2018
04.27

言葉は信じない、行動を見る

Category: 信心


 今、地方の大学に行っている長男が、先日20歳になりましたので、その記念に池田先生の「青春対話」を贈ることにしました。頂き物の大吟醸も一緒に送ってやったのですが、こちらの封はすぐに開きそうです。(笑)その勢いで「青春対話」の扉も開けてほしいものです。

 それでも無事に成人を迎えましたのでありがたい限りです。「全部信頼しているから、責任をもってやるんやで」とメッセージも添えました。反抗心もあってこれまで素直に信心はしませんでしたが、それでもこの春、一緒に勤行をして「お守り御本尊」を受けました。それだけでも大前進です。引き続き、彼が前向きに信心する日をしっかりと祈っていきたいと思います。

 「青春対話」は中高校生向きの本ですが、大人が読んでもとても勉強になると思います。贈る前に少し読みましたら、「私は言葉は信じない。行動をじっと見ています。」との一節が目に入り、胸を突かれる思いがいたしました。




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 「言葉は信じない・・・行動を見る」と先生は言われます。これは学園性などが「先生、やります」「頑張ります」というのに対し、「言葉は当てにしない、行動を見ているよ」という意味で言われたものと思います。私も毎朝、毎日、同じ道を踏み固めていくような平凡な活動の繰り返しですが、「無冠の友」「勤行唱題」「学会活動」「役職」「仕事」・・・それらをしっかりやっているかどうか、その一念、心はどうか?先生は逐一見ておられる・・・そう思うと私などまだまだ甘いものです。

 外の御本尊様も、私自身の生命の中におられます。そうでないと私が仏になれませんので、いていただかないと困るのですが、そしてやはりすべての振る舞いをご覧になっていることでしょう。その前で怨嫉や嘘の報告なんかをやってもすべてお見通しです。

  おまけに同生天同名天というのがいて漏らさず天に報告するそうで、これではたまったものではありませんね。(笑)少しは見逃してほしいというか、目をつぶっていただきたい・・・それが凡夫の偽らざる気持ちです。(笑)

 今でこそバリ活のように書いている私ですが、30代のころは訪ねてくる男子部に冷たく当たったり、会合をすっぽかしたり、白百合長さんに全部まかせてB長の自分は居眠りしていたり・・・とそんないい加減な時もありました。今思うと冷や汗タラリです。とても信用などできたものではありません。そんなひどい自分を自分は知っているものです。

 かつての私を知っている人は、私がこうしようと言っても、「そういうあなたも昔は何もやらなかったじゃない」などと言われ、一瞬、凹みます。(笑)でもそれだけ変わったということですので、その分「人間革命」も果たしたのです。「使用後」を見るには「使用前」が必要だから、最初にわざとダメな方を演じたというのが、私の言い分です。

 「自分を一番知っているのは自分です。他人の目は感情で見たり、おとしいれの目で見たりする。わからない。だから仏法の眼で、自分を見つめながら生きることが大事なのです。」

 これも「青春対話」の中の言葉です。人の評価など気にしなくていい。まして自分を知らない人の評価など的外れが多い。それに惑わされるのは愚かです。自分を見つめ、自分はこうすると決めたら、その自分を信じて生きていきたい。自分を信じられない人が、人の言葉に惑わされるものでしょうか?堂々とした自分を築き上げていくことが「人間革命」の目的ですね。

 年々、信心が進むにつれ、強く逞しい歓喜の生命となっていきます。自分がそのように変わっていけるから、この先いけばどんな自分になるだろうと、それが楽しみで私は信心を続けるのです。

 言葉は「理」、行動は「事」・・・行動の人だけが「事の一念三千」を体得でき、わが身を仏と悟ることができる・・・学会員としてまた活動家として、行動できる誉れを胸に、今日も地域を駆けたいと思います。





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2018
04.19

原田会長の指導を読んで

Category: 徒然の記

 4月14日付の聖教新聞には全国総県長会議での原田会長の指導(要旨)が出ています。私もその記事を読んで、私なりに思うところがありました。(文中、青字は原田会長、赤字はその中の池田先生の指導です。)

