2016
02.24

境涯の「眼」

Category: 信心


>たとえば、ミカン箱に小さい木を何本か植えて、毎日水をやって楽しめば、立派な園林じゃないですか。そして堂閣も、四畳半といえどもわが城なり、こういう確信に立って、宝をもって荘厳する。子供が優秀な成績をとってきた。それを壁にはって、お父さん、お母さんが楽しめば、子供の宝をもって荘厳したことになる。宝というのは、皆さんの「心の宝」をもって荘厳できるのです。


 これは法華経寿量品の「園林諸堂閣」「種種宝荘厳」について戸田先生が講義された時のお話です。当時はみんな貧しかった時代、この話を聞いた草創の会員の方たちは仏法の奥深さを知り、戸田先生の慈愛に励まされながら、折伏へと全国に散っていかれました。質屋に着物を入れて片道の交通費だけを工面し、汽車に乗った方もおられたと聞きます。

 いい境涯というのは物にあふれ、贅沢三昧に暮らすことだけではないはずです。貧しくとも心が歓喜し、充実し、この世が美しく楽しい世界に見える、その「眼」を開くことではないでしょうか?



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 以前、小学生の私の娘が算数を習いかけの頃、2日続けて0点をもらって帰ってきました。さすがに私も「エッ?」となりましたが、家内から「ちょっと見てやって」といわれて見ましたら、確かに答えが全部違っています。太い字でしっかりと答えは書いているものの、質問の意味や答えの考え方が理解できていなかったのです。

 あまりの迷走ぶりに「父ちゃん以上に君は大物やね」と思わずため息をつきました。でも私にとってはわからないなりに一生懸命、答えを書いたその娘の答案が実は満点の宝物に見えたのです。「クラスで0点はおまえだけやったかな?、すごいなあ、オンリーワンや」と言いました。親バカもいいところですが、私の「心の眼」にはどう見ても100点にしか見えなかったのです。(笑)

 有名な御聖訓に「餓鬼は恒河を火と見る 人は水と見 天人は甘露と見る」(曾谷入道殿御返事・1025P)と仰せです。

 凡夫にはこの世界は苦しくてつらい世界ですね。ニュースを見ても人殺しや麻薬など狂った話ばかりです。それはまさしく三悪道の世界です。ところが天人にはこの世が甘露(不死の飲料)のように見える。仏の眼が開けばどれほど素晴らしいものに見えるのか?それが「成仏」した人の果報です。

 一生成仏抄にも「浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」との御文があります。同じ土でも果報、境涯によって180度違って見える。同じ世界が凡夫には「穢土」に見え、仏には「浄土」に見えます。

 今日は日曜の夜・・・子供たちが隣の部屋で「鉄腕ダッシュ」を見ながら大笑いしています。その笑い声を聞いていますとこちらも幸せを感じます。0点を持って帰った娘も我が家では天使です。苦しい時、どれだけこの子の明るさに励まされたことか?だから感謝の心が満点をやりたくなるのでしょうね。

 共に暮らす家族、信心に励む同志の方々、縁あって同じ地域に生きる人々・・・その人達と生きる世界が私の「浄土」です。死後の世界に「浄土」があるわけではありません。「浄土なんかじゃない、苦しみの方が多い」という方はちょっと「煩悩」が多いだけです。喜んで信心に励めばすぐに「菩提」に変わります。生きることがうれしくて楽しくて、ありがたくなってくるのです。

 自分にも人にも満点をあげられる・・・そんな「境涯の眼」を開いていきたいものです。




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2016
02.17

「公転」と「自転」

Category: 未分類



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 広宣流布に進む学会の軌道は、ある意味で「法」です。この法に則って進むことによって、自分の成仏、人間革命がある。「公転」と「自転」の関係です。
自分中心は自転だけあって、公転がないようなものだ。いいように見えて、宇宙の軌道から外れ、淋しき生命の孤児になってしまう。自分中心でなく、法が中心でなければならない。 (法華経の智慧第6巻159P)



 先生は学会と個人の関係を「公転」「自転」の関係にたとえ、わかりやすく指導されています。

 創価学会の組織に集い、それぞれが地元に根を張って信心を磨いていく・・・師弟の道、また学会の流れに心を合わせ活動する。そのことが独りよがりの信心を打ち破り、功徳を受け、自分を大きく「人間革命」する正道にほかなりません。

 我々は一往自分のために信心しています。それは「自転」です。しかし、創価の広宣流布の軌道に我が身心を合わせ行くことにより、「世界の平和」「一切衆生の幸福」への仏意の戦いに参加していくことになります。それが「公転」であり、勤行の最後の御観念文でもそれを念じています。

 「公転」である学会の歯車に自分のギアをしっかりかみ合わせていく・・・それができれば祈りは叶っていきます。それができないうちは、「空転」になってしまう・・・私も随分そんなことをやってきました。そこに信心の大事なホシがあるように思います。

