2015
07.26

創大通教の思い出

Category: 未分類


 暑い日が続きます。ジトっとした天気はさすがに体を疲れさせますね。皆様もお体を大切にお過ごしください。

 入会して20年ほどは何かと苦しいことが多い私だったのですが、今思いますと、魔も私の信心を潰さんと脅しにかかったり、苦しめようとしたのでしょう。信心をした以上、大きな苦難があるのは道理ではないかと思います。もちろん自身の宿業も重かったわけですが、それを乗り越えることができたのは、学会から離れまいと先生を求めたこと、「一生成仏」という目標が明確であったこと、そして仏子として広宣流布のお役に立ちたいという誓願があったからだと思います。

 私自身、いくつかの山を越え、妙法の変毒為薬の力をこの身で実感する日々です。「大悪おこれば大善来る」の一節をかすかながら、この身で読むことができました。さらに気を緩めることなく、信力こもる題目で、次なる高みに挑戦していきたいと思います。


 30代の時の話になりますが、仕事の関係で大学卒の資格が必要となり、大学に行かなかった私は、通信教育を受けることにしました。

 関西方面で通信教育と言いますと、限られた大学しかないわけですが、その中で上司が進めてくれたのは佛教大学という京都の大学でした。仕事に適した学科があったのですが、資料を取り寄せて見ますと、そこは浄土宗系の大学ということで、僧侶による念仏の授業などが必修になっていました。

 その頃は邪宗を避けていましたので、浄土宗の僧侶の授業が嫌で、何とか他の大学はないものかと探しました。





夏野菜





 ある朝、我が家に届いた聖教新聞の一面下に、創価大学の通教の案内が出ているではありませんか?「同じやるなら創価大学や」と即座に思いました。それで上司に相談しましたら、不思議にもあっさり許可がでたのです。スクーリングをはじめ、土日の地方での講義と試験など職場の理解がないと通教はなかなか進められません。その点、上司は大の学会嫌いでしたが「学ぶ」ということには非常に理解のある方でした。

 創価大学は学生に優しい大学(笑)ですので、その頃は単位も比較的とりやすかったと思います。D評価でレポートの再提出も何度かありましたが・・・夏休みを利用して毎年スクーリングにも行きましたが、それが一番の思い出です。皆さん、創価の学び舎で学べることに感動しながら励んでおられました。

 本当に全国津々浦々から様々な方が参加されていました。40代から教師の資格を目指されている壮年、子育ての合間に10年越しで卒業を目指されている婦人部の方、80歳で一念発起して挑戦されたおじいちゃん。その老若男女、多士済々の面々は通教ならではの顔ぶれと言えます。まさに人間主義の縮図です。その方たちと、暑い教室で机を並べて同じ授業を受けたことは素晴らしい思い出です。

 「英知を磨く は何のため 君よそれを忘るるな 労苦と使命の中にのみ 人生の価値(たから)は生まれる」と先生は建学の精神を掲げられました。 また「学問は特権階級の独占物ではない。大学は、大学に行けなかった人のためにある。」(「世界の大学への道1モスクワ大学」)と言われています。

 当時はそこまでの思索はできませんでしたが、今こそ、信心の慈悲の剣をもって、多くの人のために尽くす生き方を実践していきたいと思います。

 20年前に比べたら、だいぶ大学も様変わりしましたね。すごい勢いの発展です。こんな大学は他にはないと思います。
本部棟の近くには卒業生の名前を刻んだプレートがあります。一度、探しましたが自分の名前を見つけることができませんでした。実は何期生か忘れてしまっていたからです。(笑)私もいつか家内と子供を連れて、桜の頃に創価大学を訪問し、通教の話などしたいと思います。その時、家族に「父ちゃんの名前がどこかにあるはずだから探してごらん」と言うつもりです。(笑)

紅(くれない)群れ咲く つつじの丘を
白蝶あそこに 喜び舞いて
葉桜薫れる キャンパス広く
集える若人 緑のしげり・・・

 この歌を聞くたびに、心がいつも高鳴ります。そして涙がこみ上げる時があります。それほど素晴らしい学生歌です。苦しい時、自分は創価の学び舎を出た人間だということが、私の支えです。創価大学には先生の心と血が流れ通っています。そこに通う人は、やはり先生の魂を受け継いで行かねばならないと思います。

