広布の大河に君ありて tori

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時に巡り会うということ

 

 仏法には時ということが非常に大事なこととして説かれています。仏法全体の時ということでいえば今は末法であり、釈迦仏法の功力が消え、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経が、尽未来際まで太陽の如く、衆生の闇を照らし行くとのご教示です。天台大師も妙楽大師も恋い焦がれたという末法という時に、私達は幸運にも巡り合うことができました。

 創価学会でいえば、池田先生が会長に就任され(昭和35年)以来50年余の間、表に立って指揮をとられてきましたが、御高齢ということもあり、本幹などへの出席も控えられるという時がやってきました。先生の深きお心は私などにはわかりませんが、多くの会員の方が非常に寂しい思いでおられることと思います。その空気が秋風が立つように学会全体にもあると感じるのは私だけではないことでしょう。

 日蓮大聖人の時代でも、戸田先生の時代でもなく、池田先生の時代、そしてこうした転換期ともいえる時に生まれ合わせ、学会員でいることの意味を、私達もあらためて考えることが大事ではないかと思います。

 それは今こそ、池田先生の弟子を自覚する人々が、本気で立ち上がる時が来ていると思うのです。本部のような先生の近くで薫陶を受けた人だけではなく、むしろ先生と一度も会うことがなかった人、また地方の地区の末端の人であっても、「私は先生の弟子だ」と自覚する人であれば、いよいよ師子として創価学会のために立ち上がる時だと思います。


 多くの弟子が立ち上がり、溌剌と戦いゆく姿を、先生はいつもいつも待ち望んでおられるのではないでしょうか?
それを本部や組織をあれこれと批判して、内部を混乱に陥れようとする行為は、正義をよそおって団結を破壊しようとする魔の所為だと言えます。そうした魔を見破り、破和合僧の動きに対しては、一致団結、一枚岩の姿で応戦していきたいものです。




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                  <八重桜> お酢に付けると、こんなに鮮やかな色になりました。




 時を同じくして学会独自の会則もできました。今から思うとこれも不思議な「時」のご仏智だと思います。創価学会も「新・創価学会」の時代に入りました。

 私自身も何か新しい生命の扉が開く気がしています。ワクワク、ドキドキ(笑)・・・そんな感じです。
 入信以来、30年余、ひどい自分で、きっと私一人幸福にはならないのでは?などと思った日々もよくありました。 
 「信心したら、命の水道管に詰まった謗法のヘドロが出てくるよ。その時はつらいけど、お題目でジャブジャブ洗い流したら、ある時からきれいなきれいな水が出てくるんだよ」と教わったものです。とはいえ、いまだ聖水にはほど遠いですが、ちょっとは飲めるぐらいの水になったのかもしれません。甘くておいしい天然水になれば、幸せなんていくらでも昏々と湧いてくるに違いありません。

 今は良くても悪くてもこの自分しかいません。「立派になったら広宣流布します」などと言っていいたら、きっと何百年あっても足りない、その前に老いぼれた寒苦鳥になってしまいます。

 物事や人生にもやはり「節目」となる大事な時があると思います。そして「時に巡り合い、その時が自分を大きく変える・・・」そういうことが人にはあるのだと思います。もちろん使命も同じです。私の信心は今からが一番、肝心の時ではないか・・・そう思えてなりません。

 今までゆっくりされていた眠れる師子の方々も(笑)むっくと起き上がり、「いよいよこれからが俺の出番だ」との気概で立ちましょう! 「広布新時代」・・・それはフロンティア精神で安住の地を捨て、さらなる新天地を目指す航海です。

 私もやらんかなの心意気で、生命の夜明け、広布の夜明けを切り開いて行きたいと思います。



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苦悩のど真ん中を行け!

