2017
10.26

多勢に無勢

Category: 徒然の記

 今回の選挙では公明が6議席を減らす結果となった。残念に思っておられる方もいるかもしれないが、気を取り直して新たに出発していきたい。私も勝ち負けではなく、戦いきった法戦の功徳を感じている。功徳というのはいただいた人でないとわからないと思う。そしてそれによって確信を得ていくことも事実だ。功徳を得ない人が、本当の確信を抱くことはできない。

 ちなみに今回の選挙における我が地域の得票率は、自民が39、希望が17、立民16、公明11、維新9.5、共産6.5、その他1.5(いずれも%)という結果であった。公明の全国比例では福岡、沖縄がトップで17.3%、平均では13.3%となっている。衆議院では465議席のうち29議席であるから、議席獲得率は6.2%・・・得票率に比して半分以下と、厳しいものだ。

 法戦のさなかに思ったが、我々は実に「多勢に無勢」の中で戦っている。前の記事にも書いたが、私の同窓生100人の中で学会員はどうやら私だけということが判明した。これは極めて少ない例かもしれないが事実であり、広宣流布でいえば、私は99対1の立場に立っていると言える。

 我が地域の世帯数で見ても1100世帯に対して、学会の世帯は30世帯ほど、これは2.7%、さらに自治会では200世帯で学会員は3世帯と2%にも満たない。
田舎と違い、都市部に行けば10%とかあるのかもしれないが、それでも9対1である。

 つまり我々はきわめて少人数で、邪宗の信者や反創価など異なる思想の人、他党の支持者、無宗教家といった人々に折伏を働きかけ、公明支援をお願いしていく。「娑婆世界は第六天の魔王の所領」と言われる通り、時には魔軍の人たちと戦うこともあるだろう。政党の支持団体ということで見ても、連合や民商が世の中から攻撃されることはないが、創価学会は絶えず目の敵にされ、攻撃にさらされる。それもまた「仏と魔」の戦いが根底にあるからに違いない。

 そんな「多勢に無勢」の中を、学会員は健気に戦いゆく使命を帯びている。その構図を思うと、批判や反発、逆風が多くて当たり前だ。「創価は立派だね。」「公明は素晴らしい。」と褒められることなど稀なこと。世の中全体が9対1なのであるから、学会員は少数派であり、逆風の中を生きることを宿命づけられている。

 それは一見、苦しいとも言えるが、そのことがわかればどうということはない。北風の中を歩くから、人間強くなれる。「よっしゃ、創価が正しい、池田先生が正しいということを、自分の信心で一生をかけて証明しようじゃないか!」と逆に私のように燃える人もいるだろう。(笑)

 妙法に反対する人が多くいるから、我々は宿命転換と広宣流布ができる。誹謗中傷、悪口罵詈(あっくめり)する人たちのおかげで、自身の過去の謗法も消滅でき、功徳を増すことができるのだ。折伏に言って悪口を言われることは、自身の悪業を転換するための最高の手段となる。だから決して悪口する人たちを恨んだり、言われるからといって悔やんだりしてはならない。むしろ法のために悪から迫害を受けて、「発迹顕本」するのだと喜ぶのが本当だ。


 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(異体同心事1463P)・・・たとえ9対1であっても、その「1」が「異体同心」の一団であれば、悪を打ち破り、大事を成じることができると言われている。

 池田先生は誠実に日々仏法を実践する会員に対して、かつて次のようにスピーチされた。

 皆様は華やかではない。マスコミから脚光を浴びるわけでもない。しかし、どんな有名人よりも、戦争を起こすような指導者よりも、何千倍も大きな仕事をしている。人類の歴史転換の「底流」をつくっているからである。
「1999.7.3 記念本部幹部会のスピーチから)

 「人類の歴史転換の底流をつくっている。」との言葉をかみしめるなら、その偉大な使命に誇りをもち、焦ることなく、堂々と進んでいこう。謗法が充満する国土、地域であっても決して怖気づくことなく、粘り強く戦う中に、必ずや仏の生命は踊り出ていくものと思う。我が家でまた拠点で、人がどう言おうと黙々と唱題に励むのが学会員だ。その陰徳が必ず花開く時が来るのが、仏法の世界であり、大聖人様のお約束だと思う。

