広布の大河に君ありて tori

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我ら逞(たくま)しき凡夫仏



 人は誰しも大なり小なり苦しみを抱えながら生きています。たとえば30キロしか荷を背負えないような人に、50キロの重さの悩みが襲い掛かったとしたらこれは苦しいものです。人生は過酷でさらに100キロ、200キロの悩みに襲われることもあるかもしれません。

 その時に人は重い悩みを何とか軽くしたいと願い、またその重さを悲観して逃避する人もいるでしょう。

 学会員として信心していましても、様々な事情から深い悩みと向き合います。悩みこそその人にとって「人間革命」のチャンスの時ですが、魔の試練ということもあり苦しいものです。我々の信心はその苦しさから逃げ出さず、信心で乗り越えることで境涯を勝ち開くものです。

 聖教新聞の体験でも最近、草創の方(特にご婦人)の体験談が出ていますが、本当によくぞこれだけの宿命に負けずに勝ち越えてこられたものだと感動するお話が多いですね。

 学会員は「宿命転換」という言葉をよく使いますが、これは信心することによって30キロの悩みが徐々に軽くなっていくということでしょうか?そして最後には消えてなくなるということなのでしょうか?

 よく癌の体験談ではある時の検査で腫瘍が消えていたという話を聞きます。また貧乏だった人が信心で裕福な生活になった、というのも「貧乏」という業が消えてなくなったように思います。

 しかし、宿命転換にはそうでない姿もあります。それは信心することによって、30キロしか持てなかった人が50キロを堂々と持ち上げることができるようになった・・・すなわち自力が増し、逞しい人間に成長した・・・そういう「宿命転換」があると思います。

 私の知人に若い時の事故で、障がい者になられた方がおられます。信心されていても体がもとに戻ることはありません。ではその人にとって宿命転換した姿とはどういうものなのか・・・

 その方は障がいがあってもそれを感じさせないくらい強く生きておられます。きっと本人にしかわからない苦労がいっぱいあり、何度も涙されたこともあるでしょう。しかし、重い宿命を背負い、坂道を登るがごとき辛苦の道を勝ち越えてその方は生きてこられました。私もその方から生きる力や勇気をいただいた一人です。「宿命から逃げない」「立ち向かっていく」・・・その心の積み重ねが「宿命転換」そのものだと思います。


 何かあった時、御本尊におすがりして悩みを軽くしてほしいというような姿勢を、私もいつしか嫌うようになりました。「自分を強くすることで乗り越えてみせる」それができる御本尊であり、その力は我らの生命に内在しています。他力ではなく、どこまでも自力を出すための信心でありたいですね。そこに本当の歓喜もあるはずです。

 私達は凡夫でありとくに立派ではありません。立派ではないけれど御本尊をたもった一人一人が、ありのままの姿で自己の宿命に挑戦し、他者の幸福にまで心を砕いていく。その姿こそが「凡夫仏」とも言える偉大な姿であり、それゆえ一途な生きざまは人の心を打つものです。

 皆様はどんな重さの悩みを背負っていますか?たとえ押しつぶされそうに重くても、信心を根本に立ち上がれば必ず乗り越えていける、負けないと指導にあります。人でも環境でもない・・・「どこまでも自分を強くするのだ」・・・それが「人間革命」の真髄であり、その腹が据(す)わった時に、「信心即功徳」と開いて行くのだと思います。



 asayake 2





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