広布の大河に君ありて tori

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石虎将軍の矢

 

 少しずつ春の陽気が体に感じられ、サクラの花の開花の便りもあちこちで聞かれるようになりました。春こそ、人の生命が輝く時、出発のシーズンでもありますが、心新たに生活を開拓すべく、私も取り組んでいきたいと思います。

 信心をするまでは「確信」とか「一念」とかそういう言葉は、私の日常になかったわけですが、信心しまして、成功したり、願いを成就するために、何が必要なのかということを知りました。

 世の中で成功している人を見ても、「才能があるから」「運がいいから」というふうに見ていたわけですが、世の中には成功する秘訣、法則があるということを知ったことはすごいことだと思います。そしてそれを身にあらわせる御本尊を持っているのですから、まさに鬼に金棒というわけです。

 世間でも成功している人の多くが、自分の夢に向かって、自信をもって挑んでいる姿をよく見ます。たとえば野球のイチローやサッカーの本田なんか見てましても、メジャーやセリエの舞台で活躍している自分を、信じて疑わないでやってきたんだと思います。


 今月(4月号)の大白蓮華の研修教材にもあります、「石虎(せっこ)将軍」の話も、まさに願いを成就するための基本のお話です。将軍が母を殺した虎と思い、弓を射たところ、それは大きな石であった・・・しかし母の仇である虎を射抜く一念が強いために、矢が石を貫いたということです。また石とわかってからは矢が刺さることはなかったといわれます。一念があれば不可能と思えることも可能にできるという、素晴らしい故事です。



日本海2
                              < 福井・越前海岸>



 信心する多くの方が、夢に向かって挑戦されていることと思います。私も仕事の面で夢を心に描いて戦う日々です。その挑戦の中で自分が知ったことは、不可能を可能にしていくためには、迷いのない一念こそが必須条件であるということです。

 策や智慧を絞ることも時には必要かもしれませんが、その大元には「絶対、自分はこれを成し遂げてみせる。必ずこうなるに決まっている」という強い意志、一念がなければ、やがては空転していくということです。その一念があるのとないのとでは、言葉の響き、誠実さ、情熱と全部違ってきます。相手に通じるのは、そのまっすぐな一念であり、その力が不可能の壁をこじ開けていく鍵だと私は思います。

 そのことを学んでからは、私は物事をなし行く時、人ではなく自分の心を見るようになりました。「今の自分は目標に向かって迷いがないか?一本か?」とそう聞きます。その一念が出来上がれば、願いはもう半分は叶ったも同然のような気持ちになるのです。そのためには信力のこもった題目で、その心を固め、築き上げていくしかありません。

 「そうはいっても・・・」とか「この信心ではまだ駄目だよな」とか弱気な心が出ているうちは、諸天の働きも出たり出なかったり・・・(笑)本当に祈りが叶うところにはいかない・・・「自分を信じきれない」それが不信であり、願いを成就させない一番の悪玉菌です。

 恋愛だって「僕には君しかいないんだ、君じゃないと駄目なんだ!」と彼女のハートに「石虎将軍の矢」を放てば、必ず彼女の心を貫き、ハートを射止めることができるのではと思います。(これは体験談がないのが残念。(笑))

 「依正不二」の原理ですから、まずこちらの心が一本になる・・・それで初めて、仏天も世の中も「よし、わかった」と力をくださるのだと思います。結局、祈りを叶え、願いを実現するのも全部自分次第であり、「日蓮のとがにはあらず」というのが、今日の結論です。これはいつでも、どこでも、誰にでも言えるお話です。

 今日もありったけの信力を御本尊に打ち込む祈りで、大いに御本尊様を揺り動かしていきたいものです。




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政治また生命(いのち)なり

 先日、東北大震災から4年目の春を迎えました。「3.11」という日は多くの人にとって、「1.17」と共に、生命に刻まれる日となりました。

 復興と言っても想像を絶する被害の中で、どのように進んでいるのか・・・特にご家族を亡くされた方にとって、その心の傷は一生かかっても癒えないというのが、本当ではないかと思います。かけがえのない命を失った喪失感は当事者でないとわからないものです。あらためて亡くなられた方々、特に小さな子供さんたちの生命に追善の祈りを捧げたいと思います。