 賢人は、利(うるおい)や衰(おとろ)えなどの八風におかされない。ならば法戦の結果に一喜一憂することもなく、笑顔で今日から前進しよう。
 一段と爽やかな友好対話を綴りながら、明るく朗らかに次なる峰へと出発していきたいと思う。






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2017
10.20

今日も忍辱の鎧を着て

Category: 信心

 法戦も残すところあと一日の戦いとなった。短期決戦であり、またこちらでは地方選も抱えていて大変ではあったが、今日まで地域の皆さんと団結して戦わせていただいた。

 特に今回は、多くの方と一緒に家庭訪問をした。部員さんと一緒に、また幹部さんと一緒に、そして公明党の議員の方とも行動をともにした。幹部さんや議員といっても、同じ学会家族・・・会員同士に何の隔たりもない。そのスタンスでどなたとも楽しく活動させていただいた。

 今回の法戦を通し、中学の同窓生ほぼ全員の方に連絡を入れた。しかし、驚いたことに、学会員と思われる人は一人もいなかった。一人ぐらいはと思ったけど、ある意味、淋しい思いがする。まさに信心にめぐりあい、妙法をたもつというのは、「一眼の亀の浮木にあう」との譬え通り、まれなことであり、ありがたい事だ。

 同窓生の中でただ一人妙法をたもち、学会員として頑張っているというのは、いかなることであろうか?過去の宿縁とはいえ、自分は信心に生きて、法を弘める使命がある。法戦を通じ仏縁を結び、「力あらば一文一句なりとも語らせ給え」(諸法実相抄)との仰せのままに、私は語っていった。

 
 私の周りにもいろんな方がおられ、みなさん、私以上に題目も活動も頑張っておられる。特に婦人部の方は、本当に粘り強く、題目を上げておられる。それだけ頑張っておられるのに、中には、「思うようにいかない、何も変わらない。」と嘆かれる方もおられる。私もそういう経験がたくさんある。

 ちょうど、先日もそのような方と話をする機会があった。主に職場のことで悩んでおられた。私にも悩みを一発で解消できるような名案はない。それでも私なりに話をさせていただいた。

 「あなたは信心をして、周りがよくなればいいのにと祈っていませんか?「あの人が悪い」「会社が悪い」と思い、それが変わればいいと願っておられる。それでは相手に人間革命しろといっているようなもので、他力本願のように思います。」

 「そうではなく、今の環境に負けない自分になる。自分が強くなることで相手や環境を変えていく。その一念と決意で信心していけば、仏の力が出て、必ず自分が明る強く変わっていきますよ。」と、そんなふうに話をした。

 私たちは思うようにならないと、どうしても周りのせいにしがちだ。そして周りが変わらないと、そこからの逃避を考える。これではいつまでも宿命転換はできない。また人間関係であっても、自分の命にあるものからは、誰しも逃げられないものだ。

 そこをすべて自分の命のこととして自覚し、革(あらた)めるところから、人間革命が始まっていく。

 時には10年も20年もかかる宿命転換もあるかもしれない。しかし、それを耐え忍びながら、その宿業に負けない自分を作っていく。そうすればやがてその苦難を乗り越え、宿命を打破する時が必ず来るものだ。

「頑張っているのになかなかよくならない」・・・そうした自分の弱い心を跳ね返し、負けない自分にならねばならない。その粘り強い心の強さについて、池田先生は次のように指導されている。

御義口伝には、「忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」(771p)との甚深の教えがある。仏の真髄の強さは、ありとあらゆる苦難を堪え忍ぶ「忍辱の心」にあるとの仰せである。(中略)忍辱の心とは、いかなる娑婆世界の嵐に晒されようと、心が負けないことだ。心が恐れぬことだ。心が揺るがぬことだ。この忍辱の心にこそ、仏の力、仏の智慧、仏の生命が脈動する。(随筆「我らが勝利の大道」厳たれ!丈夫・壮年部)

  苦難に負けない強き人となるところに、仏の力、智慧、生命力が躍動すると指導されている。

 可憐な花も、厳しい冬の間に根を張り、春を待つ。その苦難の月日を耐え忍ばずして、春に咲くことはできない。苦しい時こそ、命に根っこを張る時だと信じ、黙々と信心に励む人が、人間勝利、人生勝利の人となるに違いない。

