2016
04.25

誓願の道

Category: 信心


 世間では富や名声を持っていることが立派な人間のように思われます。人はそんなところで自分と他人を見比べて、落ち込んだり、相手を見下したりと、自身の幸福を相対的に見ることが多いものです。

 富も名声もない私は、見た目も立派でありませんし、「こんな自分に値打ちなどあるのかいな?」と思っておりました。それが信心だけは離さず大事にしてきたせいか、いつしか自分にも「心の財」があることを感じるようになりました。

 「心の財」とは究極、仏の生命です。その仏の生命はどなたにもあると言われますが、それを知る人は稀であるかもしれません。それほど我々の迷いも強いということでしょう。あるのか、ないのか?・・・と聞かれればそれは必ずあるのですから、何があってもこの身に顕したいものです。

 それは大富豪の社長さんといえど、いまだ知らない宝です。そのようなはかない夢の中の栄えではない・・・三世にわたり尽きることのない無上の宝です。たとえ今の姿は貧しく風采があがらなくても、我ら創価学会員はその宝を胸中に抱いた生命の大長者です。

  その「心の財」をより深く開くために私も信心しています。生命の究極の幸福を目指すのですから、大難や苦難がつきまといます。家の近くの丘に昇るのに苦労はありませんが、「一生成仏」というヒマラヤに匹敵するような登山の時には、それは命懸けですよね。また仏と魔の戦いです。仏にならんとする人をみすみす見逃すような魔などいないことでしょう。

 その意味で大難や苦難は仏になるための大事な通過点であり、それが出た人は喜ばねばなりません。いよいよ「仏になる時が来た」と心得て、「賢者は喜び愚者は退く」の御金言通りに向かって行くべきです。





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 私などロクデナシの部類でしたので、人生が20代で破綻していました。それがどこでその福運を積んだものか、この仏法に巡り合うことができました。どうせその辺でのたれ死んでいてもおかしくなかったわけで、そのことを思えば、泥中で思いもよらない宝を拾ったものです。

 次元は違いますが、法華経の虚空会の儀式において、末法の弘通を地涌の菩薩に託された時、牧口先生、戸田先生、池田先生は、一番前で真剣に「死身弘法」を誓願されたのではないでしょうか?私にはそう思えてなりません。ここまで命がけの信心ができる人はもとより仏であり、雪山童子の生まれ変わりともいえる人です。私もその列に連なっていたということですが、きっと居眠りでもしていたか・・・ 記憶にありません。(笑)

 誓願勤行会は広宣流布の決意を御本尊様にお誓いしに行くものですね。虚空会で居眠りしていた私のようなもののために、「今一度ここで誓いなさい」と先生は広布大誓堂を作ってくださいました。(笑)
「虚空会」を信濃町本部に移して、「広宣流布」をお誓いする。それで一刻も早く虚空会の誓いを思いださねばなりません。

 我が家にあっても毎朝、御本尊に向かい誓いを立てる。今日一日をその信念に生きる・・・そうすれば生命は「一生成仏」の方向に自然と向かっていきます。その精進の日々に仏の生命が開き、幸福が訪れないわけがありません。

 それを「創価の信心は間違っている、こっちが本当の仏だよ」などといわれて、「あ、やっぱりそうかな?」などとたやすく「師弟の道」を捨てた人は、人としてもっとも貧相であり、「心の財」とはまことに縁遠い愚かな人だと私は思います。






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