2015
05.26

仏はうえての如く衆生は田の如く

Category: 未分類
 
 私の住む地域でも大半、田植えが終わり、植えられたばかりの稲の苗が、水田の中で涼しげに揺れています。実は私も40aほど、うるち米のコシヒカリを作っています。専業ではありませんが、畑での野菜作りも含めて、土とふれあうことが多い生活です。

 先日も田植えと並行して、キュウリ、ゴーヤ、トマト、ナス、カボチャなど、夏の野菜を植えました。畑では玉ねぎが収穫の時を迎え、ジャガイモが淡い紫の花を咲かせています。農作業の姿や田園地帯の風景こそ、平和と安穏の象徴だと私の眼には写ります。 

 都会からユーターンした時は、なれないこともあり、農作業に苦労しましたが、自分で作った野菜や米を食べる歓びはやはり格別であり、今ではとても農業が好きになりました。農作業をしていると、なぜか生の充実も感じ、また癒されることも多いです。

 食物を種や苗から育てるということは、原始以来、変わらず人間が営みとしてやってきたことです。その原始的な作業は、デジタル時代に失われゆく、大地に根差した人本来の生き方を呼び覚ましてくれるのかもしれません。我ら日本人も、農耕民族のDNAが流れています。農作業をするときに、体内のその血が、目覚め、喜ぶのかもしれません。

 信心も同様に、深まるほどに、わが生命が歓喜するようにありたいものです。お題目があげたい。題目の味がおいしくなってきた…とそんな風に、私も変わってきました。本来、仏なのですからそうなっていくに決まっていますが、本当に時間がかかりました。今では信心の活動が何よりも自分を躍動させてくれます。




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 いつか私も、晴耕雨読のジイさんになる時も来るやと思いますが、同じジイさんでも、青年の気概で信心の闘争をやっている「変なジイさん」で頑張りたいと思います。(笑)

 田植えと言えば「法華経は種 の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(曾谷殿御返事1055)との御聖訓が有名ですね。私も30余年前に仏様によって、幸福も枯れ尽きた心田に、法華経の種を植えていただきました。その種も芽をだし、いつしか苗となり、試練にも負けずに、たくましく成長してきたように思います。

 「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(一念三千法門416P)との御文もあります。

 信心は野菜や米を育てるのと同様に、、しっかり根付き、茎が太くなり、独り立ちするまでが、一番大変だと言えます。その時をどう耐え抜いていくか、信心の難しさもそこにあります。

「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(新池御書)
「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」(四条金吾殿御返事)等、多くの御書で、信心の難しさを説かれています。

 生涯、信心強盛であることは至難の業です。必ずや魔軍が戦(いくさ)を起こし、信者を悩まし、不信をおこさせ、退転の網をかけてきます。また予期せぬ宿業との戦いが試練として襲ってきます。私もユーターンしたものの、家が真言宗であり、田舎の因習の深さといい、自身の病魔も出て、修行の枝は大きく曲げられました。

 しかし、その試練を乗り越えることができたのは、初心の時の先輩との出会いであり、また信心の素晴らしさを絶えず教えてくださった、池田先生の著作や指導です。原点のある人は強い・・・その言葉は確かなものです。

 今、私は創価学会員であることを心から歓び、信心に励んで行けるようになりました。毎朝毎夕、御本尊様に感謝しながら生きていける、歓喜が湧いてくる・・・学会から離れないでよかった、苦しい時に諦めないでよかったと、心の底からそう思います。その歓喜を語り、伝えていくことが折伏に通じていくと思います。

 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(富木殿御返事955) この御文を、片時も忘れることなく精進して、人生の秋には、「一生成仏」の仏果を、豊作をもって満喫できるだろうと確信しています。

 


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2015
05.20

生命(いのち)の灯りにスイッチを!