 いつか、もう一度、新たな気持ちで別の学部にチャレンジする機会を作りたいですね。今も、「創価大学の通教はいいですよ。どうか時間を作って挑戦してみてください。人生に金の思い出が作れますよ」と地元の同志の方にも勧めている私です。





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2015
07.21

邪宗からの入会

Category: 未分類


 先週は台風で座談会が延期となり、あらためて日曜に開催。そこで同中で見ましたVOD「信心しきったものが勝つ」を再び鑑賞いたしました。戸田先生の魔を粉砕するようなお声の迫力、池田先生の堂々たるお振舞こそ師子吼、師子の姿そのものです。

 その先生方の死闘とも言うべき戦いがあって、32年前に私も御本尊を受持することができました。

 ある意味、私もどん底からの信心となりました。関西の田舎に生まれ、18歳から32歳までの青春期、東京にいましたが、精魂尽き果て27歳で入会・・・今思ってもなぜ、自分が素直に創価学会に入会したのか・・・不思議というほかありません。

 我が家は真言宗でしたが、真言は亡家亡国の宗ともいわれます。まさに家を捨て他国を放浪するような親不孝な私でした。田舎で真面目に、公務員にでもなって働くようなそんな自分ではなかったのです。

 入会して4年たった頃、父が亡くなり実家に帰りましたが、それから真言の家での生活を8年間も余儀なくされました。邪宗の大きな仏壇が家の真ん中にあり、家では題目もあげづらく、車を川の土手などに止めては窓を閉め切り、勤行していました。

 「必ず家を正法の家にする」そう決意するものの、生命からはそのころ、頭がひび割れるかと思う頭痛と、精神の不調が良く出ておりました。気が狂って死ぬかと思ったこともあります。(笑)仕事だけはかろうじてできたものの、「而強毒之(にごうどくし)」(しかもしいてこれをどくす)でしょうか?生命のパイプから毒が轟々と出たのだと思います。御書には「而強毒之するは慈悲より起これり」(御義口伝769P)とあります。今となればまさにその御文通りだったと理解できます。

 「麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」(開目抄下233P)

 「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」(佐渡御書960P)

 こうした御文を拝するたびに、この苦しみはわが身の謗法の罪障消滅なのだと自分を励ましました。





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 実家で一人家にいた時、真言の仏間に入り、空海(弘法)の絵像の顔を、「不幸の根源はお前だ!」とつぶやきながら拳で思いっきりなぐったことも、今となっては懐かしい思い出です。(痛かったなあ・・でもすっとしました。)(笑)

 田舎に帰り8年たって、ようやく母が入会、我が家の謗法払いができたのですが、庭でその絵像や、新興宗教の物、神社のお札など、すべて燃やしました。真っ黒い煙がもうもうと空に立ち昇ったものです。

 今は2世3世の方が中心の学会となりましたが、邪宗から創価学会に入ったことを私は秘かにありがたく思います。

 それは謗法の恐ろしさ、宗教の正邪をこの身で知ることができたからです。頭の痛みが激しかった私は、頭破七分の意味を身で読むことができました。本当に頭が七つに割れているのだと感じたものです。自分だけは功徳が出ない、救われないのかと思ったことも何度もありました。(笑)

 40代には進行した腎臓がんが見つかり、腎臓を片方摘出しました。また原因不明の激しい神経痛にも7年ほど苦しみました。それも悶絶するほどの(笑)痛みだったのですが今はまったく出なくなりました。思春期から皮膚病にも悩まされ、顔にも出ましたので苦しみましたが、これももう発症することはありません。

 この30年、私なりに佐渡御書の一節を身で読めたことはありがたいことだと思います。邪宗からの入会ゆえに、苦しい時、より強い信心に立って、それを覆そうと本気の力が出ました。師子のど根性ともいうべき雄叫びをあげるような力強い命が私にもあります。それさえあれば、自分は何にも負けない・・・そう思います。