 一、2010年6月、本部幹部会の前夜、池田先生から大変に大切なご指導がありました。
 「明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。
 ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。
 私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい」
――

 これは池田先生が表舞台に出られなくなった時のお話かと思います。私は先生が表に出られないのは、学会の未来のことを考え、訓練の意味もあり、弟子たちの力を試しておきたいというお考えではないかと当時から思っていました。「私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である」との言葉はまさにそのことを指していると思います。

 先生が最後まで表で指揮を取られていて、ある日突然去っていかれるようなことがあれば、世間もマスコミも大変な騒ぎになるでしょう。また学会や会員の動揺もきわめて大きいに違いありません。しかし、ここ数年出られないことにより、御長寿であっていただきたいのはもちろんですが、私たちもいつかその日を受け入れねばならない。ならばいつまでも先生に頼らずに、自分たちが責任をもってやっていく時がきているのだとの覚悟を持つのは当然のことです。一方、世間やマスコミに対しても今、出てこられないことが、万一の時の緩衝材の役割を果たすと思います。

 「弟子が団結をする」
 「弟子が全責任を担う」
 「弟子が師匠に頼らない」
 この3点こそ、池田先生が教えてくださった、「学会の将来にとって一番大事な時」の根本姿勢であります。


 「君たちを信頼しているから、もう私を頼らずにやっていきなさい」との思いが池田先生が当時、会員に伝えたかった心情だったと私は思っています。

 先生のお言葉からも、先生が今の学会に全幅の信頼をおいて、見守っておられることがわかります。池田先生と現執行部の考えが相反しているといったその手の記事は、この言葉でいい加減なものだとわかるでしょう。池田先生という大指導者が、晩年ともいうべき時において、後事に遺漏(いろう)などあろうはずがありません。綿密に智を尽くされたものであったと思います。

 この数年、取り組んでまいりました、教義条項をはじめとする「会則改正」も、世界教団としての根本規範たる「会憲」の制定も、全ては池田先生のご構想を弟子が実現しゆく戦いであり、だからこそ一つ一つ、全て先生にご指導を仰ぎ、ご了解をいただきながら進めていることは言うまでもありません。
 それは、「私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい」とのお言葉通りです。
 にもかかわらず、師のご構想を具現化する戦いを、自分勝手なエゴで妨げようとするならば、破和合僧(はわごうそう)というほかありません。

 ネット上でも時々話題に上りました「会則の改正」等の教義改正が、すべて池田先生のご了承のもとで行われたことを断言されています。公式に原田会長が、こう言われたのは初めてのことではないでしょうか?「幹部が勝手に改正したのであって、それは池田先生の心に反している」等の一部の人の考えも、勝手な妄想であったということです。「会則の改正」当時、これは池田先生のお考えと一致しているだろうか?と、思った方も多いと思います。私も当時、その点を知りたいと思った一人ですが、今回の指導でそのことがより明確になりました。

 結論として、今日までの流れはすべて池田先生のご構想であったということです。そしてそれを原田会長以下、学会をあげて、池田先生の指導を仰ぎながら、忠実に具現化してきたということです。聖教新聞紙上でそのことを断言されたことは、会員にとって大変良いことであったと思います。

 魔というのは自分勝手な己義を構えて、和合僧を分断させるということが目的です。もっともらしい理屈をもって、会員の不信を喚起させ、師匠や学会と会員をかい離させる・・・それこそが魔の常とう手段でしょう。魔に魅入られた人は自身が魔にたぶらかされたとは気が付かないものです。それに対峙する人が見破る以外にありません。

 いずれにしろ、学会は大変革の時を超えて、誰に気兼ねすることなく、自由に広宣流布に前進しゆく時を迎えました。それはまさに「発迹顕本」というべきであり、池田先生の御一念によって切り開かれた新時代だと思います。

