2016
05.06

信は道の源功徳の母

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 私は凡夫であり迷いの衆生ですが、迷いがあるということは何が正しいのかわかっていないということです。「大聖人様の仏法が正しいとわかってらっしゃるのでは?」といわれても、それは頭でわかっている、身体で少し知っているという程度であって、「まだまだこれからです」というほかありません。

 昔、宗門側の人達が数人そろって私の家へこられたことがありました。手には御書を持って、私に改心を迫るべくやってこられたのです。

 その時、何の御書かも忘れましたが、「この御文に照らして創価学会は間違っている。わかりますよね?」と相手は言うのです。御文といってもわずかに一、二行だったように思いますが、それで創価学会は間違っていると言い切るではありませんか?

 それで私は「御書をわかるというのは私には恐れ多いことであり、私はどこまでも御書を信じていく立場です。」と答えました。創価学会であれ、池田先生であれ、これまでわかろうというより信じてついてきたのです。それで長い年月をかけて心と心が「異体同心」となり、学会は正しい、先生は正しいと生命でわかったのです。生命でわかるともう誰からも何があっても崩されることはありません。

 なまじ頭のまわる方が陥るところは、何でも自分の智慧で浅薄にわかったと思いこむところではないかと思います。その人達も御書は多少拝していたかもしれません。しかし、その読み方は自分達の考えを正しいと思うために御書を利用する読み方であり、それ故に「切り文」になるのだと思いました。その心の底には「御書は読めている、わかっている」という驕慢があると私には見えました。

 戸田先生は「御書がわかったといったら増上慢だ、わかんないと言ったら謗法だ」と言われました。それを読んだときは「一体どうすりゃいいのさ・・・」と思ったものです。(笑)
今になって見ますと、わかるわからないではなく、「どこまでも信じていきなさい」「信解なのです」と言われているのだと思います。

 身体の悪い人にとって、身体の構造を知ることは目的ではなく、身体を治すことが目的です。それと同様に不幸の強い私は、ひたすら幸福になりたい。三世に崩れなき幸福を獲得することが目的なのであって、そのためには何よりも強い「信」が必要になります。その「信」を高めるための教学であり、理論であるはずです。私自身も内なる不信の命を打ち破るために長い時間がかかりました。

 有名な新池御書には「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」とあります。(p1443)竜女や修利槃特のように、この御文を証明する一人でありたいものです。

 「南無妙法蓮華経」の偉大さ、不思議さなど考えてもわかりません。みんなわからない中を信じて行く。だからこそ仏様も凡夫の「信」の志を尊くまたありがたく思われるのでしょう。その意味で我々にとって「信」こそがすべてだと言っても言い過ぎではありません。

 御本尊様に対して大確信を持つ・・・それができるようになって、私の生命も安心し、迷いの霧は晴れ、歓喜と感謝に溢れた力強いものとなりました。まさに「信」こそ「道の源」であり「功徳の母」です。強く信じる心があれば「信力」「行力」以外の策や智慧など不信の属物のようにさえ思えるものです。

 どんな状況であれ信心が強ければ、生命に勢いが出て立ち上がっていけます。そして「信」のみで我らは「蘇生の道」「成仏の道」に入れるのです。まさに「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)です。「自分はこの信があればもう大丈夫、人生に勝利するのだ!」とそう言える大信力が出れば即「勝利」の日々となります。

 娑婆世界を悠々自在に舞い、桜梅桃李の花を見事に咲かせるために、創価の皆様、ともに強い信力で前進して行きましょう!





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