2015
10.19

広布は感動の出会いから・・・

Category: 未分類


 先日、菊川さんちよさんのブログで、沖縄のうるとらまんさん上京の記事が出ていました。ちよさんの地区の座談会にも参加されたようです。ネット上には人を下げゆくような記事が多い中、是々非々あるでしょうが、私はこれらの記事は学会員さんらしいと思い、素直にいいなと思いました。

 私も地区の役職者として、会合を企画運営することがあります。基本は学会の打ちだしに沿いますが、特に指示がない場合、内容は地区独自で自由にやっています。

 座談会であれば会員さんの提案で内容を決定することも良くありますし、そういうアイデアが活発に出ること自体、地区が躍動している証拠です。どんな会合も誰かの発案によって動き始めます。それが幹部さんであれ、一部員さんであれ、要は地域広布の目的に適えばそれでいいことだと思います。

 特に現場というのは生き物のようなところがあり、その時々で価値的な判断が求められます。たとえばよその地区と交流して開くことも、ある特定の人にスポットを当てることも、それが価値的であるなら私は自由でいいと思いますし、幹部さんにももちろん声をおかけします。

 先日、秋の聖教PR版の一面にイギリスの座談会のことが出ていました。

「イギリスの座談会には式次第がない。決まっているのは進行役とテーマのみ。簡単な自己紹介の後、自由な語らいが進んでいく。」とあります。

 イギリスでは「学会歌」も「巻頭言拝読」もないそうです。(笑) これは学会本部がイギリスSGIに対して「座談会はこうでないといけない」という形式を押し付けていない証拠でもあるのではないでしょうか?

 「こうあらねばならない」的な、「教条主義」、「形式主義」が会員の歓喜や躍動を削ぐことがあります。それこそ、広布を妨げる非人間主義の姿です。大事なことは会員さんが歓喜し、発心し、感動することです。学会の主役はどこまでも会員の方たちですから。




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 交流ということについても学会の交流とは「人間交流」であり、生命と生命の打ち合い、触発、融合の世界を創造し見出だすことに違いありません。人間同士、道なきところに道を作り、互いの生命が往来して感動しあう・・・それは人間だけが持つ美しい生命のドラマです。そして「学会って素晴らしいな、ほんと学会員でよかったな」とそうなって初めて広布が進展するのです。それは折伏でも同じことではないでしょうか?

 たとえ最初はネット上の出会いであっても、信頼関係があれば、リアルで会うというのもいたって自然な感情、流れであり、「出会うべくして出会う」、「必要な人同士は出会うようにできている」のだと思います。それも因縁、縁起であり、人生を決定づけるような素敵な出会いもあるはずです。

 そして出会う人、来てくださる人を最高の真心で歓迎する・・・原田会長が海外の同志に向かって、「遠いところ、本当によく来てくださいました。私共は皆さまを最大に歓迎いたします。」と挨拶されるように、私達もどんな場所であれ、同志、友人を最高の真心で迎えるべきです。それはまさに法華経にある「当起遠迎、当如敬仏(とうきおんごう、とうにょきょぶつ=当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)」の実践の姿にほかなりません。

 私もかつて友人を座談会にお誘いした時、演歌でCDまで出された方でしたので、地区に提案してその方の歌謡ショーを入れ座談会を開催しました。2曲の予定がアンコールで3曲歌っていただきました。その方にも大変感謝され、そしてそれ以後、その方は会友となられ、今も常に座談会、同中に喜んで参加してくださいます。

 池田先生もかつて地域の祭りの輪の中に入って、ハッピにねじり鉢巻きで踊られました。(確か沖縄でしたか?)驚く幹部を尻目に堂々、神社の鳥居をくぐり、参道で商売する会員の激励にも向かわれました。まさにサプライズの連続のような激励行です。決して、スーツで壇上からスピーチされるだけではありません。むしろ、その姿をかなぐり捨て、庶民の懐の中に飛び込んで行かれる。息と息、声と声を交わしながら、生命を触発され、信心の魂を打ち込んでいかれるのです。

