広布の大河に君ありて tori

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折伏魂

 

 「ほんとうに宿命転換をしたいなら折伏行をやり抜きなさい」と指導にあります。この御本尊様に身命を捧げ、折伏をやりぬけば、凡夫の姿のまま、未来永劫「仏」の境涯となれます。日蓮大聖人様から「善き哉、善き哉、あなたは真の菩薩です」とほめていただける。そんな境涯になれば生きていることがうれしくてしょうがない、大歓喜の仏・菩薩の仲間入りです。

 日蓮大聖人様はもとより、創価学会の三代の先生も、みんな法華経ゆえに権力者から命を狙われ、時に牢獄にも入られました。そしてその大難に屈せず、法華経に身命を捧げられました。身命を捧げるということは、本当の信心がないとできない、それは並大抵のことではないがゆえに、その功徳を凡夫の智慧で量ることはできないに違いありません。

 私達も難にあって、その万分の一でも身で読み、耐え忍ぶことができたなら、それは今世の果報として、誉れ高いことではないかと思います。とはいえ、牢獄に入ることもないわけですので、生活上、学会のことで悪く言われたり、また宿業が出たりというぐらいのことで、この信心に疑いを起こすようでは、「一生成仏」もおぼつかないものです。

 私達にとって身命を捧げるとは、唱題行と折伏行に、命のあらん限り、精進することです。折伏をやりきって、願いが叶わないなどということもない。戸田先生は願いが叶わないなら「戸田の命を差し上げる」とまで申されました。

 私の先輩も、「私のいただいた功徳は題目よりも折伏の功徳だ」と仰っていました。その先輩は毎日3時間の題目を10年ほどあげられたのですが、それでも「大功徳は折伏でいただいたよ」と言われました。

 折伏に難しい理屈などはいらないと思います。勇気を出して相手のところに行き、一言でも信心の素晴らしさを語ってくる。また相手の悩みを聞いて信心で解決できることを教える。「この世で正しい宗教は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経です、これを拝む功徳はすごい」と確信をこめて語ればいいのだと思います。反対されたり、馬鹿にされたり、それは仕方がないことです。




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 どの人にも10人や20人、いや30人や40人、友人、知人、親戚があります。「折伏先がないなどと、そんなバカなことはないよ」と私は先輩から言われました。折伏相手はいくらでもいる。私の友人は田舎道で偶然、通りすがりの車に乗せてもらった時に、その場で仏法対話しました。そして何年か経ったとき、ある市の会館で入会したその人に出会ったのです。あの時、下種しておいてよかったと、友人は思ったそうです。

 戸田先生も「折伏精神が燃え上がっているか、それで信心の状態がわかる」と言われました。信心や生活が行き詰っている時は、たいてい信心を頭で考えて、折伏をやっていない時だとも言えます。まさに「折伏を行ぜずして、仏法を語るなかれ」ですね。

 折伏を行じゆく人に行き詰まりはない、生命に歓喜が湧くようにできています。そして目に見えて自分に生命力がついてくるのがわかります。怖いものがなくなっていく・・・風を切る勢いが出てきます。貧乏でも病気でも怖くなくなれば、向こうも逃げていく。びくびくしているからいつまでも離れない(笑)「私は南無妙法蓮華経だ、それでもかかってくるか?」と言えば、どんな悪鬼も退散するものです。それぐらいの強気は出したいものです。


 どうせなら「命などいらない。折伏をやり抜いて俺は死んでいくのだ。」そう決意したいと思います。
とはいえ、生きているから折伏できるのですから、命などいらないというのは、言い過ぎですが。(笑)

 「死身弘法」そこまで行けば「仏」でしょうか?きっとすごい魔も出てくるでしょう。しかし、私はやり抜く決意です。残されたこの人生の時間もしれたもの、考えている暇などなくていい・・・「命限りあり惜しむべからず」との心で突進したいと思います。

 皆さんもともどもに折伏をやり切って、一緒に大きな功徳をいただこうではありませんか?






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