広布の大河に君ありて tori

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長者窮子の譬え

 

 法華経には難解な法理をわかりやすく説くために、よく譬えが用いられます。「譬喩品」などはその名の通りとも言えますが、それら代表的なものを集めて『七譬(しちひ)』と呼ばれています。(法華経の七譬


 一つ一つ読みますと「自分に当てはまる」と思うものが必ずあるものです。仏様も妙法を子供に飲ませるために、あれこれ方便を用いてご苦労されます。お母さんが一生懸命、子供にお乳を飲まそうとしているようで、うなずけますね。

 『化城宝処の譬え』ですと、一生懸命やっているのに思うように結果が出ない・・・前に進む気力も萎えた頃に、先輩がやってきます。「あとひと踏ん張りできっと開けるよ。さあ、一緒に題目をあげよう!」なんて、激励に来たりします。そうした希望をもたらす対話も『化城宝処の譬え』と言えるかもしれません。

 『七譬』の中で私が一番自分に当てはまると思うのは、『長者窮子の譬え』です。27歳で創価学会に入会したわけですが、生まれは真言宗、それもお寺と親戚つながりの家でした。久遠の時の父元(仏)を離れ、諸国を放浪するうちに、どっぷりと邪宗に染まり、法華経の信者を見ては見下し、罵っては、「真言こそ真実なり、法華経の者はわしらの履物でも揃えておけ」などと偉そうなことをやっていたのかもしれません。

 とうとう今生で精根尽き果て、枯槁(ここう)の衆生となり、息も絶え絶えとなったところを、見かねた仏様によって、創価学会に拾ってもらいました。

 ところが創価学会に入ったものの、池田先生はどこか遠い雲の上の人、組織や幹部さんも肌が合わず居心地が悪い・・・なぜ自分はここに来たのだろうと思いつつ。「だがもう流浪するのは嫌だ、俺にも確かに信じられるものがほしい・・・池田先生という人もどこかすごい、よし、これに賭けてみよう」と、そう思ったのです。そう思えたところに私の福運がありました。(笑)




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 私が信心をやめることなくこれたのは、そのすごさを教えてくださった、ある先輩との出会いがあったからです。この方が私にとっての『化城宝処の譬え』そのものでした。「がんばればこういう人になれるんだ」とその人のあとを追いかけたのです。

 そして30年ほどたって、最近ようやく、学会員らしくなってきました。地区部長やって、家を拠点に提供し、朝から無冠の友として走り、何をおいても信心第一、地域の広宣流布は自分がやると思えるようになりました。

 今では「あなたはもともと学会でしょ?」などと言われます。「いえいえ、とんでもない、わたくし、生まれも育ちも邪宗教、大日如来で産湯をつかい、姓は真言、名は密教、人呼んで謗法の窮(ぐう)と発します」と答えています。(冗談です)

  今、 いい調子で学会を謗り、見下げる人々も、あとを思えばかわいそうな人です。謗法の酒が深く沁みて、諌(いさ)めても言うことを聞かない・・それも毒鼓の縁なればやむを得ませんが、同じ一生、あまりにもお気の毒というほかありません。

 人をうらやんだり、妬(ねた)んだり…そんなことしなくても私達の衣の裏には、仏の命が縫い付けてあります。それが『衣裏珠の譬え』です。他人をうらやむより、自分の宝を見つければいい。仏の生命ですから「如意宝珠」です。自分の本地を悟るまで、たとえ苦しくても、大聖人様の衣の裾にしがみついて行かねばなりません。

 「ありゃ、自分にも仏の生命があるやんか」とわかってみれば、それは100万年暗き洞窟に、パッと灯りがついたようなもの、どんなにうれしいことでしょう。

 一日も早くそうなれるように、今日も自分磨きの信心を、窮(ぐう)ちゃんは頑張ってまいります。






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蘭室の友


 先週の土曜日にはわが地区で座談会がありました。支部に声掛けしたこともあり、初めて30名以上の結集ができました。仏間の床を以前、補強しておいたことが役に立ちました。(笑)いつか折伏の入会者を含めて、この仏間をいっぱいにしたいと決意しています。

 外部の方も2名来られ、最後には座談会の感想を語ってもらいました。そのうちのお一人は本部婦人部長さんの友人で、地域の奉仕活動も一緒にされています。以前、別の宗教に勧誘を受け、その会合に行かれたそうですが、そこでは幹部の方がふんぞり返って、会員は平身低頭だったそうです。あとでコーヒーを出したところ、「先生がコーヒーを飲まれないことを知らないのか」と一喝され、その方は幹部の眼もまともに見ることができなかったとか。まさに今時、時代錯誤も甚だしい、笑止千万なるインチキ宗教です。(笑)

 「それに比べ、学会のこの雰囲気は自由で楽しさに溢れています。来て本当に良かった」と言われていました。「百聞は一見に如かず」・・大いに外部の方をお呼びし、温もりのある仏縁を広げていきたいものです。

