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2018
03.23

信仰者の道

Category: 徒然の記


 私などもうあまり難しい話は何もありません。ただ妙法を唱え学会活動に励めば、毎日が希望にあふれ楽しい・・・精神的にもシンプルな日常となりました。入会当初の凍え切った冬の生命からすれば、春のような心になれることほどありがたいことはありません。「冬は必ず春となる」のです。悩みはありますが「南無妙法蓮華経」だけあればそれでいい。そして心はどこか楽しくて口笛を吹くように軽快です。

 そうなると脳病も業病も妙法の光に照らされて氷のように溶けていく思いがします。それでまた信心に感謝して励もうという気にもなります。そんな生命の好循環がきっと幸福への軌道ですね。


 信仰というものについて考えますと、それは「より信じる」ことによって成立していく世界だと私は思います。私の周りにもキリスト教や天理教、真言宗などたくさんの宗教の信者がいますが、時折、その人たちと対話して感じるのは、その宗教を「信じて疑わない」という彼らのどこか一途な心です。



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                            <鳥取砂丘>



 これは考えてみますと当たり前のことで、信じているから布教にも回れるのであり、キリスト教の人が私のところにきて「この信仰が信じられないのですが・・・」とは言わない。(笑)やはりどの人もその信仰を素晴らしいと思い行動している。正邪は別にして、それで信仰として成立しているものです。

 不思議なことに人の脳内には「信」と「不信」があり、そのどちらにつくかで人は絶えず道を選んでいます。電車でどこかに行くにも、この電車に乗れば目的地に着くと信じるから乗るのであり、疑えば乗らない。宝くじを買うのも秘かに自分に当たることを信じて買うのであり、(笑)当たるはずないと思えば買わないでしょう。多くの行動もその時々の「信」と「不信」から成り立っています。

 創価学会に対し「信」を元にすれば学会の信仰者ですし、そこに流れる血脈・功徳にも浴せる。逆に「不信」を元にすれば学会への信仰は不成立となり、血脈・功徳も通わない・・・宗教においても「信」と「不信」のどちらを自分とするかによって、信者となるかならないか決めています。

 私たちは宗教の批評家や評論家になりたくて学会にいるのではないですね。人として正しい道、幸福の道を求めてこの信仰をやっています。その功徳を受けるためには信じて実践するしかない。なぜなら信仰は観念ではなく、実践によって利益・功徳を受けることが目的です。学会でいえば唱題や折伏、日々の学会活動です。

 よくテレビやマスコミの人が学会について語ることがあります。しかし、その人たちの大半は学会に対し「信」もなければ実践もない、いわば学会の真実を知らない人です。真実を知らない人の話ほど危ないないものはありません。表層的な出来事を見て何か言えても、学会の根本的な素晴らしさや深い意義も知らない。それはあたかも海上に立つ波を見て、「海というのはこういうものだ」と決めつけるようなもので、海の中に棲むものからすると、とても浅薄で時に的外れな話です。

  翻(ひるがえ)って自分を見ますと、私には学会に対し何ら不信の心が出ません。これは「疑い」なり「不信」を長年の信心によって淘汰したからだと思います。それは言い方を変えれば、これまでの信心よって自分の生命の基底部(難しい言い方ですいません)に創価学会があることを知ったとも言えます。

 生命が仏であるという意味において、その仏とは「創価学会仏」だと私は確信するのです。そんな仏などあるわけないだろうと笑う人もいるでしょう。どう思われてもいいのですが、「私にはわかるのです」というほかありません。そしてそれは表面的な出来事や一時的な幹部の姿などでぶれたりするという軽薄なものではないのです。

 今ではそれが自分の生命だと悟ったわけで、その意味で私は信仰者として迷いがなく、大変ありがたい道に立てたんだと思います。逆に今なお学会を信じることができないで、様々に批判なりしている人を見ますと、私にはその人が自身の生命の中の不信や慢心という魔の働きに、たぶらかされていると見えるのです。

 信仰の道とはどこまでも信じゆくことであり、「信」をもって実践しなければ何もつかめない・・・私は私なりにその道に徹し、感謝と歓喜の珠をいつしか生命に抱くようになりました。さらに「信」を貫いてこの道を行けば「人間革命」の太陽がますます輝きを増し、やがて所願は満足していくだろうと安心できるのです。