 その「公転」に則れば、創価学会が受けゆく功徳がすべて私達にも流れ通います。師匠の功徳が即弟子の功徳へとつながっていきます。それで自分の所願満足も可能となっていく。そのことを先生は自分中心ではなく法(学会の軌道)を中心でいきなさいと仰せなのだと思います。

 その根本の道場が地区であり、支部です。そこに所属して、地域の同志と呼吸を合わせて信心に励むことがどれほど大切か・・・そこを離れればやはり「自転」で終わってしまいます。

 ネットをやっていても、実際の活動は組織中心でというのが私の考えです。いろいろ個人の事情もあると思いますが、やはり「公転」に則ることの大切さ、学会活動に幸福の軌道が敷かれていることを実感します。唱題会一つだって勉強です。人と呼吸を合わせる難しさもそこで学びます。家庭訪問の大変さもネットやメールではわかりません。膝を突き合わせ、相手の顔、目を見て理解し語れることがたくさんあります。信心は現実、現場、そこで生身を出してつかむものが大事なのだと思います。

 当然、組織や幹部にも善悪があります。善だけの人などこの世にはいません。いたら人間ではなく妖怪ですね。(笑)善悪、苦楽合わせて自身の成長の肥しにしていく・・・またその闘争でもあります。そうなると一見、大変で地味で面白みのない(笑)地元の組織こそ、「人間革命」の舞台であり、苦難の時には生命の安全地帯になっていきます。

 「戸田の命より大事な学会の組織」(戸田先生)です。ならば組織で活動することは戸田先生、池田先生の生命に飛び込むことであり、それゆえに「師弟不二」の直道です。

 創価学会の組織には日蓮大聖人様の大功徳、血脈が、大河の本流のごとく滔々と流れている、同じやるなら支流や傍流ではなく本流でやる方がいい、功徳も絶大です。私はそう信じ、小我を捨てて、「創価大道」に生きていきたいと思うものです。

(2月18日に少し加筆しました。)





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2016
02.09

其の国の仏法

Category: 未分類

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 高橋殿御返事には
「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(御書全集1,467P)とあります。

 信心する一人一人がわが地域の広宣流布に責任を持つ・・・それが創価の信仰者のあるべき姿ですね。役職のあるなしに関わらず地域の太陽、黄金柱そのものです、また組織に出れない人であっても、それには意味があり大事な使命を持っておられます。その総体が組織をなしていくのだと思います。

 長年信心して私は責任ということをあまり感じないでやってきました。一人一人が信心すればいい・・・そういうものだと思ってきましたが、それも少し違ってきました。

 今、確かに私は御本尊様からいただいた地域広布の使命を身で感じ、その活動を御本尊様が見守っておられるように思います。御本尊様と常に一体となって行動していく、行動していたい・・・会合に出るのも唱題に励むのも広布への責任感であり、それはもちろん悲壮な責任感ではなく、むしろ栄えある誉れの責任感、歓喜あふれる責任感です。

 その証拠に私は今、学会活動が一番楽しく充実しています。夜の会合が待ち遠しいという時もあります。それは御本尊様と自分、仏界と九界を往復しながらの日々の作業であり、生命の根本に、学会、広宣流布という土台がしっかりとできてきたのだと思います。

 かつて池田先生はスピーチの中で、エジプトのピラミッド建設は、権力者が奴隷に鞭打って作らせたように思われているがそうではなく、王墓を作ることに人民が喜びを持って参加した。だからあれほどのものが作られたのではないか?(趣意)と語られました。

 やらされるのではなく、喜んで広宣流布の活動に参加していく・・・信心に対し、学会に対し、そうあるべきだと思います。

 長年、組織を嫌い、会合も好きでなく、幹部さんを批判したくなる・・・そんな私でしたので、これも大きな「人間革命」です。人間、変われば変わるもの・・・あの頃の自分が謗法の毒気で悪態をついていたようで、それを身で読むことにも意味がありました。

 御本尊様の功力によって変毒為薬し、ようやく幸福の土台ができたように思います。次はいよいよこの土台に宝塔、宮殿を建設していく時代にしたいものです。

 人間の生命の内部・・・それは仏眼の人以外、見えないものです。お金や地位などで人を判断する世間の眼では到底見ることはできない。私など世間からは嫌われ馬鹿にもされて生きてきましたが、幸いにも仏法に巡り合えました。

 世間は私に冷たかったですが、仏様だけが私を捨てないで拾ってくださいました。「この子は決して悪い子じゃない、私が磨いてあげよう・・・学会にいらっしゃい」と招き入れてくださったのです。この大恩に報いたい、そう思わずにはいられません。

 そのために私らしく地域の星となって広宣流布に立ち上がろう!「自分の一生はこれで決まるのだ」そう秘かに覚悟し、燃えている私です。




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