 しかし過去は過去。すべて終わったことです。今、私には陽光さんたる未来が待ちうけています。いまだ悩みも多々ありますが、生命が吹き上がる歓喜に包まれることも事実です。「生きていることがうれしい、面白い・・・」そう感じることのできる生命へと変わってきました。

 三世にわたる使命の道は始まったばかり・・・「而強毒之」の挑戦もいよいよこれからです。それでも歓喜と感謝の題目で喜びを地域に爆発させながら、学会活動、生活に更なる高みを目指して挑戦していきたいと思います。





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2015
07.13

私の信心6か条

Category: 信心

 皆さんの地域では台風の被害はいかがでしょうか?こちら(関西方面)は今のところ大きな被害はありませんでしたが、相変わらず、重くどんよりとした梅雨の空が続いています。梅雨を吹き飛ばすような、明るい南の太陽のような心でいきましょう。


 先日も地域の同志の方と信心の話となりました。この方とは地区は離れていますが同年代。最近、奥さんを亡くされてから訪問させてもらうことが多くなりました。その方との話で、祈りが叶うにはどうすればいいかということになり、普段、自分が思うところをお話しましたら、大変喜んでいただきました。実は全部、先生の指導や先輩方の指導にあることばかりなので、いまさらと思う方もおられるでしょうけど、これまでの指導や体験を私はまとめて『信心6か条』として心にいつも置いています。(私の決めた6か条ですのでそのつもりでお願いします。)


1.明確な目標
2.強い決意
3.絶対の確信
4.強情な祈り
5.価値的行動
6.勢い


 たしかに全部、学会指導ですね。(笑)だから受け売りですが、うまくいかない時は、実はこの中のどれかが欠けていることに気が付くのです。

1.明確な目標
・・・病気の人は病気を治すことが目標、仕事の人は自分がこうなりたいという姿があると思います。大きなことだけでなく、小さなことでも、しっかりとした目標を持たないと、自分が何をしたいか、的がぼやけてしまいます。

 自分は京都へ行きたいのか、東京に行きたいのか・・京都に向かっていたのに、人に誘われ、気が付くと北陸に向かっていたりしては、迷走ですよね。(笑)目標も持たずに信心すればそれは惰性です。

2.決意・・・必ずこうなる、こうしてみせるという強い一念。それがしっかりしないと、何か障害が出るとすぐに折れてしまいます。決めた道をやり遂げる強い意志(心の固き)に、諸天も動くのではと思います。

3、確信・・・御本尊の力をもってすれば絶対うまくいく、成功するという確信です。「うまくいくかな?いや無理かもしれない・・」これでは半信半疑、疑いが半分ですので、叶うわけがありません。これは私もよくあります。(笑)病気の人は「いかなる病さわりをなすべきや」と仰せですので、「絶対に治るに決まっている」という強い確信を持って祈らないといけないと思います。

4.強情な祈り・・・これはもう学会員の本領です。特に婦人部の方なんか、唱題の鬼です。(笑)目標に向かって、まっすぐな心で祈り抜いていくことですよね。

5.努力、行動・・・題目も学会活動も行動です。また仕事なら研究や精進、営業努力や訓練など、ご飯を仕掛けたら、スイッチを入れないと炊けません。

6.勢い・・・目的に向かうには敵を上回る勢いが大事です。病気の時は病気に負けない心の勢いも必要です。勢いが出れば歓喜と感謝も湧いてきます。池田先生も「戦いは勢いのある方が勝つ」と常々言われています。

 祈りがあっても目標があいまいでは駄目。目標を立てても行動、努力がなくては駄目。決意ができても確信がなければこれまた駄目です。(笑)6つのうちのどれかが欠けても、がんばっているのに空転したり、迷走したり、行き詰まることが多いので実に不思議です。その空転に魔が喜んで付け入ります。それで出てくるのは愚痴と不信です。これが一番怖いですね。

 もちろん根底は「広宣流布のために」ということが前提です。池田先生はよく「何のため」ということを私達に問われます。「人間革命」「広宣流布」という大目的を見失うと、そこからすべてが狂っていくものです。それは自身の「信心の一念」に納まっています。その「一念」や「姿勢」は案外、自分で見えないことが多いので、信頼できる先輩や同志に指摘してもらうこともいいと思います。