 
 悩みというものは人間、尽きないものかもしれませんが、この悩みを使って幸福を開いて行こうというのが、法華経の真髄だとも言えます。

 とはいえ凡夫ですからつらい時には、愚痴も出れば、泣きたい気分になるのも無理のないところです。

 しかし、泣いていても何も変わらない、それを「御本尊にぶつかっていきなさい。仏の力を湧現するのです。」と厳しくも暖かいまなざしで、仏様はきっとご覧になっておられるように思います。

 池田先生は悩みや苦難は、「そのど真ん中を抜けて行きなさい」と指導されています。こんなことを教えてくださるのは先生以外ありません。ありがたいことです。

 苦難に直面した時、人には二つの態度があります。一つは正面からぶつかっていき、それと格闘し乗り越えていこうという人。もう一つは逃げだしたりうまくかわしていこうという人です。法華経の教えはもちろん前者であり、後者こそ念仏的な心と言えます。

 念仏は無間地獄の業と説かれます。現世の苦を逃れ、極楽浄土への逃避を促します。それゆえ御聖訓には「善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(上野殿御返事1,509 )と喝破なされています。
無間の苦しみを与えて、その上であの世へと自害させようとする…まったく恐ろしい宗教です。




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 私にも人生の難問ともいうべき悩みがあったのですが、その悩みと戦っている時に、どことなく念仏臭い心で拝んでいたことがありました。「何とか一日も早く、この苦から逃れさせてほしい。」とすがる思いで祈っているのです。そこには自ら主体者として悩みを受けて戦おうとするのではなく、他力を頼んで何とかしてもらいたいという甘えた気持ちがありました。

 結局、その姿は御本尊様を自分の外において考える、外道の信心だったのです。

 創価学会員が、苦難を避けたり、逃げ出そうなどと、そんな姑息な心でいたなら、それこそ念仏信者にも笑われようかというものですね。宗教界の王者の名が廃(すた)ります。

 それで心を入れ替え、ある日から「苦しみよ、来るなら来い!・・・お前のど真ん中で戦ってやる、今日から俺の心にはビタ一文逃げる心はないぞ。」と、そう腹を決め、宿業に宣言し信心に励んでいきました。

 そしてそれから反転攻勢、状況は変わっていったのです。気が付くと悩みに振り回されていた私に、いつしか悩みを恐れないド根性が坐っています。これで私は勝てると思いました。「仏様はこのことを私に教えようとされていたのか・・・」と、心底、ありがたく思ったものです。

 世の中はある意味、理不尽なことが多く、善人がつらい目にあい、悪人が我が物顔で生きていくこともありますね。「どうして自分が、こんな目に合わなければならないのか?」そういう恨みにも通じる叫びをあげたい時だってあるものです。

 しかし、どんなにつらい状況であっても、信心が強ければ、すべては何の過不足もなく、我が身にあるべきものだとわかります。また苦難が大きいほど勇猛心が湧くものです。そして愚痴をねじ伏せ、「よっしゃあ、勝負や!」という反転攻勢の心が出て行く時、妙法の力はその人の宿命に作用し、不思議な力を現じていくのです。


 このことさえわかれば、どんな苦難が来ようと立ち向かっていく生命力が湧いてきます。悩みから逃げない、鋼のごとき強い心になるまで唱題行でとことん迷いと愚痴の命をぶった切っていかなくてはなりません。

 その強き心を、題目で打ち固めた人こそが、最後の勝利の栄冠を勝ち取ることができる人なのだと確信します。



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『組織』は人間革命の道場なり


 ネットを見ていますと、学会の組織活動が、「楽しくない」、「自分には意味がない」「嫌いだ」「幹部がひどい」といった意見がまま見られます。組織に出ない方(かた)が、いきおい、ネットで本音を漏らされているのかもしれません。

 私もかつて組織活動が苦手で嫌いでしたので、組織に出たくない人の気持ちも多少はわかります。私の場合は、会合に出るといつも歓喜が消えうせ、頭痛を併発し、がっかりして帰ることが多かったのです。(すごいですね。すべて私の害毒です。(笑))

