2017
07.08

胸中の闇は深くとも・・・

Category: 信心


 世の中には様々な考えの人がおられ、創価に対してもいろんな意見を発信なされています。生まれついて、反創価の生命を色濃く宿しておられると感じる方もいれば、創価を信じたいのにどうしても現状の創価学会を肯定できずに悩んでおられる方もおられます。

 もちろんどう生きていかれるかはそれぞれの道であり、気安く干渉できるものではないかもしれません。私が学会で信心していくということは、自分の意思が好んでそうしているわけで、結局、どの人も自分の心に背いて生きていくことはできないと思います。

 私も一見、学会一筋のバリ活人間のように思われますが、人間の生命というものがそれほど単純でないことも、当の本人が一番よく知っています。池田先生とともに学会でやっていこうというところに命が定まるまでは、私なりの紆余曲折がありました。

 入信以来、陰に陽に魔が出来して、修行の枝は大きく曲げられました。学会に入ったものの、真言の家で10年近く過ごしましたので御本尊様の御安置から苦労したものです。周囲の反対以上に自分のひどさに苦しみ、思うようにいかない・・・御本尊様を恨めしく眺めたことも一度や二度ではないかも知れません。「もう信心はやめます!」と御本尊様を睨んで宣言し、布団をかぶってふて寝した夜もありました。(笑)



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 特に池田先生と自分が一体で信心するという、「師弟不二」の入り口にたどり着くのに30年余りの時間がかかったのですから、いかに私の生命の闇が深かったか・・・その心が確立するまで、信じては疑い、疑ってはまた信じと・・・その反複作業を懲りずにやってきたように思います。そのたびに新たな「信」を奮い起こして前進してきたわけです。

 今、若き青年部が「池田先生」を師匠と求めて信心する姿を見て、「僕はとてもあのころ、あんなふうに「先生!」と叫べなかったなあ、組織にも不信があって参加できなかったし。そうできる連中が内心、不思議に見えてたよ。」と思ったりもするのです。

 その意味で信心の深化と共に自分は変わっていきました。今のように自分が池田先生を師と仰ぎ、「不二」で生きていきたいと思うようになるとは、さほど自分でも思っていなかったのです。

 「学会員だから先生と不二で戦え」というのは押し付けに感じる人もいることでしょう。私が幸運だったのは、人から言われるのではなく、先生と共に生きていこうという自分にみずから変化し、その思いが胸中に確立していったことです。蝶がさなぎから羽化するように、私も自然と「我」というコートを脱ぐことができました。
 
 それは私にとって「発迹顕本」ともいうべき出来事でしたが、それ以来、私の使命も定まったと思います。「学会員として、同志の方と共に妙法流布のために生ききっていこう!」そういう生命の土台が命に座ったのです。

 その功徳は、お金が儲かったというような現世の利益と違い、三世にわたる「心の財」です。「創価と共に自分は来世も生きていくだろう。そうであるならたとえ死んでも、御本尊様と学会のもとに生まれてこれる」・・・そう安心できるのです。

 一日の仕事を終えて、地域の会館、拠点に集い来る同志の方々を、私は本当に不思議な善なる人たちだと感じることがあります。久遠の同志でなくてどうしてここに集うことができるのか?宿縁深厚でなければとてもここに集うことはない・・・偶然、集まったなどということは絶対にないと感じます。

 凡夫の陣列である創価の同志が、御本尊を抱きしめて、それぞれの宿命へと挑戦していく・・・お金も智慧もない、あるのは「煩悩・業・苦」という中を、ただ「信の一字」をもって唱題し、その姿のままで折伏に走る・・・それが我ら地涌の菩薩の本領だと思います。

 たとえ胸中の闇は深くとも、その奥底に仏の生命を信じ、今日も創価の庭で戦う人たちと共に、私も仏界を呼び出だしながら、「太陽の人」となって前進していきたいと思います。







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