広布の大河に君ありて tori

TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2016年01月
ARCHIVE ≫ 2016年01月
      

≪ 前月 |  2016年01月  | 翌月 ≫

生命に眠る師子



 信心をしている以上は実証を出したいというのは誰しも思うところです。いかに教学を学んでも、実証が出せなければそれは理屈で終わってしまいます。また人にも伝わりません。ちょうど今月の御書講義も『三三蔵祈雨事』で、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文にはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」との御文を学びました。結果を出すということがこの信心の大事な目的です。

 「君の命には無限の可能性がある」と言われますと、私はそれはそうだと今は思えるようになりました。「どんな願いも叶えゆく力が自分にはある…後は妙法でいくらでもその力を出せばいいのだ」と確信しています。
 不可能と思えることも可能にできる、だから不可能と思える道を歩いて、自分がそれを証明するのだ・・・それが御本尊様から与えられた私の使命です。「あいつは死んだよ」「あいつはひどい人生だよ」そう言われた私が、この信心で蘇生し、大逆転する・・・それが私に与えられた今世のシナリオです。

 信心の環境も決して楽ではありません。200世帯の自治会で学会員は3名、活動家は私一人という状態です。そういう自治区がいくつか集まったのが私の地区です。真言、念仏でなければ人でないという因習深い田舎ですが、ここが今世の舞台。広布の舞台に不足はありません。不足しているのは私の勇気です。




8a.jpg




 村中、折伏して回って、塩を投げられ村八分になった・・・そんなところまで私はまだまだです。しかし、折伏の機は熟していると思います。あとは語り抜くのみ。そう思うだけで私の身体は「やらんかな」の気持ちに燃え上がります。

 今は会う人毎に仏法対話に入れるまでになりました。この生命力も現証であり、功徳だと思います。「窮鼠猫を食む」ではありませんが、年中、背水の陣です。だからこそ力を出そうとすることができる。満たされた状態では本当の力は出ない。それは仏様の御計らいだと思います。

 時を待つのか、作るのか?私なりに考え、自治会の活動も務め、信頼と友好を築きました。学会員は村の付き合いをしないと冷ややかに思われていましたが、私は神社の勤めも拝むこと以外は断りませんでした。そのせいか「君がここまでやってくれるとは思わなかった、偉いと思った」と言われ、中には選挙の頼みも聞いてもらえる友人もできました。

 今、信心の確信も強くなり、創価学会と共に生きゆく運命を自覚し戦い抜いて行きたい思いです。心に池田先生があれば勇気はいくらでも湧いてきます。どの人の生命にも「師弟」という名の「師子」がいます。それはいまだ眠れる師子ですが、題目の音声に呼び出されて顕われます。この師子がひとたび立ち上がれば自分の不幸な宿命を打ち破り、環境、国土をも変えていけるのです。

 終始、魔が競って陣地を奪い合う綱引きのような日々ですが、それも御聖訓通り・・・まだまだ私の魔などは小さな魔です。いつかは もっと大きな魔を呼び顕して、妙法の宝塔を我が生命に厳然と打ち立てねばなりません。

 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(富木入道殿御返事、955㌻)との御金言を抱きしめて、学会精神、折伏精神をたぎらせ、舞台狭しとこの故郷の地で妙法流布に生き抜こうと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


01
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31