 戸田先生には池田先生という、本物の弟子がおられました。池田先生の弟子にそれに匹敵する立派な青年がおられるか、それは私にはわかりません。しかし志のある創価の丈夫が連帯していけば、これだけの世界的人材群です。創価学会の新時代を築くことは必ずできるものと確信いたします。「私はやりきった、これで盤石だ」との思いが先生には必ずおありだと私は思います。

 池田先生は常々、「各人がその地域で勝利しなさい」と言われています。後継と言っても、足元で勝利することが一番であり、一人一人が信心で幸福になることだと思います。私も地域、地元で実証を示しつつ、学会同志の方々と「異体同心」の団結でやっていきます。先生が作ってくださった新時代のステージで、最後まで学会員として、後継の道、師弟の道を歩みぬく決意です。




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2018
04.13

題目の人となる

Category: 信心



                      


 ここ最近は唱題が快調で、精神面、健康面と充実した状態が続いています。生活のリズムもほぼ安定しており、朝は聖教配達、勤行唱題、仕事に行き、夜は学会活動、帰宅後に唱題・・・そんな中でも最近はよりお題目に精進できるようになりました。

 過日の北海道総会の中の池田先生のスピーチです。
一、信心の根本は「祈り」である。自身のこと、友のことを、具体的に祈っていくことである。「慈悲」の根本も祈りである。「指導」の根本も祈りである。「指揮」をとる根本も祈りである。その根本を忘れると、すべて御本尊から外れた“策”になってしまう。策は、結局、空転し、皆に迷惑をかけるだけである。

 祈り(唱題行)に挑戦しない人は、御本尊から外れた「策」の人となり、皆に迷惑をかけるだけと言われています。厳しい指導です。仏法は世法とは違う一面があります。世法は策を大事に考え、祈りで悩みを打開するということはありません。しかし、信心の世界は祈りが根本であり、悩みの打開を願うならば一番に御本尊に向かう・・・それが学会員のあるべき姿だと思います。

 御書にも「同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり」(寂日房御書902P)とあります。「題目の人」とは「題目しかない」「題目だけでいい」との決定(けつじょう)した一念で、一心に唱題に励む人だと言えないでしょうか?その意味で私もやっと法華経の信者らしくなってきました。

  そうなると信心への取り組みもとてもシンプルです。何があろうとお題目だけでいいのですから、あれこれ難しいこともありません。妙法こそ師子吼であり、「いかなる病障りをなすべきや」・・・御本尊に祈りゆくのみです。その心に歓喜が湧き、題目にも拍車がかかります。智慧が足りない私にはピッタリのありがたい信仰です。なまじ頭のいい人が、不信を起こし、邪智をめぐらし、学会を批判するといういうのですから、仏法は恐ろしいものです。


 今日の聖教新聞の随筆の中で池田先生は、「大文豪ゲーテは、「悪意」や「悪口」、また「否定するしか能のないもの」を厳しく戒め、「破壊するときなら、どんなに誤った論拠でも通用するが、建設するときには決してそうはいかない。真でないものは建設しない」とのゲーテの言葉を紹介されています。(13日付聖教新聞「永遠なれ創価の大城」より)

 事あるごとに創価を批判するだけでは、「悪意」「悪口」「否定するしか能のないもの」であり、悪意の人の中には学会の破壊や分断を画策する人もいることでしょう。創価学会も一つの生命体と見れば、そこに善悪あるのは当たり前です。その悪だけをつついて批判する、ことさら破壊のためにあらゆる論拠を用い、結果、人々の不信と退転を煽(あお)る人・・・そういう人は魔の思いをなす人であります。

 学会員の信心は、自身の生命に御本尊と同じ宝塔を、事として打ち立てる「建設」の戦いです。その「建設」のために唱題行を根本に「人間革命」に挑戦していく・・・それこそが真の価値創造です。創価を批判し分断しようとする人の不信や嫉妬、憎悪の心に比べ、自他共の幸福建設に挑戦しゆく心は、なんと生気にあふれ清々しく明るいものであることか・・・「信の道」と「不信の道」・・・まさにそれは天地雲泥の相違となって、いずれ自身に返ってくるものだと思います。