 連日、各紙や、聖教、公明新聞などでも震災の特集が組まれていました。そんな中、私は公明新聞の報道に心打たれることが多くありました。


 実は今月、座談会で、東北の方の体験談の朗読を企画しました。そこで新聞記事を探す中、公明新聞の3月12日付、一面トップの写真に私はとても心を惹かれました。その写真は、吹雪の中で亡くなった子供の墓前に手を合わせる家族の姿を写したものでしたが、その家族の言葉にできない深き心情が、伝わってくるようでした。(写真を転載できないのが残念ですが。)その日の大見出しは『忘れない、生きた証しを』となっています。

 その日の前日の新聞、11日付一面トップの大見出しは『一番大切なのは「命」』と太字であります。そしてお子さんを亡くされた二人の方の、悲しみを乗り越え、力強く生きていこうとする体験談が掲載されていました。「これはまるで聖教新聞と同じや・・・政治を扱う新聞の一面?」 私の心に何か感動が走りました。



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 そしてその瞬間、気付いたのです。「政治と言っても根本は命が対象なのだ」・・・と。

 仏法では「王仏冥合」と説かれます。政治も命なら仏法も命・・・同じであるから冥合するのであり、日蓮仏法をたもつ者が政治にかかわることは、矛盾がないどころか、むしろ一番理に適っていることなのだと実感したのです。

 
 さらに3面は文化からの復興を、また4面5面と2面にわたり、『あたらしい東北へ 心の復興』と題して、主に被災者の精神面の意識調査をもとにデータの分析が行われています。それは政治として、人の心にまで関わろうという意欲が感じられるものでした。

 政治の力が震災復興に大きく貢献することは誰しも認めるところです。しかし、そこにいる被災者は生きる人であり、命です。この「人と命」に同苦し、強く光をあてていこうとする政党は少ないと思いますし、仏法の生命尊厳を基調とした公明党のスタンスに何か人肌のぬくもりを覚えるものです。

「公明もいい新聞だ。これでは公明新聞でなく生命新聞だね」と一人合点しておりました。

 政治の世界の駆け引きや手練手管に長けていくことを、党が成熟したという人もいるかもしれません。しかし、私は庶民の心に肉薄し、その思いを汲みとり、具体的に生活の中に形にしていく、その力こそが公明党の政治の姿であってほしいと思います。

 信心するのに何故、政治の応援をしなくてはいけない?そういう疑問も理解できます。以前の私も政治や選挙にはそんなに関心はありませんでした。しかし、公明党の活動を少しずつ学ぶにつれ、信仰と政治が決して別物ではないことを感じるようになりました。

 正しい宗教と言うものは正しい生命哲学であり、命から起こるあらゆる営みに最高の善の力を発揮するものです。
人間と環境が「依正不二」の原理で一体であるなら、平和と幸福を創造したいという宗教者にとって、政治への関与はきわめて自然で、必然といえる行為です。むしろ政治に背を向け、自宗の独善のみに生きる宗教は、現実逃避であり、やがて民衆の生活と心からかい離しゆく運命をたどると思います。

 まだまだ復興においては難問が山積みだとは思いますが、公明党が泥臭いヒューマニズムの政党として、弱者に寄り添い、常に常在戦場、奮闘されゆくことを願っています。




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何のためかを見つめながら



 法戦もあと1ヶ月を切り、関西方面も大阪をはじめ、兵庫、京都、滋賀と今回は厳しい戦いを余儀なくされています。

 そんな中、先日、緊急の会合があり、その中で話された幹部の方のお話が印象的でした。幹部さんのお話の受け売りですし、走り書きでメモしながら聞いておりましたので、正確ではない部分もあると思いますが、話の要旨はお伝えできると思います。(月刊「潮」あたりに出ていたお話のように思うのですが、間違いがありましたらご指摘ください。)

 公明党(1966年発足)の前身は公明政治連盟(1961年発足)ということは皆さんご存知だと思います。しかし、その前は実は「創価学会文化部」という形でスタートしました。(1955年当時)初陣を前に、戸田先生の愛弟子である54名の方が議員候補として集められました。そこで激励の言葉があるかと思いきや、先生はこの方たちに向かって「将来ここにいるほとんど全員が退転するだろう」と申されたのです。そして愛弟子を千尋の谷に突き落とさざるを得ない、師子の親の思いから涙されたそうです。

 先生は権力と野望の渦巻く政治の世界を知悉しておられました。そこに手塩にかけて育てた弟子を送り出す心境はいかほどのものであったか。策謀と欲望が渦巻く第六天の魔王の所領で、どこまで自分の弟子が立正安国のために戦えるのか、その力量、信心も見抜いておられたに違いありません。

