2015
02.07

「題目」で「開目」してますか?

Category: 信心

 学会は教授主義ではなく指導主義だとよく言われます。

 例え話ですが、他の色は見えても赤の色だけ見えない人がいたとします。その人に向かって「ほら、このイチゴの色が赤だよ。わかるだろ?これが赤なんだ。わかると言ってよ。」(笑)と言っても、その人は赤色そのものが認識できないのですから、いくら言ってもわからないわけです。

 その人にとっては赤色の見える目が必要なのであって、見えないものをわかりなさいと教えられても困ってしまいます。

 対して指導主義は「ここにすごい御本尊がある。これを信じて拝めば、どの色も見える目が開くんだよ。」となります。だから「一緒に拝もう!」です。その人は歓喜して御本尊に向かうと思います。

 
 結局、教えるのではなく、導く・・・まして凡夫同士ですので、横一線、御本尊様の方を向いていく。横一線だとスクラムを組めますよね、それは団結です。

 よく会合なんかで、幹部さんが私達に対面して、内裏雛(だいりびな)のように並んでおられますが、私なんかみんな、御本尊様の方を向いてやればいいのに・・・なんて思ってしまいます。(笑)

 冗談はともかく、会員同士「一緒に信心しよう」 「題目をあげよう」と励ましていくのが一番の方法です。なんといっても御本尊様が一番です。

 私も自分の生命がなんであるか、自分に暗い。だから、「こんな自分なんか駄目だ」とか、「この苦しみできっと一生苦しむんだ」とか、迷って生きてきました。

 でも今は御本尊様に一生懸命信心して、生命をお題目で磨いていけば、自分の生命がやがて仏と開くことを知っています。



     鳥取6





 その眼が開けば、暗い部屋に100Wの灯りをつけたようにパッと人生に解決がつく・・・やがて迎える死にも解決がつく。 私なんか、その眼がほしくて信心しているようなものです。

  まさに「開目」というのは信心の異名かもしれませんね。迷いの人に悟りの眼が開く・・・ひどいと思っていた自分が仏であり、心がまぶしい真夏の太陽に雲一つなく晴れ渡る・・・とそんな風になったらうれしいではありませんか?

 題目がすべてを解決し、乗り越えて行く力があることを知っている人は、指導主義に徹する人ですね。自分の説より仏の智慧の方が確かです。その力を知らない人は理屈や方法論に走る人と言えそうです。

 組織が行き詰ってうまくいかない・・「よし、題目だ、みんなで唱題しよう」 商売が行き詰った「よし、題目だ、御本尊しかない」とそれだけでいいことになっています。だから簡単ですし誰でもできます。

 いつでもそれができる人が、御本尊に対して正直で、愚直の人ではないかと思います。

 池田先生があなたの目を見つめて「題目だよ!」と言われれば、きっと電流が流れるみたいに、生命の底まで感電して、一瞬でそれが生涯の原点になることでしょう。それを私があなたの眼を見つめて「題目ですよ!」と言っても、「ふん、あんたに言われなくてもわかっているよ。」なんて言われてしまいそうです。(笑)

 それも境涯であり(比べるのもおこがましいですが)、池田先生はその人の三世の生命を明らかに見る眼をお持ちなのだと思います。ですからものを見ることもできないフシアナ(節穴)の眼の人に、あれこれ言われることほど迷惑なこともありませんね。(笑) 人の評価など気にする必要はない。御本尊と池田先生を信じ、我が道を行けばいいと思います。

  「題目があれば、何があっても大丈夫」だと、まず自分が言えるようになりたいと思います。どこかのおばあちゃんのように朝の3時からはできませんが、せめて30分、一時間、朗々と題目を唱え、「ありがたいなあ、うれしいなあ、これさえあれば今日も一日、何でもできる!」と言って毎日を元気に出発すればいいだけなのです。

 「そうですよね? 関西のおっさあん!!・・・」



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


Comment:8  Trackback:0
back-to-top