 ネットに比べますと、リアルなり組織は、お互いの生活の様子や人柄が隠せない、つまり顔が見えて嘘や隠し事が通用しない、そういう中での日々の活動ということになるかと思います。ある意味、いいも悪いも全部さらけ出さねばなりません。
 
 そこに大変さや難しさがあるのは当然ですが、私はだからこそ自分にとって大事なものがあるのでは…といつも思います。

 つまり、自分が人に見られたくないようなところ、避けたいところが、実は一番その人が人間革命しなければならないところだからです。

 そんな私が組織活動に真剣に取り組もうと思ったのは、やはり戸田先生の「学会の組織は戸田の命より大事」という言葉があったからです。この言葉の意味はきっと深くて重いに違いない…と当時は想像し、組織について行く方が正しく、また同志の世界から離れて信心したところで、福運を消すことの方が多いだろうということも感じていました。



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 それと同時に、組織に呼吸が合わせていけないということは、組織が悪いのではなく、自分にも人間的な問題があるのだと、そういうことも考えるようになりました。

 なぜなら組織を嫌う自分、その命には結構、自分の幸福を妨げているものがあったからです。怨嫉、上慢、利己主義、我見、反発心、わがまま、無責任・・・・と、ちょっとあげるだけでもいいことありません。

 逆に嫌いな組織の中にこそ、自分を革命していくことがいっぱい落ちています。「師弟不二」、「異体同心」という仏法の本義をはじめ、協調性、人の話を聞く、人を愛する、同苦し激励する・・・と人間革命に必要なエッセンスが満載です。

 日々の地道な組織活動の積み重ねに、同志間の信頼も生まれます。地域で信用や信頼を勝ち得ることが、広布の土台であり、それがあってはじめて、折伏も広宣流布も進展していくのでしょう。

 組織に出る出ないでその人の信心の良し悪しが決まるとは思いません。出てこない方の中には複雑な事情をお持ちの方もおられれば、単独ですごい信心をされている方もおられます。(個人的に存じ上げています。)しかし、私は、特別な事情がない限り、地元の学会の組織、地域が、自分の信心の根本道場であるべきだと思います。

 もし、組織の中に仏法に照らして間違いがあれば、時には厳然と戦うことも必要だと思います。私もある会員さんのためにそういう経験があります。また普段の家庭訪問も当然、組織に出てこれない方を訪問することが大事になってきます。組織が良くないと思えば、私は自分で変えていこうと、その都度決意して御本尊様に祈りました。

 自分の住んでいる場所がその人にとって使命の場所であり、そこで起きる様々な悩みを乗り越えて行くことが、その人の人間革命です。居住の地域を寂光土に変えていく、また自分もそこで輝いていく、これこそが日蓮仏法の功徳の姿ですね。それを怠って、そこから離れてしまえば、それは念仏的、非現実的であり、本当の人間革命からずれていくように思えてなりません。

 組織のことは私も10年近く苦しみました。それでも負けずにぶつかって行って、そしていま、師匠の作られた学会の庭で喜んで活動できるまで、なんとか変毒為薬ができたと思います。今は頭痛も出なくなりました。(笑)

 組織と言っても基本は師弟の世界であり、共に信心を支え合っていく、同苦と励ましに尽きると思います。

 私はこれからも自分の住むこの地域とその人々を愛し、その中に入り、この地に骨をうずめる覚悟で、我が地域の仲間と共に戦っていこうと思っています。

(記事は、後で一部追記、訂正しました。)




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信じるということ

 


 各地で桜の花も満開の時を迎え、戸田先生の祥月命日を荘厳できたことをうれしく思います。私も一学会員として、戸田先生、池田先生の開かれた広布の道に立って、力いっぱい、地域広布に頑張る覚悟です。


