広布の大河に君ありて tori

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「一緒に題目をあげよう!」


 信心の目的は「人間革命」であり、私もいつもそれを求めてやってきましたが、決して平坦でたやすい道ではないというのが正直な思いです。

 いい家に住むとか、すごいお金持ちになるとか、いわゆる蔵の財というのは、私は追いかけませんでしたし、また縁がありませんでした。本当の功徳は自身の体内にあると学びましたので、それはどういうものなのか、我が身に仏を悟るとはどうなることか・・・それだけはつかみたいと思ってやってきました。

 私なりに30年ほど悪戦苦闘しまして、やっと最近になって、生命にかすかに確信を得ることができたのですが、その間、功徳というより自分のひどさを思い知らされたようにも思うのです。

 それは本当に過去の謗法の害毒というのは、生命に沁みこんでいる…邪宗の家で育ち、お題目もあげづらいところから始めた私にしてみれば、(親と同居のため、7年間ほど、邪宗の家で信心していました。)世の中で間違った宗教の害毒・謗法ほど人を苦しめるものはない・・・このことだけは今も身をもって感じ、御本尊様に深くお詫びするしかないと思うものです。

 考えて見ますと、なまじ立派な自分であれば、こんな風に信心を求めることもなかったと思いますし、このひどい自分をなんとかしたい・・・それだけの理由でまっすぐに信心に向かえたことは良いことだったかもしれません。

 またそのひどい私を責めることもなく、理解しようとし、「焦らずに君らしくやればいいよ。」とおおらかに言ってくれた先輩、同志がいたからこそ、負けずに今日まで来れたことも事実です。



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 「足下を掘れ、そこに泉あり」との言葉は、まさに自分というものと対峙して、どこまでも生命を掘り下げ磨いていく・・・そのことを教えているのだと思います。

 私がお世話になった先輩も「信心は玉ねぎの皮をむくようなもんやで・・やればやるほどきれいな自分が出てくる。人やない、自分が変わるんや!」と励ましてくださいました。


 環境や人のせいにする、人の事ばかりあれこれ言って自身の変革を怠る、これは外道の信心です。相手が悪くても、どこまでも自分が変わることによって、環境を変えてみせる・・・それが「人間革命」であり、信心するものの姿勢でなければならないと思います。

 悪いところだけを指摘する姿勢は、「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」と池田先生が戒められたように、人間を萎縮させ、息苦しくさせてやがて生気を奪っていくものです。善悪は誰にもありますし、善だけの人も悪だけの人もいない・・・

 逆に言うと、人を追い詰めたり、息苦しくさせる対話、指導は間違っていたり、こちらの独善であることが多いものです。まして相手が傷つくような言動は絶対にやってはいけないのは当然です。それでは余計に相手は心を閉ざしてしまいます。

 善悪あるがままに許し合って「一緒に題目をあげよう!」と御本尊に向かっていけばいい・・・それが学会の指導主義であり、「大丈夫、悪だってお題目で素晴らしい個性に変えていけるよ」と教え、励ますのが妙法です。

 「俺もひどいけどあんたも駄目か?駄目な者同士一緒に拝もうや!」私はこう言うようにしています。

 自他の仏性を信じて行く道は、「角を矯める」のではなく「許し合う」「認め合う」・・・それこそが人を生かす智慧だと思います。

 今月の御書講義 「異体同心事」 においても、いかに同志への尊敬と励ましが大事か・・・これを先生は強く指導されています。これを実践できる人が正しい信心の人であり、この指導に反する人はやはり師弟の道から逸れていく増上慢の人です。時に異体同心の団結を破り、広布破壊を企てる魔の所業を犯す人です。

 「人を愛し、仲よくする」・・・その姿あるところ、自然と尊敬と励ましがにじみ出ます。
私ももっとそういう自分になり、地域の人からも信頼される人間になって、広布の道を開いて行きたいと思います。



 「角を矯めて牛を殺す」・・・曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまうことから、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまうことをいう。
「矯める」とは、矯正する。曲がったものをまっすぐにするという意味。<故事ことわざ事典>





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