2017
07.25

あの日の分かれ道

Category: 徒然の記
 先日は、わが県で青年大会が開催され、私も同志の方々と、観覧で参加してきました。新しい若い力による溌剌とした演目、苦難から立ち上がり、現実で勝利していく青年の体験等、大変、スピードと勢いのある大会でした。特に、県知事や各界の来賓も招待して、外に開かれた大会であったことも良かったと思います。

 見終わった後、命に新しい活力が湧くのを覚え、同志と共に「良かったなあ」と、その感動に浸りながら帰路につきました。



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 信心の功徳は生命の変革であり、「薄紙をはぐように」と表現されますが、本当に少しずつ生命の闇が晴れていく。その分、身も心も軽く、さわやかな風が命に吹き渡ります。

 この学会の信心の素晴らしさを、知らずに去っていった人の話を聞くたび、私はやはり淋しく思います。27歳で学会に入りましたが、そのころ、私と一番仲のよかった友人も、宗門問題で法華講へと去っていきました。もう20年ほど音信不通ですが、あの頃の笑顔が彼にあるだろうかと、時折、心配です。 彼が最後に「自分は大御本尊についていくよ」とポツリと言った言葉が今も耳から離れません。それは一瞬の会話でしたが、私には永遠の別れのように感じました。2度と彼が学会に戻ることはないように感じたからです。

 あの時、学会が正しいと直感した私、宗門が正しいと判断した彼・・・まさに運命の分かれ道がそこにあり、双方とも後戻りできないほど遠くまで離れました。そして宗門問題を契機に、私は学会に自分を懸けて今日までやってきました。
理屈ではなく、その活動と体験から、私は学会の素晴らしさを身で知り、人から何を言われようと決して崩れない命の財、幸福の土台を手に入れたと思います。その選択に、自分の身の福運を深く感じるものです。

 信心だけは休むことなく、学会で通すことができた・・・これが私の生命の勲章であり、御本尊様の照覧は確かであろうと確信します。この世を去る時、閻魔の前に立っても「学会員でやり通しました」と胸を張って言いたいと、その時が今から楽しみでもあります。


 日蓮大聖人様の御本尊は一切衆生のために認められたものです。宗門に相伝されたとはいえ、一宗にとどまるべきものではありません。人間の生命に大宇宙の営みに、躍動しているのが妙法です。大聖人様の御心が、一切衆生の口に妙法を唱えさせたいとの御心であるなら、一人一人の学会員の胸に喜んで、御本尊様をかけてくださることでしょう。

 「大御本尊を拝さなければ、血脈も、功徳もないよ」などという、そんな冷たい料簡でないことだけは確かだと思います。

 「会則の改正」をもって、学会は独立して心機一転、新しく船出しました。「創価丸」に乗り合わせた我らはきれいさっぱり、過去のしがらみから解放され、もう過去への執着もなければ、後悔もない・・・新しい心で、新時代へ、未来に向かって信心に励んでいけます。先生のご配慮で、本当に素晴らしい時代が来たことを、日々、感謝しています。

 学会もしばらくは夏季友好週間となり、活動もあまりありませんが、自身の充電期間ととらえ、また日ごろ会えなかった人との友好を深めながら、さらなる仏法対話の道を、開いていきたいと思います。






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2017
07.19

組織という名の宝処

Category: 信心
 
64年前の7月21日に池田先生の人選で新たに「水滸会」が発足したそうですが、その折、池田先生が三か条の誓い(水滸の誓い)を示されたそうです。

 それは「御本尊に対する誓い」「師匠に対する誓い」「会員同志の誓い」の三か条です。(聖教新聞「栄光の峰をめざして」7.10日付より)

 とてもシンプルな言葉ですが、私は創価学会の信心の根本がここに示されていると思います。

 この3つの誓いに生きる人は、仏法の軌道に乗り、やがて歓喜と幸福の世界に入っていくだろうと思います。逆にそのうちのどれかが欠ければ、やはり不完全な信仰になるだろうと思います。日々の修行は御本尊に対し、その心をより深く強めていくものだと私は思います。

 その心で信心に励む人達が団結し、「広宣流布」の戦いをしていく・・・それを仏様は、どんなに喜んでくださるだろうかと思います。互いに尊重しながら、信心を高めあう・・・同志が生命と生命で結ばれた家族のように仲良くしていくことも、人としてまったく自然な流れです。

 学会の師匠は、常に民衆の中に飛び込み、民衆と一体となって、広宣流布をされてきました。そこに仏法者の向かうべき正しい道があると思います。ガンジーやキング博士など、人権運動のリーダーも、同志と手をつなぎ、連帯をもって権力や差別と戦いました。真に「一人立つ」人こそ民衆から離れない・・・積極的に同志との連帯を広めゆく人だと思います。






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 組織がなくても一人で、信心はある程度できるかもしれない。しかし「広宣流布」はできないと私は思います。世界広布が進展する時代にあって、しっかりとした組織がなければ、どうして多くの入会者を受け入れ、責任をもって育てていくことができるでしょうか?各自が勝手気ままで、どうやって「異体同心」の勢いが出せるでしょうか?「広宣流布」の信心である以上、それを推進する創価学会に殉じることは、私は日蓮門下として最も正しい生き方であると思います。

 私もかつては素直になれずに、組織に出ない時期もありました。そのどちらもやった経験から、組織に出ないときは、やはり独りよがり(利己的)であり、発展性のないものであったと思います。今、地域の人々と切磋琢磨する中で、生命は「麻畝の性」のごとく素直になり、人間的にも開けてきたことを感じます。

