広布の大河に君ありて tori

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仏はうえての如く衆生は田の如く

 
 私の住む地域でも大半、田植えが終わり、植えられたばかりの稲の苗が、水田の中で涼しげに揺れています。実は私も40aほど、うるち米のコシヒカリを作っています。専業ではありませんが、畑での野菜作りも含めて、土とふれあうことが多い生活です。

 先日も田植えと並行して、キュウリ、ゴーヤ、トマト、ナス、カボチャなど、夏の野菜を植えました。畑では玉ねぎが収穫の時を迎え、ジャガイモが淡い紫の花を咲かせています。農作業の姿や田園地帯の風景こそ、平和と安穏の象徴だと私の眼には写ります。 

 都会からユーターンした時は、なれないこともあり、農作業に苦労しましたが、自分で作った野菜や米を食べる歓びはやはり格別であり、今ではとても農業が好きになりました。農作業をしていると、なぜか生の充実も感じ、また癒されることも多いです。

 食物を種や苗から育てるということは、原始以来、変わらず人間が営みとしてやってきたことです。その原始的な作業は、デジタル時代に失われゆく、大地に根差した人本来の生き方を呼び覚ましてくれるのかもしれません。我ら日本人も、農耕民族のDNAが流れています。農作業をするときに、体内のその血が、目覚め、喜ぶのかもしれません。

 信心も同様に、深まるほどに、わが生命が歓喜するようにありたいものです。お題目があげたい。題目の味がおいしくなってきた…とそんな風に、私も変わってきました。本来、仏なのですからそうなっていくに決まっていますが、本当に時間がかかりました。今では信心の活動が何よりも自分を躍動させてくれます。




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 いつか私も、晴耕雨読のジイさんになる時も来るやと思いますが、同じジイさんでも、青年の気概で信心の闘争をやっている「変なジイさん」で頑張りたいと思います。(笑)

 田植えと言えば「法華経は種 の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(曾谷殿御返事1055)との御聖訓が有名ですね。私も30余年前に仏様によって、幸福も枯れ尽きた心田に、法華経の種を植えていただきました。その種も芽をだし、いつしか苗となり、試練にも負けずに、たくましく成長してきたように思います。

 「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(一念三千法門416P)との御文もあります。

 信心は野菜や米を育てるのと同様に、、しっかり根付き、茎が太くなり、独り立ちするまでが、一番大変だと言えます。その時をどう耐え抜いていくか、信心の難しさもそこにあります。

「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(新池御書)
「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」(四条金吾殿御返事)等、多くの御書で、信心の難しさを説かれています。

 生涯、信心強盛であることは至難の業です。必ずや魔軍が戦(いくさ)を起こし、信者を悩まし、不信をおこさせ、退転の網をかけてきます。また予期せぬ宿業との戦いが試練として襲ってきます。私もユーターンしたものの、家が真言宗であり、田舎の因習の深さといい、自身の病魔も出て、修行の枝は大きく曲げられました。

 しかし、その試練を乗り越えることができたのは、初心の時の先輩との出会いであり、また信心の素晴らしさを絶えず教えてくださった、池田先生の著作や指導です。原点のある人は強い・・・その言葉は確かなものです。

 今、私は創価学会員であることを心から歓び、信心に励んで行けるようになりました。毎朝毎夕、御本尊様に感謝しながら生きていける、歓喜が湧いてくる・・・学会から離れないでよかった、苦しい時に諦めないでよかったと、心の底からそう思います。その歓喜を語り、伝えていくことが折伏に通じていくと思います。

 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(富木殿御返事955) この御文を、片時も忘れることなく精進して、人生の秋には、「一生成仏」の仏果を、豊作をもって満喫できるだろうと確信しています。

 


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