 この6か条は折伏にも、生活にもすべてに当てはまるので、私はどこかおかしいと思う時は、いつも一つづつ確かめるようにしています。

「広宣流布」という明確な目標をしっかりと持って さあ、朝の、配達、勤行から今日も出発です。





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2015
07.09

「困った、南無妙法蓮華経」

Category: 信心


 7日付聖教新聞には、お元気な池田先生、奥様の姿が掲載されました。牧口記念会館、東京富士美術館を訪問されたご様子で、昨日8日付の新聞にはそのことにも触れ、随筆を寄稿してくださいました。梅雨の合間の晴れた空のように、私にはうれしい記事でした。先生のブレザーのブルーも、紫陽花のブルーのようで爽やかで、(笑)多くの会員さんの心にも、あかりが灯ったのではないかと思います。

 
 私達のいただいている御本尊様は世界最高、いや宇宙最高の無上の御本尊様です。福として、また智慧として汲めども尽きない、甚深無量の法力、仏力が収まっている宝の蔵、功徳聚です。 宝は取り放題、もうなくなるということもありません。しかも信心をやりぬけば、三世永遠にこの御本尊と共に生きていける、仏の境涯が約束されています。

 いかにしてこの宝を受け取るか?それは信力、行力を強く出す以外にありません。私も信心しながら、組織から離れたり、拝めなかったりと、あれこれ遠回りしました。まさに「修行の枝をきられまげられん事疑(うたがい)なかるべし」(四条金吾殿御返事)との御文の通りです。これからは、素直で強い信心で、しっかり功徳をいただいて実証を示したいものだと思います。

 かつて、私も仕事のことで行き詰まり、自分の智慧ではどうにも打開できないというところにいきました。その悩みの底で、「御本尊様があるじゃないか、御本尊様しかない、今こそ信心だ!」という境地に立てました。それでようやく、信心に開眼し、生命に火もついて、反転攻勢できたことがありました。





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 御本尊様は衆生に信心を教えんがために、時として崖っ淵や谷底に私達を連れていってくださります。そこでもがき苦しみ、信心で這い上がってくるのをじっと見つめておられます。まさに試練こそ、その人にとって最高のパートナーです。またすべての出来事に深い意味があるということだと思います。

 そこでいや増して、強く御本尊様にぶつかって行けば、「妙法」の世界に入れます。信心をつかむことができます。私もその時、「妙法」の世界に一歩深く入ることができたと思いました。「南無妙法蓮華経」が生活上、最高の策であり、智慧だと強く知ったのです。題目によって、いつでもどこでもその最高の智慧、力をいただくことができる。「困った、南無妙法蓮華経」でいいのだ。その代り、この命は御本尊様に捧げていこうと、そういう思いになりました。

 いかに御本尊様を強く信じるということが大事な事か、御本尊様への確信がないことがどれだけ不幸なことか・・・そういうことをいくばくか身で読めたことは本当にありがたい体験となりました。

 信心をがんばっている、仏法対話も100万遍の題目もやっている・・・でも祈りが叶っていかない、功徳が出ない。そういう時は本当に御本尊を信じきれていない、命のすべてでぶつかっていない・・・結局、そういうことではないかと私は思います。100%御本尊を信じて、行が足りて、それで祈りが叶わないということはやはりないと思います。

 人間の不幸の原因は邪宗教にあるわけですが、生命でいえば、それは「御本尊不信」です。我が生命と御本尊様の間に横たわる不信の命・・・その不信こそが不幸の根源なのだと私は常々思います。そこで多くの人が御本尊を信じきれず道を誤まる・・・魔の誑惑に負け、「疑網」に絡めとられていく人を見ると、結局、その人の信力の弱さに魔がつけ込むことがよくわかります。

 誰しも心に不信の命が出るものです。しかし、そこを必死で、信力、行力を奮い起こして立ち向かって生きていく。その姿自体が正しい勝利の信心だと思います。「負けない、あきらめない、くさらない」を合言葉に、どこまでも御本尊を信じ抜き、不信の魔を粉砕していきたいと思います。

