2016
01.30

生命に眠る師子

Category: 未分類


 信心をしている以上は実証を出したいというのは誰しも思うところです。いかに教学を学んでも、実証が出せなければそれは理屈で終わってしまいます。また人にも伝わりません。ちょうど今月の御書講義も『三三蔵祈雨事』で、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文にはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」との御文を学びました。結果を出すということがこの信心の大事な目的です。

 「君の命には無限の可能性がある」と言われますと、私はそれはそうだと今は思えるようになりました。「どんな願いも叶えゆく力が自分にはある…後は妙法でいくらでもその力を出せばいいのだ」と確信しています。
 不可能と思えることも可能にできる、だから不可能と思える道を歩いて、自分がそれを証明するのだ・・・それが御本尊様から与えられた私の使命です。「あいつは死んだよ」「あいつはひどい人生だよ」そう言われた私が、この信心で蘇生し、大逆転する・・・それが私に与えられた今世のシナリオです。

 信心の環境も決して楽ではありません。200世帯の自治会で学会員は3名、活動家は私一人という状態です。そういう自治区がいくつか集まったのが私の地区です。真言、念仏でなければ人でないという因習深い田舎ですが、ここが今世の舞台。広布の舞台に不足はありません。不足しているのは私の勇気です。




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 村中、折伏して回って、塩を投げられ村八分になった・・・そんなところまで私はまだまだです。しかし、折伏の機は熟していると思います。あとは語り抜くのみ。そう思うだけで私の身体は「やらんかな」の気持ちに燃え上がります。

 今は会う人毎に仏法対話に入れるまでになりました。この生命力も現証であり、功徳だと思います。「窮鼠猫を食む」ではありませんが、年中、背水の陣です。だからこそ力を出そうとすることができる。満たされた状態では本当の力は出ない。それは仏様の御計らいだと思います。

 時を待つのか、作るのか?私なりに考え、自治会の活動も務め、信頼と友好を築きました。学会員は村の付き合いをしないと冷ややかに思われていましたが、私は神社の勤めも拝むこと以外は断りませんでした。そのせいか「君がここまでやってくれるとは思わなかった、偉いと思った」と言われ、中には選挙の頼みも聞いてもらえる友人もできました。

 今、信心の確信も強くなり、創価学会と共に生きゆく運命を自覚し戦い抜いて行きたい思いです。心に池田先生があれば勇気はいくらでも湧いてきます。どの人の生命にも「師弟」という名の「師子」がいます。それはいまだ眠れる師子ですが、題目の音声に呼び出されて顕われます。この師子がひとたび立ち上がれば自分の不幸な宿命を打ち破り、環境、国土をも変えていけるのです。

 終始、魔が競って陣地を奪い合う綱引きのような日々ですが、それも御聖訓通り・・・まだまだ私の魔などは小さな魔です。いつかは もっと大きな魔を呼び顕して、妙法の宝塔を我が生命に厳然と打ち立てねばなりません。

 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(富木入道殿御返事、955㌻)との御金言を抱きしめて、学会精神、折伏精神をたぎらせ、舞台狭しとこの故郷の地で妙法流布に生き抜こうと思います。





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2016
01.19

わが地区の宝の人

Category: 徒然の記


 私の地区の婦人部員さんで、他所から引っ越しでこちらにこられた方がおられます。入会してまだ数年ですが、どちらかというと言いたい放題、遠慮なしのタイプ。時に毒舌ときつい冗談の好きな50代後半のおばちゃんで、風貌もなかなかの迫力です。(あれ?どこかにもいそうな・・・(笑))
 
 一応、バツイチ独り身の婦人部員さんなので、私もお住まいの中まではお邪魔しませんが、病気がちなので電話などでよく励まします。座談会や協議会に見えられると、主に私をターゲットに毒舌が炸裂することがあります。そして帰る時には「ああ、今日もすっとした。○○部長はいじめがいがあるわー。」と言って「ガハハ」と笑って帰られます。その笑いには見栄や嫌味が微塵もない・・・カラッとしたものです。

 私とはウマが合うのか、私はその毒舌が決して嫌いではなく、むしろ秘かに期待し楽しみにしています。いつか座談会で二人で漫才をやろうとさえ思っています。

 ところがここ数回の座談会などでは非常につまらなさそうにしておられました。ある時などは見ると、寝ておられました。(笑)




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                <冬の日本海の暗さ、荒々しさもいいものです・・・>





