広布の大河に君ありて tori

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私のハッピーロード

 


 私事ですが、今月17日で「無冠の友」が10年を越え、11年目に突入いたしました。三日坊主が常なる私にしては、粘り強くやってこれました。(笑)

 毎朝、5時過ぎに起床。5時半から一時間ほど、2,30軒、10キロ余りの道のりを車で配達しています。一年約355日、年間4000キロ、10年で40000キロとなり、ほぼ地球一周を聖教新聞を携えて走ったことになります。

 10年ほど前、他地区の方が配っておられたのですが、仕事上、配達が遅く、会員の人の不便もあり、自分が配達を志願いたしました。当時は組織にあまり熱心ではなかったのですが、少し思うところがあり、学会活動に賭ける決意をしたのです。


 車での配達は、なんといっても交通事故が心配です。早朝は車の量は少ないのですが、その分、スピードを出す人も多く、配達を始めてすぐに接触事故をやりました。見通しが悪く非はこちらにあったのですが、実は軽トラックを買ったばかりで保険に入るのをすっかり忘れていました。(アチャ)そのため自費で修理費、25万円を請求されたのもほろ苦い思い出です。

 2年目からワゴンRに乗り換え、昨年まで私の善き伴侶として、凹みと錆の浮いたボデーで走行30万キロを走ってその役目を終えました。仕事に、活動に、配達にとまさに車として走りに走ってくれました。(笑)

 配達時には外部の方との会話が楽しみです。一般紙や牛乳を配達している人、散歩をする人、仕事前に農作物の手入れをする人・・・等々。野菜や稲の育て方から、健康、生活、信心の話、選挙のお願いまで多岐にわたります。見慣れた風景に感動する事もあり、四季折々、カメラを向けることも楽しみです。








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 実は配達も大変ですが、意外と集金が大変です。訪ねても不在であったり、またお金を扱いますのでどこかに集金袋を置き忘れたりと、そそっかしい私には苦手なことです。1,934円という新聞代も微妙ですねえ。(笑)


 「無冠の友」・・・それは誰が見るともなく一人咲きゆく「野の花」のような使命かもしれません。なぜ、自分が配達員をしているのか・・・思えば不思議な使命です。

 「誰も見ていない、華やかではない、喝采もない陰の地道な戦い。その中で真剣に我が使命に徹していけるか。それとも、手を抜いてしまうか。そこに自分の本当の信心が現われる。」(大白蓮華6月号・幸福と平和を創る智慧P.99)

 信心に魔法などない・・・まさに粘り強い陰徳にじわりじわり本物の功徳は宿るのです。

 「誰も見ていない」・・・・いえいえ、日蓮大聖人様と池田先生はきっとご覧になっておられます。そのお二人に誓いを果していく人生こそ誉れの人生です。聖教や創価の悪口を言う輩には、この心の中の清らかな誓いなどわかるはずもないことでしょう。

  福運も拙(つたな)く、様々に苦悩を抱えながら走ってきた道です。それでもどんな時も朝は訪れ、真新しい聖教新聞の束が我が家に届きます。ビニールに包まれたその束を見るたび、「使命があるんだよ!」そう励まされているような気がして、一日を出発してきました。

 凡夫ゆえの悩みの中を「広宣流布」に向かってまっすぐ前進していくことほど、この世で誇らしいことはない・・・苦しみの渦中にはそう思えないかもしれませんが、きっとそれが人としての「無上道」なのです。

 早朝、山の端から昇りゆく太陽に日蓮大聖人様を浮かべ、「南無妙法蓮華経・・・」と朗々とごあいさつ申し上げ、また池田先生に「今日も戦います」と誓いながら走る地域の道・・・それが私のハッピーロードです。

 これからも「無冠の友」であることに誇りと感謝を持ち、足取りも軽やかに、「私が配達します。」という若き後継者が現われるまで、それとも「じいさん危ないからもうやめて」と言われるまで(笑)・・・広布のタスキをつなぐ思いで走り抜いていきたいと思います。






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あの人に会いに行こう!




 参院選の支援と相まって、私も今、多くの友人知人を訪問しています。そうした中で一番感じているのは、人と会うこと、行動に功徳を実感することです。

 行動すればするほど自分に生命力と歓喜が増します。私自身の中で何かがダイナミックに変わっていく・・・「人間革命」が進んでいく手ごたえがあるのです。「やっぱ、動くことや、これやこれや」と納得します。(笑)

 最近は電話も敬遠され、ラインやメールがいいのか、私がもらう連絡もほとんど「声のない」ものです。そういうこちらもラインやメールを多用します。確かに無駄がなく、自分を見せなくていい・・・楽で便利です。それでも相手の気持ちをちゃんと知りたい時にはやはり、「会う」「話しをする」ということが一番だと思います。