<記事は7月10日に加筆しました。>






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2015
07.01

折伏魂

Category: 信心
 

 「ほんとうに宿命転換をしたいなら折伏行をやり抜きなさい」と指導にあります。この御本尊様に身命を捧げ、折伏をやりぬけば、凡夫の姿のまま、未来永劫「仏」の境涯となれます。日蓮大聖人様から「善き哉、善き哉、あなたは真の菩薩です」とほめていただける。そんな境涯になれば生きていることがうれしくてしょうがない、大歓喜の仏・菩薩の仲間入りです。

 日蓮大聖人様はもとより、創価学会の三代の先生も、みんな法華経ゆえに権力者から命を狙われ、時に牢獄にも入られました。そしてその大難に屈せず、法華経に身命を捧げられました。身命を捧げるということは、本当の信心がないとできない、それは並大抵のことではないがゆえに、その功徳を凡夫の智慧で量ることはできないに違いありません。

 私達も難にあって、その万分の一でも身で読み、耐え忍ぶことができたなら、それは今世の果報として、誉れ高いことではないかと思います。とはいえ、牢獄に入ることもないわけですので、生活上、学会のことで悪く言われたり、また宿業が出たりというぐらいのことで、この信心に疑いを起こすようでは、「一生成仏」もおぼつかないものです。

 私達にとって身命を捧げるとは、唱題行と折伏行に、命のあらん限り、精進することです。折伏をやりきって、願いが叶わないなどということもない。戸田先生は願いが叶わないなら「戸田の命を差し上げる」とまで申されました。

 私の先輩も、「私のいただいた功徳は題目よりも折伏の功徳だ」と仰っていました。その先輩は毎日3時間の題目を10年ほどあげられたのですが、それでも「大功徳は折伏でいただいたよ」と言われました。

 折伏に難しい理屈などはいらないと思います。勇気を出して相手のところに行き、一言でも信心の素晴らしさを語ってくる。また相手の悩みを聞いて信心で解決できることを教える。「この世で正しい宗教は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経です、これを拝む功徳はすごい」と確信をこめて語ればいいのだと思います。反対されたり、馬鹿にされたり、それは仕方がないことです。




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 どの人にも10人や20人、いや30人や40人、友人、知人、親戚があります。「折伏先がないなどと、そんなバカなことはないよ」と私は先輩から言われました。折伏相手はいくらでもいる。私の友人は田舎道で偶然、通りすがりの車に乗せてもらった時に、その場で仏法対話しました。そして何年か経ったとき、ある市の会館で入会したその人に出会ったのです。あの時、下種しておいてよかったと、友人は思ったそうです。

 戸田先生も「折伏精神が燃え上がっているか、それで信心の状態がわかる」と言われました。信心や生活が行き詰っている時は、たいてい信心を頭で考えて、折伏をやっていない時だとも言えます。まさに「折伏を行ぜずして、仏法を語るなかれ」ですね。

 折伏を行じゆく人に行き詰まりはない、生命に歓喜が湧くようにできています。そして目に見えて自分に生命力がついてくるのがわかります。怖いものがなくなっていく・・・風を切る勢いが出てきます。貧乏でも病気でも怖くなくなれば、向こうも逃げていく。びくびくしているからいつまでも離れない(笑)「私は南無妙法蓮華経だ、それでもかかってくるか?」と言えば、どんな悪鬼も退散するものです。それぐらいの強気は出したいものです。


 どうせなら「命などいらない。折伏をやり抜いて俺は死んでいくのだ。」そう決意したいと思います。
とはいえ、生きているから折伏できるのですから、命などいらないというのは、言い過ぎですが。(笑)

 「死身弘法」そこまで行けば「仏」でしょうか?きっとすごい魔も出てくるでしょう。しかし、私はやり抜く決意です。残されたこの人生の時間もしれたもの、考えている暇などなくていい・・・「命限りあり惜しむべからず」との心で突進したいと思います。

 皆さんもともどもに折伏をやり切って、一緒に大きな功徳をいただこうではありませんか?






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