2015
11.26

「信の一字」で行こう!

Category: 未分類
 

 念仏を始め、大半の宗教はことごとく逃避の宗教だと言えると思います。「穢土(えど)を嫌い極楽に向かわせる」「世を捨て人里離れて修行をする」「死んだ先祖のせいにして布施をとる」のもすべて現実逃避です。「苦から逃れたい」「楽になりたい」そういう弱い心につけ込んで、ありもしない妄想の世界に引きずり込み、生命力を奪っていくのは魔や悪鬼の好むところでしょう。

 私達はとかく、「貧乏さえなければ」「病気さえなければ」「あの人さえいなければ」と「あれこれ」なければいいと思うものです。そして現実から目をそらし、苦悩がない世界に憧れます。

 しかしそういう感傷は日蓮仏法でないことを池田先生は常々指導されています。感傷というのはどこか世をはかなむ心であり、無常感、無気力、退廃に通じます。若い時、私もそんな気分の時がありました。学生運動の火が消え、三無主義(懐かしい言葉です。)の風潮の中で、妙法を知ることもなく、どこか空しい気持ちで青春時代を送りました。

 「現実から目をそらす命」それは苦しい時に顔を出します。そして現実と向き合わない間、状況は変わらない。特に深い悩みでは無間地獄となって永遠に続くかと思い逃げ出したいものです。

  私にもこの「逃避」の命があります。崖っぷちに追い込まれると「これは無理だろう」「もういいよ」と諦(あきら)めが出ます。男は諦めが肝心ですが、仕事や人生はそれでは困りますね。諦めは御本尊不信に通じ、それで「南無妙法蓮華経」とやっても「口は妙法、心は念仏」です。まさに水の上で火を炊くようなもの、お湿(しめ)りのような信心では燃えっぷりも悪いものです。




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 題目もよくあげているのに祈りが叶っていかない・・・それは御本尊のせいかというとやはりこちらのせいです。命に迷いや不信が出て心がぶれる・・・・自分の無限の可能性を本当は信じていない・・・そんな心が出ることがあります。日替わり定食みたいに不信の命が出てきて、それはどういうわけかすぐに叶ってしまう。(笑)そこには御本尊様を信じきれていない自分がいるものです。

 結局、我が身を苦しめるものは生命に潜む「不信」という名の魔性であり、それはまさに「一念無明の迷信」(一生成仏抄384P)です。それが不幸の根源であり、日蓮大聖人様は「信の一字」で打ち破るのだとご教示されています。

 「必ず願いは叶う」、「祈りは通じる」と確信できずして、そんな祈りでどうやって道が開いたりするでしょうか?100万遍の題目も迷いのない一念があってこそだと思います。
 
 心を鍛え迷いを打ち破り、「信の一字」で我が身を染めあげていこう!日々、たゆみない唱題行で我が生命の不信を打ち破り、どこまでも現実変革・現実勝利を目指す勇気ある信仰者として戦っていきたいと思います。



 


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