 ネットなどでは、お互いの信頼関係にまで発展させることはことは難しいと思います。ハンドルネームのような匿名性の交信では特にそうです。パソコンの彼方に人は実在すれど、一体、相手の何がわかって交信しているのか?自分でもおかしいと思う時があります。顔もわからない以上、相手の実態さえこちらの想像の産物にすぎません。それで誤解が生じない方が不思議というものです。





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  その点、会って目と目を見つめ、相手の表情、しぐさ、声、発散している気など、五感を通じてこちらに飛び込んでくる情報はものすごく膨大です。それらを総合的に瞬時に受け入れ、相手を見ますから、より実像を把握できます。わかるというより全体で感じるということが大事なように思います。

 池田先生は「人は眼を見ればわかる」と仰っておられます。直接会わないということは、「眼と眼を交わさない・・・」五感で感じるということがないということであり、自分の実在を見せないでコミュニケーションを形成していることになります。その意味でネットやSNSの媒体は人間関係のツールとしては、一番肝心なところが欠けたものです。そこが物足りなく、もどかしいところですね。

 私もブログをやっていますが、実際の私にもいろんな顔があり、個性や魅力、欠点やダーティな部分もたくさんあります。記事は所詮、言葉であり「農作業」ならぬ「脳作業」であって、私など「臭い脳」を見てもらうより、「顔」を見ていただきたい。(冗談です(笑)) 自分を文章で表現するなどという才能はとてもありません。

 結果、「1000の記事を読んでいただくより、一時間、一緒にお茶していただく方が、自分が伝わるだろう」・・・これが私の結論です。(笑) その意味で人に直接会うということは、「相手をより深く知り、また自分を伝え、理解し合う」ということの最高のツールであると思います。

 
 人に会うには勇気がいります。自分をさらけ出すのも勇気、思いを伝えるのも勇気です。しかし、信心の功徳はこの勇気に対して出るものだと私は思います。功徳は「勇気ある行動へのご褒美」です。それが折伏であり、頭で考えるより行動した方がはるかに早く幸福になります。人に会いに行った分、人が怖くなくなる・・・それも実は大きな功徳です。

 私も足りない頭であれこれ考えることはありません。動けばいいだけです。自然と智慧は湧いて大きな悩みもちっぽけなものとなり、生命は躍動する。まして妙法を携えて、学会員としての仏の使いの行動です。楽しくてうれしいに決まっています。

  何人の人にお会いし、何人の人と仏縁を結んでいくか・・・
「あの人に会いに行こう・・・そして妙法を語り抜こう!」
 
 それが自分の仏道修行だと思い、足を惜しまず地域を歩きたいと思います。






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「魔」は影の身にそうがごとく





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6月14日付聖教新聞・「御書と歩む」には三沢抄の一節が出ていました。

「生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す」(三沢抄1487P)

 広宣流布に戦う生命には必ず魔が競ってくると仰せです。自分に魔が競っているか・・・それを見て「難と戦う自分は正しい信心をしているのだ」「御書の通りだ」と意を強く持てるようにありたいですね。

 魔は「御本尊への信」、「創価学会・池田先生への信」を誑(たぶら)かせに出てきます。本当にありとあらゆる手立てで信者を悩ませるものです。他者の身に入ってこちらを迫害することもあれば、陰魔(おんま)のように肉体や心の不調で内から苦しめられることもあります。「魔は天界に棲む・・・」歓喜の生命にも魔が現れるので油断なりません。今時ですと「魔はネットに棲む」かもしれませんね。(笑)

 次下には「欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり。」(同・1488P)と魔についてご教示なされています。

 御文のように、友人、上司、親兄弟、伴侶ら眷属から信心を迫害される、又日顕のような僭称増上慢が創価学会全体を潰しにかかるものまで、大なり小なり、「影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく」、魔は仏と一体となって惹起し、信者を苦しめます。その時こそ「ありがたい・・!」と喜ばねばなりません。

 強く信心しても魔が競いますし、弛(たゆ)む心にも「魔が便りを得る」と仰せです。どうせなら強い信心で魔を顕し、その魔を打ち破って境涯を開きたいものです。そのためには「確信」「勇気」そして「勢い」を出すしかありません。

 魔が出れば出るほど、こちらも喜び勇んでいくのが本当の信者です。信心は「仏と魔」の戦いであり、「賢者は喜び愚者は退く」との仰せは魔が出た時のための心構えであると思います。


 教学も学び、体験も積んで自分の信心に確信も出た・・・そうなりますと、「魔が競うなら競え、幸福になるために迫害の一つも起きないものか」と思うことがあります。強い魔を打ち破って、さらに信心を深めたい・・・そこにまた新しい自分が開けます。「人間革命」の一歩前進です。魔が出ないことが幸福なのではなく、魔に負けない、魔を見破り打ち勝っていくことが、仏の説く絶対的幸福への道だと思います。

