2015
11.13

「足下を掘れ、そこに泉あり」

Category: 未分類
 

 人の文章や言葉は、その字面(じづら)を読んだり聞き流したりするだけのこともあれば、深く思索しつつ読んだり聞くこともあります。同じ仏法の話でも、生命の奥底で体得されている方の言葉は深く重みがあります。それは時にこちらの生命の根っこに突き刺さってくるものです。

 戸田先生や池田先生の指導は、一つ一つに千金の重みがあると私は感じます。言葉に曖昧さもいつわりのカケラもありません。言葉が言葉以上の豊かで強い生命力の光を放っています。まさに「言葉は命であり境涯である」と思います。

 指導にしても到達された仏の生命から相手を見つめ、世界を見ておられるに違いありません。こちらが知らない自分の善悪や三世の姿まで見通しておられるのですから嘘は通じない・・・そして最も正しい指導をすることができる、そういうことだと思います。

 その人が自身の生命の到達した場所が深ければ深いほど、人や世の中を深く洞察できることでしょう。御書の拝読にしましても、私など文上の意味を追いかけるのがやっとなわけですが、仏法を深く身読された方は、「そうだ、そうだ、その通り」とうなずきながら、より深く拝せるようになるのだと思います。




コスモス8






 古今東西の思想家の方の箴言(しんげん)を池田先生もよくスピーチ等で引かれます。それらは仏法の生命観と共鳴し、人間の最高の価値、エッセンスを抽出したものだからこそ、私達にも仏法の一分として紹介してくださるのだと思います。

 そんな言葉の中で私が大事にしてきたのが、「足下(そっか)を掘れ、そこに泉あり」とのニーチェの言葉です。もちろんこの言葉以外、ニーチェについては何も知らない私ですが(笑)、その思想はともかく、池田先生のスピーチでお聞きし、それ以来私の脳裏からこの言葉が離れることはなくなりました。

 信心は自身の変革によって人や環境をも変えていこうというものです。また「一生成仏」ということも自分を仏と知ることに他なりません。その意味で唱題行に徹し、自分自身を掘り下げていくことからすべては始まる・・・もちろん他者の幸福も広宣流布も「自他不二」の原理からして同時進行に開け行くに違いありません。

 私自身、最近は御本尊にまっすぐな力強い題目がよくあがるようになりました。あたかもそれは自分自身の生命を掘り下げていく修行そのものです。「足下を掘れ!足下を掘れ!」と言い聞かせながら題目をあげています。

 修行と言っても自分の幸せのためにやるのですから、これほどありがたくうれしい修行はありません。感謝と歓喜の題目であれば毎日、自分が変わっていくのもよくわかります。

 よく池田先生が私達に対して、「妙法をたもったのだからみなさんは必ず幸せになるのです。」と断言なされます。私などその言葉が信じられなくて、こんな私が幸せになれるのか?と迷いながらやってきました。ところが歓喜で題目があがり始めると、「そうだ、そうだ。その通りだよ」とうなずけるようになりました。(笑)こんな私でも「絶対的幸福」は間違いないと思うのですから、私にとって妙法は「希望の泉」そのものです。あとは命にあるこの宝の山を怠りなく掘り抜いていけばいいのです。

 無理難題に思えるこの人生も、御本尊様さえあれば、そして弛(たゆ)みない唱題行を根本にすれば、それですべて大丈夫・・・そう確信できるようになったことが私の一番の功徳かもしれません。

 人は見ずともこつこつと忍耐強く、日々の信心で生命を磨いていく・・・そこに冥益ともいえる命の輝きがいつしかじわじわと現れていくものです。その喜びをかみしめながら、今日も御本尊に向かいたいと思います。





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