2015
08.28

師弟の世界に仏は光りて

Category: 未分類
 

 少し前になりますが、8月9日付の聖教新聞に、池田先生撮影の沖縄の恩納村の海の写真が掲載されました。青い海の写真を覚えておられる方も多いことと思います。あまりに美しい写真でしたので、「生命尊厳の時代を築け」との先生の詩と共に切り抜いて、今も仕事場の壁に貼って、毎日眺めています。我が心をこの海の写真に染めあげたいと思うほど、私にとっては美しい写真でした。

 写真にしても文章にしても、そこにはその人の生命が写しだされます。池田先生の境涯を、私が語ることなどできませんが、その生命から発せられる光は、どれほど多くの人々の仏界を呼び覚まし、幸福へと導いていく力があるのでしょうか?まさにその力は無限であり、智慧は無尽蔵であると、それ故、先生に随順していきたいと念願するものです。

 「この現実世界は仏と魔との戦場である。人間を不幸のどん底に陥れんとする「第六天の魔王」に対して人類を平和へ、幸福へ、希望へと導かんとする「仏」の勢力は断じて勝たねばならない。」詩の中で先生は訴えられます。

 仏の言葉である御書と、広宣流布に身命を捧げられた先生の指導こそが、我らの依経であり、それを信奉していく人生もつつがなく智慧と生命力に溢れ、魔を粉砕しゆくであろうと思います。





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 世間には先生の存在を知らないまま一生を終える人も多くおられます。また先生を悪しざまに中傷するだけの人もいることでしょう。それに比べ、私は先生を父とも師とも主人とも思い、随順していきたいと思います。その心が絶えることがなければ、「師弟不二」の原理にのって、「絶対的幸福」に至ることは、疑いようのないことと私には思えます。

「古(いにしえ)の奇(く)しき縁(えにし)に仕えしを
 
   人は変われど我は変わらじ」
 
 戸田先生が苦境にある時、手のひらを返したように「戸田のバカ野郎」と言って、去っていった幹部たちがいました。しかし、先生はこのお歌の心でただ一人、身命を賭して戸田先生を守り抜かれました。

 調子のいい時は誰でもついてきます。しかし本当に苦しい時に、自分のそばにいてくれる人こそ、真の友であり、その時に人間の本心もわかるものです。他者の仏性を信じるとはいえ、その人が信用できるかどうか、その判断は容易なことではありません。魔の働きをなす人間が無数にいるのも世の真実です。


 私など間違いなく愚昧の徒(笑)であり、不肖の弟子です。しかし、池田先生との師弟不二なる生命に仏界が湧現しゆくことを確信しています。「師弟不二」に生きようとする人、その人の生命には必ずや仏界が顕われることでしょう。先生一筋との心をもって、日々、前進すれば、それで信心に悩むことも行き詰ることもありません。

 27歳まで「創価学会」のソの字も知らず、池田先生を宗教と大衆を利用して私腹を肥やす人のように思っていた私が、自分の生命を差し上げてもついて行きたいと思うようになったのですから、それを私の「発迹顕本」、「人間革命」と言わずしてなんというのでしょうか?それでも世間の人からは「おまえはおかしい」などと言われるのですから、本当に信心の世界とは難解なものであり、反面、実に面白いものであると思う次第です。




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2015
08.21

心ひとつ

Category: 信心

 心は目に見えない。 だが、その心ひとつで、

 目に見える現実も 大きく動かしていける。

 一人の心の革命によって、自分の人生も、社会も、国土も

 必ず変えていくことができる。(SGIグラフ9月号 池田先生の指導)

 
 美しいライン川沿いの街の写真と共に、今日届いたSGIグラフの巻頭には先生の指導が掲げられています。

 どの人にも信仰の原点というものがあると思いますが、池田先生こそが、我らが立ち返るべき原点であり、あまたの著作のどこをひらいても、仏法の眼から諸法万般にわたり、我々が進むべき道を示してくださいます。

 私も何かあるたび、手元にある大白蓮華や著作を手にします。そこに帰っていきさえすれば、答えが見つかる。砂漠で水を得るように希望がよみがえり、再び立ち上がることができるのです。

 今はいつでもその指導に触れることができます。仏法の奥義を、信心の極意を平易な言葉でわかりやすく説いてくださっているのですから、本当にありがたいことだと思います。





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 指導では私達の「心ひとつ」で、環境を、世界を変えていけると教えてくださっています。環境を変え、世界を変え、自分の人生を望む方向に変えるためには何が必要か?それは「心ひとつ」でできると言われているのです。