 そこに組織活動による功徳の大きいことを感じますし、何より同志の方と活動している自分を健全に感じます。学会活動が何をするよりも好きになったと言ってもいいかと思います。

 戸田先生は「戸田の命より大切な学会の組織である」と烈々たる気迫で言われました。また「大聖人が創価学会を召し出だされたのだ。学会の信心以外に、大聖人の御心(みこころ)に適(かな)う信心などない。御本尊の本当の功力もない。仏法は勝負だよ。」と言われています。本当にこちらが吹っ飛んでしまいそうな戸田先生の師子吼は、まさに学会こそが宗教界の王者との大確信の言葉であります。

 信心の組織である以上、、教義や運動などその教団の独自性はあります。また内部に傲慢な人もいるかもしれない。負の部分をあげれば、どの組織、団体もあるに決まっています。しかし、学会の本質は、戸田先生が断言されたように、日蓮大聖人が召し出だされた「仏意仏勅」の仏の一団であり、大聖人様御遺命の広宣流布のための陣列です。

 私はそこに偉大さを感じますし、そこで戦える自分を誇りに思います。学会はまさに法華経に説かれる地涌の菩薩の集結の場であり、仏の生命が躍動するもっとも輝かしい宝処であると、私は確信しています。

 それゆえに学会から離れていく人ほど残念な人もいない、これは本当に正直な私の気持ちです。「何があっても学会から離れてはいけない」・・・との池田先生の指導は、人の三世の生命を考えるときに、重い意味があるだろうと思うものです。


 さて昨夜は多くの方が集っての座談会となりました。様々に境遇は違えども、創価の善友であることは皆同じです。「なぜ組織に出るか?」と問われれば「そこに多くの同志がいるから」「この集まりが好きだから」・・・それが私の答です。

 暑い夏を境にいよいよ後半戦、弘教拡大を目指し、意気軒高にやっていきたいと思います。






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2017
07.08

胸中の闇は深くとも・・・

Category: 信心


 世の中には様々な考えの人がおられ、創価に対してもいろんな意見を発信なされています。生まれついて、反創価の生命を色濃く宿しておられると感じる方もいれば、創価を信じたいのにどうしても現状の創価学会を肯定できずに悩んでおられる方もおられます。

 もちろんどう生きていかれるかはそれぞれの道であり、気安く干渉できるものではないかもしれません。私が学会で信心していくということは、自分の意思が好んでそうしているわけで、結局、どの人も自分の心に背いて生きていくことはできないと思います。

 私も一見、学会一筋のバリ活人間のように思われますが、人間の生命というものがそれほど単純でないことも、当の本人が一番よく知っています。池田先生とともに学会でやっていこうというところに命が定まるまでは、私なりの紆余曲折がありました。

 入信以来、陰に陽に魔が出来して、修行の枝は大きく曲げられました。学会に入ったものの、真言の家で10年近く過ごしましたので御本尊様の御安置から苦労したものです。周囲の反対以上に自分のひどさに苦しみ、思うようにいかない・・・御本尊様を恨めしく眺めたことも一度や二度ではないかも知れません。「もう信心はやめます!」と御本尊様を睨んで宣言し、布団をかぶってふて寝した夜もありました。(笑)



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 特に池田先生と自分が一体で信心するという、「師弟不二」の入り口にたどり着くのに30年余りの時間がかかったのですから、いかに私の生命の闇が深かったか・・・その心が確立するまで、信じては疑い、疑ってはまた信じと・・・その反複作業を懲りずにやってきたように思います。そのたびに新たな「信」を奮い起こして前進してきたわけです。

 今、若き青年部が「池田先生」を師匠と求めて信心する姿を見て、「僕はとてもあのころ、あんなふうに「先生!」と叫べなかったなあ、組織にも不信があって参加できなかったし。そうできる連中が内心、不思議に見えてたよ。」と思ったりもするのです。

 その意味で信心の深化と共に自分は変わっていきました。今のように自分が池田先生を師と仰ぎ、「不二」で生きていきたいと思うようになるとは、さほど自分でも思っていなかったのです。

 「学会員だから先生と不二で戦え」というのは押し付けに感じる人もいることでしょう。私が幸運だったのは、人から言われるのではなく、先生と共に生きていこうという自分にみずから変化し、その思いが胸中に確立していったことです。蝶がさなぎから羽化するように、私も自然と「我」というコートを脱ぐことができました。
 
 それは私にとって「発迹顕本」ともいうべき出来事でしたが、それ以来、私の使命も定まったと思います。「学会員として、同志の方と共に妙法流布のために生ききっていこう!」そういう生命の土台が命に座ったのです。

 その功徳は、お金が儲かったというような現世の利益と違い、三世にわたる「心の財」です。「創価と共に自分は来世も生きていくだろう。そうであるならたとえ死んでも、御本尊様と学会のもとに生まれてこれる」・・・そう安心できるのです。

 一日の仕事を終えて、地域の会館、拠点に集い来る同志の方々を、私は本当に不思議な善なる人たちだと感じることがあります。久遠の同志でなくてどうしてここに集うことができるのか?宿縁深厚でなければとてもここに集うことはない・・・偶然、集まったなどということは絶対にないと感じます。

 凡夫の陣列である創価の同志が、御本尊を抱きしめて、それぞれの宿命へと挑戦していく・・・お金も智慧もない、あるのは「煩悩・業・苦」という中を、ただ「信の一字」をもって唱題し、その姿のままで折伏に走る・・・それが我ら地涌の菩薩の本領だと思います。

 たとえ胸中の闇は深くとも、その奥底に仏の生命を信じ、今日も創価の庭で戦う人たちと共に、私も仏界を呼び出だしながら、「太陽の人」となって前進していきたいと思います。







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