 また昭和36年12月、池田先生の選挙違反容疑の口頭弁論が大阪地方裁判所で行われました。池田先生は最終陳述で裁判長を見据え、「宗教をたもったものが政治活動を行うことがどうしていけないのか」と毅然と訴えられたそうです。さらに結審した時、先生の発言を苦々しく聞いていた検察に向かって、「民主主義がある限り選挙はやります。そして勝ちます。」と言われたのです。


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 私はこの二つのお話を聞いて、立正安国、王仏冥合の戦いに師子である戸田、池田両先生がどれほどの決意と覚悟で、政治の世界に踏みだされていかれたのか、その御心境の一端を垣間見る思いがいたしました。

 今の公明党はある意味、成熟したかも知れません。そして議員の数も3000名を超える陣容となりました。しかし物事の原点というのは変わらないはずでありますし、変わってはいけない。その時の先生の覚悟と決意は未来永劫、創価の組織の中に流れていくことを信じたいと思います。幹部や政治家が野心や権力の濁流に呑まれ、悪に堕することのないように、会員はやはり注視していかねばならないとも思います。

 私達が常に立ち返る原点は立正安国であり、広宣流布の戦いです。そのために全員が力を合わせ、我見を捨てて戦いゆくことが、創価学会に対する報恩であり、御本尊を受けたもったものの栄えある宿命であると思います。

 創価の同志はあらゆる差異を乗り越えて、御本尊と師匠の下に心ひとつになれると信じます。それ以外の団結などないはずです。何のための組織か、何のための仏道修行なのか、そして何のための法戦か・・その何のためを見失った時点から、人は惰性やマンネリ、悪道に堕ちていくようにも感じます。

 その意味で、個人的な感情にとらわれているうちは本当の信心ではない。そうしたことは、深き信心があれば乗り越えて行けますし、違う考えの者でも同じ目的に向かって心を一つにできるからこそ、異体同心なのだと思います。その根本さえ踏み外さなければ相手の自由、個性を尊重しつつ、団結できるはずです。

 私にとっては心のギアを一段入れ替える、いい会合となりました。また会合が終わった時、多くの方と心が通い合ったように思いました。やはり原点、源流に会員を一旦、戻してくださったその話の内容が良かったのではと思い、帰り際、その幹部さんに謝辞を述べさせていただきました。

 自分が何をすべきか、師弟の道に殉じる思いで思索を重ねながら、また新たな前進を開始していきたいと思います。



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凡夫の顔で仏してます

 


釈尊が説いた八万法蔵と言っても、すべて一人の人間のことを説いている・・・との御文があります。

「一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、
然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり 」  (三世諸仏総勘文教相廃立556P)

 むずかしい仏法の経文も「我身一人の日記文書」と言われますと、なぜかホッとしてしまいます。私の生命にもきっと八万四千の法が納まっているということでしょうか?八万四千の煩悩ならわかるのですが・・・(いや、そんな数じゃ足りないぞ・・・(笑))
御文は釈尊の事として述べられていますが、「生命こそ仏なのだ」という大聖人様のお声が聞こえる気がしてなりません。

 戸田先生が、獄中で「仏とは生命である」と悟達されたことは、まさに仏法が全世界の民衆に手渡された、歴史的な一瞬だったと思います。

 もちろん宗門にも伝持の大法はありました。また熱原の農民等、近在の民衆に流布したことはありますが、700年もの間、一国に広まることはありませんでした。第二次大戦による国家存亡の瀕死の中で、大聖人様の仏法は、凡夫である戸田先生の胸中に明々と灯されたのです。しかも牢獄というもっとも過酷な状況の中で・・・この一大不思議を御仏智といわずしてなんというべきか・・・戸田先生の福運たるやすごいものです。地涌の菩薩の棟梁というほかありません。



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 その仏法も実践に励む私達衆生(凡夫)がいなければ有名無実ともいえ、姿を顕すことはありません。私達の使命は仏法の偉大さをわが身に体現することにあります。凡夫である私達がいて、仏法の正しさを証明することも、広宣流布も可能になり、仏様のお使い役として娑婆世界に広宣流布するのですからその功徳は絶大です。またその人が尊いことも当然です。

 諸法実相抄(1358P)には「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と、凡夫の信心で仏の三徳も薫るのだとまで申されています。

