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2017
12.28

皆様、良いお年を!

Category: 徒然の記


 今月届いた聖教「SGIグラフ」1月号には、創価三代の会長先生の写真がとじ込みの付録でついている。特に牧口先生のお写真は私もいいものがなく、この機会にと思い、いつもとは別に2冊を注文した。

 牧口先生、戸田先生のあの獄中の大闘争を、私のようなものに語る資格はない。その代り、その師弟に連なり、戸田先生にお仕えし抜かれた池田先生に随順していくことが、私にとっては三代会長先生へのせめてもの報恩だと思っている。

 とじ込み写真の次のページには、昭和31年日大グランドで開催された「若人の祭典」で、グランドを歩かれる戸田先生・池田先生のお写真が載っている。大股で歩むお二人の姿には圧倒される力強さがあり、私はしばし見とれた。

 そこには100年後200年後を見据えたような、どんな魔軍が前に立ちはだかろうと、ものともせず敢然と進みいかんとする師弟の姿と絆がある。その写真の添え書きには池田先生の「新・人間革命22巻」「波濤の章」から次の一節が引かれている。

 「戸田先生にお仕えし、お守りし、共に広宣流布に戦う中で、自分の地涌の菩薩の使命を知りました。創価学会を貫く信仰の生命線は、この師弟にあります。どうか諸君も、生涯、師弟の道を貫き、この世に生まれた自身の崇高な使命を知り、堂々たる師子の人生を歩み抜いて頂きたいのであります。」・・・

 「生涯、師弟の道を貫くこと」、「この世に生まれた自身の崇高な使命を知ること」、「堂々たる師子の人生を歩むこと」・・・それをやりなさいと池田先生は言われている。先生自身も戸田先生と戦う中で、「地涌の菩薩の使命を知りました」と仰せである。

 何の活動もしないで、頭だけで仏法を考えるような、インテリや臆病者であってはならないと、私は常々思う。不信と謗法が充満する現場に一人立つ心を持って飛び込み、同志の方と異体同心の団結を組み、悩める人のため、広布のために戦かってこそ、池田先生の弟子と言えるのだと思う。

 その意味で私もまだまだ・・・来年こそは唱題を根本に、自分に勝つ戦いをし、折伏に生活に地域で実証を勝ち取る戦いをしなければならない。

 本当の幸福とは自身の崇高な使命を知り、それに生きることだとは言えないだろうか?自分が何のために生まれてきたか・・・その深い意味を知る人はきっと少ないだろう。お金でも名誉でも、まして贅沢な衣食住の生活でもない、相対的幸福とは全く別次元の生命の究極の実体・・・仏という絶対的存在を悟り、その生命に生きる人が本当の幸福者であり、真の哲学者だと私は信じている。

 信心しながら自身の宿業に深く悩む人もおられることだろう。また組織や活動、人間関係に悩まれる人もいるだろう。しかし、全ては広宣流布という崇高な目的に生きる事によって、我が仏の生命を輝かす燃料、薪となっていく・・・悩みが重く深い人ほど仏法の世界に来れば、選ばれし使命の人として輝ける。

 さあ、来年は「栄光の年」である。同志の方と共に力強い前進を誓いあって、私も出発をしていきたい。

 この一年、当ブログに訪問くださった皆様、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
どうか皆さんにとって来年が良い年でありますように・・・そうご祈念申し上げ、今年はこれにて終しまいです。





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2017
12.18

私の関西魂

Category: 徒然の記


 昨日は、午後から同志の方を訪問し、カレンダーや新年勤行会の入場券を手渡しながら地区を廻った。年賀状の準備や家の整理などもあり、この時期の休日は慌ただしい。そんな中、この一年を振り返り、また明年への決意を固めゆくことも、私にとっては希望に満ちた楽しい作業だ。
 
