広布の大河に君ありて tori

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さなくしては後悔あるべし




 私は学会2世でも3世でもなく、27歳の時に友人の折伏を受けて創価学会に入会したわけですが、入会当時は創価学会の「そ」の字も知らず、池田先生のことも週刊誌の記事程度の知識しかなかったわけです。入会を決めたのは「南無妙法蓮華経」の題目に「何か」を感じたからにほかなりません。

 それでその日の夜から一人拝み始めました。どうしてすぐに拝みだしたのか、今思えば不思議なのですが、やはり自分が欲していたものに出会えたという、そういう感激はあったに違いありません。その日、都会のアパートの一室で、私の生命に歓喜と希望の灯がともったことも事実であります。

 誰しも、「南無妙法蓮華経」をわかって、また創価学会をわかって入会した人はいないはずです。わからなくても信を立てることができる・・・これを妄信(盲信?)と揶揄(やゆ)する人がおられますが、私は自分の体験に照らし、そういうものではないと思っています。




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                            (夏の朝のラジオ体操)




 それは乾いた喉が水を欲しがるように、理屈抜きで欲するものであり、自分の知らない生命の内奥で本能的にそこに向かいたいという力が起こっているのだと思います。30数年たってもいまだにその心境のままに、また何かにつけ題目を唱えたい、池田先生を求めて生きていきたい・・・と、「人にやめろ」と言われても、「いまだ懲りず候」・・・生命が朝な夕な自然とそこに向かっていくものです。

 御聖訓には「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」とあります。(上野殿御返事1558P)いい時も悪い時も、御本尊様と池田先生だけは信じて求めていこう・・これが私の「一生成仏」への道であり、「さなくしては後悔あるべし」と戒めています。

 信心が深まるとは、生命の奥深くにそうした信念が珠となって成就していくことではないでしょうか?。それがまた冥益だと思います。この珠は大樹のように命にどっしりと根を張り、自分で動かすこともできなければ、人の言によっても、動くことはありません。日々の題目と学会活動がますますこれを堅固なものとなし、やがて自然と仏界に至り、所願は満足するだろうと思います。

 入会以来、私なりに御書を始め、学会書籍や指導を拝読してきたのですが、それらを正しいとか正しくないとか考えたことはありません。御書はもちろんの事、戸田先生、池田先生の指導にしても、私にとっては正しいと信じて拝していくものです。それは「思考停止」でも「洗脳」でもなく、それ以上に「信じる」ということに重きを置いた生き方であり、自分の理屈や我見で、学会や池田先生に不信を持つ生き方とは真逆です。

 凡夫の智慧では推し量ることもできない、どんな理屈でも説き明かせない不思議の一法が妙法です。御本仏から妙法流布を託され、広宣流布を指揮される三代の会長を永遠の師匠と仰ぎ、どこまでも信の一字を持って呼応していく・・・それこそ我ら学会員がこの身を払って、仏身となりゆく確かな道であり、私の30余年の信心もまた、その迷妄を打ち破るためにあったと言えます。


 



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