 座談会では地区の婦人部の方に体験発表をお願いしたのですが、九州の大変貧しい家庭で育たれ、いじめや両親の離婚など、つらい半生を語られました。転校も多く、友達もいなかったこと、勉強ができなくて、中学を出て集団就職でこの地域へとやってこられました。

 結婚されてお子さんも3人できましたが、病気でお子さんを失いかけたことや、御主人が職場の同僚から暴力を受け、内臓破裂・・・それでも必死のお題目で九死に一生を得たこともあったそうです。今は、お金も無くなれば入ってきます、息子たちも優しい子に育ち、学会の墓苑にお墓も持つことができたと、信心の歓びを語ってくださいました。

 「一番苦しんだ人が一番幸福になる」という先生の教え通り、もっともっと幸せになっていただきたいと思わずにはいられない、わが地区の宝の人です。



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 それにしても婦人部の方は健気で元気です。婦人部総会さながらの座談会となりました。(壮年部がんばれ!)

 「悦(よろこば)しきかな汝(なんじ)蘭室(らんしつ)の友に交わりて麻畝(まほ)の性と成る」(31P)と大聖人様は「立正安国論」に仰せです。善を愛し、善に交わることによって、人はさらに善人になるのだと私も思います。まさに求めるべきは善友です。その最高の善人の集まりが創価学会です。それは池田先生の生命の大殿堂・大宮殿そのものだと私には思えます。内部に入れば凡夫の集まりですので、いろいろなことがありますが、それらも自分を磨く磨き粉です。創価学会を深く愛せるようになったことは私の中での大きな宿命転換となりました。

 その学会の中で互いに敬い、励ましあって切磋琢磨していく・・・そこにおのずと自分をまっすぐな人間へと変えていく「麻畝の性」の力があるのだと思います。人間とは「人の間」とはだれが名づけたのでしょうか?まことに真理を言い当てたいい言葉ですね。創価学会こそ、人間主義の「麻畑」であり、「蘭室」だと確信します。

 地域の会館や、拠点提供のお宅こそ「蘭室」と呼ぶにふさわしい場所です。この蘭室に一人でも多くの人を招きいれるのが、仏法対話、折伏です。きっと仏様は不幸な人から救いたいと念願されていることでしょう。その仏様のお使いとして折伏に行き、御本尊の素晴らしさを語っていく・・・その折伏行こそが自分の天命だと信じて、創価の旗を掲げ、勇気凛々やっていきたいと思います。

 
 
           つらくとも 同苦の友を 励まして
                 
                いつか共々 勝利を分かたむ・・・





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鏡に映った自分から



 普段、人は自分の身の回りで起こるさまざまなことに、自分というものが映し出されることを感じるものです。いろんな出来事が鏡のように、また縁になって、自分を映し出してくれます。宿業や苦難と言った大きな鏡もあれば、人との会話や、さりげない行為と言った小さな鏡もあります。

 その鏡を正面から見つめ、自己を知ろうとする人は、常に発心と向上の道を目指し、成長の人生を歩める人だと思います。たいていはひどい自分や、ふがいない自分の姿が映るわけですが、「よし、また一歩、大きくなろう、強くなろう」と決意して、御本尊様に向かっていけることは、なんと頼もしい人生であろうかと思います。

 そういう意味で、自分を映し出す鏡と言うものは、時に目を背けたいことがあるものの、生きることに挑戦と奮起の心を呼び出してくれるありがたいものだといえます。

 私の小さな出来事ですが、先日、仕事の後に、スーパー銭湯のようなところに入りました。すると脱衣場の私のロッカーの近くに、なぜかティッシュの屑が散乱して落ちています。私は従業員の方に言って、掃いてもらおうと思いました。その時、私からさらに離れたところに、風呂上がりの老人がおられ、そのゴミの近くまで歩んで来られたと思うと、腰をかがめティッシュくずを拾い集められたのです。そしてゴミ箱に捨てていかれました。瞬間、その出来事に私が映りました。

 そこには自分でゴミを拾おうとせず、従業員に拾ってもらおうという横着な自分が映っていたのです。なぜ、わずかのゴミを自分で拾おうとしなかったのか、老人を前に恥ずかしい気持ちになりました。その老人は鏡となって、「自分でやろうとしない」私の姿、心を鮮やかに映し出してくださったのです。

 大げさな言い方ですが、その時、仏様のお計らいで、そんな自分を見せてくださったのかと思ったほどでした。老人に一つ教えていただいたことを感謝し、「小事にも人間の一念が見えるものだ」と反省したのです。




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 毎日、たくさんの鏡に自分が映ります。昔、出会った鏡と同じような鏡にまた出会うこともあります。その時に、どんなふうに振る舞うか、相変わらずの自分なのか・・・そこに自分の成長が映ります。ひどい自分でも、一歩成長した振舞になるように、絶えず命を磨いていかねばならない。自己を見つめる眼・・・その眼を磨き抜き、自身の生命を掘り下げ行く精進が、やがて「仏の眼」に通じていくのだろうと思います。