 仏様から「本仏ぞかし」とまで言われるのは、きっと創価三代の先生しかいないと思いますが、その師匠に心を合わせる時、私のような凡愚のものにも、仏法の血脈は滔々と流れ通うものだと確信しています。


 贅沢な暮らしにも縁のない、娑婆世界で悪戦苦闘する我らではありますが、その内証は地涌の菩薩であります。
ただそれをちょっとばかり、過去世の謗法が過ぎて、忘れてしまいました。(笑)一生懸命題目を唱えて、折伏に歩いて、仏であったことを早く思い出さねばなりません。

 私もお題目の音声と共に、日々、心に温かい春風が吹いてきます。「俺は仏だ!それさえわかればすべて良し」となってきたではありませんか。顔や姿は凡夫のままで、心は景気よく仏でいこうと思います。(顔とスタイルを真っ先に変えてほしいって?・・・今度生まれるまでちと待ちなさい!(笑))

 私など長年、財布の中にヒバリが住みついていたのか、いつもピーピー鳴いてばかりいました。今年は春の空にヒバリを逃がしてやって、代わりに財布の中でたくさんインコでも飼おうと思います。「え?何のことかわかんない・・・」「ほら、お札の文字をよく見ると、NIHONGINKOとありますよ。INKO(インコ)がいるじゃないですか・・・・(笑)」

 お後がよろしいようで・・・



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「讃(ほ)むる言こそ多く候へ」




「第二代会長の戸田先生は、よく、こう言われていました。
 『御本尊に常に感謝の念をもっている人は、いよいよ栄える。福運がいよいよまさる』『感謝を忘れた人は、福運が消えていく』                     
                                      小説 『新・人間革命 26巻 奮迅』


 頭が良くて智慧第一でも、御本尊様に心からの感謝がないと福運は増していかない・・・ここに幸福は「心で決まる」ということがあると思います。無名の庶民であっても、信心一つで、世界一の幸福博士、大境涯の人となって無上の人生を満喫することができる、本当に痛快で偉大な民衆仏法というほかありません。

 私が近年、一番、感じている功徳はわが生命がそのままで、明るく、楽しく、人を励まして生きていきたい・・・そんないい人間に生まれ変わってきたことです。(笑)我が生命が変革していく、まさに「人間革命」を実感する日々となりました。これこそ長年の陰徳の功徳だろうと思っています。

 かつて濡れた布団のように水を吸い、どんよりと重かった私の生命にも、不思議な事にそういう仏の世界が薫りはじめました。幸福の夜明けともいえる太陽が昇り始め、花々が馥郁(ふくいく)と蕾(つぼみ)をつけ始めたのかもしれません。

 「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」 「十字御書」のこの御文を、日々、味わいながら生きていくことができる・・・本当にありがたいと思います。



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 戸田先生も池田先生も「小さな功徳でもどんどん語っていきなさい」と指導されています。「信心のお蔭でこんなに元気になりました。明るくなりました。お題目は本当にすごいです。」と声高らかに、どんどん人に語っていける、そして語ることによりさらに福運を増していける・・・そういう良い循環の軌道こそが、妙法の幸福の法則だと思います。

 愚痴や怨嫉の不幸の連鎖を逆転して、幸福の軌道に我が生命を乗せていく・・・それはきっと法華経を讃嘆していく、感謝と歓喜の言葉から道が開いていくのです。

 「法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる、二十八品は正き事はわずか なり讃(ほ)むる言こそ多く候へと思食すべし」(妙蜜上人御消息)

 私も「御本尊はすごい、信心はありがたい」と機会あるごとに、口にするように心がけています。愚痴の心を封じこめて、(笑)賛嘆の言葉をどんどん出すようにしていくと、心が自然とポジティブに、祈りが叶う方向に向かっていくのです。

 「お金持ちになって何不自由ない生活になれば感謝するよ」世間の人はそういうかもしれません。しかし仏法は逆のように思います。「まずあなたが御本尊様に感謝して、歓喜できるような人間になりなさい。そうなればお金でも何でも欲しいものは自然と出てきますよ」と・・・


 私達、学会員はどんな功徳であっても大いに体験を語るべきです。それによって小さな雪だるまが転がって大きくなるように、福運を増していけます。御本尊様を讃嘆する、同志を褒める、時には自分も褒めてあげながら・・・渋い顔は幸福に似合いませんね。そういう褒め上手な信徒になって、大いに幸福で楽しい人生を創造しようではありませんか!




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