 さあ、勝負の日まであと1日・・・気を緩めずに、自分らしく最後まで戦い抜こう。法戦が終われば、さらなる折伏の戦いである。語って語って語りまくる…動いて動いて動きまくる・・・忍辱の鎧を一枚身につけ、自他ともの幸福のために、勇んで前進していこうと思う。




※(投稿後に、一部を加筆修正しました。ちなみに文中に引用しました池田先生の指導は、壮年部指導集「黄金柱の誉れ」にも出ています。この本も素晴らしい指導集で、どなたにもお勧めです。)


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2017
10.12

信念の持つ力

Category: 信心
 
 今回の選挙は、「自公」対「希望の党」、そして「共産」「立憲民主」などのリベラルの3極の戦いだと言われている。その流れに集約される中で、私が一番、驚いたのは、民進前原さんの希望の党への参加であった。

 数年前(2009年)には政権まで取った野党第一党がいとも簡単に、自ら党を捨てたとも取られかねない行動である。党首自らが、名を捨て小池さんのもとに下るというのは、一見、情けない姿に思える。これでは代表自ら、「我が党では国民の信は得られない、政権交代は無理だ」と、白旗を挙げ、党に見切りをつけたと思われても仕方がない。

 憲法改正をはじめ、内部で意見が統一できないのが、民進党の大きな弱点であると言われる。そこにメスを入れ、篩いにかけ、安倍政権打倒を大義として動いたというなら、まさに捨て身の戦術だ。しかし、慌てて人(希望の党)の母屋に引っ越して戦うというのだから、足元がしっかりしているとは思えない。選挙後も含め、果たしてどうなっていくものか・・・前原さんの信念が、最後は問われる。

  生きていれば誰しも苦しいときもある。窮地に立ってあとがないという、状況に追いやられることもあるだろう。その時にどう生きるか、どの道を選択するのか・・・そこにその人の器も見え、真価も見える。要領や保身で道を選ぶのが、世間一般の多くの人の姿かもしれない。

しかし、「さすがに気骨があるな」と言われるだけの、己の信念を貫く人でなければ、政治の世界に限らず、人からの信用は得られないだろう。また大事を成し得ることもできない。その意味で厳たる信念を胸中に抱くことが、人生勝利の必要条件と言えるのではないだろうか。

  私も若い頃は、信念も確信もないままに、ただ流れに流されて漂よう枯れ葉のようであった。何か確たる信念がほしいと思ったものの、それをどうやってつかむのか、何が信念なのかさえわからぬまま、すべてに刹那的に生き、心に空しさを感じる日も多くあった。

 それが27歳でこの信仰にめぐりあい、以来、30数年、組織に出ないときもあったが、学会から離れずにやってきた。諦めやすい私が、粘り強く陰徳の日々を送ることができた。それは信心を教えてくれた偉大な先輩と、学会のみなさんのお陰である。そしてようやく生命に一つの信念を持てたと感じている。その信念とは「我が生命は仏である」ということに尽きる。どんなに辛い時も、この「信念の珠」を抱くならば、それで大丈夫だと思えるようになった。

  仏法を持つ人の信念とは、何ものにも絶対に崩されない強き生命の一念であり、その一念は人を救いゆく広宣流布への行動となる。どんな人の言葉にも惑わされず、またどんな力の前にも屈服することのない、鋼のような信念・・・それこそが、創価の三代会長が、自ら、大難を受けきって教えてくださった、仏法の真髄なのだと思う。
 
 私の生命に灯ったこの信念の珠は、まだまだ小さなものだ。これからこの珠にもっともっと磨きをかけねばならない。苦しみの中を学会正義の信念を貫いた人だけが、栄光の勝利を手にすることができる。どの人も一旦は谷底に落とされ、魔の試練を受け、そこから這い上がっていかねばならない。大事を成す人には大難大魔が競うというのも、ある意味、道理ではないだろうか。そうであるなら、大きな苦しみと戦う人こそ信念の強き、使命深き仏の人だと思いたい。

