2015
08.10

めぐり来る8月15日

Category: 徒然の記


 信心するものにとって、平和ということは、とても大事なテーマです。特に信心が深まるほど、他者の幸福、世界の平和ということに眼が開いていくのは、自然な道理ではないかと思います。

 立正安国論にも「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(p31)とあります。自分のことよりも、国土安穏を願っていきなさいとのご教示です。この御文を私も、日々心肝に染めて生きていこうと決意しています。

 わが地元の自治会でも、中学生たちに戦争を語り継ごうと、今年は8月15日に集会を企画しました。私も中心者として参加しており、当日は進行役を務めます。

 10年ほど前ですが、仕事の現場である老人の方と作業した時、お昼休みにその方と対話したいと思い、休憩中の車に近づきました。すると中からは軍歌が流れています。お話を聞くと、「戦地で死んでいった戦友と、今も一緒なんや。何年たっても死んでいった戦友を忘れることができない。」と言われました。飢えやマラリヤなどと戦いながら、南方のジャングルの中で敵兵との殺し合いもあったことでしょう。そのすさまじい戦争の記憶に一人耐えながら、また自分だけが生きて帰ったことを、戦友に詫びながら生きてこられたのかもしれません。

 話も途切れて、私もそれ以上、言葉を継ぐことができませんでした。「いつになってもこの人にとって、戦争は終わらない。あの戦争ほど人生を、青春を蹂躙したものはなかったのだ、その深い傷がどうして年月だけで癒えようか?」と思いました。




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 先日のある地方新聞に、作家の野坂昭如さんが寄稿されておられ、その中の言葉が印象に残りました。それは「国は国民の生命、財産について保障などしない。国が守るのは国家、国体である。」との言葉です。これは権力をもった為政者の本質を突いた一つの真理ではないかと思います。

 「一億玉砕」の言葉の元、国が守ろうとしたのはまさしく国体であって、国民の生命ではなかった。それが歴史です。国民の生命を守り、犠牲を出さないことを第一義に考えることができたなら、何百万の若き青年の命を救えたかもしれない。

 もちろん、今の時代にあのような戦争が起きようとは、にわかに想像しがたいことです。しかし、生命尊厳の善なる思想も、荒れ狂った魔性の前ではひとたまりもない、その恐ろしさを学ぶことも大事なことです。 ひとたび武力で戦うような状態になれば、対話の方向にもっていくのは至難の業であり、憎悪が憎悪を招き、果てしない泥沼の争いになっていくというのが、歴史の教訓でもあります。

 地域でも今回の法案に反対という人の声を、外部の方から多く聞きました。そこをよくお聞きしますと、法案の中身を吟味してということではなく、安倍政権がなんとなく戦争へと向かう方向に舵を切ろうとしているのではないか?そういう匂い、雰囲気というものに対して、本能的、また情緒的に怖さ、嫌悪を感じるということのように思いました。特にご婦人の方からそういう意見を伺いました。

 翻って、これからの時代、最も危惧すべきは、法案の中身もさることながら、その法律を扱う政治家の資質ということではないでしょうか?

 公明党の働きには大いに期待したいところですが、与党の中心ではありません。昨今の一連の自民党議員の愚かしい発言を見ていますと、やがてこうした人達が政権の中枢に就いた時、危ないという感じもあります。法案ができて終わりではない。それをどう制御し、国民の生命を守るために有効に使っていけるかということが問われます。

 結局、政治も平和も社会も人で決まっていく。いかに利他の心、菩薩の心を持った人間を宗教と教育が作っていけるか、一切の眼目はそこにあるのだと思います。

 池田先生が、世界に向かって、広宣流布の大道を確かなものとされ、最後の仕事を教育と定められたことは、まさしく世界の平和の礎を築いておきたい、若者に託す以外にないという、切なる心情だと私は受け止めています。

 その先生の蒔かれた種がやがて若木から大樹へと育ち、三毒の渦巻く悪しき社会の中で、人間の根本悪と戦っていく・・・「諸君の力で戦って勝ってもらいたい」との先生の平和への叫びが、私の胸にも響いてきます。

 私も地域にあって、一人でもいい、広布に責任を持つ若者を育てなければいけない、そこに自分の使命もあると感じます。私にとっては反戦を誓うだけでなく、未来に向かい小さな対話からでも、平和勢力を作っていかねばならない・・・そう決意を新たにする8月15日です。





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