2015
04.18

苦悩のど真ん中を行け!

Category: 未分類
 
 悩みというものは人間、尽きないものかもしれませんが、この悩みを使って幸福を開いて行こうというのが、法華経の真髄だとも言えます。

 とはいえ凡夫ですからつらい時には、愚痴も出れば、泣きたい気分になるのも無理のないところです。

 しかし、泣いていても何も変わらない、それを「御本尊にぶつかっていきなさい。仏の力を湧現するのです。」と厳しくも暖かいまなざしで、仏様はきっとご覧になっておられるように思います。

 池田先生は悩みや苦難は、「そのど真ん中を抜けて行きなさい」と指導されています。こんなことを教えてくださるのは先生以外ありません。ありがたいことです。

 苦難に直面した時、人には二つの態度があります。一つは正面からぶつかっていき、それと格闘し乗り越えていこうという人。もう一つは逃げだしたりうまくかわしていこうという人です。法華経の教えはもちろん前者であり、後者こそ念仏的な心と言えます。

 念仏は無間地獄の業と説かれます。現世の苦を逃れ、極楽浄土への逃避を促します。それゆえ御聖訓には「善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(上野殿御返事1,509 )と喝破なされています。
無間の苦しみを与えて、その上であの世へと自害させようとする…まったく恐ろしい宗教です。




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 私にも人生の難問ともいうべき悩みがあったのですが、その悩みと戦っている時に、どことなく念仏臭い心で拝んでいたことがありました。「何とか一日も早く、この苦から逃れさせてほしい。」とすがる思いで祈っているのです。そこには自ら主体者として悩みを受けて戦おうとするのではなく、他力を頼んで何とかしてもらいたいという甘えた気持ちがありました。

 結局、その姿は御本尊様を自分の外において考える、外道の信心だったのです。

 創価学会員が、苦難を避けたり、逃げ出そうなどと、そんな姑息な心でいたなら、それこそ念仏信者にも笑われようかというものですね。宗教界の王者の名が廃(すた)ります。

 それで心を入れ替え、ある日から「苦しみよ、来るなら来い!・・・お前のど真ん中で戦ってやる、今日から俺の心にはビタ一文逃げる心はないぞ。」と、そう腹を決め、宿業に宣言し信心に励んでいきました。

 そしてそれから反転攻勢、状況は変わっていったのです。気が付くと悩みに振り回されていた私に、いつしか悩みを恐れないド根性が坐っています。これで私は勝てると思いました。「仏様はこのことを私に教えようとされていたのか・・・」と、心底、ありがたく思ったものです。

 世の中はある意味、理不尽なことが多く、善人がつらい目にあい、悪人が我が物顔で生きていくこともありますね。「どうして自分が、こんな目に合わなければならないのか?」そういう恨みにも通じる叫びをあげたい時だってあるものです。

 しかし、どんなにつらい状況であっても、信心が強ければ、すべては何の過不足もなく、我が身にあるべきものだとわかります。また苦難が大きいほど勇猛心が湧くものです。そして愚痴をねじ伏せ、「よっしゃあ、勝負や!」という反転攻勢の心が出て行く時、妙法の力はその人の宿命に作用し、不思議な力を現じていくのです。


 このことさえわかれば、どんな苦難が来ようと立ち向かっていく生命力が湧いてきます。悩みから逃げない、鋼のごとき強い心になるまで唱題行でとことん迷いと愚痴の命をぶった切っていかなくてはなりません。

 その強き心を、題目で打ち固めた人こそが、最後の勝利の栄冠を勝ち取ることができる人なのだと確信します。



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