 特に今年は自分の生命にまた一つ、大きな変毒為薬が起こったことを感じている。生来、悩み症とも言える私が、その苦しみが、根底から生きる希望や歓喜へと転換した。これからも様々悩みは起こるにしても、それに負けずに歓喜の心で生きていくだろうと思う。「煩悩即菩提」の法理を、わずかなりともこの身で味わえたことは、とてもありがたいことだ。



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 その日の家庭訪問が終わり一息ついていると、総県長と圏長が連れ立って、遠いところを訪ねてこられた。聞けば朝から圏内の拠点提供の家庭などを回られていたようだ。本当に立派なことだと思う。時間を作り足を運ぶことがいかに大切か・・・ネットやメールなどは便利かもしれないが、やはり顔を合わせない、足を運ばない活動はどこか浅薄で物足りない。せめて声を交わすこと、また膝を交えて話すことに私も努めたい。その意味でも、やはり現場、地域の活動に徹するのが一番大事だと思っている。

 総県長、圏長ともに偉ぶったところのない、とてもおおらかな方である。この方々を見ていると、学会の幹部にとって一番大切なことは、権威臭、官僚臭がないことではないかと思う。そういう人とは兄弟のように胸襟を開いて対話ができ、笑顔が絶えない。自ずと人望も集まる。

 今年の法戦などを振り返り、関西の勝利についても話題になった。ある議員のスキャンダルで魔が競うスタートとなったが、関西は負けなかった・・・何故か?その原因は関西の「負けじ魂」と「団結」にあったと言われた。ある地域が危ないと聞くと、全関西がその地域に結集し、交流をし、友人知人に総当りする。その勢い、パワーがいつも常在戦場の如く充満しているのが関西であり、「関西は一つ」との思いが、多くの会員にみなぎっているからだとも言われた。私も全くその通りだと思う。

 私は関西の田舎に居住しているが、組織にあっても居心地がいい。ノルマだとか義務とか、押し付けられることを関西人は嫌い、本音を好む。国やお上の言いなりには動かないという反骨精神もある。その代わり、意気や情で感じれば、損得抜きで骨身を惜しまず動く。「先生に喜んでもらいたい」との思いが溢れていると思う。

 関西は先生の手作りの組織であり、そのぬくもりと闘魂の魂が流れ通う地域だ。関西だけで6人もの議員を輩出できる底力というのは、やはりそこに本当の「師弟」があるからであり、本気で戦う人がいかに多いかということではないだろうか。

 若くして上京し、落ちぶれて学会に拾われた私も、すでにユーターンした関西での生活が30年を超えた。思うにならない信心ではあったが、御本尊様への確信をつかみ、いつしか体内から「関西魂」の血が湧いて流れる人間になった。

 阪神淡路大震災で、全てが一瞬に崩壊する姿を、目の当たりにされたこの総県長は、「牧口先生は罰論から仏法を広められた。戸田先生は病人と貧乏人をなくさんと、功徳論をもってかかられた。そして池田先生は人間主義の生命論を持って世界へと飛び込んでいかれた。あの大震災を見た時、信心はお金や物ではない、何があっても壊れない生命の宝を求めていかねばならないのだと思った。」と話をしてくださった。本当にわかってらっしゃる方だと、私も思わず嬉しくなった。こういう長のもとでは、活動にも歓喜の輪が広がるものと思う。

 「私は生命がこう革命しました」「こんなに明るく楽しく、生きることが嬉しいのです」と、生命内奥の「心の財」の功徳を語っていく時代が、今、まさに到来している。それは学会の信心に体当たりでぶつかっていく人だけが得られる功徳だと、私は体験を通し信じる。

  自分が変わることがこの信心の眼目だ。それなくして、理屈だけでは何も変わらない。まして人も環境も変えることはできない・・・それが「依正不二」の原理でもある。
 ならばどこまでも自身の人間革命を追い求め、歓喜と感謝をもって、「師弟の大道」を歩む人が正道の人だと思う。

 さあ、今日の協議会、財務、そして週末の唱題会を持ってこの一年の組織活動がすべて終わる。気を緩めることなく、地区の皆さんと有終の美を飾る戦いで、この一年を締めくくりたいと思う。