 傲慢な人は鏡に映った、汚れて歪んだ像を見て、「これは鏡が汚れているのだ、歪んでいるのだ・・・自分は正しいのだ」と、相手を非難する人なのかもしれません。謙虚な気持ちでその像を見つめ、「自分が汚れているのだ」と受け止め、自己を磨いていこうとすれば、その時から「人間革命」がはじまります。自分を正していこうと唱える題目は、きっとそこに良薬となって沁みていくことでしょう。

 娑婆世界は厳しい世界ではありますが、自分を映し、明らかに見せてくれる鏡に満ち溢れています。
 「どんなにひどくても、きたなくても大丈夫、そこからだ」・・・と、自分を省みて、信心で立ち向かっていく人が、「本因妙」の信心の人です。

 いつでも今いるところから、いよいよの心で「人間革命」に挑戦していく日々でありたいと思います。





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太陽の心の人



 以前、池田先生が本幹のスピーチで、詩人の北原白秋のことを話されました。(言葉、内容について、記憶をたどって書きますので、正確でないことをお許し願います。)
 それは北原白秋の詩作が、少し変化したことを、ある記者が「先生の詩は最近少し変わられましたね?」と聞いたそうです。それに対して白秋は「みなさんは少しだけ変わったように思うかもしれないが、その少しの変化のために、私はここ何年も身をすり減らし、苦しみ、精進したのだよ」と言う意味の返事をされたそうです。池田先生はそのお話を通して、人間革命の精進もそうなんだと教えてくださったのだと私は思いました。

 日々の精進を「薄皮を剥ぐように」と表現することがあります。確かに薄皮では毎日わからないかもしれませんが、何年かいくと一皮むけたように感じることがあります。信力行力が強いほど、そのスピードは速いに違いありません。

  私達は往々にして目先の功徳を求めがちです。目に見える結果がすぐほしい。特に病気や直近のお金の悩みは早く結果がほしいですね。待ってられません。(笑)50年とか100年とかあるいは三世とか永遠とか・・・そんな眼で物事を考えている人は、少ないかもしれません。しかし、仏法は「顕益」より「冥益」が表と言われます。池田先生の御指導にあるように、長年かけて、何ものにも崩されることのない、富士山のように堂々とした人間になるというのが、「一生成仏」だとも言えると思います。

 私も来世にはこういう風に生きていたいとか、そんなことを時々思います。そのためには、今世によくよく信心して、その因を確かなものにしておきたいと思います。




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 今朝の新聞の一面には婦人部総会が今週から始まることが出ています。その脇の見出しには「皆が希望と幸福の太陽に」とあります。信心をするとやがて、自分の生命に太陽が昇ります。暗かった人が明るく、枯れた人がいきいきと、そうなることは胸中に太陽が昇るからであり、それは仏界が湧現していくことだとも言えます。その力が顔の相から言葉、行動、生活までよくしていくようになります。そして自分が「太陽の心」になって人を照らせば、どの人も「太陽の人」だとわかるのです。

 ただ、黒い雲が横たわっていたり、雨が降っていたりして、御本人も「自分なんか駄目だ」と、自信を失って、元気がなかったりします。そんな時でも太陽の心の人がその人を見れば 「大丈夫、悩み深いあなたにもまぶしい太陽が隠れています。私にはわかります。お題目でそれを呼び出しましょう」といってあげられます。だから「太陽の人」は希望の灯を人にともしてあげることができます。

 信心をしていくうちに、私も人が愛せたり、好きになってきました。怨嫉や、憎しみが変毒為薬するのです。これは私の冥益です。薄皮を剥ぐように、気が付くと「人を愛せる自分」へと変わってきました。本当にありがたい功徳です。人を愛する。それから「人間主義」が始まるのだと思います。「好きだからよくしてあげたい。一緒に幸せになりたい。」と、思いやりの心で折伏へと気持ちが広がっていきます。

 その意味では、人を愛せないことが不幸だとも言えます。私なんか随分不幸な人間でした。(笑)今、少しよくなってきましたよ。生きていることがうれしいというのは「人間が大好き」と同意語なんですね。

 人を愛せるようになれば、やがて自分も人から愛されるということは道理かもしれません。「福運」というのも、人から愛されるということですよね。戸田先生は「福運は少し時間がかかります」と教えてくださいました。私なんか、その点、大変毒気がありますので、そのお言葉の通り、大変時間がかかっています。(笑)「人間が好き」の生命が出てきましたので、やがて人にも愛せられ、生活も上向くものと楽観主義でいきます。

 「北風と太陽」というイソップ寓話があります。青年のコートを脱がすために、北風をぴゅーぴゅー吹き付けても、人は余計にかたくなにコートを脱ぐまいとします。一方、ポカポカと春の陽気で温めてあげれば、自然とコートを脱ぎます。それと同じように「太陽の心の人」が、一番、人を幸福に導ける人だと言えます。そこに人ではなく、まず自分が太陽の人へと変革する「人間革命」が大事であることを、仏法は主張しているのだと思います。





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