 先日、彼女と話をする時があり、4月に、片側の卵巣を腫瘍で摘出するというので、「それで最近元気がないのんか?」と聞きましたら、「そやないねん。私の○○部長への話し方をある婦人部から「度が過ぎてる」と言われてからおもろなくなった」とのことでした。

 「それ以来、言いたいことが言えへん・・・前はそれでストレスが発散できていたのにそれができんからおもろない」と言われるのです。注意されたことを気にして、急に自分が委縮し、不器用なこともあって今までのようにものが言えなくなってしまったのです。

 もちろん会合はストレス発散の場所ではありませんが、周りに気を使いながらの参加は心苦しいものです。

 実は婦人部の方も彼女との対応がしんどいのか、日ごろ、こまめな訪問がなく、「心を許して話しできる人が今はいない」とのこと。そんな孤独感もあったようです。

 創価学会は様々な人の集まりで、信心の経験、強弱、機根、境涯もまちまちです。私も相手を見て、信心の真面目な話をする人もいれば、冗談ばかりの人もいます。難しい話を背伸びしてする必要もないし、無理に人に合わせなくていい・・・ありのままの姿で信心が進んで行けばいいのだと思います。

 彼女は私が何を言っても怒らないのをわかっていて、自分を毒舌で表現して「我」を拡大している・・・それで伸び伸びとした心になって信心を吸収している所でした。
その姿はある人から見ると「非常識」に見えたのかもしれません。しかし、人を委縮させることはやはり伸びるものも伸びなくなってしまうように思います。

 多少、ハメを外しても歓喜と笑いで「楽しい会合やった・・また来るで」となっていくぐらいでいいのではと思います。彼女の笑い声が消えて、その屈託のない笑いが、わが地区にとって大事な宝物だと私も気づかされました。

 せっかく信心したのに、つまらないことで会合への出席が途絶えてしまう、その人の個性が出せなくなる・・・それは「桜梅桃李」を掲げ、どの人をも幸福へと導く学会の組織としては、ちょっと逆の方向のように思います。

 私は彼女に本当に信心の功徳をつかんでほしいとの思いですし、人の言葉に左右されないで、喜んで信心してもらいたいといつも見守っています。そして彼女もまた私の地区の本当に大事な「宝の人」です。

 これまで薄幸な人生を歩いてきて来られた方ですので、せめてこの地区では遠慮なく温もってもらいたい・・・この地区に入ってよかったなと思っていただきたい・・・またいつか彼女の豪快な笑いが地区に戻ってくるように私は祈っています。






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2016
01.10

我ら逞(たくま)しき凡夫仏

Category: 未分類


 人は誰しも大なり小なり苦しみを抱えながら生きています。たとえば30キロしか荷を背負えないような人に、50キロの重さの悩みが襲い掛かったとしたらこれは苦しいものです。人生は過酷でさらに100キロ、200キロの悩みに襲われることもあるかもしれません。

 その時に人は重い悩みを何とか軽くしたいと願い、またその重さを悲観して逃避する人もいるでしょう。

 学会員として信心していましても、様々な事情から深い悩みと向き合います。悩みこそその人にとって「人間革命」のチャンスの時ですが、魔の試練ということもあり苦しいものです。我々の信心はその苦しさから逃げ出さず、信心で乗り越えることで境涯を勝ち開くものです。

 聖教新聞の体験でも最近、草創の方(特にご婦人)の体験談が出ていますが、本当によくぞこれだけの宿命に負けずに勝ち越えてこられたものだと感動するお話が多いですね。

 学会員は「宿命転換」という言葉をよく使いますが、これは信心することによって30キロの悩みが徐々に軽くなっていくということでしょうか?そして最後には消えてなくなるということなのでしょうか?

 よく癌の体験談ではある時の検査で腫瘍が消えていたという話を聞きます。また貧乏だった人が信心で裕福な生活になった、というのも「貧乏」という業が消えてなくなったように思います。

 しかし、宿命転換にはそうでない姿もあります。それは信心することによって、30キロしか持てなかった人が50キロを堂々と持ち上げることができるようになった・・・すなわち自力が増し、逞しい人間に成長した・・・そういう「宿命転換」があると思います。

 私の知人に若い時の事故で、障がい者になられた方がおられます。信心されていても体がもとに戻ることはありません。ではその人にとって宿命転換した姿とはどういうものなのか・・・