 「力も智慧もない。お金もない。今の自分ではとても無理だ・・・」そういう思いの時、私達は現実を前にうなだれ、自分をあきらめてしまうことが多いものです。しかし、妙法には不可能はない、祈りとして叶わざるはないと断言されます。「無理だ、駄目だ」と決めてしまう自分の弱き心を打ち破り、「勝て!」と教えているのです。そして不屈の信心で立ち上がる時、必ず道は開ける・・・それこそが妙法の世界だと思います。

 自分がなりたい未来の姿を想像し、必ずそうなると確信しゆくために、題目で生命を磨いていく。不信の生命と勝つか負けるか、日々勝負です。そして自分は大丈夫だとの確信が持てた時、その「心ひとつ」から、諦めや疑いで錆びついた生命のモーターが、本来の回転を取戻し、祈りを叶えゆく働きが、力強く起こってくるのです。

 まさにわが生命を仏と信じることは、自分の無限の可能性を信じることに違いありません。「心」という武器をもって、魔との闘争を勝ち越えていく。信心は平和と幸福への無血革命であり、希望と歓喜に溢れた自己との闘争だと思います。

 縁あって偉大な妙法をたもった私達です。人生の途上、不可能と思えることが顕われた時が、信心を体得する絶好のチャンスの時です。臆せず勇気をもって挑戦して、妙法の力で変毒為薬し、その姿をもって、「よく見るがいい、これが学会の信心の凄さなのだ」との実証で、世の中を折伏していきたいものだと思います。

 
 心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し・・・
 最高の「未来予想図」を心に描いて、さあ、前進です。





 
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2015
08.10

めぐり来る8月15日

Category: 徒然の記


 信心するものにとって、平和ということは、とても大事なテーマです。特に信心が深まるほど、他者の幸福、世界の平和ということに眼が開いていくのは、自然な道理ではないかと思います。

 立正安国論にも「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(p31)とあります。自分のことよりも、国土安穏を願っていきなさいとのご教示です。この御文を私も、日々心肝に染めて生きていこうと決意しています。

 わが地元の自治会でも、中学生たちに戦争を語り継ごうと、今年は8月15日に集会を企画しました。私も中心者として参加しており、当日は進行役を務めます。

 10年ほど前ですが、仕事の現場である老人の方と作業した時、お昼休みにその方と対話したいと思い、休憩中の車に近づきました。すると中からは軍歌が流れています。お話を聞くと、「戦地で死んでいった戦友と、今も一緒なんや。何年たっても死んでいった戦友を忘れることができない。」と言われました。飢えやマラリヤなどと戦いながら、南方のジャングルの中で敵兵との殺し合いもあったことでしょう。そのすさまじい戦争の記憶に一人耐えながら、また自分だけが生きて帰ったことを、戦友に詫びながら生きてこられたのかもしれません。

 話も途切れて、私もそれ以上、言葉を継ぐことができませんでした。「いつになってもこの人にとって、戦争は終わらない。あの戦争ほど人生を、青春を蹂躙したものはなかったのだ、その深い傷がどうして年月だけで癒えようか?」と思いました。




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 先日のある地方新聞に、作家の野坂昭如さんが寄稿されておられ、その中の言葉が印象に残りました。それは「国は国民の生命、財産について保障などしない。国が守るのは国家、国体である。」との言葉です。これは権力をもった為政者の本質を突いた一つの真理ではないかと思います。

 「一億玉砕」の言葉の元、国が守ろうとしたのはまさしく国体であって、国民の生命ではなかった。それが歴史です。国民の生命を守り、犠牲を出さないことを第一義に考えることができたなら、何百万の若き青年の命を救えたかもしれない。

 もちろん、今の時代にあのような戦争が起きようとは、にわかに想像しがたいことです。しかし、生命尊厳の善なる思想も、荒れ狂った魔性の前ではひとたまりもない、その恐ろしさを学ぶことも大事なことです。 ひとたび武力で戦うような状態になれば、対話の方向にもっていくのは至難の業であり、憎悪が憎悪を招き、果てしない泥沼の争いになっていくというのが、歴史の教訓でもあります。

 地域でも今回の法案に反対という人の声を、外部の方から多く聞きました。そこをよくお聞きしますと、法案の中身を吟味してということではなく、安倍政権がなんとなく戦争へと向かう方向に舵を切ろうとしているのではないか?そういう匂い、雰囲気というものに対して、本能的、また情緒的に怖さ、嫌悪を感じるということのように思いました。特にご婦人の方からそういう意見を伺いました。

 翻って、これからの時代、最も危惧すべきは、法案の中身もさることながら、その法律を扱う政治家の資質ということではないでしょうか?