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2018
03.14

生命はやまびこのように

Category: 信心



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 ここ数日、友人から電話やラインでいろいろと連絡をいただきました。一人は婦人の方で長年、お子さんのことで苦しんでいた悩みがすっきりと晴れたとの知らせです。電話の向こうの声も弾んでおり、「煩悩即菩提でしょうか?地獄の苦しみがぱっと消えたようです」と言われていました。いつもと違って(笑)花が咲いたかのような元気な声でしたので「彼女にも春が来ました」と私も御本尊様に感謝を申し上げました。

 もう一人は数年前、本部長の家に営業で出入りしていた置き薬店の青年(非学会員)です。ここしばらく連絡が途絶えていたのですが、2年前から発心してこの春、27歳で早稲田の教育学部に合格したとの連絡でした。突然で私もびっくりしましたが、そのあと私からもお祝いの電話を入れエールを送りました。自分から連絡してきたのを見ると、やはり本人もうれしかったのでしょう。両親が離婚し生活も大変なのを聞いていましたし、そんな中、夢をあきらめないで一人頑張っていたのです。「本当に素晴らしい、よく頑張ったなあ」と私も感動しました。

 また今日は先ほどある婦人の方から、「池田先生から書籍の贈呈をしていただくことになりました」との連絡がありました。その方も苦難の中を地道に活動に頑張っておられる素晴らしい方です。「どうして私がいただけたのでしょうか?」と聞かれるので「あなたがコツコツと頑張っているのを幹部さんが見ておられ、きっと先生に報告されたのではないですか?」と申し上げました。

 ご縁のある人に不思議といいニュースが続くので、「ああ、私の周りで諸天が舞い始めているぞ」と、私もありがたい気持ちになります。。

 以前の私なら人が幸福になる話を聞けば、どことなくうらやましく思ったり、自分を卑下したりとそんな心もありましたが、今は一緒になって喜ぶことができる。そうなると私にもその人たちと同じ幸せが訪れたようであり、自分にも功徳が出たように感じるのですから不思議です。

 そういう日常の小さな出来事に自分が「人間革命」していく姿が映ります。人が頑張っているのをちゃかしたり、上げ足を取る人もいる中で、人に同苦し、励まし、その幸福を喜ぶ・・・そういう自分を発見することは素晴らしいことであり、それは気持ちのいい生き方です。また自身が幸福へと向かっていく上で菩薩の証にもなると思います。

 妬みや憎悪の生命が強い人は、やはり自分自身が苦しく、またそれが反映されて自分の生活に現れます。私もどちらかというとそういう生命でした。先日も私はある人に「生命はやまびこのようですね。妬みや憎悪を出せばそれがそのまま自分に返ってくる。感謝や歓喜の心を出せばそれがそのまま自分に返ってくるんですよ」と・・・

 歓喜と感謝の自分になり、諸天が喜び舞うような自分にならねばならない。どうすればそんな自分になれるか・・・私もそのことでは随分悩みましたが、結局は広宣流布を目指し、学会同志の輪の中で切磋琢磨し、誰が見ずとも唱題に活動に地道に励むしかないのだと思います。信心には魔法も要領もありませんね。先生を信じ、求め、陰徳に徹していく・・・私が今感じている功徳の多くも「無冠の友」として、また同志の方々と一緒に長年、耐えて信心に励んできたことによるものと思っています。

 私も今では妙法を唱えることに歓喜と感謝をもって唱えることも多くなりました。そうなると諸天善神もきっとじっとはしていられないでしょう。万里の外から私にふさわしい幸福を連れて、やまびこのように帰ってくるに違いありません。

 さあ時は弥生三月・・・陽光もすっかり春めいてきました。花々も一斉に咲き誇ります。皆さんの生命がさらに春の花のごとく光に輝き、生きている歓喜を広げていかれることを祈りながら、私も前進したいと思います。





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2018
03.03

歓喜があれば組織は楽し

Category: 信心

 北海道の大雪の被害に心よりお見舞い申し上げます。レオさんのブログの雪の情景や温度計の写真なども、関西の人間にとってはやはり驚きです。こちらでは春一番も吹き、あちこちで梅の開花も報じられるようになりました。日本列島は間もなく南から暖かい春がやってきます。