 その方は障がいがあってもそれを感じさせないくらい強く生きておられます。きっと本人にしかわからない苦労がいっぱいあり、何度も涙されたこともあるでしょう。しかし、重い宿命を背負い、坂道を登るがごとき辛苦の道を勝ち越えてその方は生きてこられました。私もその方から生きる力や勇気をいただいた一人です。「宿命から逃げない」「立ち向かっていく」・・・その心の積み重ねが「宿命転換」そのものだと思います。


 何かあった時、御本尊におすがりして悩みを軽くしてほしいというような姿勢を、私もいつしか嫌うようになりました。「自分を強くすることで乗り越えてみせる」それができる御本尊であり、その力は我らの生命に内在しています。他力ではなく、どこまでも自力を出すための信心でありたいですね。そこに本当の歓喜もあるはずです。

 私達は凡夫でありとくに立派ではありません。立派ではないけれど御本尊をたもった一人一人が、ありのままの姿で自己の宿命に挑戦し、他者の幸福にまで心を砕いていく。その姿こそが「凡夫仏」とも言える偉大な姿であり、それゆえ一途な生きざまは人の心を打つものです。

 皆様はどんな重さの悩みを背負っていますか?たとえ押しつぶされそうに重くても、信心を根本に立ち上がれば必ず乗り越えていける、負けないと指導にあります。人でも環境でもない・・・「どこまでも自分を強くするのだ」・・・それが「人間革命」の真髄であり、その腹が据(す)わった時に、「信心即功徳」と開いて行くのだと思います。



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2016
01.05

自分史を綴りゆく「道」

Category: 徒然の記
 

 皆様 新年明けましておめでとうございます。

 いよいよ2016年が開幕いたしました。皆様も新年勤行会から元気に出発されたことと思います。私は今年は会館で司会の役でしたので、どこか気ぜわしい中で終わってしまいました。そして今日は早5日ということで、一月もあっという間に過ぎ去るように思います。




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 仕事のこと、地区広布のこと、様々な決意をして出発いたしました。
元朝は家族全員で勤行をした後、みんなそれぞれ一年の抱負を語りあいました。母は要介護1ですが、今年からデイサービスを一日増やし週2回に。92歳ですが新しい友達を作りたいと言っています。

 親子、夫婦、嫁姑と、一家和楽にも様々な人間模様があります。その根本は相手に対する愛情ということになると思いますが、我が家も徐々にですがその兆しが出てきたように感じています。一時は我が家でも世間並みに嫁姑の激しいバトルあり、夫婦間の非常事態あり、反抗期の長男との仁義なき戦いありと、一通りは学ばせて頂きました。(笑)

 今は家の柱である私自身がもっともっと家族に感謝できるように、太陽のような暖かな光をみんなに注いであげられるようになりたいと決意しています。そしてその通りの心が私の胸中にも広がってきました。その暖かな愛情が伝わっていくとき、家族の心も変わっていくはずです。創価の人間はどこにいても太陽となって、世界中の冷たい氷を溶かしていく使命に満ち満ちていますね。

 昨年は生命に大きな功徳をいただきましたので、今年はその生命を土台に一段と飛躍したいと思います。日々を堅実に戦うために、新たな挑戦として5年日記「道」をつけていくことにしました。これからの一年一年を今まで以上に大切に、また丁寧に生きていきたいとの思いです。

 私の信心は自身の生命の内奥を探求し、開きゆく信心だと思っています。昔、尊敬する先輩に「悟りとはなんですか?」と窺ったところ、「自分を知る以外に悟りはないよ」と教えていただきました。それ以来、この言葉が心に浮かばない日はありません。自分を知る・・・私達は自分が何であるか、どこから来て何処へ行くかも知らず、人生に迷いながら生きている漂流者のようなものです。

 しかし、「一眼の亀の浮き木」の譬えのごとく、ありがたくも妙法を受持する身となりました。どんな大富豪よりも大学者よりも幸福この上ない身分だと思います。いくら財宝を積まれてもこの信心と引き換えることはもったいなくて到底、私にはできません。千載一遇、巡り合えたこの無上道を迷いなく、大確信をもって日々歩んで行くことが即ち「悟り」であり、自分を知る「道」に違いありません。

  「本当の自分を知りたい・・・出会いたい・・・」その思いは年々大きなものとなり、信心の挑戦へと私をかきたてます。法のため、広布のために生きることを無上の喜びとして、自他共の幸福を創造しながら、今年も自分史を綴っていきたいと思います。

 皆様に置かれましても幸多き、功徳多き一年となりますよう念願しています。ともどもに前進してまいりましょう。




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