※12.19に記事を少し修正いたしました。


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2017
12.09

松栄れば柏悦ぶ

Category: 信心
 
「松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり」(光日上人御返事934P)

 私はこれまでこの御文を、それほど心に留めて拝したということはなかったが、最近になって、味わい深い言葉として感じられるようになり、好きな御文の一つとなった。

 人の幸せなどあまり思えなかった私が、最近はいろんな方の幸せを思い生きている。「あの人は元気にされているだろうか?」「この人の力になれることはないだろうか?」と思っては、心でお題目を送ったり、電話で励ましたりしている。

 私の友人のF君は、私の小中学校の同級生である。今もって独身だが、50代なかばで私の紹介で学会に入った。入会動機も「生活が苦しい」という単純なものだった。しかし、入会後に様々に宿業が噴き出た。住宅ローンの支払いが滞り、家が競売にかかる・・・自営の仕事の方も、元請けと折り合いが悪くなり廃業になる、といったように、瞬く間に窮地に立たされた。その後も学会に反対していた弟さんが脳梗塞で半身不随となり、同居のお母さんにも内蔵疾患の病気が出たりと、私も入会に導いた手前、どう励ませばよいのか困ったほど、つらい出来事が立て続けに起きた。



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 回りから「学会に入ってロクなことがないやないか、やめてしまえ!」と責め立てられ、本人も心が揺らいだに違いない。やがて会合にも顔を見せなくなり、訪問しても冷たく素っ気ない態度を取ることも多くなった。

 私も何とかしたいと思い、別の友人が自宅でやっていた金属研磨の仕事を見つけてきて紹介した。会社での研修期間の仕事ぶりが社長の眼にとまり、機械は会社持ちで、自宅の作業場に運びいれた。自宅は買い手がついたが、それもその人の好意で、そのままそこに住めることにもなった。肝心なところでは不思議に諸天善神のはからいがあった。年老いた母親と二人、電気も水道も止められた事があり、その時ばかりはさすがに私も見かねて、助け船を出さねばならなかった。

 それから3年ほどの間、朝から晩まで研磨の仕事をする毎日・・・いつ訪ねても機械の前で仕事をしている。もとより器用だった彼は、みるみる技術も上達し、難しい仕事もこなせるようになっていった。そして時折だが座談会にも顔を出すようになった。「拝んでるか?」と聞いても「題目三唱・・・」という返事。それでもたまに会合に出てくればいいと私も考え、いつか彼が確信を掴めるようにと祈り続けた。

 先日、地区の座談会があり、今年最後ということもあり、参加者全員に、一言づつ話をしてもらった。彼に順番が回ってくると、彼は立って、「今年、一番になりました」と指を一本立てた。司会をしていた私が「何の一番?」と聞くと、「仕事の外注組の中で、成績1位になりました」と言うのである。これには参加者のみんなも驚いて、「わ~すごい!」と歓声が上がり、見ると彼の顔からも、はにかんだ笑みがこぼれていた。

 「それで会社のある人に幸せになってもらいたいと、今、お題目を上げています」というのである。入会以後、辛い出来事がトラウマとなり、信心に消極的だったことを私は知っていたので、「あ、これは一つ壁が破れたかもしれない」と、その時、感じた。自分のために題目をあげなかった彼が、人の幸せのために題目をあげ始めたのである。

 彼はこれまでさほど一生懸命、信心したわけではない。私も彼の様子に、「退転」だけは防ぎたいと思っていた。しかし、彼は決して信心はやめないと秘かに心に誓っていたようだ。家が競売に出たときも廃業したときも、むしろ周囲のほうが慌て騒いだ。昨年はお母さんとの別れもあった。そうしたつらい時期を耐え抜いて、仕事を通して彼なりに一つの確信を掴んだのだと思う。その間、彼の生命の奥深く、妙法の種は絶えることなく息づき、今、生命の大地から瑞々しい若葉となって芽を吹いたのだ。

