2015
04.04

信じるということ

Category: 信心
 


 各地で桜の花も満開の時を迎え、戸田先生の祥月命日を荘厳できたことをうれしく思います。私も一学会員として、戸田先生、池田先生の開かれた広布の道に立って、力いっぱい、地域広布に頑張る覚悟です。


 実は私には信心してない姉がおり、先日も会うことがあり、話が信心のことに及びました。その姉に言わせると、「どうして創価学会や池田大作を信じることができるのか?そこからわからない・・・」といいます。
 信仰というものが、理性では割り切れない行為であるというのは、ある意味、真理なのかもしれません。

 これは私の想像ですが、今後、どんなに科学が発達しても、また頭のいい人であっても、南無妙法蓮華経が仏であり、我らの生命であるということはわからないのではと思います。理論として宇宙の無始無終などはわかるかもしれませんが、南無妙法蓮華経とは何か?その実体はわからないと思います。

 その理由は、妙法が信じ抜くことでしか体得できないからにほかなりません。
逆に「わからないから信じない」という不信が根本にある人には、「信じていけばわかる」という生き方が、時として受け入れがたいものであるということも理解できないことではありません。

 仏様だけが御存じのその悟りの世界に入るには、わからないなりにどこまでも信じてぶつかっって行くしかないわけですが、それは凡夫にとって勇気と精神力がいることです。それには信ずることを阻止しようとする、魔との戦いを常に覚悟しなければならず、それと同時にわからない世界を信じて実践するという、一種、賭けにも近い信力、行力が要求されます。

 その上で純真な心でひたすら最後まで信じて行じていく人だけが、やがて仏の世界に入れる。智慧第一と言われた舎利弗も、最後は信によって成仏できたと言われます。




プール桜_R




 わかったら信じるという人は、それではわからない部分は信じていないということになります。広大無辺とも甚深無量ともいわれる仏法の世界は、凡夫にとっては考えも及ばない、ほとんどわからない世界ですね。(笑)

 頭のいい人は、かえってその辺のところで信仰が停滞するのかもしれません。自分の智慧が頼りで生きている人は、御本尊の智慧を信じていくより、御本尊さえも自分の智慧でこういうものだと理解できるものに変えたがる傾向があるように思えます。その考え方ではやはり信心はおかしくなります。その姿勢は御本尊中心ではなく、自分が中心であって、いつまでも我見を本尊としていくからです。その奥底にはやはり不信とか慢心といった生命が災いしているように思います。


 宇宙についてわかったことだけ信じるのであれば、人類は宇宙のことをどれぐらいわかっているでしょうか?宇宙の全体の髪の毛一本にも満たないかも知れない。それで宇宙はこういうものだと決めつけたところで、それは井の中の蛙が大海を語るに等しいことになります。

 御本尊様をこういうものだとか、池田先生をこうだとか、私にはそういう発想はできません。「仏意仏勅」の人ともいうべき先生をいいとか悪いとか思うのは、私には恐れ多いことです。
 御本尊様はもちろん、池田先生も私にとっては只々信じていく人であり、共戦と共生を誓願する人です。信心すればするほど師弟の縁も強まるのですから、これも私にとっては仏法に適(かな)ったことだと理解できています。

 信じ方は人それぞれだと思いますが、理によって信を高めることはあっても、根本的には信心は本能的なものかもしれません。ああでこうで、この信心は正しいから信じるというだけではない・・・正直、正しいかどうか本当のところはわからない(笑)・・・それでも本能的に命が信心に向かっていく、妙法の世界に入りたいと身体が絶えず請い願うものです。

 それは過去の宿縁なのか、我が身の不幸のせいか、はたまた生命は必然的に幸福の軌道を志向するものか・・・いずれにしてもそういう生命に生まれついたので、信心をしているとしかいえません。戸田先生は獄中で妙法を悟られ、「天命を知る」といわれたそうですが、私も天命とまではいかぬとも、我が誉れの運命として妙法を受け入れていくことは、きっと仏様のお心に適うものと確信します。

 「理屈では説明がつかないから、信心も世の中も面白いのだ」と、そういう結論になるわけですが、言葉も心も及ばない妙法だからこそ、私のような愚かな者も歓喜に包まれるのだと、御本尊様の御慈悲に感謝している次第です。



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