 理屈や言葉だけでは人は本当には変わらない・・・生命の感動、感激があってそれで人一人の人間革命が始まるのだと思います。定規で線を引いたような形式主義、行動なき机上主義を打破し、常に新しい発想、ダイナミックな生命力で動かないと、時代にも遅れ、人の心からも離れていくと思えてなりません。

 日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を唱えゆく我らです。その題目で満々たる生命力を湧現しながら現場に飛び込み、智慧を発揮しながら、広布新時代における「新・創価学会」を作りゆきたいと思います。




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2015
10.12

箸(はし)の使い方一つ・・・・

Category: 徒然の記
 


 仏様の心は広大で凡夫の智慧では到底、量れないということになっています。それに比べれば、凡夫の心は狭いものです。時によく見えるしよく量れます。すぐに怒ったりしょんぼりしたり・・・小さなことにこだわり、他人を妬み、自分を良く見せたい・・・世間を見ても、また自分を見ても、どうしてまあこんなに小さいものだと呆れてしまいます。(笑)

 人間が利己主義と言うものを超克でき菩薩の心になれるなら、個人の喧嘩も国同士の戦争も起きることはないでしょう。これこそ究極の「平和主義」であり「安全保障」ですね。

 以前、「名字の言」に「地獄の長い箸」のお話が出ていました。(一部抜粋)

 『法華経の智慧』にも紹介された“地獄の長い箸”の話。地獄にいる衆生たちは、目の前に並べられたご馳走を食べられずに苦しむ。自分の腕よりも長い箸が邪魔をするからだ

 一方、仏国土。同じように、長い箸を手にしていたが、皆、楽しそうだった。なぜか――。長い箸を利用し、他の人の口にご馳走を運び合い、互いの食事を可能にしていたからである

 地獄と仏国土の違いは、「環境」ではなく、人の「心」にあることを示した譬え。とりわけ、人のために尽くせば、わが心も充実することを教えていよう    2008年6月26日聖教新聞 「名字の言」



 箸の使い方一つにも智慧があります。戦争の火種がくすぶるような世の中を根本的に平和にするには、仏や菩薩の心を持った人が増えていくしかないということです。決して環境ではなく「心」。それを前提に一人一人の人間における「仏と魔」「菩薩と利己主義」・・・その戦いが未来を決定していくのに違いありません。





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 世の中、できるだけ自分がお金を持ちたい、小さな島も自分の領土にしたい・・・・そのように自分の欲望に執着して生きているのがこの娑婆世界であり、第六天の魔王の世界です。また餓鬼界や畜生界中心の生命活動とも言えます。それ故に絶えず争いが起こり、苦しまねばならない世界です。

 企業なんかを見ても自社の利益よりも他社の利益を優先するなどという会社はありません。なりふり構わず「我が社の利益第一」です。そういう社会で生きていると、益々人間が狭量になっていくのかもしれません。社会全体にも大義に生きるという精神が失われて久しいように思います。

 そんな魔性の価値観の世界に私達も否応なく生きており、それに適応するようにならされます。その価値観からはみ出すとたいていの者は「変わり者」と呼ばれ、社会の枠組みから落ちこぼれることにもなります。

 「長い箸」の話に沿えば、自分の食べものは人の口に入れてあげるためにあります。お金を持っていてもそれは世のため人のために使いたくなります。誰もがこんな心で生きていけば、とても幸せで平和な世界だと思うのですが、果たしてそのような世の中を人間は実現できるでしょうか?私にはとても興味深いテーマです。

 「世界は、そして人類は菩薩界になれるのか?」・・・菩薩が平和社会をつくることはわかっても、人類が菩薩にならなければ平和にはなりません。まさしく私達の広宣流布の運動はそうした人間を輩出しゆく前代未聞の聖業です。

  「仏と魔」の世界にあって、自分への執着を捨て、仏界を開きゆく・・・その戦いに命を削る人々がいかに尊いことか・・・まさに学会員こそ国宝であり、世界の未来の命運を左右する仏の軍勢です。「こんな私が・・・」と思いますが、その人以外に人はいません。まさに我々一人一人が大きな未来への使命を帯びていることを知るべきです。

 仏法という大善を長い箸に乗せて、大いに他者の心田に届け行く・・・「仏法対話」「折伏」こそが仏意に適った最極の菩薩行と心得たいと思います。





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