 私もこの先、何があろうと、この信念で難を乗り越えていく決意だ。そして信念の持つ力の偉大さを、私の立場で、現実に証明していかねばならない。

 信念のある人は、苦労が多くても美しい人生を生きる人だ。そして最後はその苦労さえも黄金色に輝く時が来るに違いない。逆に信念なき人は、世間的に華やかであっても、最後は虚しさの中で一生を終えるのではないだろうか。その人が何を求めて、何に命を捧げて生きていくのか・・・どの人もその一念で、人生も最後の臨終さえも決定していくに違いない。

 妙法をたもち、池田先生との師弟を求めて生きる、その不動の信念に生き抜く人こそ、「仏」であり、最高の「価値創造」を成しゆく人なのだと私は確信している。






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2017
10.03

ブラボーわが人生

Category: 徒然の記

 聖教新聞には、「ブラボーわが人生」と題して、信心のベテランの方の体験談の連載がある。いつも私はこの連載を楽しみにしている。それは人生の年輪、信心の年輪を重ねた人の言葉には、重みと温もりがあるからだ。そして山あり谷あり、波乱の体験に裏打ちされた、信心に対する確信が溢れている。そこにはいささかの迷いもない。

 今朝もまた九十二歳のおばあちゃんが出ておられたが、「おばあちゃん」と呼ばれることをよしとしない、青年の心の人である。

「食べ物はろくにねえ、借金がある。辛くって先輩に泣く泣く相談したんだ。「山田さん、1日や2日寝なくったって死なないんだよ。題目あげなさい」。線香を何本燃やしたかわからない。

「だけども、たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ。」

「結局、苦労がなけりゃあ、信心もわかんねえさ。池田先生とめぐりあえばこそ、今の幸せがあんだもん。」・・・


 次々と確信の言葉がほとばしりでる。まさに市井の庶民の幸福博士、哲学博士だと思う。

 この方は苦労が大事だと教えてくださっている。仏法は頭の先の方で、少し考えたぐらいのことでは到底わからない。現場でまた生活で、辛酸を舐めながら、苦労しなければならないということだろう。仏法は智解ではなく信解だと説かれる。自分の知恵で観念観法したところでしれたものだ。かえって仏法を小さく考えるぐらいがオチなのだろう。

 そのことを思えば学会はありがたい。次々と戦いのステージがやって来る。昨日まで寝ていた人も、新しい戦いに参戦して陣列に加われば、そこからすぐに境涯は開いていく。現当二世なのだから、過去は問わない。

 法戦であっても、やりきらないと、本当の功徳はわからないと思う。なんでも中途半端では掴みきれない。戦いきった人だけが、厳たる功徳に浴せる。やらない人の批判には現証が伴わない。私は、外野から批判をする人より、先頭に立って、背中を見せて戦う人を見ていたい。第一、気持ちがいい。私もそういう人であろうと、自分に言い聞かせている。

 先日は、地方選の候補夫妻と、三十件ばかり、内外のお宅を訪ねて歩いた。残念なことに、昔に比べて、塩をまかれるようなこともない。どなたも友好的である。夜になって帰宅したが、戦いきった一日は、気持ちも清々しい。ご飯も美味しい。(笑)「御本尊様、池田先生、今日も戦って参りました。」そう仏前に端座して報告申し上げる。

 祈祷抄には、「行者は必ず不実なりとも・知恵はおろかなりとも・身は不浄なりとも・戎徳は備えずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ」と仰せである。

 ありのままの汚れた自分でいいと仰せである。御本尊を強く信じて妙法を唱えていけば、それで幸福になれる信心だ。難しいことなど何もない。そうしない人があれこれと迷うのだろう。仏法を根本に真面目に生活と取り組み、学会同志と連帯し、師弟不二で実践すれば、それが幸福への最高の道である。

 題目を高らかに唱えれば、体内の熱い血が燃える。そして前進する勇気と希望が湧く。逆境にあって、やる気と負けじ魂が出る。そしてそこから痛快な逆転劇が始まる。

 焦らなくとも、不安に思わなくても、必ず最後は信心しきった人が、学会員が勝つのだから、心配は無用だ。「僕が仏?最高だなあ」「君も仏、未来は明るいねえ」そう互いを励まし朗らかに生きれば、体の細胞も自然と若返り、健康になっていく。明るい心になれば、不幸も寄り付かない。そこから勝利の道が開いていくに違いない。

 この方の言われるとおり・・・「たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ」

 今日はこの素晴らしい言葉を味わいながら、終わりにしよう。






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