 私の同級生は都会で入会したものの、帰郷時に親から反対され、信心をあきらめました。私も同じように都会で入会し、御本尊様と共に帰郷しましたが、親や周囲の反対を押し切って信心を通しました。親のいうことを聞かない親不孝者であったことが幸いしました。(笑) 信心に反対した父を一時は悲しませましたが、私の信心をあの世できっと喜んでいてくれることと思います。(父ちゃん、題目送るからネ!)(笑)

 入会して30数年、誰が何と言おうと、日蓮仏法は創価学会であり、池田先生だと私は確信します。いよいよこれから・・・「只今入信」の思いでこの御本尊に自分を託し、自行化他の信心に励みたいと思います。






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此経難持の四字




 法戦も残すところ1か月余りとなりました。宿命転換をかけ、戦っておられる方も多いことと思います。私も先日(日曜)は午後からになりましたが、町内の友人知人を訪ねて夜まで多くの方とお会いしてきました。

 私の知り合いの婦人部の方も、息子さんの仕事の悩みをバネに、今回は70軒の集落をすべて回って歩かれました。「一家の柱が立たない」という宿命の壁をどうしても破りたいと、行きづらいところにも飛び込んでおられます。電話で激励しますと元気で溌剌とした声で、逆にこちらが励まされました。きっと壁を破ろうと決意された時に、心の壁は破れるのだと思います。

 「学会精神」について、私など語る資格はないかもしれませんが、私自身は「闘争心」「戦う心」だと思っています。

 「悪しき宿命」にしろ「三障四魔」にしろ信心をした以上、断じて負けるわけにはいかないものです。来る日も来る日も太陽が昇りゆくように、毎朝毎朝「今日も戦うのだ」と決意しての出発です。「愚痴」や「不信」を不屈の闘争心に変えて戦う心こそが、凡夫の信心の原動力であると思います。

 思えば学会に入会しなければ、私もこのような決意と挑戦の人生にはならなかったと思います。できるだけ安易で楽な方に舵を切り、要領と打算で世を渡っていたかもしれません。

 30代の頃、東京から御本尊を携えて故郷に帰り数年たった頃、私にも地方公務員になる話がありました。ある専門のことで自治体からお誘いを受けたのです。しかし、私は思案し、自分の道ではないように思いお断りしました。




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「そんないい話をどうして断ったのだ。」と周囲からは言われました。 ところが、元の職場で頑張ろうと思った矢先、職場のトップの人からなぜか疎(うと)まれるようになっていったのです。そして徐々に居心地が悪くなりそこをやめることになりました。「おまえの後ろには池田大作がいる!」と怒鳴られもしました。すべてが自分の力では止めようもない方向へと向かっていくようでした。

 それからは仕事も思うようにならない生活が長く続きました。30代後半から40代と一番働ける頃でもありました。私にあるのは「自分には法華経がある。」という思いだけでした。

 その出来事で世法的な安定、財(たから)は失ったかもしれませんが、様々に悩み苦しむことができ、仏法という生命の宝を求める道へと、より深く入っていくことになりました。仏様のご慈悲によって「煩悩即菩提」の道に自然と誘(いざな)っていただいたのです。

 「途中はいろいろあっていいのです。最後に勝てばいいのです。」とは池田先生のご指導です。本当にたくさん生命の傷が顕われました。罰もたくさん・・・(笑)いろいろありすぎて、書くに書けないことも多いのですが、苦境にあって不思議な事に「歓喜」「信念」「闘争心」だけは薪を加えるように燃え盛ってきました。「その心一つで勝負しなさい!」それが御本尊様のお心なのだと思いました。

 我ら、学会員の「闘争心」は他者に勝つための「闘争心」ではありません。「広宣流布」「宿命転換」のために、自身に打ち勝ち、同志を護り、新たな人を妙法に導くために戦わんとする「闘争心」であると思います。

 腎臓癌も体験し、首、肩、腕の激しい神経痛にも数年苦しみました。頭痛、失業やらといいことがない中を耐えて、それでも信心は捨てずにきました。癌は10年を越え再発もなく寛解し、座薬で散らすしかなかった不気味な神経痛の痛みも消え去りました。これからは反転攻勢、前に出て旗を振って、悔いのないように一生分の戦いをしたいと思っています。

 御聖訓には「法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし」(四条金吾殿御返事・1136P )と仰せです。私も法華経の一信者ですが、修行の枝を様々に曲げられたと思います。

 しかしその苦しみを今日の自分に活かすことができました。素晴らしい御本尊様です。信心の力は絶対です。試練を耐え抜けば限りない青空を、歓喜の心で悠々羽ばたく時が必ずやってくる・・・それが法華経だと思います。

  この確信をさらに強くして、「一生成仏」の山に挑んで行きたいと思います。






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