Category: 信心


 今夜はわが地区も座談会ということで、楽しく、また力強くやっていきたいと思います。外の友人夫妻も今日はお招きしています。婦人部の方の「体験談」、「聖教記事からの発表」があり、また池田先生の指導を学べるように企画しています。有志の方のトーク「座談(ザダン)オールスターズ」という企画もやります。(笑)田舎で、会員が少なく、「小さな集い」となりますが、会場に池田先生がいらっしゃる思いで、やっていきたいと思います。


 戸田先生は「人生に、苦しみと言うものはある。苦しみがなければ、遊楽という楽しみを、しみじみと味わえないのである。そこが、よくわかると、生きていること自体が楽しくなる。それが信心の極意である」(2015大白蓮華5月号P98 )と御指導されています。

 不幸な状況に出会い、「もう駄目だ」と思う心が人にはあります。また同じ状況でも「ありがたい、この不幸を使命に変えて、俺は広宣流布していくのだ。」と立ち上がる心もあります。そのどちらの心で生きるのか・・・不幸を使命に変えていく、強い自分になれるかどうか、そこに信心があると思います。

 常にその心で生きていくならば、苦を活かして、生きていくこと自体が楽しくなると、戸田先生は教えてくださっています。いつ何時、何があっても崩されない、その勇猛心で打ち固めた人が「仏」であり、すなわち「悟り」の人と言えるのではないでしょうか?また「因果具時」ゆえにその人はあらゆることに勝利しゆく人となるのだと思います。


 「善と悪」、「幸と不幸」、「苦と楽」など、世法ではそれを真逆の別々のものと考えがちです。「金持ちと貧乏人」、「幸せ者と不幸な人」「賢者と愚者」・・・みんなある意味、差別の世界です。しかし仏法ではそれらを一体と説きます。「大悪起これば大善来る」「毒変じて薬となす」「煩悩即菩提」「自他不二」などなど・・・それらは別々ではなく、諸法はすべて妙法蓮華経の働きと説かれます。その人の煩悩や三毒、悪しき宿命さえも使って、どの人をも「一生成仏」させゆく力がある・・・それが妙法の偉大さであり、仏様のお心だと思います。

 



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 「ひどい自分だけど、一生成仏のための燃料はたんまりとあるぞ。この不幸を題目で燃やして、我が生命を仏と開こう!」と思えば、生きていること自体が、希望に満ちてきます。苦難が大きいほど、悟りも使命も大きいと、熱く燃える心も出てくるものです。

 御聖訓には「悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」(1,403妙法尼御前御返事)とあります。

 我ら、凡夫の生命は言ってみれば、「煩悩・業・苦」に閉じ込められた百千万年暗い、洞窟の闇のようなものかもしれません。そこに電球一つ灯れば、一瞬にしてサーと闇は消える、それが妙法の御力だと仰せであります。灯りは「法性」(悟り)、闇は「無明」(迷い)ですね。

 仏法はすべての人が生命に灯りをつけるためにあり、それは信心の力で灯す「悟りの灯り」そのものです。そのスイッチは「信ある題目」であり、学会員ならみなさん、毎日、一生懸命実践されているところだと思います。

 皆さん、お金も欲しいでしょうが、(私も欲しいですが)まずは信心が先ですね。なまじ財産など持つと、信心が緩みますので、今はピーピー雲雀(ヒバリ)が鳴くぐらいでちょうどいいのです。(笑)

 貧乏であれ、病気であれ、治せることを100%確信できれば、必ずそうなるのが妙法です。その100%の確信は御本尊への強き信心から、我が生命にほとばしって出てくるものです。

 まさに100Wの灯りをつけるように、信心の灯を煌々(こうこう)とつけて、「不幸なにするものぞ、来るなら来い、私の題目が相手だ!」との師子王の心をとりいだし、勇猛果敢(ゆうもうかかん)に、私は生きていきたいと思います。