 友が幸せへと蘇生していく姿に、こちらもほのぼのと幸せを感じる。その夜、彼の心にともった火が、座談会に集ったみんなの心をパーと明るく照らし出してくれた。

 「松栄れば柏悦ぶ」・・・友の幸せを見るのが楽しみになったから、きっと私はこの御文が好きになったのかもしれない。





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2017
12.03

「仏様の心で信心するんだよ」

Category: 信心

 貧乏だった人がお金持ちになるのも人間革命ならば、病の人が健康になるのも人間革命だと思う。さらに悩み多き凡夫がその凡身を払って発迹顕本し、仏となって仏法を広めゆくことは最高の「人間革命」の姿なのだと思う。

 長年信心して「あなたにとって人間革命とは?」と聞かれ、言葉が詰まるようでは心もとない。私も信心をして20年ぐらいは、さほど自分が変わったという感覚があまりなく、「人間革命なんて簡単ものじゃない」と、ため息をついていた。

 ところが、私なりに苦しい時を耐え、学会に対し出来ることはなんでもやっていこう・・・と転じたあたりから、様々に変化が起こってきた。そして今「あなたにとって人間革命とは?」と聞かれたら、「自分のことしか考えられなかった人間が、人の幸福を思い、国土や世界の平和を祈り、信心をすることが何よりの歓びとなりました。」と、そんなふうに言えると思う。



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 お世話になった先輩の話をよく出して恐縮だが、先輩がある時、自分の悩みに汲々(きゅうきゅう)としている私に「仏様の心で信心するんだよ」と仰ったことがある。「仏様の心って??」とその時は初信だったこともあり、訝(いぶか)しく思ったものだ。

 ところがある頃から、その言葉がよみがえり、事あるごとに心に浮かんでくる。「仏様の心は一体どんなものだろう」と私なりに自問自答するのである。

 そして今では朝晩、仏前に座って拝み始める時、仏様は、もう一切衆生を幸福にしたくてたまらないお気持ちなんだと、感じるようになった。世界の何処かで理不尽な殺戮(さつりく)が行われている・・・そのことが悲しくてならない。世界中で宿命に泣く人々がいる・・・早く妙法をたもたせてあげたい。一切衆生のために妙法を世界の隅々まで行き渡らせたい。「誰か、忍難弘通の人はいないか!」・・・と呼びかけておられる、それが仏様のお心だと。思えば池田先生は戸田先生の弟子になられた時から、その仏様の心に深く感応され、不惜身命で広宣流布一筋に生きてこられたのだ。

 長年、私など自分の悩みのことばかり祈ってきた。いい暮らしが出来るように、何とかもう少し立派になりたいと・・・そんな自分中心の祈りから、仏様の心と同じ祈りへと、信心とともに変化していかねばならない。仏の崇高な祈りと、私の祈りが一致していく時、やがて私も凡夫から仏へと境涯が高まっていくのだと思う。

 その道をゆくなら、人を幸福にしたいという私の願いは、仏の願いと一致して叶い、また私自身も仏の力を備え、所願は満足していくだろう。

 今日も御本尊様が、私の勤行をじっとみておられる。明けても暮れても余念雑念ばかりで、自分の事ばかり祈っていては、さぞかし仏様もがっかりなされる。「もう少し、大きな心になりなさい」・・・そう思っておられることだろう。ならば今日よりは心を入れ替え、仏様のお心である広宣流布を祈り、「あの人を邪宗から救わせてください。この人を謗法から救います。世界を平和にします!」と、仏様の心を実現しゆく大きな祈りの人となって立とうではないか!

 「汝 須(すべから)く一身の安堵(あんど)を思わば 先ず(まず)四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)らん者か」(立正安国論P31)との御聖訓は、きっと凡夫が人として正しく、また無上道を生きていく上での祈りの基本を教えておられると思う。日々、御本尊を拝し、仏様の心と感応しゆく時、その御金言を命に染め抜け!と、いよいよ自分に言い聞かせ、また新たな挑戦を開始していきたい。





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