 今は創価を批判する人であっても、どの人も仏の生命であることに変わりはありません。自分の信心で、また自分の生き方で一人でも縁する人に仏法理解の輪を広めたい・・・その心で私はやっていきたいと思います。

 さて、明日は「座談会」、日曜は「壮年大会」、「創価ファミリー大会」と多くの同志と共にまた力強く前進です。私も風を切るような唱題行で、一切を切り開く「題目の人」となって、広宣流布の新しい道を開拓していきたいと思います。



<4月14日に一部、加筆、訂正をしました>

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2018
04.04

仏のエンジン

Category: 信心



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 私もこの3月に新しい役職を受け、これまで以上に同志の皆さんと共に、広宣流布の戦いに挑戦していく身となりました。「創価学会とともに広宣流布に励める人生こそ最高やね」と、私もある友人に語りました。色心ともに穢(きたな)き身の私が仏様の聖業のお手伝いができるのですから心からありがたく思うものです。すべて広宣流布のための労苦ですので、無上宝珠となっていつの日かわが身に返ってくることでしょう。

 信心と役職は関係ないと言えますが、反面、役職を持つことはとても大事なことだと経験からそう思います。私など役職によって信心がまっすぐになり、師弟の道に入り、我見の道を断ったようなものです。またその責任をしっかり果たしていくことで、自分というギアが広宣流布の大きな歯車にかみ合い、功徳の軌道に乗ることが可能となります。

 ブログにも縷々(るる)書いていますが、私自身は真言宗の家の生まれで27歳の入会です。入会当初は熱心に組織で活動していたわけでも、池田先生を師匠と仰いでいたわけでもありません。

 それが40歳になったころ、こんな中途半端な信心では駄目だろうと思い、発心して学会にすべてを賭けてやってみようと決意しました。中途半端は嫌いですのでやるならとことんやる方がすっきりします。そのころ宗門問題もありましたが、私は躊躇(ちゅうちょ)なく学会の信心を正しいと選択し実践していきました。やはり、決意の一念が道を開くものです。

 学会員の多くは、決して特別な人たちでもなく華やかでもない・・・貧乏や病気や家庭問題など様々な悩みの中を信仰している普通の人たちです。そのことがかえって学会が民衆から離れない信心である証明であり、そこに私は安心を覚えます。

 そういう平凡な庶民の人たちと一緒に生きていくことが、正しい人の在り方だと思います。生来、排他的で高慢なところが自分にはありましたので、その自分が「人間革命」するということは、人の輪の中でスクラム組んで共に生きていけるようになることだと思ったのです。

 おかげさまで今では地域の人たちと仲良く信心に励むようになりました。釈尊も「善き友をもつこと、善き仲間がいることは、仏道修行のすべてである」と述べています。一部ではなく「すべて」との言葉ですので、いかに善知識が大切か・・・信心において和合僧団を離れ、独りよがりになることは危険な兆候だと私は思います。

 そんな私も年々信心で功徳をいただき、すべての面でよくなってきました。その確証がないとやはり信心は面白くありませんし、飽きっぽい私ですので続かなかったでしょう。仏様というのは、その人の欠点も含めてちゃんと化導してくださるものだと思います。今では池田先生と共に広宣流布に生きていく自分となりましたので、基礎の部分で「人間革命」ができたと思います。

 「学会こそ生命の安全地帯」・・・池田先生はそう言われました。私もそのことを今、強く実感します。たとえすぐに目に見える大きな功徳がなくても、学会員としてまじめに信仰に励めば必ず守られていきます。そしてやがて枯れかかっていた木が息を吹き返して青々とした葉が茂るように「蘇生」していく・・・ほんとうに「妙とは蘇生の義なり」です。

 題目と学会活動を旺盛にすれば、生命にある仏のエンジンがうなりをあげてばく進していきます。その力をもってすれば不可能などないという確信が私にもふつふつと湧いてくるではありませんか。いよいよ仏のエンジンのアクセルを吹かして、時には元気な男子部員と、また信心強盛な壮婦の方々と弘教街道をひた走りたい・・・そんな思いで日々の学会活動に全力で取り組んでいきたいと思います。





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