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2015
05.11

仏の住む場所

Category: 信心

 27歳で創価学会に入会した時、私は宗教というより、友人から私の生き方について、折伏を受けた形で、即座にやってみたいという気持ちになりました。「創価学会のことをよく調べてから」とかそういう理屈は全くなく、(笑)ただ「南無妙法蓮華経」という言葉が心に響いたのです。そしてそれに賭けてみようと思いました。普段は優柔不断な私が、こんなにも迷わずに、物事を即決したことは後にも先にもなかったことです。

 その後、ほどなくしてある初老の信者の方との出会いがあり、そこで信心のすごさを知ることになりました。それはこの身が「仏と開く」・・・「一生成仏が信心の目的である」ということを教わるという、望んでも得がたい出会いだったのです。この方との出合いが私の一生の方向を決定づけたと思います。

 もちろん初信の私にとって、仏と言っても何もわかりません。強いて言えばスーパーマンのようなイメージしかありませんでした。(笑)きっと空だって自由に飛べるに違いない。願いはすべて魔法のように叶い、もちろん不老不死だ(笑)と、そんな感じを心に描いたことを覚えています。

 ところがそれから紆余曲折があり、10年たっても20年たっても、いっこうに仏らしき匂いも香りもしてきません。(笑)あいも変わらず、苦し気な自分です。一体、仏というのはどこにいるのか?仏界が湧現と言っても、このような頼りないものでもあるまいし・・・と、それは「日が暮れて道遠し」のような心境だったのです。

 生活面においても、新しい事業を始めたのですが、ますます窮地に立たされ、うんともすんとも開かない・・・お金も底をつき、深い苦悩の闇の中をさまようといった状況でした。「なんとか早くこの苦悩から逃れて、仏の世界に行きたい。私がほしいのは苦悩なんかじゃない。ほしいのは仏の世界なのだ・・・」とそんなことばかり思っていました。




ぼたん②



 思うようにいかない日々でしたが、毎日、1~2時間の題目はあがっていました。不思議な事に信心はむしろ強くなっていくのです。それで私は「これは何かきっと意味があるに違いない。よし、背水の陣で頑張ろう」と秘かに思いました。


 何年かたったある日のことです。ある思いが唱題中に起こりました。「あゝ、仏とは他ではない、どこか遠くの離れた場所でもない、私のこの苦悩の底に、この苦悩と共におられるのだ」というひらめきにも似た不思議な感覚に襲われたのです。

 蓮華は汚泥の中に咲く・・・この言葉通り、垢まみれ、煩悩まみれ、毒気深入して苦のみ多き私の命・・・その不幸の中に、仏はおられる・・・いや幸も不幸も、罪の軽重も関係ない、それらすべてが「南無妙法蓮華経」という私の生命なのだ・・・そういう思いがふつふつと湧きあがったのです。

 もっと清浄で美しい花園のような場所に仏は超然と住まわれている・・・そう思っていた私です。しかし、そうではない、人間生命の穢れた汚泥の奥深くにその住まいはあり、「あなたの煩悩、業、苦から一歩も離れずに私は蓮華と咲くのです」と苦を忍ばれつつ、私達の信心をじっとご覧になっているように思えるのです。

 私はそれまで、自分自身を否定し、自信も持てず、力も出せずに信心してきたことを思いました。法華経にある雖近而不見(すいごんにふけん=近しと雖(いえども)而(しか)も見えざらしむ)の言葉は、自身にある仏の生命を、凡夫には見えないことをいわれたものに違いありません。

 その日から「仏とは我が生命なのだ」その確信で信心できるようになりました。これさえあればいいのだ、「私は南無妙法蓮華経仏」これで生きるのだ・・・そう確信できたのです。

 仏の住む場所・・・それはどうしようもなくひどくて捨てたい、逃げ出してしまいたい、そんな凡夫の生命の中にあり、その人の胸中深く、その人のお題目に呼び出されて、花の如く開花する時をじっと耐えて待っておられます。

 どの人もわが生命の苦悩、悲哀と向き合って、お題目でそこを掘り抜いていくしかありません。その苦悩が出た時こそ仏の生命を開くチャンスの時です。「足下を掘れ、そこに泉あり」まさにそれが信心の精髄だと、いよいよの心でお題目に精進していきたいと思います。