 季節に合わせて私も功徳を感じる日々となり、先日もある方に「私の功徳は『六根清浄』です」と言いました。「煩悩、業、苦」に覆われ氷のように冷え切った生命が、春の陽光にあってじわりじわりと溶けていく・・・それにつれて歓喜と活力が増していくのです」と。

 先月、私が仏法対話をしていました40代の婦人の方が、別の方の紹介にはなりましたが入会をされました。その婦人のお兄さんと私がある時期、仕事が一緒だったのですが、数年前にリフォームの借金を苦に自ら命を絶つという大変な不幸がおきました。生前、彼に下種したことが唯一の救いとなりました。リフォームを請け負った大工が不思議にも私の知り合いだったということもあり、借金の相談を彼女から受け、自然と仏法対話へと進展しました。



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<和紙の原料でもあるミツマタ・・・山間にこの花が咲けば春の到来です>


 その彼女に入会を決めた理由を聞きますと「紹介者の方をはじめ、皆さんの熱意です」と語っておられました。またいくつか会合に出た時に会員さんの明るさに、「宗教に対するイメージが変わった」と感じられたそうです。

 なぜ、学会は明るいか・・・その源はやはり妙法そのものが歓喜の宗教であるからだと思います。御書を「歓喜」で検索しますと実に41篇もの御書に「歓喜」という言葉が出てきます。有名なものでは「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝巻下788P)ですね。また「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」(法華初心成仏抄557P)「我即歓喜諸仏亦然」の言葉もよく出てきます。妙法を唱えゆく生命は自然と明るく楽しくなっていく・・・というのが本当でしょう。

 歓喜があるかないかは自分の信心を見る一つのバロメーターであり、歓喜のない時はやはりどこかがおかしい・・・私もそうやって自分の信心を点検しています。

 こちらはお笑い好きな関西ということもあり、とにかく明るい会合が多いですね。今は幹部さんが5~60代前後、会員さんがそれよりさらに高齢という図式ですので、幹部さんが偉ぶるということはありません。池田先生の指導もありますが、偉ぶる人は幹部失格であり、そのあたりは皆さん鋭く見抜くものです。

 大事なことは「自由にものが言える雰囲気」があるかどうか・・・そうでなければその組織が硬直しており、多くの場合、その組織の長の人に問題があるように思います。逆に一人の歓喜ある信心の人が波動を起こせば、地区や支部ぐらいならすぐに変えていけると私は思います。

 時々非活や退会した人が、学会のことを「強制的」とか「池田崇拝」とか非難されますが、学会を貶めたい人やネガティブに見る人なら、いくらでもそんなふうに言えるでしょう。それらの多くは信なき言論であり、学会を皮相的、短絡的に見ている浅薄なものです。「疑い」の色眼鏡をかければ、どんないい人も悪人に見えるでしょう。また「疑い」を持たずに純粋にやっている人を見れば、それもまたおかしいと見えるのです。

 会合で「池田先生のために!」とか「広宣流布のために!」と声高に叫ばれると、時には私も気持ちが引くことがあります。(笑)どなたも決して組織に盲従しているわけではない・・・一生懸命やる人は自分がそれを良しとしてそうしているのです。学会の打ち出し等に素直に「そうだ!」と思う人もいれば「そうだねえ~」(北海道弁で(笑)) 「そうかしら?」と思う人もいるでしょう。どう感じるか、個人の心は自由ですし様々です。

 上から命令して一律になるほど、人の心は単純ではありません。また組織というのは個人に対しては本来、窮屈なものであり何らかの束縛を要求するものではないでしょうか?それでも仕事や家事を終え、夜の会合に駆けつける人たちを見ていると、決してやらされているだけではない主体性と熱気を感じます。それぞれが自身の「人間革命」を掲げ、ある時は「地涌の菩薩」の使命を感じ、ある時は「師弟不二」の道を歩きたいと集まってこられるのです。一言でいえばそれは「求道」です。そこに学会を批判する人の目には決して見えない、また味わうことができない学会の素晴らしさがあると思います。

 さあ、春の到来と共に家庭訪問、折伏と動きやすい季節がやって来ました。生命に歓喜があれば組織もまた楽し・・・です。学会にしっかりと軸足を置いて、地域の皆さんとにぎやかに歓喜あふれる活動の日々にしていきたいと思います。





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