 公明党の働きには大いに期待したいところですが、与党の中心ではありません。昨今の一連の自民党議員の愚かしい発言を見ていますと、やがてこうした人達が政権の中枢に就いた時、危ないという感じもあります。法案ができて終わりではない。それをどう制御し、国民の生命を守るために有効に使っていけるかということが問われます。

 結局、政治も平和も社会も人で決まっていく。いかに利他の心、菩薩の心を持った人間を宗教と教育が作っていけるか、一切の眼目はそこにあるのだと思います。

 池田先生が、世界に向かって、広宣流布の大道を確かなものとされ、最後の仕事を教育と定められたことは、まさしく世界の平和の礎を築いておきたい、若者に託す以外にないという、切なる心情だと私は受け止めています。

 その先生の蒔かれた種がやがて若木から大樹へと育ち、三毒の渦巻く悪しき社会の中で、人間の根本悪と戦っていく・・・「諸君の力で戦って勝ってもらいたい」との先生の平和への叫びが、私の胸にも響いてきます。

 私も地域にあって、一人でもいい、広布に責任を持つ若者を育てなければいけない、そこに自分の使命もあると感じます。私にとっては反戦を誓うだけでなく、未来に向かい小さな対話からでも、平和勢力を作っていかねばならない・・・そう決意を新たにする8月15日です。





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2015
08.04

歓喜の世界を目指して行こう!

Category: 未分類


 毎日、暑い日が続きます。八熱地獄もかくありやという感じですね。
どうか皆さん、お身体をご自愛願います。ゆっくり避暑でもできる身分になりたいものですね。(笑)

 入会したころ、先輩から「信心は歓喜と感謝だよ」と教えられました。当時、私には「歓喜」の「か」の字もなくて(笑)仲間と顔つきあわせて「そんな歓喜なんかでーへんなあ。拝んでも、もやもやしているし、この身のどこに歓喜があるんや?」なんて話していました。

 歓喜と言ってもいろいろありますが、大きく分ければ「絶対的歓喜」と「相対的歓喜」と言っていいかもしれません。仏法では「絶対的幸福」を説きますので、それにならって歓喜も「絶対的歓喜」です。何かいいことがあったり、去年と比較してうれしいというのではなく、自分自身がそのままで歓喜に溢れている、生きている命そのものがうれしくて仕方がない。そういう生命の歓喜の世界が、私達の本来の姿だと思います。

 何があろうとうれしくて仕方がないのですから、病気や貧乏が出ても大丈夫です。死んでもうれしいとなれば、生死を乗り越えた境涯でしょう。信心さえ真面目にやれば、どんな人でもそうなれるはずです。私は過去に悪いことしたから駄目だろうなんてことはありません。「幸福になるのだ」と決意して頑張れば絶対に幸福になれます。

 そうなるためには、大聖人様や学会の歴代の先生のように、法華経ゆえの大難にあうことが一番の近道です。しかし私などそこまでの信心はとうていできませんので、御本尊を信じてお題目をあげ、広宣流布のお勤めをして、それに代えていただくほかありません。

 そのことを思えば、病気の一つ、貧乏の一つなど知れたものです。戸田先生はかつて「命を捨てたものほど手の付けられないものはいない」と仰せになりました。命を捨てたら、身体もお金も惜しくない・・・惜しいうちはまだ本当に捨てていないのですね。(笑)それは自分の胸に聞いてみればよくわかります。そこに自分の信心と境涯が見えると思います。




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 結局、辛抱して信心を貫いて、陰徳を積んでいくしかありません。信心は人の評価や役職ではない・・・御本尊様に通じるかどうかだけですから。真面目な信心だけは必ず御本尊様に通じると思います。

 真面目な信心ができなかった人が、愚痴と不信を抱いて反逆者になっていく・・・「私はいい加減な信心でした。」とみずから認めているようなものです。その上、一人落ちていくのは面白くない、あいつもこいつも道連れにしたいと、どす黒い提婆の心が出ます。そんなやつの話を面白いと思うのは、その人にも同じ心があるからであり、気を付けなければなりません。

 御本尊を信じきった時には、悩みなんて吹っ飛んでしまう。大波でサーフィンするように悩みを楽しんで、腹の底から愉快に笑える。生命は歓喜と感謝に溢れていくがゆえに、すべての祈りは叶っていく・・・そういう世界に入っていけるのが、法華経の功徳だと思います。指導には、「信心しきったもの」「信じきったもの」という条件がありますので、しっかり肝に銘じたいと思います。

 すべてはそれを知るための苦難です。その苦難がないことには歓喜はあらわれない・・・(なんだかベートーベンみたいですが(笑))そう心得れば、苦難が大きいほど歓喜も大きい。信心して苦難がないことほど、つまらないことはないと思います。それが「難即悟達」の法華経の原理です。

 さあ、今日もまた、強い心、朗らかな心で、師匠の仰せの通り、この身を御本尊様にまかせて、精進していきたいと思います。





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