 実は私には信心してない姉がおり、先日も会うことがあり、話が信心のことに及びました。その姉に言わせると、「どうして創価学会や池田大作を信じることができるのか?そこからわからない・・・」といいます。
 信仰というものが、理性では割り切れない行為であるというのは、ある意味、真理なのかもしれません。

 これは私の想像ですが、今後、どんなに科学が発達しても、また頭のいい人であっても、南無妙法蓮華経が仏であり、我らの生命であるということはわからないのではと思います。理論として宇宙の無始無終などはわかるかもしれませんが、南無妙法蓮華経とは何か?その実体はわからないと思います。

 その理由は、妙法が信じ抜くことでしか体得できないからにほかなりません。
逆に「わからないから信じない」という不信が根本にある人には、「信じていけばわかる」という生き方が、時として受け入れがたいものであるということも理解できないことではありません。

 仏様だけが御存じのその悟りの世界に入るには、わからないなりにどこまでも信じてぶつかっって行くしかないわけですが、それは凡夫にとって勇気と精神力がいることです。それには信ずることを阻止しようとする、魔との戦いを常に覚悟しなければならず、それと同時にわからない世界を信じて実践するという、一種、賭けにも近い信力、行力が要求されます。

 その上で純真な心でひたすら最後まで信じて行じていく人だけが、やがて仏の世界に入れる。智慧第一と言われた舎利弗も、最後は信によって成仏できたと言われます。




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 わかったら信じるという人は、それではわからない部分は信じていないということになります。広大無辺とも甚深無量ともいわれる仏法の世界は、凡夫にとっては考えも及ばない、ほとんどわからない世界ですね。(笑)

 頭のいい人は、かえってその辺のところで信仰が停滞するのかもしれません。自分の智慧が頼りで生きている人は、御本尊の智慧を信じていくより、御本尊さえも自分の智慧でこういうものだと理解できるものに変えたがる傾向があるように思えます。その考え方ではやはり信心はおかしくなります。その姿勢は御本尊中心ではなく、自分が中心であって、いつまでも我見を本尊としていくからです。その奥底にはやはり不信とか慢心といった生命が災いしているように思います。


 宇宙についてわかったことだけ信じるのであれば、人類は宇宙のことをどれぐらいわかっているでしょうか?宇宙の全体の髪の毛一本にも満たないかも知れない。それで宇宙はこういうものだと決めつけたところで、それは井の中の蛙が大海を語るに等しいことになります。

 御本尊様をこういうものだとか、池田先生をこうだとか、私にはそういう発想はできません。「仏意仏勅」の人ともいうべき先生をいいとか悪いとか思うのは、私には恐れ多いことです。
 御本尊様はもちろん、池田先生も私にとっては只々信じていく人であり、共戦と共生を誓願する人です。信心すればするほど師弟の縁も強まるのですから、これも私にとっては仏法に適(かな)ったことだと理解できています。

 信じ方は人それぞれだと思いますが、理によって信を高めることはあっても、根本的には信心は本能的なものかもしれません。ああでこうで、この信心は正しいから信じるというだけではない・・・正直、正しいかどうか本当のところはわからない(笑)・・・それでも本能的に命が信心に向かっていく、妙法の世界に入りたいと身体が絶えず請い願うものです。

 それは過去の宿縁なのか、我が身の不幸のせいか、はたまた生命は必然的に幸福の軌道を志向するものか・・・いずれにしてもそういう生命に生まれついたので、信心をしているとしかいえません。戸田先生は獄中で妙法を悟られ、「天命を知る」といわれたそうですが、私も天命とまではいかぬとも、我が誉れの運命として妙法を受け入れていくことは、きっと仏様のお心に適うものと確信します。

 「理屈では説明がつかないから、信心も世の中も面白いのだ」と、そういう結論になるわけですが、言葉も心も及ばない妙法だからこそ、私のような愚かな者も歓喜に包まれるのだと、御本尊様の御慈悲に感謝している次第です。



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