広布の大河に君ありて tori

TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2015年03月
ARCHIVE ≫ 2015年03月
      

≪ 前月 |  2015年03月  | 翌月 ≫

凡夫の顔で仏してます

 


釈尊が説いた八万法蔵と言っても、すべて一人の人間のことを説いている・・・との御文があります。

「一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、
然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり 」  (三世諸仏総勘文教相廃立556P)

 むずかしい仏法の経文も「我身一人の日記文書」と言われますと、なぜかホッとしてしまいます。私の生命にもきっと八万四千の法が納まっているということでしょうか?八万四千の煩悩ならわかるのですが・・・(いや、そんな数じゃ足りないぞ・・・(笑))
御文は釈尊の事として述べられていますが、「生命こそ仏なのだ」という大聖人様のお声が聞こえる気がしてなりません。

 戸田先生が、獄中で「仏とは生命である」と悟達されたことは、まさに仏法が全世界の民衆に手渡された、歴史的な一瞬だったと思います。

 もちろん宗門にも伝持の大法はありました。また熱原の農民等、近在の民衆に流布したことはありますが、700年もの間、一国に広まることはありませんでした。第二次大戦による国家存亡の瀕死の中で、大聖人様の仏法は、凡夫である戸田先生の胸中に明々と灯されたのです。しかも牢獄というもっとも過酷な状況の中で・・・この一大不思議を御仏智といわずしてなんというべきか・・・戸田先生の福運たるやすごいものです。地涌の菩薩の棟梁というほかありません。



IMG_9406_R.jpg



 その仏法も実践に励む私達衆生(凡夫)がいなければ有名無実ともいえ、姿を顕すことはありません。私達の使命は仏法の偉大さをわが身に体現することにあります。凡夫である私達がいて、仏法の正しさを証明することも、広宣流布も可能になり、仏様のお使い役として娑婆世界に広宣流布するのですからその功徳は絶大です。またその人が尊いことも当然です。

 諸法実相抄(1358P)には「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と、凡夫の信心で仏の三徳も薫るのだとまで申されています。

 仏様から「本仏ぞかし」とまで言われるのは、きっと創価三代の先生しかいないと思いますが、その師匠に心を合わせる時、私のような凡愚のものにも、仏法の血脈は滔々と流れ通うものだと確信しています。


 贅沢な暮らしにも縁のない、娑婆世界で悪戦苦闘する我らではありますが、その内証は地涌の菩薩であります。
ただそれをちょっとばかり、過去世の謗法が過ぎて、忘れてしまいました。(笑)一生懸命題目を唱えて、折伏に歩いて、仏であったことを早く思い出さねばなりません。

 私もお題目の音声と共に、日々、心に温かい春風が吹いてきます。「俺は仏だ!それさえわかればすべて良し」となってきたではありませんか。顔や姿は凡夫のままで、心は景気よく仏でいこうと思います。(顔とスタイルを真っ先に変えてほしいって?・・・今度生まれるまでちと待ちなさい!(笑))

 私など長年、財布の中にヒバリが住みついていたのか、いつもピーピー鳴いてばかりいました。今年は春の空にヒバリを逃がしてやって、代わりに財布の中でたくさんインコでも飼おうと思います。「え?何のことかわかんない・・・」「ほら、お札の文字をよく見ると、NIHONGINKOとありますよ。INKO(インコ)がいるじゃないですか・・・・(笑)」

 お後がよろしいようで・・・



 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


03
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31