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2015
05.04

「膝詰」の対話

Category: 未分類


 個人の素晴らしさを発掘し、どこまでも一人の人間に光をあてていこうとするのが「人間革命」の世界であり、「人間主義」だと私は思います。一人の人間には幸福に向かっての無限の可能性がある・・そのことを信じ開花させていく。そのことが組織活動においても個人の活動においても常に根本にあるべきだと思います。

 私達も自身の幸福を開くわけですので、それは「やらされる」のではなく「自分からやる」ということが前提であるべきです。その取り組む姿勢によって功徳も歓喜もまったく違いますよね。自分から進んで活動すると理屈抜きに気持ちがいいものです。心も爽やかで、歓喜も倍増していきます。結局、信心は「心」「志」に功徳が開いて行くのだと思います。

 どんな活動であれ、会員の方が喜んで参加しているか、義務的でないか?そのことが成果や数字よりも大事なことだと思います。私は自分がやらされるのが嫌いなものですから、人にもそうならないようにといつも思います。


 よく「膝詰」という言葉が学会には出てきますが、まさに一対一の生命の「対話」によって、人間は触発され、生まれ変わり、蘇生していくものです。

 「人間主義」を実践するということでいえば、まずは人に会って、対話をすることが一番ではないでしょうか?池田先生が冷戦時代のソビエト訪問をされた時、「何故、共産主義の国に行かれるのですか?」との問いに「そこに人間がいるからです」と答えられました。国も地位もイデオロギーも関係ない、お互い、裸の人間としてのお付き合いをしよう・・・それが人間主義の第一歩であるべきです。「対話する」・・・そこからしか友情も理解も育っていかないものです。




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 組織において「人間主義」が浸透し、人々が躍動するために、私は今こそ、より多くの幹部さんが、家庭訪問や、個人間の対話に打って出るべきだと思います。幹部さんの個人訪問、家庭訪問が、だんだんに少なくなっているように感じています。

 上の方の幹部さんも、もっと末端の地区に飛び込んできてほしいですね。そうでないと本当の心の交流にはならない。こちらからお呼びすれば座談会など出てこられますが、それでは受け身です。普段から信頼関係を作っていかないと、いざ戦いの時だけ号令をかけられても士気は上がらないものです。それでは選挙の時だけ訪ねてくる学会員みたいなもので(笑)、やはり普段の信頼の上に協力もしていただけるのだと思います。

 「師弟」という名のもとに、いつでも会員が動くと思ったらそれは間違いです。そういう考えで漫然としていては、やがて組織としてもろくなっていくと思います。組織内の対話こそ、学会の中を流れる血液、血流のようなものであり、それがよどんだり、濁ったりすれば、やがて病気になってしまいます。気さくに何でも言える環境を作ることも大事なことですよ。

 家庭訪問のような人に会う活動が、一番楽しいものですけど、その味を多くの幹部さんが忘れてしまったのでしょうか?それとも2世の幹部さんが多くなり、そういう実践の体験が乏しいのでしょうか?結局、広宣流布への意欲、熱意の問題であるに違いありません。その熱意が人の心を動かす、幹部さんの目に力がないようでは、こちらも力が湧きませんものね。(笑)

 学会がどんなに大きくなっても、営利目的の大企業とは違います。どこまでも一対一の人間です。その双方向の「膝詰」の対話を実践することが、「人間主義」のあふれる、ぬくもりのある組織になる肝要ではないかと思います。

 息の通ったぬくもりのある対話が少なくなるにつれ、「人間主義」も「信心の躍動」もしらず失われていく・・・そのことに、もっと注意すべき時が来ていると私は思います。

 これから一番動ける季節ですね。「たまにはお茶でもしない?」とそんな感じから、一対一の「膝詰」の対話に笑顔で挑戦していきたいですね。




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