人は赤色そのものが認識できないのですから、いくら言ってもわからないわけです。

 その人にとっては赤色の見える目が必要なのであって、見えないものをわかりなさいと教えられても困ってしまいます。

 対して指導主義は「ここにすごい御本尊がある。これを信じて拝めば、どの色も見える目が開くんだよ。」となります。だから「一緒に拝もう!」です。その人は歓喜して御本尊に向かうと思います。

 
 結局、教えるのではなく、導く・・・まして凡夫同士ですので、横一線、御本尊様の方を向いていく。横一線だとスクラムを組めますよね、それは団結です。

 よく会合なんかで、幹部さんが私達に対面して、内裏雛(だいりびな)のように並んでおられますが、私なんかみんな、御本尊様の方を向いてやればいいのに・・・なんて思ってしまいます。(笑)

 冗談はともかく、会員同士「一緒に信心しよう」 「題目をあげよう」と励ましていくのが一番の方法です。なんといっても御本尊様が一番です。

 私も自分の生命がなんであるか、自分に暗い。だから、「こんな自分なんか駄目だ」とか、「この苦しみできっと一生苦しむんだ」とか、迷って生きてきました。

 でも今は御本尊様に一生懸命信心して、生命をお題目で磨いていけば、自分の生命がやがて仏と開くことを知っています。



     鳥取6





 その眼が開けば、暗い部屋に100Wの灯りをつけたようにパッと人生に解決がつく・・・やがて迎える死にも解決がつく。 私なんか、その眼がほしくて信心しているようなものです。

  まさに「開目」というのは信心の異名かもしれませんね。迷いの人に悟りの眼が開く・・・ひどいと思っていた自分が仏であり、心がまぶしい真夏の太陽に雲一つなく晴れ渡る・・・とそんな風になったらうれしいではありませんか?

 題目がすべてを解決し、乗り越えて行く力があることを知っている人は、指導主義に徹する人ですね。自分の説より仏の智慧の方が確かです。その力を知らない人は理屈や方法論に走る人と言えそうです。

 組織が行き詰ってうまくいかない・・「よし、題目だ、みんなで唱題しよう」 商売が行き詰った「よし、題目だ、御本尊しかない」とそれだけでいいことになっています。だから簡単ですし誰でもできます。

 いつでもそれができる人が、御本尊に対して正直で、愚直の人ではないかと思います。

 池田先生があなたの目を見つめて「題目だよ!」と言われれば、きっと電流が流れるみたいに、生命の底まで感電して、一瞬でそれが生涯の原点になることでしょう。それを私があなたの眼を見つめて「題目ですよ!」と言っても、「ふん、あんたに言われなくてもわかっているよ。」なんて言われてしまいそうです。(笑)

 それも境涯であり(比べるのもおこがましいですが)、池田先生はその人の三世の生命を明らかに見る眼をお持ちなのだと思います。ですからものを見ることもできないフシアナ(節穴)の眼の人に、あれこれ言われることほど迷惑なこともありませんね。(笑) 人の評価など気にする必要はない。御本尊と池田先生を信じ、我が道を行けばいいと思います。

  「題目があれば、何があっても大丈夫」だと、まず自分が言えるようになりたいと思います。どこかのおばあちゃんのように朝の3時からはできませんが、せめて30分、一時間、朗々と題目を唱え、「ありがたいなあ、うれしいなあ、これさえあれば今日も一日、何でもできる!」と言って毎日を元気に出発すればいいだけなのです。

 「そうですよね? 関西のおっさあん!!・・・」



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「一緒に題目をあげよう!」


 信心の目的は「人間革命」であり、私もいつもそれを求めてやってきましたが、決して平坦でたやすい道ではないというのが正直な思いです。

 いい家に住むとか、すごいお金持ちになるとか、いわゆる蔵の財というのは、私は追いかけませんでしたし、また縁がありませんでした。本当の功徳は自身の体内にあると学びましたので、それはどういうものなのか、我が身に仏を悟るとはどうなることか・・・それだけはつかみたいと思ってやってきました。

 私なりに30年ほど悪戦苦闘しまして、やっと最近になって、生命にかすかに確信を得ることができたのですが、その間、功徳というより自分のひどさを思い知らされたようにも思うのです。

 それは本当に過去の謗法の害毒というのは、生命に沁みこんでいる…邪宗の家で育ち、お題目もあげづらいところから始めた私にしてみれば、(親と同居のため、7年間ほど、邪宗の家で信心していました。)世の中で間違った宗教の害毒・謗法ほど人を苦しめるものはない・・・このことだけは今も身をもって感じ、御本尊様に深くお詫びするしかないと思うものです。

 考えて見ますと、なまじ立派な自分であれば、こんな風に信心を求めることもなかったと思いますし、このひどい自分をなんとかしたい・・・それだけの理由でまっすぐに信心に向かえたことは良いことだったかもしれません。

 またそのひどい私を責めることもなく、理解しようとし、「焦らずに君らしくやればいいよ。」とおおらかに言ってくれた先輩、同志がいたからこそ、負けずに今日まで来れたことも事実です。



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 「足下を掘れ、そこに泉あり」との言葉は、まさに自分というものと対峙して、どこまでも生命を掘り下げ磨いていく・・・そのことを教えているのだと思います。

 私がお世話になった先輩も「信心は玉ねぎの皮をむくようなもんやで・・やればやるほどきれいな自分が出てくる。人やない、自分が変わるんや!」と励ましてくださいました。


 環境や人のせいにする、人の事ばかりあれこれ言って自身の変革を怠る、これは外道の信心です。相手が悪くても、どこまでも自分が変わることによって、環境を変えてみせる・・・それが「人間革命」であり、信心するものの姿勢でなければならないと思います。

 悪いところだけを指摘する姿勢は、「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」と池田先生が戒められたように、人間を萎縮させ、息苦しくさせてやがて生気を奪っていくものです。善悪は誰にもありますし、善だけの人も悪だけの人もいない・・・

 逆に言うと、人を追い詰めたり、息苦しくさせる対話、指導は間違っていたり、こちらの独善であることが多いものです。まして相手が傷つくような言動は絶対にやってはいけないのは当然です。それでは余計に相手は心を閉ざしてしまいます。

 善悪あるがままに許し合って「一緒に題目をあげよう!」と御本尊に向かっていけばいい・・・それが学会の指導主義であり、「大丈夫、悪だってお題目で素晴らしい個性に変えていけるよ」と教え、励ますのが妙法です。

 「俺もひどいけどあんたも駄目か?駄目な者同士一緒に拝もうや!」私はこう言うようにしています。

 自他の仏性を信じて行く道は、「角を矯める」のではなく「許し合う」「認め合う」・・・それこそが人を生かす智慧だと思います。

 今月の御書講義 「異体同心事」 においても、いかに同志への尊敬と励ましが大事か・・・これを先生は強く指導されています。これを実践できる人が正しい信心の人であり、この指導に反する人はやはり師弟の道から逸れていく増上慢の人です。時に異体同心の団結を破り、広布破壊を企てる魔の所業を犯す人です。

 「人を愛し、仲よくする」・・・その姿あるところ、自然と尊敬と励ましがにじみ出ます。
私ももっとそういう自分になり、地域の人からも信頼される人間になって、広布の道を開いて行きたいと思います。



 「角を矯めて牛を殺す」・・・曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまうことから、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまうことをいう。
「矯める」とは、矯正する。曲がったものをまっすぐにするという意味。<故事ことわざ事典>





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