広布の大河に君ありて tori

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我が声は妙法

 

 「声仏事を為す之を名けて経と為す」(御義口伝708P)・・・

 私達は人との対話にしても、また独り言にしても、声に出してやっています。(病で声を出せない方もおられます。)ネットでは声ではなくそれが文字であったりしますが、いずれにしてもみんなとめどなく心の思いを吐き出しながら生きているものです。

 「言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(三世諸仏総勘文教相廃立563P)という御文からしますと、我々は心の思いを言葉に乗せて話している・・・同じ言葉でもその人の心によって、響き方が違うということはよく体験するところです。中には心より先に、言葉や手が出ているという、すごい人も見受けますが・・・(笑)

 その心の思いというのはまるで息を吐くように世界に、宇宙へと拡散していきます。我らの声は小声であっても実は宇宙の果てまでくまなく届くと仰せです。

 また今日一日、私達の念々に起こる心も、すべて宇宙に届いています。口に出さなければバレないだろうと思っても、人を妬んでも、悪しき考えをしても、すべてお見通しです。私など立派でないものでそれは大変です。(笑)





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 修羅界で怒鳴り散らしますと、その心、声が宇宙に拡散していきます。お題目で仏様を讃嘆しますとその心、声も宇宙に拡散していきます。もちろん謗法や邪宗の読経の声も空へ宇宙へ、唱える人の生命にと広がっていくことでしょう。

 そう考えますと、心や声と言うものが自分の幸不幸に大きく関わっていることがわかります。それらはやはり山びこのように自分に返ってきます・・・・そして因果具時の因となって自分の命に刻まれます。謗法や怨嫉、愚痴の心などは怖いものだと思います。またそういうのに限ってよく出ますね。(笑)
 
  「南無妙法蓮華経」は仏様の称号であり、この世でもっとも清浄で智慧と生命力と歓喜に溢れた美しい言葉です。

 この声を聞きますと宇宙にいる諸天善神も春風を受けるように気持ちよく、「うれしいな、ありがたいねえ」と法味を舐めて喜んで動いてくれます。時には美しい音楽を奏でながら、宝物を載せてやってきたりします。そんな時にはこちらも感応して、鼻歌や口笛が出たりするものです。

 一方、「南無阿弥陀仏」などと唱えますと、諸天も精気を無くし、「念仏は臭い!」と宇宙の奥にすっこんでしまいます。黒い雲に太陽は隠れ、時に大雨を降らせ突風が吹きます。あまり聞かせすぎますと「奪命者」や「悪鬼」となって出てきて、その人の生命を食ってしまいます。

 昨日は自治会で葬儀があり、真言宗での葬儀でしたが、まったく陰鬱なものです。黒い袈裟の坊主がさも厳かに読経して、ありがたげに高野山からの弔電を披露し、生前の故人の信仰を称え・・・と、ありがたくないものをありがたく見せようと、それはそれはもっともらしくやるものです。へたな芝居を観たような気分ですが、出演料だけはがっぽりと取って帰ります。(笑)

 そんな中、私一人、故人に真心こめて「南無妙法蓮華経」を送って帰りました。

 宇宙も「南無妙法蓮華経」、我が生命も「南無妙法蓮華経」です。我ら学会員は高らかに「南無妙法蓮華経」を唱え、その心と声を大宇宙に響かせていきたいですね。

 苦しい声では我が生命の仏界を呼び覚ますことはできません。粘り口だったり、怒鳴るようであったり、口ごもるようなお題目ではいけないと私も注意しています。白馬が春の野をパッパッと駆けぬけていくような、軽やかなリズムのいいお題目で、自分自身が若々しく、感謝と歓喜のお題目をあげていきたいと思っています。






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